京都怪異探偵録 ―祈りは宵闇に消えず―

 翌朝。

 雨は上がっていた。

 濡れた石畳に薄い朝日が反射し、京都の町には雨上がり特有の湿った匂いが残っている。

 宵月探偵事務所では、祈が制服姿のまま鞄を肩に掛けていた。

「帰ります」

「学校?」

「そうです」

 遥は湯呑みを片手に、眠そうな顔をしている。濃い色の着物に羽織という、昨夜とほとんど変わらない格好だ。

「寝てへんやろ」

「誰の事務所のせいだと思ってるんですか」

「怪異のせいやろ」

「その怪異が大量にいる事務所ですよね?」

 祈は部屋の隅を見る。

 昨夜、中から『返して』という声が聞こえた木箱には、さらに何枚もの札が貼られていた。

 今は静かだ。

 それが逆に不気味だった。

「とにかく、もう来ませんから」

「昨日も似たようなこと聞いたな」

「今度こそです」

 祈が引き戸に手を掛ける。

 その瞬間だった。

 カラカラ、と戸が開いた。

「あの……」

 立っていたのは四十代ほどの女性だった。

 薄いカーディガンを羽織り、顔色が悪い。目の下には濃い隈が浮かんでいる。

「ここ……怪異の相談もしていただけるんですよね?」

 遥の雰囲気が変わった。

「どうぞ」

 女性――水原美智子は、ソファへ座るなり震える声で言った。

「毎晩、二階から足音がするんです」

 帰ろうとしていた祈の足が止まる。

「ご家族は?」

「私一人です」

「二階に誰か住んでるとか」

「いいえ」

 美智子は首を振った。

「二階には、もう十年以上……誰も住んでいません」

 十三日前。

 午前二時。

 二階から、

 ミシ……ミシ……。

 誰かが廊下を歩く音がした。

 泥棒だと思い警察にも来てもらった。

 だが、誰もいなかった。

 翌日の午前二時。

 再び足音。

 そして今度は、

 ギィ……。

 階段を一段、降りた。

 次の夜は二段。

 その次は三段。

「毎晩、一段ずつ……下りてくるんです」

 美智子の指が震えている。

 遥が静かに尋ねた。

「昨夜は?」

「……あと一段でした」

「え?」

 思わず祈が声を漏らす。

 美智子は青ざめた顔を上げた。

「今夜、最後の一段を降りたら……何が起きるんでしょうか」

 事務所に沈黙が落ちた。

 遥が立ち上がる。

「分かりました。今夜、調べましょう」

 祈は鞄を持ち直す。

「じゃあ私は学校へ」

「夜来てな」

「嫌です」

「即答やな」

「私、助手じゃありませんから」

「知ってる」

「昨日、助手って紹介しましたよね?」

「あれは仮」

「勝手に採用しないでください!」

     *

 放課後。

 夕日に染まった教室で、祈は窓の外を眺めていた。

『今夜、最後の一段を降りたら……』

 美智子の怯えた顔が離れない。

 関わらなければいい。

 ずっと、そうしてきた。

『祈。見なくていいものは、見ないふりをしなさい』

 母の言葉。

 それが自分を守ってきた。

 なのに。

「……気になる」

 結局、祈が向かったのは自宅ではなく、宵月探偵事務所だった。

 戸を開ける。

「おかえり」

「帰ってません」

 遥が笑う。

 隣では眼鏡を掛けた紫苑が資料を鞄へ詰めていた。

「見学ということで」

「藤堂さんまで……」

「ほな行こか」

 完全に巻き込まれている。

     *

 美智子の家は、観光地から少し離れた住宅街にあった。

 夕暮れ。

 細い路地の奥に、古い二階建ての町家が佇んでいる。

 黒ずんだ格子戸。

 軒先から落ちる雨の雫。

 祈は門をくぐった瞬間、腕をさすった。

「……寒い」

「寒い?」

 紫苑が振り返る。

「気温じゃなくて……」

 祈は二階を見上げた。

「誰かに見られてる感じがします」

 遥の目がわずかに細くなった。

 問題の階段は十三段。

 古い木製で、人が乗ればすぐ軋みそうだった。

 紫苑が確認する。

「十三日前から始まったなら、数も一致しますね」

 遥が一段目に札を置く。

 ふるっ。

 札が震えた。

「……風ですか?」

「窓、閉まってるで」

 祈は黙った。

 調査を続けるうち、棚の上に古い家族写真を見つけた。

 父親。

 母親。

 少年。

 そして幼い少女。

「これ……」

 美智子の表情が曇る。

「私の家族です」

「ほかの皆さんは?」

「……もう、いません」

 それ以上は聞けなかった。

 二階には古い子ども部屋が残されていた。

 机。本棚。色褪せた玩具。

 壁にはクレヨンで描かれた四人家族の絵。

 祈が足を踏み入れた瞬間。

『……まだ?』

「!」

 振り返る。

 誰もいない。

『まだ帰ってこない?』

「九条さん……」

「聞こえた?」

「……はい」

 窓際には誰もいない。

 なのに。

 小さな誰かが、ずっと外を見つめている。

 そんな気がした。

     *

 午前一時五十八分。

 三人は階段の前にいた。

 美智子は居間で待っている。

 柱時計の針が進む。

 カチ。

 カチ。

 午前一時五十九分。

 遥は札を構える。

「祈」

「はい」

「何があっても勝手に動くなよ」

「分かってます」

「ほんま?」

「……たぶん」

「一番信用できひん答えやな」

 そして。

 時計の針が重なった。

 午前二時。

 ――ミシ。

 祈の身体が強張る。

 二階だ。

 ミシ……。

 ミシ……。

 誰かが歩いている。

 ゆっくり。

 確実に。

 やがて、

 ギィ……。

 階段が軋んだ。

 一段。

 ギィ……。

 二段。

 何も見えない。

 なのに音だけが近づいてくる。

 ギィ。

 ギィ。

 祈の心臓が激しく鳴る。

 そして――

 最後の一段を残して、

 止まった。

「……」

 祈の目の前。

 何もいない。

 それでも分かる。

 いる。

 誰かが。

 遥が札を構えた。

「来るで」

 ギィ――。

 最後の一段が鳴った。

 瞬間。

 家中の明かりが消えた。

「きゃあ!」

 美智子の悲鳴。

「水原さん!」

「祈、動くな!」

 だが。

『……帰ってきた?』

 幼い声がした。

 祈は階段を見る。

 暗闇の中に、小さな影が立っていた。

「……誰?」

 影が二階へ消える。

 祈は思わず階段の手すりへ触れた。

「祈!」

 遥の声が遠くなる。

 ――世界が変わった。

     *

 明るい昼。

 同じ家。

 小さな女の子が笑いながら走っている。

 食卓には父と母、兄。

 楽しそうな四人。

 場面が変わる。

 布団で眠る少女。

『すぐ帰ってくるからね』

 母が頭を撫でる。

『お土産買ってくるから』

 兄が笑う。

『ほんと?』

『約束』

 父と母と兄が玄関から出ていく。

 少女は階段に座り、手を振った。

『早く帰ってきてね!』

 扉が閉まる。

 夕方。

 少女は階段に座っている。

 夜。

 まだ待っている。

 翌日。

『まだ帰ってこないの?』

 祖母が困ったように笑う。

『もうすぐ帰ってくるよ』

 また夜。

 また朝。

 少女はずっと待つ。

 けれど――

 三人は帰ってこなかった。

 事故だった。

『嘘つき……』

 泣きじゃくる少女。

『帰ってくるって言ったのに』

     *

「祈!」

 目を開ける。

 遥に肩を支えられていた。

「……見えました」

「何を?」

「この家の……昔」

 紫苑が驚いたように見る。

「記憶を見たんですか?」

 遥が小さく呟く。

「……残響視」

「ざんきょうし?」

「強い感情や記憶が、場所や物に残ることがある。それを見る力や」

「私に?」

「みたいやな」

 その時。

『まだ?』

 廊下の奥。

 小さな少女が立っていた。

 写真の中の少女。

 幼い頃の美智子だ。

 祈はようやく理解する。

「この子……待ってるんです」

「何?」

「家族が帰ってくるのを」

 美智子が部屋から出てくる。

 少女を見て息を呑んだ。

「……私?」

『お母さんたち、まだ?』

 美智子の目から涙がこぼれた。

 少女の影が揺らぐ。

 家がミシミシと軋む。

 遥が札を構えた。

「下がれ、祈」

「待ってください」

「感情が強すぎる。変質する前に祓う」

「でも、この子は誰も傷つけてません」

「今はな」

 遥の言葉は冷静だった。

 祈は怖かった。

 それでも少女を見る。

 泣いている。

「……少しだけ」

「祈」

「少しだけ、待ってください」

 祈は少女の前にしゃがんだ。

「ずっと待ってたんだね」

『帰ってくるよ』

「……うん」

『約束したから』

 祈は美智子を見る。

「水原さん」

「この子に、ちゃんと教えてあげてください」

 美智子は幼い自分の前に膝をついた。

「ごめんね」

『何が?』

「ずっと待たせて」

『帰ってくるよ』

「……帰ってこないの」

 少女の顔が強張る。

「お父さんも、お母さんも、お兄ちゃんも……もう帰ってこない」

『嘘』

「うん。私もそう思いたかった」

 美智子は涙を拭わなかった。

「でもね」

 震える声で笑う。

「もう、待たなくていいよ」

『……いいの?』

「うん」

「私が覚えてるから」

『忘れない?』

「忘れない」

 少女はしばらく美智子を見つめ――

 やがて、小さく笑った。

 トン。

 最後の一段を降りるような、

 優しい足音。

 少女の姿が淡い光へ溶けていく。

 札は使わなかった。

 誰も祓わなかった。

 それでも怪異は、

 静かに消えていった。

     *

 夜が明け始めていた。

 雨上がりの京都の空が、薄い青に染まっている。

 帰り道。

 祈は振り返った。

 もう、あの家から足音は聞こえない。

「九条さん」

「ん?」

「私、怪異って……怖いものだと思ってました」

「まあ、怖いで」

「そうじゃなくて」

 祈は自分の手を見る。

 あの家の記憶を見た手。

「あの子は、誰かを呪いたかったわけじゃない」

 遥は黙って聞いている。

「ただ、待ってただけなんですね」

「……せやな」

 祈は少し考えてから呟いた。

「怪異にも……理由があるんですね」

 遥が足を止める。

「全部が全部、あんなんやない」

「人を傷つける怪異もおる。話が通じんのもおる」

「分かってます」

 祈は朝の京都を見つめた。

「でも――」

 軒先から落ちた雫が、朝日にきらめく。

「理由がある怪異も、いる」

 遥はしばらく祈を見つめていた。

 やがて、

「……そうやな」

 ほんの少しだけ笑った。

 祈はまだ知らない。

 この夜に聞いた小さな足音が、

 これから数え切れないほどの怪異の声を聞くことになる、

 最初の一歩だったことを。