約束を違えた少女は、孤独な当主の花嫁に望まれる

「ん……」

 気づけば、私は布団に横たわっていた。
 重すぎる身体を持ち上げて、朦朧(もうろう)とする頭を無理やり働かせて自分が発熱していることを自覚する。

(そうだった、朝になって使用人が戻った後になんとか着替えて布団に……)

 もう礼寧に苛立つ気力もない。怒りを抱く元気もなかった。とりあえず今日はこのまま身体を休めて、安静にしないと。そんなことを考えてもう一度眠りについた直後、離れの扉が開かれる。

「御当主様がお呼びです」

 一度母屋に戻ったはずの使用人がそう告げる。凍える私を見つめていた時と同じく、私になど興味がないと伝える表情で。

「今は体調が悪いのですが……」
「御当主様がお呼びです」

 繰り返し淡々と告げる使用人。私が夜通し凍えていたのを知っているのに要求を続ける目の前の人間は、私が死んでも良いと心から思っていると理解出来た。怒りすら湧かないというより、怒りが湧かないほど悲しかった。

(どうせお祖父様の呼び出しを断ったらただじゃ済まないか)

 両親と共に離れに追いやられて以降、お祖父様に呼び出されたことも、顔を合わせたこともない。きっと碌(ろく)な呼び出しではない。分かっているのに、この家で生きている私は発熱していようと向かわないわけにはいかない。

「すぐに向かいます」

 私が消え入りそうな声でそう呟いたのを聞いて、やっと使用人が母屋に戻っていく。

 このままどこかに逃げられたらいいのに。

 そんな叶うはずのない願いが浮かぶ心に嫌気が差す。そんな希望をまだ持っている自分に嫌気が差すのだ。それでも、鉛(なまり)のように重い身体を無理やり布団から起こした頃にはそんな希望は消えている気がした。


 *


「莉羅でございます」

 当主の部屋の前で座礼し、頭を床につけた状態で述べる。頭はもう上手く働かず、自分の呂律(ろれつ)が回っている自信すらない。

「入れ」

 それでも、当主の一声とともに勝手に扉は開かれる。

「顔を見せろ」

 高熱で正常な働きをしていない私の頭は、その声がお祖父様の声だと思った。何も考えられないまま無意識に頭を上げていた。
 しかし、目の前に立っていたのは煌びやかな黒髪を靡(なび)かせた見目麗しい青年。細身の身体に質の良い羽織が良く似合っている。

「誰……?」

 働かない頭で無意識にそう述べていた。その瞬間に恐ろしい勢いで頭(こうべ)を床に叩きつけられる。

「無礼者! この方は月宮家の御当主であられる方だぞ!」

 この怒声の主こそが、私が会う予定だったお祖父様だと理解する。お祖父様は今も私の頭を無理やり床に叩きつけたまま、罵詈雑言を浴びせ続けている。しかし、そんな声は私の耳には入っていなかった。

(月宮家? 永雅のいた家?)

「良い、それより手を離せ」

 頭を押さえつけていた手から解放されて、また無意識に頭を上げてしまう。そして、もう私の意識は限界だった。
 だって目の前に……ここにいるはずのない幼い男の子が見えたのだから。目の前にいる青年が、幼い頃によく遊んでいた小さな男の子に見えたのだから。

「永雅だ……久しぶりに会えたぁ……」

 その言葉が口に出ていたのかすら分からない。
 意識が途切れる直前、揺れた視界の端で誰かが私の身体を支えようと手を伸ばした気がした。そんな人はもういないと分かっているのに。