月宮家での生活に慣れる頃には、永雅と屋敷ですれ違うと、挨拶や他愛のない会話くらいは交わせるようになっていた。女中たちとも仲良くなり、照井家にいた頃では考えられないほど穏やかな生活を送っていた。
(こんな生活がずっと続けばいいのに)
そんな陽だまりのような考えが浮かぶ。穢れ者である私がそんなことを願っても良いのだろうか。
あの家での生活は……照井家での生活は平穏とは程遠いものだった。大好きだった離れですら、礼寧がいつ訪ねてくるかを震えて待たなければいけなかった。照井家にいた頃は心の中でどれだけ罵詈雑言を吐こうと気にならなかった。そうでなければ、私も生きていけなかった。ただ……ただ少しだけ、この陽だまりのような家にいると、私がここにいても良いのか心配になるのだ。
その時、女中の美春が廊下の奥から早足でこちらに向かうのが見えた。美春は「莉羅様はそんな風に笑われるのですね」と伝えてくれた、私が月宮家で始めて仲良くなれた女中である。
「莉羅、様。あのっ!」
いつもより怯えた様子で私の名を呼ぶ美春を見て、何かあったのだと察する。
「美春、どうしたの?」
私は美春に駆け寄り、落ち着かせるようにゆっくりと肩を撫でた。
「莉羅様の妹君を名乗るお方が表までいらっしゃっていて……」
「っ!」
胸に手を当てなくとも、心臓の音が頭に響いている。いや、そう感じてしまっているだけなのかもしれない。美春に触れている自分の手が小刻みに震えているのが見えた。
「永雅様より照井家の者が来ても誰も通すなと仰せつかっております。事情は分かりませんが、永雅様が莉羅様を思って命じたことだと使用人一同感じておりました。ですので、お断りしたのですが……」
美春が、言いにくそうに言葉を詰まらせている。
「いいの、気にしないで。何があったの?」
「頑なにお引き取り頂けず……終いには異能を使われて、女中の一人が怪我をっ……!」
なんとか言葉を紡ぎ出した美春は、目に涙を溜めていた。もう、恐怖や緊張は感じなかった。いま私の心にあるのは怒りだけだろう。気づけば、表に向かって勝手に足が動き出していた。
「莉羅様、お待ち下さいっ!」
「私の身内が起こしたことだもの。私が向かうのは当たり前だわ」
「しかし!」
「まだ私と美春は出会って間もないけど、美春が簡単に私を呼びに来ないことは知っているわ」
美春は、仕事熱心で真面目。そして、真摯に私と向き合ってくれる子。すぐに私に助けを求めないことを知っている。そんな美春が私を呼びに来るほど困っている。礼寧が困らせているのだ。
(これでも私はあの子の姉だもの。あの子の不始末は私が責任を取らないと)
それでも、そんな感情を覆い尽くすほどの怒りが心を支配していた。照井家でどれだけ虐げられてもここまでの怒りを抱いた記憶はなかった。その怒りの理由も分からないうちに、礼寧が見える。久しぶりに見た礼寧は、照井家にいた時と同様、高級な着物を身につけ、整えられた髪には美しい簪が煌めいていた。しかし、照井家にいた頃よりも不機嫌や怒りを隠さなくなったのか、苛立ちが表情に滲み出ていた。
「お姉様はどこよ! 早く出しなさい!」
金切り声でそう叫んでいる礼寧は、周りなど見えていないようだった。本来、照井家は長く歴史のある名家だが、今の世では圧倒的に月宮家の方が力を持っている。だからこそお祖父様は月宮家との婚姻に応じたのだ。しかし、今の礼寧はそんなことすら考えられていないようだった。
しかし、今はなによりも怪我をしたと聞いた女中が心配だった。辺りを見渡すと、他の使用人たちが既に手当てを始めてくれており、女中も安心した様子で笑顔を見せていた。幸い大きな怪我ではなかったようで、ほっと胸を撫で下ろす。
(ならば、まず私は礼寧を止めないと)
「礼寧」
名を呼ばれて私に気づいた礼寧は、周りの使用人たちを押し倒して、私に向かってくる。そして、そのまま私の胸倉を掴んだ。
「月宮家当主の永雅様がお姉様を大切にしていると噂で聞いたわ! 嘘よね!?」
この子はいきなり訪ねてきて、何を述べているのだろう。
「お姉様は穢れ者で不幸者。ずっとずっとそうよね! お姉様、幸せじゃないわよね!?」
こんな言葉を人目を憚らず述べるほど、この子は私を嫌っていたのだろうか。恨んでいたのだろうか。
(なにを驚いているの、ずっと分かっていたことじゃない)
知っていた。分かっていた。そうでないと、あれほど私を虐げられない。そうでないと、あれほど私に冷たい目を向けられない。そうよ。本当は、ずっとずっと前に気づいていた。
それでも、一人だけの妹だったの。
「お姉様は要らない人よね!?」
幼い頃の思い出が、あの頃の礼寧が、どうしても頭をよぎるの。いま私の目の前にいるのは、使用人たちを傷つけた人間。私をずっと虐げてきた人間。穢れ者の異能であろうと、礼寧に対抗出来るなら使わないと。そう、分かっているのに。
「お姉様は私が清めてあげないといけない人よね!? そうでしょう!?」
礼寧の声が頭に響いて、こだまする。
「そうだわ、今から私が清めてあげるわね! そうすれば、お姉様も周りもちゃんと理解出来るでしょう!?」
礼寧の頭上に水の塊が出来ていく。見た目はそこまで大きくはなかった。しかし、水の塊が形を変え、まるで槍のように鋭くなっていく。危ないと分かっているのに、足は竦んで動けなかった。
(ああ、でも、これなら他の使用人には被害が及ばないわね。良かった)
今になって優しい人間のような感情が浮かぶのね、とまるで他人事のような思考が頭を巡った。自分の感情にも、この状況にも、なぜかひどく冷静だった。
(案外、最期ってこんなものなのかしら)
礼寧は、私しか見えていなかった。そして、私も礼寧しか見えていなかった。礼寧と礼寧が作り出す水の槍に目を奪われていた。
だから、突然現れた漆黒の羽織を靡かせる人間が夜空に見えたのだ。
いや、もっと言えば、急に昼が夜になったように感じた。それほどまでに、その黒に目が奪われた。世界が変わって見えたのだ。
「え、いが。なんで……」
「…………」
永雅は何も言わず、自身の異能を発動させた。ふわりと小さな塊を作ったかと思うと、そのまま礼寧の水の槍にぶつける。その瞬間に水の槍は崩れ落ちた。前に美春が、永雅の異能は風だと教えてくれたことがある。小さな塊に見えたが、礼寧の異能を打ち破ったことを見ると威力は相当なものだったのだろう。礼寧も永雅が現れたことに驚いたのか、呆然と立ち尽くしている。永雅も何も言わないので、私はなんとかもう一度口を開いた。
「永雅、なんでここにいるの……?」
「自分の屋敷にいて何が悪い」
「そうじゃなくて!」
颯爽と助けてくれる姿は、まさに御伽話にでも出てきそうな登場だが、目の前の永雅はどう見ても豪傑ではなく、ただの不機嫌な青年だった。今まで上機嫌か不機嫌かすら分からなかったことが嘘のように、どう見ても不機嫌そうに表情を曇らせている。
「あの、永雅……」
「なんだ」
「お、怒らないで……?」
「…………」
(私も何を言っているのよ、まずはお礼を伝えるべきでしょ)
「莉羅、なぜ呼ばない」
厳しい声色に、びくりと体が跳ねる。
「何かあったら俺を呼べ」
「え……?」
「せめて月宮家での安全な生活は保証してやる、と言ったはずだ」
「で、でもっ! 妻を守り抜くような人間じゃないって!」
私も混乱していて、気づいたら言い返していた。自分の発した言葉で、記憶が鮮明に蘇る。
『何か勘違いしているようだが、俺は娶った妻に愛情を注ぐような人間でも守り抜くような人間でもない』
永雅は確かにそう述べた。そう述べて、私と婚姻を結んだ。しかし、目の前の永雅は不服そうな表情のまま告げる。
「だから、出来る範囲で守ってやる。とりあえず、呼んでみれば良い」
すぐに、言葉が出なかった。なぜか目の奥が熱くなって、悲しくもないのに、涙が零れた。そして、涙が零れ続けているのに笑ってしまうのだ。
「ふふっ」
「なにを笑っている」
笑いながら、段々とさらに涙が零れていく。零れて、零れて、ついにはただ嗚咽を漏らして泣いていた。もう笑うことも出来ないほどに、泣いていた。
「なぜ泣いている」
この涙の理由も分からないのね、私の旦那様は。なんて、馬鹿で、優しい人。
「……嬉しいから泣いているのよ」
「は?」
「そのままの意味よ。嬉しいから泣いているの」
涙でぐしゃぐしゃの顔で永雅と目を合わせてやった。もう、いい。もう、どうでもいい。目の前に貴方が見えていることが嬉しくて仕方ないの。
「永雅、助けてくれてありがとう……!」
お淑やかさの欠片もない謝辞だった。でも、今までのどの言葉より本心で……ただただ今、永雅に伝えたい言葉だった。永雅は私を見つめているだけで、なにも言わなかった。けれど、いつの間にか不機嫌な表情ではなくなっていた。
(永雅はいま何を考えているのかしら?)
前にもそう思ったことがある。感情の読めない永雅が何を考えているか知りたい、と思ったことがある。でも、同じ「知りたい」でも、今は前と違う「知りたい」なのだ。そんな自分自身すら理解出来ない感情が、不思議と嫌ではなかった。
(昔のように顔を見るだけで全て分かったらいいのに)
そう願い、永雅の顔を見つめてしまう。
しかし、次の瞬間にはまた水の槍が飛んでこようとしていた。小さな水音から始まり、気づけば無数の槍が出来上がろうとしていた。礼寧は異能を制御出来ていないようで、私を恐ろしい目つきで睨んでいた。
「お姉様は、ずっと不幸でないといけないの! そうでないとずるいわ! なぜお姉様だけがっ!」
礼寧は唇を強く噛み締め、言葉を最後まで言い切らなかった。それでも、分かっていた。礼寧は、やはりずっと私だけが両親と過ごせたことを恨んでいたのだ。
「どうしてよ! どうして、どうして!!!」
ずっと、両親と過ごせた私が何を言っても更に恨まれるだけだと思っていた。それでも、伝えなければ伝わらない。相手が何を想うかも、知ろうとしなければ分からない。
「礼寧」
今にも水の槍が降り注ごうとしているにもかかわらず礼寧に近づいていく私に、永雅が叫んだ。
「莉羅、何をしている! 下がっていろ!」
人は変わる。時が経てば、誰でも。変化しない人間などいない。それでも、全てが変わったかどうかは、向き合わなければ分からない。そして、相手がどう変わったかも、向き合わなければ知り得ない。
「礼寧。私、礼寧が大好きだったわ。大切な私の宝物だった」
真っ赤な顔で、感情を露わにして、私をじっと見つめている礼寧。どれだけ私を恨んでも、どれだけ私を罵っても、まるでもう癖になっているかのように私を「お姉様」としか呼ばない礼寧。その呼び方しか知らないとでもいうように。
「それでもね、あれだけ虐められれば腹が立つわ。沢山酷いことをされても、『礼寧は大切な妹だわ!』と抱きしめてあげられるほど、私も出来た人間ではないの」
先ほどまであれだけ騒いでいた礼寧は、何も言わず、静かだった。まだ赤いままの顔で、呆然と私を見つめている。
「私は出来た人間じゃないから、礼寧と離されてから、徐々に徐々に礼寧のことを考えなくなったわ。忘れていたわけではないけれど、ずっと礼寧のことを考えていては私も生活出来なかったもの」
きっと、今の礼寧に私は必要ない。礼寧が求めているのは、そんなものではない。
「でもね、お母様とお父様は亡くなるまでずっと礼寧のことを心配していたわ。片時も忘れたことなんてなかった」
礼寧、貴方は知らないでしょう。
「お母様は夕餉の度に『礼寧はちゃんと食べているかしら』と仰るし、お父様は何度もお祖父様に『礼寧に会わせてくれ』と直談判していたわ」
水の槍は、ぱしゃりぱしゃりと床に落ちていく。あれほど硬く鋭利だったものが、簡単に崩れ落ちていく。
「礼寧の馬鹿。礼寧といつか再会出来た時、始めにこれだけは伝えなければと思っていたのに。けれど、礼寧が来た瞬間に水をぶっかけるから忘れてしまっていたじゃない」
礼寧、ごめんなさい。不出来な姉で。貴方が求めている言葉をすぐに渡せなかった駄目な姉でごめんなさい。
始めは「次に来た時に」と思っていた。しかし、次も出会い頭に虐げられるうちに、口を開くことが怖くなっていった。そして、私は礼寧に向き合うことから逃げたのだ。
「それでも、礼寧の虐めは最悪だったわ。許せるものですか。……だから、しゃんとなさい」
どうか、今度こそ姉らしい言葉を伝えさせて。
「両親に恥じない生き方をして、礼寧。私もそんな道を歩むから」
ぽろぽろと涙を零していく礼寧は、まるで幼子のようだった。幼い頃の礼寧に戻ったようだった。
(まぁ、実際は今の礼寧に幼子みたいな可愛さはないのだけれど)
ならば、変わればいい。人は、変わるのだ。
人は、変われるのだ。私はそのことを身にしみて知っている。
隣を見れば、これまた幼い頃とは全く違う風貌の幼馴染。しかし、もう攻撃の意思がない礼寧を見ても、いつでも私を守れるように今も隣に立っている。
(永雅も心配性なところは変わっていないわね)
しかし、再会してからの永雅はまだ知らないことばかり。だから、もっと知りたいと思う。向き合いたいから、もっと知りたいと願う。
暖かい日差しが差し込むこの屋敷で、これからも過ごしていきたいと心から思えた。
(こんな生活がずっと続けばいいのに)
そんな陽だまりのような考えが浮かぶ。穢れ者である私がそんなことを願っても良いのだろうか。
あの家での生活は……照井家での生活は平穏とは程遠いものだった。大好きだった離れですら、礼寧がいつ訪ねてくるかを震えて待たなければいけなかった。照井家にいた頃は心の中でどれだけ罵詈雑言を吐こうと気にならなかった。そうでなければ、私も生きていけなかった。ただ……ただ少しだけ、この陽だまりのような家にいると、私がここにいても良いのか心配になるのだ。
その時、女中の美春が廊下の奥から早足でこちらに向かうのが見えた。美春は「莉羅様はそんな風に笑われるのですね」と伝えてくれた、私が月宮家で始めて仲良くなれた女中である。
「莉羅、様。あのっ!」
いつもより怯えた様子で私の名を呼ぶ美春を見て、何かあったのだと察する。
「美春、どうしたの?」
私は美春に駆け寄り、落ち着かせるようにゆっくりと肩を撫でた。
「莉羅様の妹君を名乗るお方が表までいらっしゃっていて……」
「っ!」
胸に手を当てなくとも、心臓の音が頭に響いている。いや、そう感じてしまっているだけなのかもしれない。美春に触れている自分の手が小刻みに震えているのが見えた。
「永雅様より照井家の者が来ても誰も通すなと仰せつかっております。事情は分かりませんが、永雅様が莉羅様を思って命じたことだと使用人一同感じておりました。ですので、お断りしたのですが……」
美春が、言いにくそうに言葉を詰まらせている。
「いいの、気にしないで。何があったの?」
「頑なにお引き取り頂けず……終いには異能を使われて、女中の一人が怪我をっ……!」
なんとか言葉を紡ぎ出した美春は、目に涙を溜めていた。もう、恐怖や緊張は感じなかった。いま私の心にあるのは怒りだけだろう。気づけば、表に向かって勝手に足が動き出していた。
「莉羅様、お待ち下さいっ!」
「私の身内が起こしたことだもの。私が向かうのは当たり前だわ」
「しかし!」
「まだ私と美春は出会って間もないけど、美春が簡単に私を呼びに来ないことは知っているわ」
美春は、仕事熱心で真面目。そして、真摯に私と向き合ってくれる子。すぐに私に助けを求めないことを知っている。そんな美春が私を呼びに来るほど困っている。礼寧が困らせているのだ。
(これでも私はあの子の姉だもの。あの子の不始末は私が責任を取らないと)
それでも、そんな感情を覆い尽くすほどの怒りが心を支配していた。照井家でどれだけ虐げられてもここまでの怒りを抱いた記憶はなかった。その怒りの理由も分からないうちに、礼寧が見える。久しぶりに見た礼寧は、照井家にいた時と同様、高級な着物を身につけ、整えられた髪には美しい簪が煌めいていた。しかし、照井家にいた頃よりも不機嫌や怒りを隠さなくなったのか、苛立ちが表情に滲み出ていた。
「お姉様はどこよ! 早く出しなさい!」
金切り声でそう叫んでいる礼寧は、周りなど見えていないようだった。本来、照井家は長く歴史のある名家だが、今の世では圧倒的に月宮家の方が力を持っている。だからこそお祖父様は月宮家との婚姻に応じたのだ。しかし、今の礼寧はそんなことすら考えられていないようだった。
しかし、今はなによりも怪我をしたと聞いた女中が心配だった。辺りを見渡すと、他の使用人たちが既に手当てを始めてくれており、女中も安心した様子で笑顔を見せていた。幸い大きな怪我ではなかったようで、ほっと胸を撫で下ろす。
(ならば、まず私は礼寧を止めないと)
「礼寧」
名を呼ばれて私に気づいた礼寧は、周りの使用人たちを押し倒して、私に向かってくる。そして、そのまま私の胸倉を掴んだ。
「月宮家当主の永雅様がお姉様を大切にしていると噂で聞いたわ! 嘘よね!?」
この子はいきなり訪ねてきて、何を述べているのだろう。
「お姉様は穢れ者で不幸者。ずっとずっとそうよね! お姉様、幸せじゃないわよね!?」
こんな言葉を人目を憚らず述べるほど、この子は私を嫌っていたのだろうか。恨んでいたのだろうか。
(なにを驚いているの、ずっと分かっていたことじゃない)
知っていた。分かっていた。そうでないと、あれほど私を虐げられない。そうでないと、あれほど私に冷たい目を向けられない。そうよ。本当は、ずっとずっと前に気づいていた。
それでも、一人だけの妹だったの。
「お姉様は要らない人よね!?」
幼い頃の思い出が、あの頃の礼寧が、どうしても頭をよぎるの。いま私の目の前にいるのは、使用人たちを傷つけた人間。私をずっと虐げてきた人間。穢れ者の異能であろうと、礼寧に対抗出来るなら使わないと。そう、分かっているのに。
「お姉様は私が清めてあげないといけない人よね!? そうでしょう!?」
礼寧の声が頭に響いて、こだまする。
「そうだわ、今から私が清めてあげるわね! そうすれば、お姉様も周りもちゃんと理解出来るでしょう!?」
礼寧の頭上に水の塊が出来ていく。見た目はそこまで大きくはなかった。しかし、水の塊が形を変え、まるで槍のように鋭くなっていく。危ないと分かっているのに、足は竦んで動けなかった。
(ああ、でも、これなら他の使用人には被害が及ばないわね。良かった)
今になって優しい人間のような感情が浮かぶのね、とまるで他人事のような思考が頭を巡った。自分の感情にも、この状況にも、なぜかひどく冷静だった。
(案外、最期ってこんなものなのかしら)
礼寧は、私しか見えていなかった。そして、私も礼寧しか見えていなかった。礼寧と礼寧が作り出す水の槍に目を奪われていた。
だから、突然現れた漆黒の羽織を靡かせる人間が夜空に見えたのだ。
いや、もっと言えば、急に昼が夜になったように感じた。それほどまでに、その黒に目が奪われた。世界が変わって見えたのだ。
「え、いが。なんで……」
「…………」
永雅は何も言わず、自身の異能を発動させた。ふわりと小さな塊を作ったかと思うと、そのまま礼寧の水の槍にぶつける。その瞬間に水の槍は崩れ落ちた。前に美春が、永雅の異能は風だと教えてくれたことがある。小さな塊に見えたが、礼寧の異能を打ち破ったことを見ると威力は相当なものだったのだろう。礼寧も永雅が現れたことに驚いたのか、呆然と立ち尽くしている。永雅も何も言わないので、私はなんとかもう一度口を開いた。
「永雅、なんでここにいるの……?」
「自分の屋敷にいて何が悪い」
「そうじゃなくて!」
颯爽と助けてくれる姿は、まさに御伽話にでも出てきそうな登場だが、目の前の永雅はどう見ても豪傑ではなく、ただの不機嫌な青年だった。今まで上機嫌か不機嫌かすら分からなかったことが嘘のように、どう見ても不機嫌そうに表情を曇らせている。
「あの、永雅……」
「なんだ」
「お、怒らないで……?」
「…………」
(私も何を言っているのよ、まずはお礼を伝えるべきでしょ)
「莉羅、なぜ呼ばない」
厳しい声色に、びくりと体が跳ねる。
「何かあったら俺を呼べ」
「え……?」
「せめて月宮家での安全な生活は保証してやる、と言ったはずだ」
「で、でもっ! 妻を守り抜くような人間じゃないって!」
私も混乱していて、気づいたら言い返していた。自分の発した言葉で、記憶が鮮明に蘇る。
『何か勘違いしているようだが、俺は娶った妻に愛情を注ぐような人間でも守り抜くような人間でもない』
永雅は確かにそう述べた。そう述べて、私と婚姻を結んだ。しかし、目の前の永雅は不服そうな表情のまま告げる。
「だから、出来る範囲で守ってやる。とりあえず、呼んでみれば良い」
すぐに、言葉が出なかった。なぜか目の奥が熱くなって、悲しくもないのに、涙が零れた。そして、涙が零れ続けているのに笑ってしまうのだ。
「ふふっ」
「なにを笑っている」
笑いながら、段々とさらに涙が零れていく。零れて、零れて、ついにはただ嗚咽を漏らして泣いていた。もう笑うことも出来ないほどに、泣いていた。
「なぜ泣いている」
この涙の理由も分からないのね、私の旦那様は。なんて、馬鹿で、優しい人。
「……嬉しいから泣いているのよ」
「は?」
「そのままの意味よ。嬉しいから泣いているの」
涙でぐしゃぐしゃの顔で永雅と目を合わせてやった。もう、いい。もう、どうでもいい。目の前に貴方が見えていることが嬉しくて仕方ないの。
「永雅、助けてくれてありがとう……!」
お淑やかさの欠片もない謝辞だった。でも、今までのどの言葉より本心で……ただただ今、永雅に伝えたい言葉だった。永雅は私を見つめているだけで、なにも言わなかった。けれど、いつの間にか不機嫌な表情ではなくなっていた。
(永雅はいま何を考えているのかしら?)
前にもそう思ったことがある。感情の読めない永雅が何を考えているか知りたい、と思ったことがある。でも、同じ「知りたい」でも、今は前と違う「知りたい」なのだ。そんな自分自身すら理解出来ない感情が、不思議と嫌ではなかった。
(昔のように顔を見るだけで全て分かったらいいのに)
そう願い、永雅の顔を見つめてしまう。
しかし、次の瞬間にはまた水の槍が飛んでこようとしていた。小さな水音から始まり、気づけば無数の槍が出来上がろうとしていた。礼寧は異能を制御出来ていないようで、私を恐ろしい目つきで睨んでいた。
「お姉様は、ずっと不幸でないといけないの! そうでないとずるいわ! なぜお姉様だけがっ!」
礼寧は唇を強く噛み締め、言葉を最後まで言い切らなかった。それでも、分かっていた。礼寧は、やはりずっと私だけが両親と過ごせたことを恨んでいたのだ。
「どうしてよ! どうして、どうして!!!」
ずっと、両親と過ごせた私が何を言っても更に恨まれるだけだと思っていた。それでも、伝えなければ伝わらない。相手が何を想うかも、知ろうとしなければ分からない。
「礼寧」
今にも水の槍が降り注ごうとしているにもかかわらず礼寧に近づいていく私に、永雅が叫んだ。
「莉羅、何をしている! 下がっていろ!」
人は変わる。時が経てば、誰でも。変化しない人間などいない。それでも、全てが変わったかどうかは、向き合わなければ分からない。そして、相手がどう変わったかも、向き合わなければ知り得ない。
「礼寧。私、礼寧が大好きだったわ。大切な私の宝物だった」
真っ赤な顔で、感情を露わにして、私をじっと見つめている礼寧。どれだけ私を恨んでも、どれだけ私を罵っても、まるでもう癖になっているかのように私を「お姉様」としか呼ばない礼寧。その呼び方しか知らないとでもいうように。
「それでもね、あれだけ虐められれば腹が立つわ。沢山酷いことをされても、『礼寧は大切な妹だわ!』と抱きしめてあげられるほど、私も出来た人間ではないの」
先ほどまであれだけ騒いでいた礼寧は、何も言わず、静かだった。まだ赤いままの顔で、呆然と私を見つめている。
「私は出来た人間じゃないから、礼寧と離されてから、徐々に徐々に礼寧のことを考えなくなったわ。忘れていたわけではないけれど、ずっと礼寧のことを考えていては私も生活出来なかったもの」
きっと、今の礼寧に私は必要ない。礼寧が求めているのは、そんなものではない。
「でもね、お母様とお父様は亡くなるまでずっと礼寧のことを心配していたわ。片時も忘れたことなんてなかった」
礼寧、貴方は知らないでしょう。
「お母様は夕餉の度に『礼寧はちゃんと食べているかしら』と仰るし、お父様は何度もお祖父様に『礼寧に会わせてくれ』と直談判していたわ」
水の槍は、ぱしゃりぱしゃりと床に落ちていく。あれほど硬く鋭利だったものが、簡単に崩れ落ちていく。
「礼寧の馬鹿。礼寧といつか再会出来た時、始めにこれだけは伝えなければと思っていたのに。けれど、礼寧が来た瞬間に水をぶっかけるから忘れてしまっていたじゃない」
礼寧、ごめんなさい。不出来な姉で。貴方が求めている言葉をすぐに渡せなかった駄目な姉でごめんなさい。
始めは「次に来た時に」と思っていた。しかし、次も出会い頭に虐げられるうちに、口を開くことが怖くなっていった。そして、私は礼寧に向き合うことから逃げたのだ。
「それでも、礼寧の虐めは最悪だったわ。許せるものですか。……だから、しゃんとなさい」
どうか、今度こそ姉らしい言葉を伝えさせて。
「両親に恥じない生き方をして、礼寧。私もそんな道を歩むから」
ぽろぽろと涙を零していく礼寧は、まるで幼子のようだった。幼い頃の礼寧に戻ったようだった。
(まぁ、実際は今の礼寧に幼子みたいな可愛さはないのだけれど)
ならば、変わればいい。人は、変わるのだ。
人は、変われるのだ。私はそのことを身にしみて知っている。
隣を見れば、これまた幼い頃とは全く違う風貌の幼馴染。しかし、もう攻撃の意思がない礼寧を見ても、いつでも私を守れるように今も隣に立っている。
(永雅も心配性なところは変わっていないわね)
しかし、再会してからの永雅はまだ知らないことばかり。だから、もっと知りたいと思う。向き合いたいから、もっと知りたいと願う。
暖かい日差しが差し込むこの屋敷で、これからも過ごしていきたいと心から思えた。



