約束を違えた少女は、孤独な当主の花嫁に望まれる

 もう夜は更(ふ)け始めていた。
 久しぶりに顔を合わせた永雅は、前に会った時と同じ表情をしていた。無表情で、無愛想。今日がどんな気分かすら、私には分からない。

「ここでの生活は慣れたか」

 開口一番でそう聞かれ、呆気にとられながらも何とか言葉を紡ぎ出す。

「え、ええ。とても良くしてもらっているわ」

 私の返答を聞いた永雅は無表情のまま、「そうか」と一言だけ呟いた。それから、しばらくの沈黙が走る。

(何か用事があったのではないの……?)

 沈黙が続くうちに、私から声をかけなければと思うようになる。自分から声をかけたいと思えば、人は話題を探す。思考を巡らせる。そして、そんな風に無理やり動かした頭は、話題ではなく、今思い出す必要のない記憶を呼び起こすのだ。

『莉羅が約束を破ったことには変わりない』

 今、浮かぶ必要のない記憶が頭を巡った。
 永雅は私を恨んでいるのだろうか。約束を破った贖罪(しょくざい)として嫁げ、と永雅は述べた。幼い永雅は、天真爛漫でくるくると表情を変えた。そして、優しい子だった。そんな優しい子に希望を与えるような約束を勝手に取り付け、反故(ほご)した。
 時が経てば、人は変わる。今はもう、永雅が何を考えているのか分からない。表情を見るだけで考えていることが分かったあの頃とは違う。どれだけ見つめても、何も分からない。

「永雅、何を考えているの?」

 気づいたら、そう口から零れる。そして……次の瞬間には、予想外の感情が心を支配していた。

(違う、一番聞きたかったことはこれじゃない)

 もう、止まれなかった。

「私のせいで、永雅に迷惑をかけていない……?」

 無表情だった永雅の表情が歪んだ。例え表情が変わっても、今の私では永雅の考えていることが分からない。そのうち私は表情すら確認するのが怖くなって、気づけば俯(うつむ)いてしまっていた。

「莉羅」

 名前を呼ばれても、顔を上げることが出来ない。

「永雅、ごめんね。……守れない約束をして。穢れ者になって。こんな性格になって」
「莉羅」
「本当に永雅を思うなら月宮家に嫁がなければ良かったの。それでも、私はあの家から逃げたかった。贖罪なんてものじゃない。約束を破った挙句、永雅を利用したの」

 俯いたまま、最低な自分を晒してしまう。
 照井家は嫌いでも、あの離れは好きだった。でも、私は両親がいた離れが好きだったのだ。今は、私を虐げるために毎日のように礼寧が来る場所。そんな場所でも、癒しだと思わなければ生きていけなかった。

「こうして永雅に明かしている言葉でも本当は足りないの。言えないくらいあの家を恨んだことが沢山あるわ」

 なぜこんな話を永雅に聞かせているのだろう。いま私はどんな顔を浮かべているのだろう。
 こんな顔、永雅に見せられない。両手で顔を覆(おお)って、涙を零し続ける。言葉は、嗚咽で詰まってしまう。

「火の異能を持って生まれたから、穢れ者、なんておかし、い……っ! そんなの、おかしい!」

 息が苦しいのに、声を荒げてしまう。

「でもっ…! こん、な私、は。 こんな、嫌な私に、は…!」

 その言葉は、涙みたいにこぼれ落ちた。

「穢れ者が、似合ってるのっ……!!!」

「莉羅!!!」

 永雅の叫びのような声が響いた。その瞬間、顔を覆っていた両手が掴まれる。
 咄嗟に顔を上げると、目の前に見えた顔は先ほどと同じく険しく歪んでいた。それでも、苦しそうに、私と目を合わせていた。

「っ……」

 永雅は険しい顔を浮かべたまま、何か告げようとわずかに唇が動かした。しかし、結局口を噤(つぐ)むのだ。
 それでも、私の両手を握る永雅の力は強かった。まるで縋(すが)るように、まるで包み込むように、私の手を握っていた。その光景を見ているだけで、なぜか気持ちが落ち着いていく。夜に相応しいほどの静寂(せいじゃく)が流れた。

 どれくらい時間が経っただろう。少しずつ、冷静になっていく。

「永雅、あの、」

 しばらく時間が経っても、永雅の握る力は変わらなかった。私はもう顔を上げているのに、今度は永雅が俯いていて顔を見ることが出来ない。

(困らせてしまったわ……)

 自分でもなぜあんな言葉をこぼしてしまったのか分からない。何か弁明しようと思いつつも、上手い言葉が思いつかず、時間だけが過ぎていく。そのうちに、永雅が消え入りそうな声で呟いた。

「俺は月宮家当主として自覚を持って生きなければいけない」
「え……?」
「感情が露(あら)わになった顔を見せることは出来ない。感情を見せれば、弱さを悟られ、つけ入られる」

 それは、顔を上げることが出来ない理由を述べた言葉だった。顔を見せられない理由を探しているような言い方だった。
 それでも、今の私では表情をじっくり見たとしても、永雅の考えていることなど分からない。

(そうね。例え、いま永雅が顔を上げても私には永雅の考えていることなんて分からないわ)

 ならば。

「永雅、一つだけ教えて。私が嫁いだことで永雅に迷惑はかかった? 嫁いでからそれだけがずっと気がかりだったの」
「……迷惑など、かかっていない」
「そう」

 私は、目を瞑(つぶ)った。

「永雅、顔を上げて。私は目を瞑っているから」

 それから十(とお)数えた。永雅が本当に顔を上げたかは、目を閉じている私には分からない。それでも、もし見ているのなら。私はゆっくりと口角を上げて、分かりやすく笑窪(えくぼ)を作った。

(久しぶりに笑った気がするわね)

「永雅、私を迎え入れてくれてありがとう」

 誰にも虐げられない場所に行きたかった。温かな食事が取れる場所に行きたかった。穏やかに眠りにつける場所に行きたかった。そして……苦しさを明かした時、誰かが手を握ってくれる場所に行きたかった。
 今も私の手には温もりが伝わってくる。顔など見れなくとも、それだけで十分だった。

「もう目を開けてもいいかしら?」
「……あと三十数えていろ」
「ふふっ、長いなぁ」

 しかし、三十数えるより先にぐんっと手が引っ張られて、瞼(まぶた)を上げてしまう。腕を引かれ、そのまま私の部屋の方向に連れていかれる。前を歩く永雅を見上げても、背中しか見ることが出来ない。
 私の部屋に着くと、永雅は顔を見せないうちに歩いて行ってしまう。誰もいなくなった廊下で私は窓の外に視線を向けた。

「今日は、満月だったのね」

 生まれてから何度も見ているはずの月が、なぜか今までで一番輝いて見える気がした。