ジリリリリン――。
古びた黒電話が、雨音を切り裂くように鳴っている。
祈はソファに座ったまま、目の前のそれを見つめていた。
遥がさっき口にした言葉が、頭から離れない。
『その電話な、もう十年以上――電話線、繋がってへんねん』
だったら。
これは、何だ。
ジリリリリン――。
「……出ないんですか?」
「出たないなあ」
「九条さんの事務所ですよね?」
「せやな」
「電話ですよね?」
「見た感じは」
「なんでそんな他人事なんですか!」
思わず声を上げる。
遥は湯呑みを置き、黒電話へ視線を向けた。
表情から、さっきまでの軽さが消える。
「触らんほうがええ」
「……どうして?」
「分からんから」
「分からないんですか?」
「分からんもんに不用意に触らん。怪異相手の基本や」
その直後だった。
――ピタッ。
電話が鳴り止んだ。
「……」
急に訪れた静寂。
外から聞こえるのは、屋根を叩く雨音だけ。
遥は黒電話を見つめ、小さく息を吐いた。
「……面倒なんに目ぇ付けられたな」
「私が、ですか?」
「他に誰がおんねん」
「嫌なんですけど」
「俺も嫌や」
「九条さんまで嫌がらないでください!」
祈は肩を落とした。
少しだけ緊張が解けて、改めて室内を見回す。
古い町家を改装したらしい事務所だった。
太い梁。壁一面の本棚。机には筆と墨。
そこまではいい。
問題は、その先だ。
大量の札。
黒い数珠。
古びた鈴。
木箱。
布をかけられた鏡。
棚の上には、こちらを見ているような市松人形まで置かれている。
さらに部屋の隅には、何重にも札を貼られた木箱。
上には大きく、
『絶対開封禁止』
と書かれていた。
「……ここ、本当に探偵事務所なんですか?」
「看板見たやろ」
「普通の探偵事務所に、あんな箱あります?」
遥も木箱を見る。
「ああ……ないな」
「ですよね?」
「たぶん」
「たぶん?」
不安しかない。
「怪異相談って、本当に怪異の相談なんですか?」
「せやで」
「幽霊とか?」
「まあ」
「呪いとか?」
「あるな」
「……祓うんですか?」
そこで遥が一瞬だけ黙った。
「必要なら」
「必要なら?」
「まず調べる。何が起きてるか分からんまま祓うわけにもいかんやろ」
遥は机の書類を指で叩いた。
「誰もおらん二階から足音がするとか、捨てた人形が帰ってくるとか、死んだ家族から電話が来るとか」
「……そんなの、本当にあるんですか」
「あるから困ってんねん」
祈は黒電話を見る。
今なら否定できなかった。
「普通の探偵が嫌がる仕事を押し付けられてる感じやな」
「それで商売になるんですか?」
「……そこ聞く?」
遥が少し傷ついた顔をする。
その時。
「そういや祈」
「はい?」
「昨日、どこ通ってここ来た?」
祈はスマートフォンを取り出した。
赤い傘の女から逃げるため、細い路地へ入り、その先で見覚えのない町並みに迷い込んだ。
地図を開く。
「確か、この辺りから……」
指が止まった。
「……え?」
ない。
昨日、確かに通った路地が。
拡大しても表示されない。
「そんな……」
「そら出えへんやろな」
「どういう意味ですか?」
「普段はない道やから」
祈は顔を上げた。
「京都にはな、人間が使う道とは別に、もう一つ道がある」
「もう一つ?」
「人ならざるもんが通る道や」
遥は窓の外へ目を向けた。
「雨の日。夜中。夕暮れ。そういう境目が曖昧になる時間に、たまに人間の道と繋がる」
「……なんで京都に?」
「京都なんて千年以上、人が住んでる街やで」
遥の声が少し低くなる。
「人が千年おったらな、残るんは建物だけちゃう」
「何が残るんですか?」
「願いも」
雨音。
「恨みも」
祈は息を呑む。
「後悔も」
遥が祈を見る。
「忘れられへんかったもんは、全部残る」
「じゃあ昨日、私があそこへ入ったのは……」
「君が迷ったんちゃう」
遥は静かに言った。
「向こうから道を繋げたんや」
「向こうって……」
「赤い傘の女」
背中に冷たいものが走った。
『返して』
あの声が蘇る。
――カラカラ。
突然、入口の戸が開いた。
「九条さん?」
大量の本を抱えた青年が入ってくる。
柔らかな茶色の髪。眼鏡。薄手のカーディガン。
「頼まれていた資料、持ってきました」
「おお、紫苑。ちょうどええところに」
青年――藤堂紫苑が祈を見る。
「……お客様ですか?」
「新しい助手」
「違います」
「助手さんですか」
「違います」
「二回言わんでも」
「大事なことなので」
紫苑は少し困ったように笑った。
大学院で民俗学を研究し、京都の怪異や伝承について調べているらしい。
「赤い傘に、白いワンピース。顔のない女性……ですか」
話を聞いた紫苑は古書をめくる。
「似た伝承はいくつかあります。ただ……『迎えに来る』という点が一致しません」
「せやから面倒なんや」
「有名な怪異じゃないんですか?」
「あるいは」
紫苑が祈を見る。
「誰か一人のために生まれた怪異なのかもしれません」
胸がざわついた。
「そういえば、お名前を伺っても?」
「あ……雨宮祈です」
その瞬間。
紫苑の指が止まった。
「……雨宮?」
「はい」
遥の目が、わずかに細くなる。
「紫苑」
「ああ、いえ。珍しいお名前だと思いまして」
「名字が?」
「……下のお名前です」
「絶対違いますよね?」
「気のせいでは?」
「嘘下手ですね」
遥が笑う。
「紫苑、昔から嘘下手やねん」
「九条さんにだけは言われたくありません」
二人とも何か知っている。
祈には、それが分かった。
「雨宮さんは、いつ頃から怪異を?」
「物心ついた頃からです」
「お母様は?」
祈は少しだけ視線を落とした。
「分かりません。でも……知ってたんだと思います」
幼い頃。
誰もいない場所を見つめて怯える祈に、母はいつも言った。
『祈。見なくていいものは、見ないふりをしなさい』
「もう、聞けませんけど」
遥の表情が一瞬だけ変わった。
だが、すぐいつもの顔へ戻る。
「祈」
「何ですか?」
遥が少し顔を近づける。
「やっぱり匂う」
「……私、そんなに臭います?」
「そういう匂いやない」
「じゃあ何なんですか」
「怪異が好む匂い」
「ものすごく嫌なんですけど、その言い方」
遥は少し考え、
「雨やな」
と言った。
「雨?」
「降る直前の土みたいな匂い」
その時、紫苑が小さく呟いた。
「……雨宮」
「今、雨宮って言いましたよね?」
「言いましたか?」
「言いました」
「気のせいでは?」
「さっきからそればっかり!」
祈が睨んだ、その時。
『……て』
「え?」
小さな声。
『……たすけて』
祈は振り向く。
札だらけの木箱。
声は、そこから聞こえた。
無意識に手を伸ばす。
「触るな!」
遥に強く手首を掴まれた。
「……っ」
「悪い」
遥はすぐ手を離す。
「何が入ってるんですか?」
「知らんほうがええ」
「そればっかりですね」
「知らんほうが幸せなこともあるで」
その瞬間。
祈の視界が暗くなった。
暗い部屋。
泣いている誰か。
床に落ちる札。
汚れた手。
『開けて』
「……っ!」
現実へ戻る。
身体がふらつき、紫苑が支えた。
「大丈夫ですか?」
遥が祈を見る。
「今、何見た?」
「……分かりません」
遥と紫苑が無言で視線を交わした。
まただ。
自分だけ何も知らない。
祈は鞄を掴んだ。
「帰ります」
「今?」
「これ以上いたら、余計変なことに巻き込まれそうなので」
「もう十分巻き込まれてるけどな」
「言わないでください!」
祈は玄関を開けた。
そして――固まった。
外にあるはずの通りがない。
真っ暗な路地。
雨。
その奥。
ぽつんと浮かぶ、
赤い傘。
「……っ!」
勢いよく戸を閉める。
「おかえり」
「笑わないでください!」
紫苑が外を確認する。
「まだ繋がってますね」
「何が?」
「怪異の道です」
祈は顔を引きつらせた。
「……私、帰れないんですか?」
「今夜はやめといたほうがええな」
「明日学校なんですけど!」
結局、祈は事務所で待つことになった。
遥は結界を張り直し、紫苑は資料を調べる。
深夜。
いつしか紫苑は机に伏して眠っていた。
遥は奥の部屋。
祈だけがソファで起きている。
窓を見る。
赤い傘は、もう見えない。
その時。
ジリリリリン――!
祈の肩が跳ねた。
黒電話。
まただ。
祈はゆっくり立ち上がる。
なぜだろう。
出なければ。
そんな感覚が頭の中へ入り込んでくる。
一歩。
また一歩。
「祈!」
遥の声。
振り返る。
「出るな!」
けれど。
祈の手はもう、受話器へ伸びていた。
ガチャ。
「……もしもし?」
無音。
ザー……。
雨のような雑音だけが聞こえる。
「誰……?」
やがて。
『……祈』
女の声。
祈の顔から血の気が引いた。
「どうして……私の名前……」
沈黙。
そして。
『見つけた』
ブツッ。
「……」
電話が切れた。
祈は受話器を握ったまま動けない。
「九条さん……」
遥が受話器を取り、静かに戻す。
「今の……あの女ですよね?」
「分からん」
「でも」
「分からんもんを決めつけるな」
紫苑が黒電話を見る。
「やはり電話線は繋がっていません」
祈は何も言えなかった。
その時。
遥の視線が床へ落ちた。
「……」
「九条さん?」
祈も見る。
玄関から、
濡れた裸足の足跡が続いていた。
一つ。
二つ。
三つ。
結界の内側へ。
そして足跡は、
札だらけの木箱の前で止まっている。
「……これ」
遥の顔から、笑みが消えた。
「入られた」
「え?」
遥が札を取り出す。
「祈」
低い声だった。
「俺から離れんな」
――コン。
木箱が鳴った。
三人の視線が集まる。
――コン。
もう一度。
内側から、
誰かが叩いている。
そして。
『……返して』
小さな女の声がした。
祈は息を呑む。
その言葉を、
知っている。
昨日。
赤い傘の女が、
祈へ向かって繰り返していた言葉。
――返して。
雨音だけが、
何事もなかったように京都の夜へ降り続いていた。
古びた黒電話が、雨音を切り裂くように鳴っている。
祈はソファに座ったまま、目の前のそれを見つめていた。
遥がさっき口にした言葉が、頭から離れない。
『その電話な、もう十年以上――電話線、繋がってへんねん』
だったら。
これは、何だ。
ジリリリリン――。
「……出ないんですか?」
「出たないなあ」
「九条さんの事務所ですよね?」
「せやな」
「電話ですよね?」
「見た感じは」
「なんでそんな他人事なんですか!」
思わず声を上げる。
遥は湯呑みを置き、黒電話へ視線を向けた。
表情から、さっきまでの軽さが消える。
「触らんほうがええ」
「……どうして?」
「分からんから」
「分からないんですか?」
「分からんもんに不用意に触らん。怪異相手の基本や」
その直後だった。
――ピタッ。
電話が鳴り止んだ。
「……」
急に訪れた静寂。
外から聞こえるのは、屋根を叩く雨音だけ。
遥は黒電話を見つめ、小さく息を吐いた。
「……面倒なんに目ぇ付けられたな」
「私が、ですか?」
「他に誰がおんねん」
「嫌なんですけど」
「俺も嫌や」
「九条さんまで嫌がらないでください!」
祈は肩を落とした。
少しだけ緊張が解けて、改めて室内を見回す。
古い町家を改装したらしい事務所だった。
太い梁。壁一面の本棚。机には筆と墨。
そこまではいい。
問題は、その先だ。
大量の札。
黒い数珠。
古びた鈴。
木箱。
布をかけられた鏡。
棚の上には、こちらを見ているような市松人形まで置かれている。
さらに部屋の隅には、何重にも札を貼られた木箱。
上には大きく、
『絶対開封禁止』
と書かれていた。
「……ここ、本当に探偵事務所なんですか?」
「看板見たやろ」
「普通の探偵事務所に、あんな箱あります?」
遥も木箱を見る。
「ああ……ないな」
「ですよね?」
「たぶん」
「たぶん?」
不安しかない。
「怪異相談って、本当に怪異の相談なんですか?」
「せやで」
「幽霊とか?」
「まあ」
「呪いとか?」
「あるな」
「……祓うんですか?」
そこで遥が一瞬だけ黙った。
「必要なら」
「必要なら?」
「まず調べる。何が起きてるか分からんまま祓うわけにもいかんやろ」
遥は机の書類を指で叩いた。
「誰もおらん二階から足音がするとか、捨てた人形が帰ってくるとか、死んだ家族から電話が来るとか」
「……そんなの、本当にあるんですか」
「あるから困ってんねん」
祈は黒電話を見る。
今なら否定できなかった。
「普通の探偵が嫌がる仕事を押し付けられてる感じやな」
「それで商売になるんですか?」
「……そこ聞く?」
遥が少し傷ついた顔をする。
その時。
「そういや祈」
「はい?」
「昨日、どこ通ってここ来た?」
祈はスマートフォンを取り出した。
赤い傘の女から逃げるため、細い路地へ入り、その先で見覚えのない町並みに迷い込んだ。
地図を開く。
「確か、この辺りから……」
指が止まった。
「……え?」
ない。
昨日、確かに通った路地が。
拡大しても表示されない。
「そんな……」
「そら出えへんやろな」
「どういう意味ですか?」
「普段はない道やから」
祈は顔を上げた。
「京都にはな、人間が使う道とは別に、もう一つ道がある」
「もう一つ?」
「人ならざるもんが通る道や」
遥は窓の外へ目を向けた。
「雨の日。夜中。夕暮れ。そういう境目が曖昧になる時間に、たまに人間の道と繋がる」
「……なんで京都に?」
「京都なんて千年以上、人が住んでる街やで」
遥の声が少し低くなる。
「人が千年おったらな、残るんは建物だけちゃう」
「何が残るんですか?」
「願いも」
雨音。
「恨みも」
祈は息を呑む。
「後悔も」
遥が祈を見る。
「忘れられへんかったもんは、全部残る」
「じゃあ昨日、私があそこへ入ったのは……」
「君が迷ったんちゃう」
遥は静かに言った。
「向こうから道を繋げたんや」
「向こうって……」
「赤い傘の女」
背中に冷たいものが走った。
『返して』
あの声が蘇る。
――カラカラ。
突然、入口の戸が開いた。
「九条さん?」
大量の本を抱えた青年が入ってくる。
柔らかな茶色の髪。眼鏡。薄手のカーディガン。
「頼まれていた資料、持ってきました」
「おお、紫苑。ちょうどええところに」
青年――藤堂紫苑が祈を見る。
「……お客様ですか?」
「新しい助手」
「違います」
「助手さんですか」
「違います」
「二回言わんでも」
「大事なことなので」
紫苑は少し困ったように笑った。
大学院で民俗学を研究し、京都の怪異や伝承について調べているらしい。
「赤い傘に、白いワンピース。顔のない女性……ですか」
話を聞いた紫苑は古書をめくる。
「似た伝承はいくつかあります。ただ……『迎えに来る』という点が一致しません」
「せやから面倒なんや」
「有名な怪異じゃないんですか?」
「あるいは」
紫苑が祈を見る。
「誰か一人のために生まれた怪異なのかもしれません」
胸がざわついた。
「そういえば、お名前を伺っても?」
「あ……雨宮祈です」
その瞬間。
紫苑の指が止まった。
「……雨宮?」
「はい」
遥の目が、わずかに細くなる。
「紫苑」
「ああ、いえ。珍しいお名前だと思いまして」
「名字が?」
「……下のお名前です」
「絶対違いますよね?」
「気のせいでは?」
「嘘下手ですね」
遥が笑う。
「紫苑、昔から嘘下手やねん」
「九条さんにだけは言われたくありません」
二人とも何か知っている。
祈には、それが分かった。
「雨宮さんは、いつ頃から怪異を?」
「物心ついた頃からです」
「お母様は?」
祈は少しだけ視線を落とした。
「分かりません。でも……知ってたんだと思います」
幼い頃。
誰もいない場所を見つめて怯える祈に、母はいつも言った。
『祈。見なくていいものは、見ないふりをしなさい』
「もう、聞けませんけど」
遥の表情が一瞬だけ変わった。
だが、すぐいつもの顔へ戻る。
「祈」
「何ですか?」
遥が少し顔を近づける。
「やっぱり匂う」
「……私、そんなに臭います?」
「そういう匂いやない」
「じゃあ何なんですか」
「怪異が好む匂い」
「ものすごく嫌なんですけど、その言い方」
遥は少し考え、
「雨やな」
と言った。
「雨?」
「降る直前の土みたいな匂い」
その時、紫苑が小さく呟いた。
「……雨宮」
「今、雨宮って言いましたよね?」
「言いましたか?」
「言いました」
「気のせいでは?」
「さっきからそればっかり!」
祈が睨んだ、その時。
『……て』
「え?」
小さな声。
『……たすけて』
祈は振り向く。
札だらけの木箱。
声は、そこから聞こえた。
無意識に手を伸ばす。
「触るな!」
遥に強く手首を掴まれた。
「……っ」
「悪い」
遥はすぐ手を離す。
「何が入ってるんですか?」
「知らんほうがええ」
「そればっかりですね」
「知らんほうが幸せなこともあるで」
その瞬間。
祈の視界が暗くなった。
暗い部屋。
泣いている誰か。
床に落ちる札。
汚れた手。
『開けて』
「……っ!」
現実へ戻る。
身体がふらつき、紫苑が支えた。
「大丈夫ですか?」
遥が祈を見る。
「今、何見た?」
「……分かりません」
遥と紫苑が無言で視線を交わした。
まただ。
自分だけ何も知らない。
祈は鞄を掴んだ。
「帰ります」
「今?」
「これ以上いたら、余計変なことに巻き込まれそうなので」
「もう十分巻き込まれてるけどな」
「言わないでください!」
祈は玄関を開けた。
そして――固まった。
外にあるはずの通りがない。
真っ暗な路地。
雨。
その奥。
ぽつんと浮かぶ、
赤い傘。
「……っ!」
勢いよく戸を閉める。
「おかえり」
「笑わないでください!」
紫苑が外を確認する。
「まだ繋がってますね」
「何が?」
「怪異の道です」
祈は顔を引きつらせた。
「……私、帰れないんですか?」
「今夜はやめといたほうがええな」
「明日学校なんですけど!」
結局、祈は事務所で待つことになった。
遥は結界を張り直し、紫苑は資料を調べる。
深夜。
いつしか紫苑は机に伏して眠っていた。
遥は奥の部屋。
祈だけがソファで起きている。
窓を見る。
赤い傘は、もう見えない。
その時。
ジリリリリン――!
祈の肩が跳ねた。
黒電話。
まただ。
祈はゆっくり立ち上がる。
なぜだろう。
出なければ。
そんな感覚が頭の中へ入り込んでくる。
一歩。
また一歩。
「祈!」
遥の声。
振り返る。
「出るな!」
けれど。
祈の手はもう、受話器へ伸びていた。
ガチャ。
「……もしもし?」
無音。
ザー……。
雨のような雑音だけが聞こえる。
「誰……?」
やがて。
『……祈』
女の声。
祈の顔から血の気が引いた。
「どうして……私の名前……」
沈黙。
そして。
『見つけた』
ブツッ。
「……」
電話が切れた。
祈は受話器を握ったまま動けない。
「九条さん……」
遥が受話器を取り、静かに戻す。
「今の……あの女ですよね?」
「分からん」
「でも」
「分からんもんを決めつけるな」
紫苑が黒電話を見る。
「やはり電話線は繋がっていません」
祈は何も言えなかった。
その時。
遥の視線が床へ落ちた。
「……」
「九条さん?」
祈も見る。
玄関から、
濡れた裸足の足跡が続いていた。
一つ。
二つ。
三つ。
結界の内側へ。
そして足跡は、
札だらけの木箱の前で止まっている。
「……これ」
遥の顔から、笑みが消えた。
「入られた」
「え?」
遥が札を取り出す。
「祈」
低い声だった。
「俺から離れんな」
――コン。
木箱が鳴った。
三人の視線が集まる。
――コン。
もう一度。
内側から、
誰かが叩いている。
そして。
『……返して』
小さな女の声がした。
祈は息を呑む。
その言葉を、
知っている。
昨日。
赤い傘の女が、
祈へ向かって繰り返していた言葉。
――返して。
雨音だけが、
何事もなかったように京都の夜へ降り続いていた。



