――4月6日。
入学式には、行けなかった。
人っ子一人いない公園の、タコの滑り台の上で、ぼんやりと空を眺める。
真っ青な空を見つめているうちに、自分まで空に溶けていくような感覚に包まれ、気付けば木々のざわめきも、車の行き交う音も、遠くへ消えていった。
音のない世界の中で、俺は大きく息を吸う。
「――歩き出したら もう戻れない 目の前の青が僕を焦らせる――♪」
ブルースプリングというアーティストの、「青信号」という曲だ。
目の前に広がる真っ青な空を見て、ふとこの曲が頭に浮かんだ。
パチパチパチパチ。
突如、静寂を切り裂くように響いた拍手の音に、俺はハッと現実へと引き戻された。
滑り台の上から見下ろすと、そこには俺と同じ制服を着た男子生徒が立っていた。俺を見上げながら、拍手を送っている。
顔が燃えるように熱くなるのを感じた。
俺は急いでカバンを手に取り、滑り台を降りようとする。
しかしその男子生徒は俺を見上げたまま、小走りで駆け寄ってきた。
「『青信号』だよね?今歌ってたの!めっちゃ上手いね」
彼はキラキラした顔で言う。
そのまっすぐすぎるまなざしに、俺は少しだけ警戒モードを解いた。
「……どうも」
「同じ高校だよね。名前は?」
「青梅……」
「下の名前は?」
「……柚葵」
彼はパッと顔を輝かせる。その表情は、「ご飯」と言われて喜びを隠しきれない大型犬を彷彿とさせた。
「俺は四倉嵐。ねぇ、入学式、行かなくていいの?」
その問いに、俺は思わず黙り込む。
行かなくていいわけない。行かなくちゃいけない。そんなことは分かっている。
でも、どうしても俺の足が、脳が、心が、学校へ行くことを拒んだ。
その結果が今だ。
「そっち行っていい?」
そう言うと彼――四倉嵐は、俺の答えを聞くのを待たず、滑り台の上まで上がってきた。
そのまま俺の横に座る。
間近で見るその顔はとても整っていて、キュッと上がった口角からは、人の好さがにじみ出ていた。
けれど同時に、俺とは別世界の人間なのだとも思った。俺が教室の隅で一人寂しく読書しているタイプだとしたら、四倉はたくさんの友人に囲まれるクラスの人気者だろう。
「今頃もう、式始まってるかもね」
四倉の言葉に、俺は思わず腕時計をチラ見する。時刻は9時40分を指していた。
「入学早々出オチか~」
俺を追い詰めるような、デリカシーのない発言に、ズキンと胸が痛んだ。
「なんなんだこいつは」と思い、キッと四倉を睨みつける。
しかし、四倉の口から放たれたのは、予想外の言葉だった。
「まさか入学式の日に遅刻するとか、ついてないわ。まぁアラームかけ忘れた俺が悪いんだけど。でも母さんも、起こしてくれたってよくね?」
「……え?」
俺がそう返すのを聞き、四倉はハッとした顔になる。
「あ、ごめん、言いそびれてた。俺も、今日入学式。高校一年。これからよろしく」
そうだったのか。この時間に呑気に公園に寄り道しているから、てっきりサボり癖のある上級生なのかと思っていた。
「……行かなくていいの?入学式」
俺がそう聞くと、四倉は「そうだった!」と慌てた様子を見せた。
「今からなら間に合うかも!行こう!」
四倉が俺の腕をつかむ。
しかし俺が石のように動かないのを見て、四倉はきょとんとした顔を俺に向ける。
「……たくない」
「ん?」
「行きたくない」
そう口に出したところで、俺はふと我に返った。
初対面の人間に対し、つい本音を口にしてしまったことへの恥ずかしさが、じわじわ押し寄せてくる。
「な、なんでもない。入学式行くなら一人で行って」
「……じゃ、俺も行かなーい」
「え?」
四倉は俺の腕から手を離し、カバンをごそごそと漁り始める。そして中から立方体の物体を取り出した。
それは、袋に入った一斤の食パンだった。6枚切りと書いてある。
俺が目を丸くするのを横目に、四倉は袋を開けて食パンを一枚取り出す。
「朝ごはん食べそびれてさ。台所に置いてあったから、これごと持ってきた」
こ、これごと……?
漫画やドラマで主人公がトーストをくわえながら「遅刻遅刻~!」と走る場面を見たことがあるが、さすがに一斤まるまる持って学校への道を走るキャラクターを見たことはなかったので、俺は度肝を抜かれた。
そしてこの瞬間、「なるほど、この人は変な人だ」と俺の四倉への印象が確定した。
「食べる?」
四倉が食パンの袋を俺に差し出すが、俺はそれを断った。
「……ほんとに行かなくていいの?入学式」
俺の問いに、四倉は食パンをかじりながら頷く。
「いい。なんか、今から走って入学式向かうより、ここにいる方が有意義な気がしてきた」
やっぱり変な人だ。俺は自分の勘が正しかったことを確信した。
「じゃあ次は俺から質問。なんで行きたくないの?入学式」
四倉からの問いかけに、俺は黙り込む。
けれど、結局は沈黙に耐え切れず、少ししてから俺は口を開いた。
「中学時代色々あって。その時から、学校、あんま行けてなくて」
色々――。
別に、壮絶ないじめがあったわけではない。
誰かと喧嘩して気まずくなったとか、苦手な人がいたとか、勉強ができなさすぎて嫌になったとか、そんな具体的な理由もない。
ただ、居場所がなかった。
人見知りで、コミュニケーションをとることが苦手な俺は、中学一年の時から友達と言える友達ができたことがなかった。
最初の内は、周りが気を遣って話しかけてくれるが、俺が大人しい人間であると分かると、次第にその頻度が減っていく。
一度、頑張って話してみようと努力したことはあった。
でも、自信のなさが声に表れてしまったのか、俺の消え入りそうなほど小さな声は周りから「え?なんて?」と聞き返されることが多かった。
そのたびに俺はとてつもなく恥ずかしくなり、ますます自信を無くしていった。
そして決定的な不登校の引き金となったのは、中学三年の修学旅行の時。
友達のいない俺は、たいして仲良くもないグループに入れられた。
あの時の空気は忘れられない。五人の仲良しグループの中に、一人入れられた俺。
そしてメンバーは、そんな俺をいないもののように、盛り上がっている。
時折、ふと俺の存在に気付き、「あっ」と気まずそうな顔をする。
学校に俺の居場所はない。その時に確信した。
それ以降、俺は学校を休みがちになったのだった。
とはいえ、俺の中には「みんなと同じように、楽しく学生生活を送りたい」という思いもあった。
ある日の二者面談で、担任の先生から進路について尋ねられた。
先生は「通信制の高校に行くという進路もある」と言ってくれたが、俺の中には「自分を変えたい」という思いが芽生えていた。
だから俺は、全日制の学校を進路として選び、受験勉強に励んだ。ただ、不登校のままでは内申にひびくため、先生からの勧めで、保健室登校をすることになった。
こうして俺は、なんとか希望の高校に合格し、今日から晴れて高校生となる……はずだったのだ。
俺の話を、四倉は黙って聞いている。
きっと、見るからに陽キャな四倉にとっては、全く別世界の話で、イメージがわかないのだろう。それか、俺の話にドン引きしているだろうか。
俺はちらっと四倉の顔をうかがう。
すると、ちょうどそのタイミングで四倉と目が合った。
その目に宿った感情は、憐れみでも、軽蔑でもない。
彼の考えていることが分からずにいると、四倉はふっと俺に笑いかけた。
その優しい笑みに、俺は戸惑いのあまり思わず目を逸らす。
「すごいじゃん」
四倉から投げかけられた言葉の意味が分からず、俺は頭に疑問符を浮かべる。
「すごいって、何が」
「すごいよ。だって、辛い思いしてたのに、それでも頑張って高校受験してさ。それで今日、ちゃんと制服着て、ここまで来たじゃん」
「でも、結局入学式には……」
「ううん。ここまで来れたのがすごいと思う。マジですごい!」
褒めすぎでは……と、俺は目の前の四倉の反応に戸惑う。
「別に、俺がすごいわけじゃ……」
「ん?なんで?青梅はすごいよ」
「いや、じゃなくて。アドバイスくれたり、応援してくれた人がいたから頑張れたんだ」
「へぇ。家族とか?」
「家族もそうだけど。まぁ、その……」
「誰?え、まさか恋人!?」
「んなわけ!……全然、顔も知らない人、というか」
「ん?」
四倉が不思議そうな顔で言葉の続きを待つ。
俺は仕方なく、秘密を打ち明けることにした。
「俺、ネットで配信してて」
「……へぇ」
ぴんとこないのか、四倉の反応は薄かった。
「あの、配信サイトってのがあって、そこで配信してて。俺の配信をよく聞きに来てくれるリスナーさんたちが応援してくれたから、俺、高校受験頑張ろうって」
まずい、話しすぎた。
人とのコミュニケーションに慣れていない弊害で、ついいらんことまで話してしまう。
「じゃあ、青梅が前に進めたのは、そのリスナーさんのおかげなんだな」
しかし、俺の心配とは裏腹に、四倉は俺の話をすぐに受け入れてくれた。
「なぁ、もしかして、それって歌の配信?」
「あ、うん」
「そっか。やっぱそうなんだ」
「やっぱ?」
「あーいや。やっぱ、あれだけ歌上手いなら、歌配信とかやってるよなって」
俺は、先程四倉に歌を聞かれたことを思い出し、顔が熱くなる。
「いや、最初は聞く専門だったんだけど……好きな動画投稿者がいて。その人みたいに、俺もネットで活動してみたいって思っただけで」
俺は何故か、弁解するようにそう説明する。
「それで行動にうつせるのがすごいわ。ファンも、青梅の歌声が好きでいつも聴きに来てるんだろ?」
「別にファンなんていないよ」
「ん?でもリスナーさんがいるって」
「リスナーさんをファンだとは思ってない。むしろ、友達って感覚の方が近い。……顔も知らないけど」
「謙虚だねぇ」
四倉はそう言って、くすくすと笑う。また俺は、変な事を言ってしまっただろうか。
「じゃあさ、リスナーさんにいい報告してやらなきゃな」
「えっ」
「よっと」
四倉が立ち上がり、滑り台を滑り降りる。
そして滑り台の上で呆然としている俺を見上げると、「行こう」と言った。
「えっと……」
「入学式!もう終わってるかもしれないけど。でも別に終わっててもいいじゃん。大事なのは学校まで行くことだよ」
四倉はそう言って俺に笑いかける。その笑顔がたまらなく眩しかった。
「んで、一緒に先生に怒られよう!」
「……それは」
「んでんで、卒業の時にさ、『入学式の日、二人で遅刻して先生に怒られたよな』って笑い話にしよう!」
卒業の時だなんて、そんな先の未来を当たり前のように語る四倉の言葉が、俺の胸に深く響いた。
ついさっきまで、高校には結局行けないまま、退学することになるかもしれないとまで思っていた。でも四倉の中では、俺が卒業までの三年間を、当たり前のように過ごすことが決まっているのだ。
そのことが嬉しくて、胸の奥から熱い感情がこみあげてくる。そういえば、リスナーさんたちから高校受験を応援してもらった時にも、似た感情が湧き上がってきたっけ。
俺は滑り台を降りる。
すると四倉はもう一度「行こう!」と言い、俺の腕をつかんだ。
気付いたら俺は、四倉とともに走り出していた。
学校に到着した頃には、入学式は終わっており、新入生たちは既に下校していた。
俺と四倉は先生からこっぴどく叱られた……というほどではないが、しっかりと注意を受けた。
今までの俺だったら、明日以降、登校するのが嫌になっていただろう。
だけど、今は隣に四倉がいる。
そのことが心強くて、不思議とネガティブな気持ちは薄らいでいた。
「でも、まさか同じクラスなんて。こんな偶然ある?すごくない!?」
四倉が興奮気味に言う。
偶然にも、四倉とは同じクラスになった。このこともまた、俺に学校へ通う勇気を与えてくれた。
「じゃあ明日からよろしく。柚葵」
しれっと名前呼びをしてくる四倉に面くらいつつも、俺は「よろしく」と小さく返事をした。
*
その夜。
パソコンを起動した俺は、とある配信サイトにログインした。
画面に「柚」というハンドルネームが表示される。
俺は配信用のマイクをセッティングすると、配信開始ボタンを押した。
それから数秒ほどすると、コメントがぽつぽつと流れ始める。
『そら:いちばーん』
『ルル:やぁ』
『まめまめま:こんばんは~』
『食パン王子:こんばんは』
常連のリスナーさんたちのコメントを一通り読み上げたあと、俺は今日の出来事を報告した。
「今日入学式だったんだけど、結論から言うと、式には行けなかった」
『ルル: ズコーーーーc⌒っ゚Д゚)っ 』
『まめまめま:柚にはまだ早かったか……』
『そら:よしよし(´・ω・)ノ』
『食パン王子:あらら、ドンマイです』
ふと、リスナーの一人である「食パン王子さん」の名前を見て、俺は四倉のことを思い出した。
朝ごはんとして、食パン一斤まるまるカバンに入れてきた四倉。あの時の光景が頭に浮かび、つい思い出し笑いをしてしまう。
『ルル:なにわろてんねん』
ルルさんのコメントを受けて、俺は今日の出来事を説明した。
『食パン王子:柚さんに陽キャの友達が…!?』
『そら:良かったねぇ』
「別に友達ってわけじゃ……なんか、変な人だったし」
俺が思ったままの印象を口にすると、リスナーさんたちは『辛辣でワロタ』と口々にコメントした。
いつもと変わらないコメント欄に、俺は安心する。俺が俺らしくいられる場所は、配信だけだった。
配信なら、相手の顔が見えないぶん、気兼ねなく喋ることができる。そしてリスナーさんたちもみんないい人だ。
そらさんは、俺が配信を始めた当初からの長い付き合いで、俺の配信にはほぼ毎回顔を出してくれる。
ルルさんは、たまに容赦のないツッコミを入れてきたりもするが、それが面白くて今まで何度笑わされたことか。
まめまめまさんは、自身も歌が好きらしく、よく歌のアドバイスをくれる面倒見の良い人だ。
そして食パン王子さんは、ここ最近聞きに来てくれるようになった人で、とても礼儀正しい。
『そら:明日学校行ける?』
そらさんのコメントに、俺は「多分」と答えた。
はっきり「行ける」と答えられなかったのは、やはりまだ不安が残っていたからだ。
長い間、保健室登校をしており、同級生と関わる機会がほとんどなかった。そもそも、同級生たちのいる教室に入ること自体久しぶりだ。
四倉と一緒にいる時の心強さは、気付けばどんどんなくなっていた。
『まめまめま:頑張れ!ウチらがついてるよ』
『食パン王子:もし無理そうだったら、行ってすぐ帰ってくればいいと思いますよ』
『そら:いざとなったら陽キャくんを頼れ』
『ルル:柚をいじめるやつはワイがぶっとばす( ' ^'c彡☆))Д´) パーン』
リスナーさんたちのコメントに背中を押され、俺の中に再び勇気が湧いてくる。
「分かった、明日頑張るよ。みんなありがとう。じゃあ、今日も何曲か歌おっか」
コメント欄に、曲のリクエストが並ぶ。
リクエストされた曲を一曲ずつ歌いながら、ふと頭の中に今日の光景が浮かんだ。
面と向かって、歌を褒められたのは初めてだった。あの時の、四倉のキラキラした表情を思い出す。
気付けば、また四倉と会えるのを楽しみにしている自分がいた。
*
次の日。
俺は、不安のあまり鉛のように重くなった体と心にむちを打ち、ついに学校までやって来た。
下駄箱で上履きに履き替える。
周りの同級生たちは、皆知らない顔だ。おまけに、一部の生徒たちはすでに仲良くなっているようで、楽しそうに話をしている。
俺の中に少しばかり芽生えていた自信が、みるみる失われていくのを感じた。
それと同時に、心拍数ばかりがどんどん上がっていく。
もう帰ろうか。帰りたい。逃げたい。
そんな思いが頭をじわじわと侵食していった、その時。
「おはよ!」
後ろから声をかけられる。振り向くと、そこには四倉がいた。
「お、おはよ」
なんとか返事をするが、緊張のあまり喉が閉じており、その声が四倉に届いたかどうかは分からなかった。
「良かった、来てくれて」
四倉は昨日と同じ、キラキラした笑顔で言う。
それから俺は、四倉と共に教室へ向かった。
一年二組。俺がこれから一年間過ごすクラスだ。
四倉に続いて、教室に入る。
教室内には既に多くの生徒がおり、あちこちで楽しそうな会話が飛び交っていた。
高校生活二日目にして、既に打ち解けている様子のクラスメイトたちを見て、俺の中に「出遅れた」という焦燥感が広がる。
でも、大丈夫。隣にいる四倉も同じ立場だ。出遅れたのは俺だけじゃない。
「お!四倉じゃん、おはよう!」
不意に聞こえてきた知らない声に、俺の中に芽生えていた安心感がすっと消えていった。
「おはよー」
「昨日なんで来なかったんだよ」
「あはは、寝坊した」
目の前で、クラスメイトと当たり前のように会話を交わす四倉の姿を見て、俺は思わず立ち尽くした。
しかも四倉は、まるで以前からそうしていたかのように、自然な流れで三人の生徒たちの輪の中に入っていく。
その光景に、俺は心臓がぎゅっとわしづかみにされたような感覚を覚えた。
四倉を自分と同じ立場だなんて考えていた自分が馬鹿だった。
そうだ。四倉は俺とは住む世界が違う。
どうやら、四倉に声をかけてきた生徒は「遠藤」と言い、四倉と中学が一緒だったらしい。
しかし、残りの二人は四倉とは初対面のようだった。
それでも四倉は、まるで昔からの友人のように、二人とも楽しそうに会話を交わしている。
陽キャのコミュニケーション術を、俺はただぽかんと口を開けて見つめるしかできなかった。
その時。
「柚葵」
四倉の声で、俺は我に返る。
気付けば、四倉たち四人の視線が俺の方に向いていた。
その瞬間、心臓が急激に冷たくなる。人から注目されることには、どうしてもトラウマがあったからだ。修学旅行で、同じ班の人たちが俺に対し「あ、いたの?」とでもいうような目を向けてきた時のことを思い出す。
けれど、そんな俺の心情とは裏腹に、四倉は柔らかな笑みを浮かべ、俺を手招きした。
俺は棒のように固まった足をなんとか動かし、ロボットのような足取りで四倉の方へ向かう。
「友達?」
遠藤が、不思議そうな顔で四倉に問いかける。
それに対し、四倉は間髪入れずに頷き、「入学式サボり仲間の、青梅柚葵」と不名誉な称号と共に俺を紹介した。
「青梅、ね。よろしく!俺は遠藤。四倉とは中学が一緒だったんだ」
遠藤は爽やかな笑顔でそう自己紹介をした。中学時代は剣道部に所属していたらしく、高校でも剣道部に入る予定なのだという。
「俺は鵜ノ山。よろしく」
鵜ノ山と名乗る彼は、遠藤と出席番号が近かったことをきっかけに、仲良くなったらしい。落ち着いた雰囲気で、知的な印象を受ける。
「あっ俺は佐藤です!仲良くしよ~!」
そして佐藤は、遠藤の隣の席であり、こちらも席が近かったことがきっかけで仲良くなったとのことだった。
佐藤の声のデカさに驚いていると、鵜ノ山がすかさず「お前声量バグりすぎだろ」と突っ込みを入れた。
「てかお前ら、入学初日からサボり仲間の上に、席まで隣かよ。仲良すぎ」
「え?」「え?」
遠藤の言葉に、俺は四倉と同じタイミングで、同じ反応を返してしまう。
どうやら俺の席は遠藤の後ろ、四倉の席は佐藤の後ろらしい。
つまり、俺と四倉は偶然にも隣同士の席だった。
そして必然的に、遠藤、鵜ノ山、佐藤とも近い席になる。
「騒がしい席になりそ~」
「いや、騒がしいのは佐藤だけな」
「大丈夫。四倉も結構うるさい方」
「何も大丈夫じゃなさそうだけど」
皆がワイワイと盛り上がるのを、俺は不思議な心地で見ていた。
何故今俺は、この陽キャたちの輪の中にいるのだろう。
すると、肩をちょんちょん叩かれる。見ると、四倉が俺の方を見ていた。
「よろしく。お隣さん」
「あぁ。よろしく……」
「楽しくなりそうだな」
その言葉に、先程まで冷え切っていた心臓が徐々に熱を取り戻していくのを感じた。
四倉は俺の隣で、ニコニコしながら遠藤たちのやり取りを眺めている。
俺もつられるように、彼らに視線を移す。そして、柄にもなくワクワクしている自分がいることに気付いた。
一時間目から四時間目までの授業を終え、昼休みを迎える。
教室できちんと授業を受けるのは久しぶりだったが、昨日の緊張が嘘のように、俺の心は落ち着いていた。
それはきっと、彼らのおかげだ。俺はちらりと視線を四人へ向ける。
遠藤、鵜ノ山、佐藤、そして四倉は授業の合間の休憩時間の時にも、よく俺に話しかけてくれた。それは例えば、「腹減った」とか「歴史の先生絶対ヅラだよな」とか、他愛もない話だ。
そんなしてもしなくてもいいような話を、何でもないように俺へ投げかけてくれる彼らの優しさが、すごく嬉しかった。
今まで、俺に話しかけてくれる人がいたとしても、それは俺に気を遣ってのことだった。
一人でいる俺に気を遣い、話題を振ってくれる。でも、俺はそれに上手く返せず、皆少しずつ俺と距離を置くようになる。
俺に話しかけるクラスメイトたちの、どこか気まずそうな表情がずっと忘れられず、それが俺の中で一種のトラウマになっていた。
「ゆーずき!昼、一緒に食べるだろ?」
四倉の問いかけに、俺は一拍おいてから頷く。
彼らは、俺に対してもごく普通に接してくれる。
そのことに安堵する一方で、ふと「彼らがそんな態度をとってくれるのは、まだ会って日が浅いからではないか」というネガティブな思考が浮かんだ。
俺がつまらない人間だと知ったら、彼らも俺から離れていくんじゃないか。そんな不安が、脳裏をよぎった。
「柚葵の弁当うまそう!」
俺の心にかかっていた真っ黒なモヤを吹き飛ばすように、四倉が声を上げた。
気付けば、四倉は俺の弁当を覗き込んでいる。
今朝、母が作ってくれた弁当だ。
「ほんとだ。なぁ、青梅の唐揚げと、俺のハムキュウリ交換しようぜ」
「あ、うん、いいよ」
「いや待て待て!どう考えてもレート合ってないだろ。唐揚げと交換するならハムキュウリともう一品何かつけないとだろ」
「じゃあ、ウィンナーでどうだ」
「どう?青梅」
「何でもいいけど……」
レートってなんだ、と思いながら、俺は佐藤と具のトレードをした。
「いいなーそういうの。俺もやりたかった」
「四倉はパンだもんな」
見ると、四倉は総菜パンを机に並べている。
「食パンじゃないんだ」
無意識にそんなことを口走ってしまい、俺は慌てて口を押さえる。
しかし何気ない俺の一言は、遠藤たちの興味をひくには十分すぎたようだ。
「食パンって?」
「えっと、昨日の朝……あ、いや、何でもない」
四倉が口の前に人差し指を立て、それ以上話すなとジェスチャーを送っているのを見て、俺は咄嗟に言葉を切った。
しかし、遠藤たちの好奇心は、そんなことで収まるはずもない。
気付けば俺は、三人から質問攻めにされていた。
「青梅。何?食パンって」
「朝?四倉の朝飯が食パンだったってこと?」
「え、食パン一枚?随分質素だな」
「いや、そんな!一枚じゃなくて一斤だよ!」
俺は鵜ノ山の言葉に、ついそんな反論をしてしまう。
――しまった。
言わなくていいことまで、つい口を滑らせてしまった。
俺は心の中で、盛大に頭を抱える。
「一斤!?」
「一斤って何?」
「スーパーで売ってる袋の状態が一斤」
「え、あれ丸々!?」
「いや!流石にその時は全部は食べてなかったと思うけど……!」
いや、だから俺はさっきから何を言ってるんだ。もうしゃべるな俺……!
俺は後悔と申し訳なさで頭がくらくらしてくるのを感じた。
ごめん四倉、俺の口から余計なカミングアウトをしてしまって……。この先の高校生活、四倉がずっと食パンネタでいじられ続けてしまうかも、などと心の中で大反省会をする。
しかし、俺の心の声は、目の前から聞こえる笑い声でかき消された。
「高校初日の朝飯、食パン一斤はやばすぎ!」
「食パン一斤片手に登校する四倉想像したらシュールすぎて笑えるんだけど」
「もしやバターも持参?それともイチゴジャム?」
「バター塗ってる暇あるなら家で食ってこい」
三人が思い思いの突っ込みを入れながら、大爆笑する光景に、俺はただただ戸惑うことしかできなかった。
あぁ、俺のせいで四倉が笑いものに……ごめん四倉、本当にごめん。
すると、そんな俺の肩に、四倉がポンと手を置いた。
俺は慌てて四倉の顔を見る。
しかし俺の予想に反して、四倉の顔には笑いをこらえるような表情が浮かんでいた。
「えっ……」
「柚葵、多分俺のこと必死にフォローしてくれようとしたんだろうけど、全然フォローになってないから」
そしてこらえきれなくなったのか、四倉は笑い出す。
ど、どういう状況なんだ、これは。
「最高のネタさんきゅ、青梅」
「四倉のあだ名、今日から食パンマンな」
「食パン大好きな四倉のために今度食パンパーティしよう」
「別に特別好きなわけじゃねえよ!」
俺の話をきっかけに、みんなが異様なまでに盛り上がっている。
そんな経験が初めてだったので、俺は嬉しさよりも戸惑いの感情が勝ってしまった。
そして、俺が頭の中をぐちゃぐちゃにしながら混乱しているうちに、気付けば遠藤たちの会話は「部活見学」の話題へと移っていた。
俺はふと四倉に目線を向ける。
すると四倉は、俺の目線に気づいたのか、にやりとした笑みを浮かべてこちらを見た。
「やってくれたな」
遠藤たちに聞こえない小さな声で、四倉は言う。
「ほんとにごめん」
俺は慌てて四倉に謝った。
しかし、四倉はすぐに顔を綻ばせ、優しい笑みを浮かべる。
「うそうそ。全然いいよ。てか、こんな笑ったの久しぶりかも。いい鉄板ネタができたわ。柚葵も、ネタに困ったら今の話題ガンガン使って」
その言葉に、俺はほっと胸をなでおろす。
でも、果たしてそのネタを使う機会はあるのだろうか。
そんなことを考えながら、俺は食事を再開した。
学校が終わると、遠藤、鵜ノ山、佐藤は部活の見学へと向かった。皆、運動部に入る予定らしい。
一緒に行かないかと誘われたが、俺はそれを断った。元々運動が苦手なのもあるが、学校に来るだけで精一杯の俺が、部活動までこなす気力や体力があるとは思えなかったからだ。
それに加え、俺には放課後、やりたいことがあった。
俺は彼らの「また明日な」という声に応え、教室を出る。
しかしすぐに、「柚葵!」と呼び止められた。声の主は、四倉だった。
「一緒に帰ろう」
「え、部活は?」
「俺入んないし」
意外だな、と思った。偏見かもしれないが、四倉は背が高く、アクティブな印象があるので、てっきり運動部に入るものだとばかり思っていた。
「バイトすんの、俺」
あぁ、そういうことか。
うちの学校はバイトが自由なので、放課後の時間をバイトに使っている生徒が多いと聞く。
「欲しいものあってさ。それ買うお金貯めたくて」
「そうなんだ」
それから、俺は自然な流れで、四倉と一緒に下校することになった。
聞けば、昨日四倉と会ったあの公園のあたりまで、帰り道が一緒なのだという。
校門をくぐったところで、四倉が少し声のトーンを落として呟く。
「やっと二人になれた」
「え?」
四倉の意図が読めず、俺は困惑しながら四倉の顔を見る。
すると四倉と目が合い、その目がにっこりと細められた。
「歌のこと、あんまみんなに言わない方がいい?」
その言葉に、俺はドキッとする。そうだ。四倉には昨日、歌っているところを見られたのだ。
俺は配信をのぞいて、人前では歌ったことがない。それ以前に、歌が好きだということ自体、誰にも話したことがなかった。話すような友達がいないのだから、当然と言えば当然なのだが。
だからこそ、昨日会ったばかりの四倉に、そのことを知られたのは予想外のことであり、自分の中では気恥ずかしさのようなものが芽生えていた。
「あんま、言わないでほしいかも」
別に、秘密にしているわけではない。
それでも、もし軽々しく話してしまえば「歌ってみてよ」などと言われるかもしれない。
その時に、彼らの前で歌える自信が、今の俺にはなかった。
――それじゃ、ダメなのに。
俺が、夢を叶えるためには、そんなことを言っている場合ではないのに。
「おっけ。じゃあ、俺と柚葵だけの秘密ね」
そういえば、四倉は遠藤たちといる時、俺の歌の話を一度も話題に出さなかった。
例えば、例の食パン事件の時に、俺の話にのっかって「柚葵なんか誰もいない公園で歌ってたんだぜ」なんて切り出すこともできたはずだ。それなのに、四倉はそれをしなかった。きっと、俺のことを気遣って、意図的に話さないでいてくれたのだ。
「優しいね」
気付けば、そんな言葉が自然と口からこぼれていた。
「別に、普通じゃない?」
四倉は何でもないようにそう答えるが、何故だか、急に目が合わなくなる。
――あ、照れてる。
なんとなく、そんな気がした。
そんな四倉の様子を見て、不覚にも「可愛い」だなんて思ってしまい、俺は慌てて四倉から視線を外した。
「柚葵の歌、また聞きたいな」
四倉からそう言われ、俺は戸惑う。
「いや……こんな道端で歌うのは……」
「そっかぁ、残念。ところで、柚葵って普段どんな歌聞くの?好きなアーティストとかいる?」
「あー。特定のアーティストが好きってよりは、幅広く聞くかな。最近の曲も、昔の曲も」
「おすすめの曲とかある?」
俺は少し考えた末、以前好きな動画投稿者が歌っていて、好きになった曲を思い出す。
「青の計算式ってわかる?SORASHIROってバンドの」
「あー……、曲名だけ知ってるかも。どういう曲だっけ?確か、雨がなんたら……みたいな感じだよな?あぁ、待って、思い出せそうなんだけど……」
「……雨は灰色 そう言った君のキャンバスに 青い色を乗せていく ただ君の笑う顔が見たかった――♪」
しびれをきらした俺は、曲の冒頭部分を口ずさむ。
「それかー!」
「思い出した?」
「うん。てか、柚葵の歌聞けてラッキー」
「え、まさかわざと……!?」
まんまとやられた。こいつ、俺に歌わせるため、わざとそういう流れに持っていった?
「あと、冒頭部分の歌詞だったら“ただ君の笑う顔が見たかった”じゃなくて“ただ君の驚く顔が見たかった”だな」
「は!?俺より詳しいじゃん」
だ、騙された……。
目の前でどや顔をかます四倉を見て、俺は敗北感を味わった。
その後、俺たちは公園の前で別れた。
帰り際に四倉がかけてくれた「また明日」という言葉。
――明日なんて来なければいい。
中学時代は、ずっとそんなことばかり考えていた。
寝たらすぐに明日が来てしまう。だから、布団の中でずっと起きていたこともあった。
でも今は違う。
明日が早く来てほしい……とまではいかないが、少なくとも「明日」に対する苦手意識は、今の俺にはなかった。
それはきっと、四倉のおかげだ。
そういえば、あれだけ人と話すことに抵抗があった俺が、四倉の前では不思議と上手く話せているような気がする。配信で、リスナーさんたちを相手に話している時のように、リラックスして話すことができた。
それに歌だって、四倉の策略にハマった形ではあるが、人前で歌うことができた。
この調子なら、四倉以外の人の前でも歌えるかもしれない。
俺は頭の中に、たくさんの人の前で歌う自分の姿を思い描く。
そうだ。俺は、夢を叶えるんだ。
俺に生きる希望をくれたあの人と、一緒に歌うために――。
*
夕食後、俺はいつものように配信を開始する。
『そら:学校どうだったよ』
『まめまめま:友達出来た?』
俺は、今日あった出来事をリスナーさんたちに報告した。
『食パン王子:おお!良かったですね』
『ルル:柚が陽キャの仲間入り…だと…!?』
ネタっぽく茶化しつつも、皆、俺が高校生活で好スタートを切れたことを、祝福してくれているようだった。
『そら:その陽キャくん、どんな人なの?』
そらさんのコメントに、俺は「そうだなぁ」と一瞬頭を悩ませる。
四倉は明るくていつもニコニコした太陽みたいな人。ひとつひとつのリアクションが大きくて、感情が凄く分かりやすい。そして、凄く優しい人だと、今日改めて思った。
そこまで考えたところで、「知り合って間もない同級生の紹介」としてはあまりにも事細かすぎることに気付き、頭に浮かんでいた四倉の人物像を一旦振り払う。
そして俺は、コメント欄に並ぶ「食パン王子」という名前を見て、いいことを思いついた。
「その陽キャくんはね、朝ごはんに食パン一斤を持って登校する人」
*
高校生活が始まってから、五日が経った。俺は今のところ、一日も休まず登校できている。
「どうしよう数学全然ついていける気がしねぇ!」
「いやまだそこまで難しくないだろ」
「やばい!宿題忘れた!柚葵、うつさせて!」
「青梅、こいつを甘やかすな」
初めて彼らと話した日からまだ数日しか経っていないにもかかわらず、俺は気付けば彼らの輪の中に溶け込んでいた。
いや、違う。彼らが自然と、俺を輪の中に入れてくれているのだ。
そして彼らと一緒にいることで、他のクラスメイトの視線が気になることもない。
「寂しい」とか「惨めだ」なんて思う暇もないくらい、彼らはたくさん俺に話しかけてくれる。
そのことが、本当にありがたかった。
その中でも、輪をかけて話しかけてくれるのが、四倉だ。
それは、休み時間だけではない。授業中も、ふと視線を感じて横をちらりと見ると、四倉がこちらを見つめていることがある。
俺はそのたびに「前向け」と口パクで伝え、四倉は「はいはい」とでも言いたげな態度でそれに従う。
そんなやり取りを一体何度したことか。
気付けば俺は、四倉の取り扱いにも慣れてきていた。
それはいい意味で、四倉に気を遣わなくなってきた、ということだった。
放課後。
帰り支度をしながらふとスマホを見ると、一件の通知が目に留まった。それは、SNSのDMがきたことを知らせる通知だった。
普段、DMがくることなどめったにないので、俺は首を傾げる。
SNSアプリを開くと、送り主はリスナーのそらさんだった。
『急でごめん。今度、柚の地元らへんに行く用事ができて、良かったらカラオケでも行かない?』
オフ会に誘われるなんて初めてのことだった。DMを読みながら、俺の心臓はドキドキと高鳴っていた。
ネットの人と会うことに、正直抵抗はある。
相手の素性がわからないというのも勿論だが、それと同時に「会って失望されたらどうしよう」という不安もあったからだ。
配信ではすらすらと喋ることができるが、いざ面と向かって会った時に同じように話せる自信はない。
でも、そらさんは一番の古参リスナーだ。それに、いい人だということは間違いないと断言できる。
――初めて会うなら、そらさんがいいのかもしれない。
そう思った俺は、会う約束に応じることに決めた。
「柚葵、帰ろう」
DMへの返信を書き込んでいるところに、四倉が声をかけてくる。あの日以降、四倉とは毎日一緒に帰っていた。
「あー、うん。帰ろうか」
「急ぎの連絡?終わってからでいいよ」
「ごめん、じゃあちょっと待ってて」
俺はワクワクした気持ちを抑えられず、すぐにそらさんに返信を送った。
『ぜひお会いしましょう』
オフ会当日。
俺は一足先に、待ち合わせのカラオケ店の前で待っていた。
そらさんとは付き合いが長いわりに、どんな人なのかはっきりとはわかっていない。
年齢も、性別も、どんな仕事をしているのかも。
だからこそ、「どんな人が来るのだろう」と、そのワクワクや緊張が俺の心拍数を加速させていた。
「柚?」
不意に声をかけられ、俺は慌てて顔を上げる。
そこにいたのは、中年の男性だった。
年齢は40代くらいだろうか。父親よりは少し若く見えるが、はっきりした年齢を推測するのが難しかった。
俺は事前に頭の中で、勝手ながらそらさんの容姿を想像していた。
毎回欠かさず配信に来てくれるし、比較的時間に余裕がある大学生だろうか。もし女性だったら、会うのは緊張してしまうな……など、色々な可能性を考えていたが、正直なことをいうと、目の前のそらさんの姿は想定外だった。
しかし、そんな失礼な考えを俺はすぐに振り払う。
「そらさんですか?」
「うん。ごめんね待たせて」
年齢も容姿も関係ない、そらさんはそらさんだ。
そう自分に言い聞かせながら、俺たちはカラオケ店に入っていった。
「柚、なんか歌う?」
そらさんに問いかけられ、俺は手元の端末で曲を選ぶ。
「何か歌ってほしい曲とか、ありますか?」
「何でもいいよ」
俺は戸惑いつつも、歌いなれた曲を一曲目に選んだ。
イントロが流れ、マイクを持つ手に力が入る。
やがて、歌い出しの歌詞が画面に表示された。
――しかし、声が出ない。
喉の奥でつっかえたように、上手く声を出すことができなかった。
そしてそんな自分の声とは裏腹に、画面には次々と歌詞が表示され、曲がどんどん先へ進んでいく。
「大丈夫?」
そらさんが俺の異変に気付き、心配の声をかけてくれる。
「緊張してる?一旦曲切るね」
そう言うとそらさんは端末を操作し、曲を強制終了させた。
「す、すみません……」
「いいよいいよ。緊張がほぐれるまで話でもしよう。あ、そうだ。一緒に写真撮らない?」
そう言うとそらさんは、俺の隣まで移動してくる。
肩同士が密着する距離に戸惑いつつも、俺は流されるままに写真を撮った。
「ドリンクとってくるね」
そらさんがドリンクバーに向かったため、俺は大きなため息をつく。
そらさんの前ではこれまで幾度となく歌ってきた。だから、今日も大丈夫だと思っていた。
でも、画面を一枚挟んでいるかどうかで、こんなにも違う。
気付けば、マイクを握る手が震えていた。
こんなことじゃ、せっかく来てくれたそらさんに申し訳ない。
気持ちを切り替えようと、俺はカラオケルームの写真を撮影し、SNSに投稿した。
「そらさんとオフ会中」という文言を添えて。
「ネットの人と会うの初めて?」
ドリンクバーから戻ってきたそらさんに聞かれ、俺はコクリと頷く。
「そっか。じゃあ俺が初めてかぁ。なんか嬉しいな。俺のこと特別に思ってくれてるみたいで」
「そらさんは、初期の頃からずっと俺の配信を聞いてくれてるし、感謝してるので……」
俺は配信を始めたばかりの頃のことを思い出す。
あの時は、当時好きだった動画投稿者に影響され歌配信をはじめたものの、全く聞いてくれる人がおらず、誰もいないコメント欄を無言で眺めることしかできなかった。
そんな時に現れたのが、そらさんだった。
その際に、そらさんからリクエストされ、初めて歌ったのがブルースプリングの「青信号」。入学式の日、四倉と初めて会った時に、俺がタコの滑り台の上で歌った曲だ。
「あの、せっかく来たし、やっぱ俺なんか歌います」
「そう?おしゃべりするのも楽しいけど」
「いえ。あの、これ、懐かしくないですか?」
俺は端末で曲を選び、送信する。
画面に映ったのは「青信号」。俺にとっても、そらさんにとっても、思い出深い曲。
――のはずだった。
「へー、知らない曲。有名なの?」
俺はそらさんの言葉に、耳を疑う。
この曲は、そらさんが俺にリクエストしてくれた曲だ。知らないはずがない。それに、そらさんはいろいろなJ-POPに精通している。
仮に昔「青信号」をリクエストしてくれた、というのが俺の記憶違いだったとして、そもそもこんな有名な曲をそらさんが知らないなんてありえない。
既に曲は始まっていたが、俺は声が出なかった。
マイクを持ったまま固まる俺の視界の隅で、スマホの画面が光る。
SNSの通知が来たようだった。
見るとそこには「そらさんからの返信」という文字。
おかしい。目の前のそらさんは、スマホなんて触っていない。
俺は慌てて自分のスマホを手に取り、通知を確認する。
『俺オフ会なんて行ってないよ。どういうこと?』
先程の投稿に対する本物のそらさんからの返信。
待て、じゃあ、目の前にいるこのそらさんは……
いや、このおっさんは、誰だ。
「どうしたの、柚。やっぱり緊張してる?こっち来なよ」
おっさんが俺の肩を引き寄せる。
俺は抵抗しようとしたが、意思に反して体が思ったように動かない。
心臓がバクバクと音を立てる。おっさんの脂ぎった顔が、すぐ目の前にある。
怖い。助けて。誰か……、誰か……!!
「柚葵!!」
その時。俺の名前を呼ぶ声と同時に、部屋のドアが勢いよく開いた。
そこにいたのは、四倉だった。
「おっさん、そいつ嫌がってるよ」
四倉が低い声で言う。
太陽のような四倉には似つかわしくない、暗く、怒りのにじんだ声だった。
「な、なんだよ、お前。俺はこの子と一緒にカラオケに遊びに来ただけでっ……」
四倉の剣幕にひるんだのか、おっさんはおどおどしながら言い訳を並べる。
「そうなの?柚葵」
四倉が俺を見る。俺は涙目になりながら必死に首を横に振った。
「行こう」
四倉は俺の手をとると、強引におっさんから引きはがす。
そしてそのまま、俺を部屋の外に連れ出した。
後ろからおっさんが何かを言っているようだったが、店のBGMにかき消され、すぐ声は聞こえなくなった。
「大丈夫だった?変な事されてない?」
店を出ると、四倉は正面から俺の両肩をつかみ、心配そうに問いかけてきた。
「だ、大丈夫……でも、なんで四倉がここに?」
「あぁ。たまたまカラオケに来てて。そしたら、柚葵が変なおっさんに絡まれてるのが見えたから。つい……」
「そうだったんだ」
安堵のあまり、涙が出そうになるのを必死にこらえた。
すると、俺の手を四倉の手がそっと包み込む。
「もし……、もし、何か危ない目に遭いそうになったら、すぐ俺を呼んで」
「え?」
「柚葵、ああいう変な奴に狙われかねないくらい、かわ……」
四倉は急にハッとした顔をして、口をつぐむ。
しかし、少しだけ視線を泳がせたあと、再び俺の目をまっすぐ見て、言葉をつづけた。
「可愛いんだから」
まさか、その単語が自分に向けられているとは思わず、俺はぽかんとしながら四倉のことを見つめる。
すると四倉は「はぁ……」とため息をつきながら、顔を下に向けた。
「ごめん、変な事言って」
「い、いや、全然、あ、ありがとう」
この場合の返事は「ありがとう」で合っているのか?俺は自分のコミュニケーション能力の低さを呪った。
四倉と別れた後、俺は改めてSNSをチェックした。
そらさんから来たと思っていた、オフ会のお誘いのDM。
差し出し元のアカウントを確認すると、名前とアイコンはそらさんと全く同じだったが、実際はアカウントの中身が全くの別人だった。
つまり、別の人間が、わざとそらさんになりすまし、俺にDMを送ってきていたのだ。
来るもの拒まずの精神で、俺のアカウントは誰でもフォローし放題の状態になっていた。
知らない人からフォローが来ても、「配信を聞いてくれた人なのかな」と思い、軽い気持ちでフォローを返していた。
あのおっさんは、そんな名もなきリスナーの内の一人なのだろう。
俺は、本物のそらさんにDMを送る。
『すみません。俺が間抜けすぎて、騙されちゃいました。心配かけてごめんなさい』
すると、そらさんからすぐに返事が来た。
『柚が無事だったなら良かった。男子高校生を狙う変態も世の中にはたくさんいるんだから、気を付けなよ』
その言葉に俺はゾッとする。もしあの時、四倉が助けてくれなかったら、俺はどうなっていたのだろう。
『今後は気を付けます。今度そらさんからオフ会に誘われることがあったら、絶対本人かどうか確認します』
俺がそう送ると、少ししてそらさんから返信が来た。
『まあ俺は柚と会うことないだろうけどね』
その言葉に、俺は「そらさんらしい」と思った。
性別も年齢も職業も知らないそらさんと、リアルで会うなんて想像できない。
このままの関係が一番心地いいのかもしれない。
入学式には、行けなかった。
人っ子一人いない公園の、タコの滑り台の上で、ぼんやりと空を眺める。
真っ青な空を見つめているうちに、自分まで空に溶けていくような感覚に包まれ、気付けば木々のざわめきも、車の行き交う音も、遠くへ消えていった。
音のない世界の中で、俺は大きく息を吸う。
「――歩き出したら もう戻れない 目の前の青が僕を焦らせる――♪」
ブルースプリングというアーティストの、「青信号」という曲だ。
目の前に広がる真っ青な空を見て、ふとこの曲が頭に浮かんだ。
パチパチパチパチ。
突如、静寂を切り裂くように響いた拍手の音に、俺はハッと現実へと引き戻された。
滑り台の上から見下ろすと、そこには俺と同じ制服を着た男子生徒が立っていた。俺を見上げながら、拍手を送っている。
顔が燃えるように熱くなるのを感じた。
俺は急いでカバンを手に取り、滑り台を降りようとする。
しかしその男子生徒は俺を見上げたまま、小走りで駆け寄ってきた。
「『青信号』だよね?今歌ってたの!めっちゃ上手いね」
彼はキラキラした顔で言う。
そのまっすぐすぎるまなざしに、俺は少しだけ警戒モードを解いた。
「……どうも」
「同じ高校だよね。名前は?」
「青梅……」
「下の名前は?」
「……柚葵」
彼はパッと顔を輝かせる。その表情は、「ご飯」と言われて喜びを隠しきれない大型犬を彷彿とさせた。
「俺は四倉嵐。ねぇ、入学式、行かなくていいの?」
その問いに、俺は思わず黙り込む。
行かなくていいわけない。行かなくちゃいけない。そんなことは分かっている。
でも、どうしても俺の足が、脳が、心が、学校へ行くことを拒んだ。
その結果が今だ。
「そっち行っていい?」
そう言うと彼――四倉嵐は、俺の答えを聞くのを待たず、滑り台の上まで上がってきた。
そのまま俺の横に座る。
間近で見るその顔はとても整っていて、キュッと上がった口角からは、人の好さがにじみ出ていた。
けれど同時に、俺とは別世界の人間なのだとも思った。俺が教室の隅で一人寂しく読書しているタイプだとしたら、四倉はたくさんの友人に囲まれるクラスの人気者だろう。
「今頃もう、式始まってるかもね」
四倉の言葉に、俺は思わず腕時計をチラ見する。時刻は9時40分を指していた。
「入学早々出オチか~」
俺を追い詰めるような、デリカシーのない発言に、ズキンと胸が痛んだ。
「なんなんだこいつは」と思い、キッと四倉を睨みつける。
しかし、四倉の口から放たれたのは、予想外の言葉だった。
「まさか入学式の日に遅刻するとか、ついてないわ。まぁアラームかけ忘れた俺が悪いんだけど。でも母さんも、起こしてくれたってよくね?」
「……え?」
俺がそう返すのを聞き、四倉はハッとした顔になる。
「あ、ごめん、言いそびれてた。俺も、今日入学式。高校一年。これからよろしく」
そうだったのか。この時間に呑気に公園に寄り道しているから、てっきりサボり癖のある上級生なのかと思っていた。
「……行かなくていいの?入学式」
俺がそう聞くと、四倉は「そうだった!」と慌てた様子を見せた。
「今からなら間に合うかも!行こう!」
四倉が俺の腕をつかむ。
しかし俺が石のように動かないのを見て、四倉はきょとんとした顔を俺に向ける。
「……たくない」
「ん?」
「行きたくない」
そう口に出したところで、俺はふと我に返った。
初対面の人間に対し、つい本音を口にしてしまったことへの恥ずかしさが、じわじわ押し寄せてくる。
「な、なんでもない。入学式行くなら一人で行って」
「……じゃ、俺も行かなーい」
「え?」
四倉は俺の腕から手を離し、カバンをごそごそと漁り始める。そして中から立方体の物体を取り出した。
それは、袋に入った一斤の食パンだった。6枚切りと書いてある。
俺が目を丸くするのを横目に、四倉は袋を開けて食パンを一枚取り出す。
「朝ごはん食べそびれてさ。台所に置いてあったから、これごと持ってきた」
こ、これごと……?
漫画やドラマで主人公がトーストをくわえながら「遅刻遅刻~!」と走る場面を見たことがあるが、さすがに一斤まるまる持って学校への道を走るキャラクターを見たことはなかったので、俺は度肝を抜かれた。
そしてこの瞬間、「なるほど、この人は変な人だ」と俺の四倉への印象が確定した。
「食べる?」
四倉が食パンの袋を俺に差し出すが、俺はそれを断った。
「……ほんとに行かなくていいの?入学式」
俺の問いに、四倉は食パンをかじりながら頷く。
「いい。なんか、今から走って入学式向かうより、ここにいる方が有意義な気がしてきた」
やっぱり変な人だ。俺は自分の勘が正しかったことを確信した。
「じゃあ次は俺から質問。なんで行きたくないの?入学式」
四倉からの問いかけに、俺は黙り込む。
けれど、結局は沈黙に耐え切れず、少ししてから俺は口を開いた。
「中学時代色々あって。その時から、学校、あんま行けてなくて」
色々――。
別に、壮絶ないじめがあったわけではない。
誰かと喧嘩して気まずくなったとか、苦手な人がいたとか、勉強ができなさすぎて嫌になったとか、そんな具体的な理由もない。
ただ、居場所がなかった。
人見知りで、コミュニケーションをとることが苦手な俺は、中学一年の時から友達と言える友達ができたことがなかった。
最初の内は、周りが気を遣って話しかけてくれるが、俺が大人しい人間であると分かると、次第にその頻度が減っていく。
一度、頑張って話してみようと努力したことはあった。
でも、自信のなさが声に表れてしまったのか、俺の消え入りそうなほど小さな声は周りから「え?なんて?」と聞き返されることが多かった。
そのたびに俺はとてつもなく恥ずかしくなり、ますます自信を無くしていった。
そして決定的な不登校の引き金となったのは、中学三年の修学旅行の時。
友達のいない俺は、たいして仲良くもないグループに入れられた。
あの時の空気は忘れられない。五人の仲良しグループの中に、一人入れられた俺。
そしてメンバーは、そんな俺をいないもののように、盛り上がっている。
時折、ふと俺の存在に気付き、「あっ」と気まずそうな顔をする。
学校に俺の居場所はない。その時に確信した。
それ以降、俺は学校を休みがちになったのだった。
とはいえ、俺の中には「みんなと同じように、楽しく学生生活を送りたい」という思いもあった。
ある日の二者面談で、担任の先生から進路について尋ねられた。
先生は「通信制の高校に行くという進路もある」と言ってくれたが、俺の中には「自分を変えたい」という思いが芽生えていた。
だから俺は、全日制の学校を進路として選び、受験勉強に励んだ。ただ、不登校のままでは内申にひびくため、先生からの勧めで、保健室登校をすることになった。
こうして俺は、なんとか希望の高校に合格し、今日から晴れて高校生となる……はずだったのだ。
俺の話を、四倉は黙って聞いている。
きっと、見るからに陽キャな四倉にとっては、全く別世界の話で、イメージがわかないのだろう。それか、俺の話にドン引きしているだろうか。
俺はちらっと四倉の顔をうかがう。
すると、ちょうどそのタイミングで四倉と目が合った。
その目に宿った感情は、憐れみでも、軽蔑でもない。
彼の考えていることが分からずにいると、四倉はふっと俺に笑いかけた。
その優しい笑みに、俺は戸惑いのあまり思わず目を逸らす。
「すごいじゃん」
四倉から投げかけられた言葉の意味が分からず、俺は頭に疑問符を浮かべる。
「すごいって、何が」
「すごいよ。だって、辛い思いしてたのに、それでも頑張って高校受験してさ。それで今日、ちゃんと制服着て、ここまで来たじゃん」
「でも、結局入学式には……」
「ううん。ここまで来れたのがすごいと思う。マジですごい!」
褒めすぎでは……と、俺は目の前の四倉の反応に戸惑う。
「別に、俺がすごいわけじゃ……」
「ん?なんで?青梅はすごいよ」
「いや、じゃなくて。アドバイスくれたり、応援してくれた人がいたから頑張れたんだ」
「へぇ。家族とか?」
「家族もそうだけど。まぁ、その……」
「誰?え、まさか恋人!?」
「んなわけ!……全然、顔も知らない人、というか」
「ん?」
四倉が不思議そうな顔で言葉の続きを待つ。
俺は仕方なく、秘密を打ち明けることにした。
「俺、ネットで配信してて」
「……へぇ」
ぴんとこないのか、四倉の反応は薄かった。
「あの、配信サイトってのがあって、そこで配信してて。俺の配信をよく聞きに来てくれるリスナーさんたちが応援してくれたから、俺、高校受験頑張ろうって」
まずい、話しすぎた。
人とのコミュニケーションに慣れていない弊害で、ついいらんことまで話してしまう。
「じゃあ、青梅が前に進めたのは、そのリスナーさんのおかげなんだな」
しかし、俺の心配とは裏腹に、四倉は俺の話をすぐに受け入れてくれた。
「なぁ、もしかして、それって歌の配信?」
「あ、うん」
「そっか。やっぱそうなんだ」
「やっぱ?」
「あーいや。やっぱ、あれだけ歌上手いなら、歌配信とかやってるよなって」
俺は、先程四倉に歌を聞かれたことを思い出し、顔が熱くなる。
「いや、最初は聞く専門だったんだけど……好きな動画投稿者がいて。その人みたいに、俺もネットで活動してみたいって思っただけで」
俺は何故か、弁解するようにそう説明する。
「それで行動にうつせるのがすごいわ。ファンも、青梅の歌声が好きでいつも聴きに来てるんだろ?」
「別にファンなんていないよ」
「ん?でもリスナーさんがいるって」
「リスナーさんをファンだとは思ってない。むしろ、友達って感覚の方が近い。……顔も知らないけど」
「謙虚だねぇ」
四倉はそう言って、くすくすと笑う。また俺は、変な事を言ってしまっただろうか。
「じゃあさ、リスナーさんにいい報告してやらなきゃな」
「えっ」
「よっと」
四倉が立ち上がり、滑り台を滑り降りる。
そして滑り台の上で呆然としている俺を見上げると、「行こう」と言った。
「えっと……」
「入学式!もう終わってるかもしれないけど。でも別に終わっててもいいじゃん。大事なのは学校まで行くことだよ」
四倉はそう言って俺に笑いかける。その笑顔がたまらなく眩しかった。
「んで、一緒に先生に怒られよう!」
「……それは」
「んでんで、卒業の時にさ、『入学式の日、二人で遅刻して先生に怒られたよな』って笑い話にしよう!」
卒業の時だなんて、そんな先の未来を当たり前のように語る四倉の言葉が、俺の胸に深く響いた。
ついさっきまで、高校には結局行けないまま、退学することになるかもしれないとまで思っていた。でも四倉の中では、俺が卒業までの三年間を、当たり前のように過ごすことが決まっているのだ。
そのことが嬉しくて、胸の奥から熱い感情がこみあげてくる。そういえば、リスナーさんたちから高校受験を応援してもらった時にも、似た感情が湧き上がってきたっけ。
俺は滑り台を降りる。
すると四倉はもう一度「行こう!」と言い、俺の腕をつかんだ。
気付いたら俺は、四倉とともに走り出していた。
学校に到着した頃には、入学式は終わっており、新入生たちは既に下校していた。
俺と四倉は先生からこっぴどく叱られた……というほどではないが、しっかりと注意を受けた。
今までの俺だったら、明日以降、登校するのが嫌になっていただろう。
だけど、今は隣に四倉がいる。
そのことが心強くて、不思議とネガティブな気持ちは薄らいでいた。
「でも、まさか同じクラスなんて。こんな偶然ある?すごくない!?」
四倉が興奮気味に言う。
偶然にも、四倉とは同じクラスになった。このこともまた、俺に学校へ通う勇気を与えてくれた。
「じゃあ明日からよろしく。柚葵」
しれっと名前呼びをしてくる四倉に面くらいつつも、俺は「よろしく」と小さく返事をした。
*
その夜。
パソコンを起動した俺は、とある配信サイトにログインした。
画面に「柚」というハンドルネームが表示される。
俺は配信用のマイクをセッティングすると、配信開始ボタンを押した。
それから数秒ほどすると、コメントがぽつぽつと流れ始める。
『そら:いちばーん』
『ルル:やぁ』
『まめまめま:こんばんは~』
『食パン王子:こんばんは』
常連のリスナーさんたちのコメントを一通り読み上げたあと、俺は今日の出来事を報告した。
「今日入学式だったんだけど、結論から言うと、式には行けなかった」
『ルル: ズコーーーーc⌒っ゚Д゚)っ 』
『まめまめま:柚にはまだ早かったか……』
『そら:よしよし(´・ω・)ノ』
『食パン王子:あらら、ドンマイです』
ふと、リスナーの一人である「食パン王子さん」の名前を見て、俺は四倉のことを思い出した。
朝ごはんとして、食パン一斤まるまるカバンに入れてきた四倉。あの時の光景が頭に浮かび、つい思い出し笑いをしてしまう。
『ルル:なにわろてんねん』
ルルさんのコメントを受けて、俺は今日の出来事を説明した。
『食パン王子:柚さんに陽キャの友達が…!?』
『そら:良かったねぇ』
「別に友達ってわけじゃ……なんか、変な人だったし」
俺が思ったままの印象を口にすると、リスナーさんたちは『辛辣でワロタ』と口々にコメントした。
いつもと変わらないコメント欄に、俺は安心する。俺が俺らしくいられる場所は、配信だけだった。
配信なら、相手の顔が見えないぶん、気兼ねなく喋ることができる。そしてリスナーさんたちもみんないい人だ。
そらさんは、俺が配信を始めた当初からの長い付き合いで、俺の配信にはほぼ毎回顔を出してくれる。
ルルさんは、たまに容赦のないツッコミを入れてきたりもするが、それが面白くて今まで何度笑わされたことか。
まめまめまさんは、自身も歌が好きらしく、よく歌のアドバイスをくれる面倒見の良い人だ。
そして食パン王子さんは、ここ最近聞きに来てくれるようになった人で、とても礼儀正しい。
『そら:明日学校行ける?』
そらさんのコメントに、俺は「多分」と答えた。
はっきり「行ける」と答えられなかったのは、やはりまだ不安が残っていたからだ。
長い間、保健室登校をしており、同級生と関わる機会がほとんどなかった。そもそも、同級生たちのいる教室に入ること自体久しぶりだ。
四倉と一緒にいる時の心強さは、気付けばどんどんなくなっていた。
『まめまめま:頑張れ!ウチらがついてるよ』
『食パン王子:もし無理そうだったら、行ってすぐ帰ってくればいいと思いますよ』
『そら:いざとなったら陽キャくんを頼れ』
『ルル:柚をいじめるやつはワイがぶっとばす( ' ^'c彡☆))Д´) パーン』
リスナーさんたちのコメントに背中を押され、俺の中に再び勇気が湧いてくる。
「分かった、明日頑張るよ。みんなありがとう。じゃあ、今日も何曲か歌おっか」
コメント欄に、曲のリクエストが並ぶ。
リクエストされた曲を一曲ずつ歌いながら、ふと頭の中に今日の光景が浮かんだ。
面と向かって、歌を褒められたのは初めてだった。あの時の、四倉のキラキラした表情を思い出す。
気付けば、また四倉と会えるのを楽しみにしている自分がいた。
*
次の日。
俺は、不安のあまり鉛のように重くなった体と心にむちを打ち、ついに学校までやって来た。
下駄箱で上履きに履き替える。
周りの同級生たちは、皆知らない顔だ。おまけに、一部の生徒たちはすでに仲良くなっているようで、楽しそうに話をしている。
俺の中に少しばかり芽生えていた自信が、みるみる失われていくのを感じた。
それと同時に、心拍数ばかりがどんどん上がっていく。
もう帰ろうか。帰りたい。逃げたい。
そんな思いが頭をじわじわと侵食していった、その時。
「おはよ!」
後ろから声をかけられる。振り向くと、そこには四倉がいた。
「お、おはよ」
なんとか返事をするが、緊張のあまり喉が閉じており、その声が四倉に届いたかどうかは分からなかった。
「良かった、来てくれて」
四倉は昨日と同じ、キラキラした笑顔で言う。
それから俺は、四倉と共に教室へ向かった。
一年二組。俺がこれから一年間過ごすクラスだ。
四倉に続いて、教室に入る。
教室内には既に多くの生徒がおり、あちこちで楽しそうな会話が飛び交っていた。
高校生活二日目にして、既に打ち解けている様子のクラスメイトたちを見て、俺の中に「出遅れた」という焦燥感が広がる。
でも、大丈夫。隣にいる四倉も同じ立場だ。出遅れたのは俺だけじゃない。
「お!四倉じゃん、おはよう!」
不意に聞こえてきた知らない声に、俺の中に芽生えていた安心感がすっと消えていった。
「おはよー」
「昨日なんで来なかったんだよ」
「あはは、寝坊した」
目の前で、クラスメイトと当たり前のように会話を交わす四倉の姿を見て、俺は思わず立ち尽くした。
しかも四倉は、まるで以前からそうしていたかのように、自然な流れで三人の生徒たちの輪の中に入っていく。
その光景に、俺は心臓がぎゅっとわしづかみにされたような感覚を覚えた。
四倉を自分と同じ立場だなんて考えていた自分が馬鹿だった。
そうだ。四倉は俺とは住む世界が違う。
どうやら、四倉に声をかけてきた生徒は「遠藤」と言い、四倉と中学が一緒だったらしい。
しかし、残りの二人は四倉とは初対面のようだった。
それでも四倉は、まるで昔からの友人のように、二人とも楽しそうに会話を交わしている。
陽キャのコミュニケーション術を、俺はただぽかんと口を開けて見つめるしかできなかった。
その時。
「柚葵」
四倉の声で、俺は我に返る。
気付けば、四倉たち四人の視線が俺の方に向いていた。
その瞬間、心臓が急激に冷たくなる。人から注目されることには、どうしてもトラウマがあったからだ。修学旅行で、同じ班の人たちが俺に対し「あ、いたの?」とでもいうような目を向けてきた時のことを思い出す。
けれど、そんな俺の心情とは裏腹に、四倉は柔らかな笑みを浮かべ、俺を手招きした。
俺は棒のように固まった足をなんとか動かし、ロボットのような足取りで四倉の方へ向かう。
「友達?」
遠藤が、不思議そうな顔で四倉に問いかける。
それに対し、四倉は間髪入れずに頷き、「入学式サボり仲間の、青梅柚葵」と不名誉な称号と共に俺を紹介した。
「青梅、ね。よろしく!俺は遠藤。四倉とは中学が一緒だったんだ」
遠藤は爽やかな笑顔でそう自己紹介をした。中学時代は剣道部に所属していたらしく、高校でも剣道部に入る予定なのだという。
「俺は鵜ノ山。よろしく」
鵜ノ山と名乗る彼は、遠藤と出席番号が近かったことをきっかけに、仲良くなったらしい。落ち着いた雰囲気で、知的な印象を受ける。
「あっ俺は佐藤です!仲良くしよ~!」
そして佐藤は、遠藤の隣の席であり、こちらも席が近かったことがきっかけで仲良くなったとのことだった。
佐藤の声のデカさに驚いていると、鵜ノ山がすかさず「お前声量バグりすぎだろ」と突っ込みを入れた。
「てかお前ら、入学初日からサボり仲間の上に、席まで隣かよ。仲良すぎ」
「え?」「え?」
遠藤の言葉に、俺は四倉と同じタイミングで、同じ反応を返してしまう。
どうやら俺の席は遠藤の後ろ、四倉の席は佐藤の後ろらしい。
つまり、俺と四倉は偶然にも隣同士の席だった。
そして必然的に、遠藤、鵜ノ山、佐藤とも近い席になる。
「騒がしい席になりそ~」
「いや、騒がしいのは佐藤だけな」
「大丈夫。四倉も結構うるさい方」
「何も大丈夫じゃなさそうだけど」
皆がワイワイと盛り上がるのを、俺は不思議な心地で見ていた。
何故今俺は、この陽キャたちの輪の中にいるのだろう。
すると、肩をちょんちょん叩かれる。見ると、四倉が俺の方を見ていた。
「よろしく。お隣さん」
「あぁ。よろしく……」
「楽しくなりそうだな」
その言葉に、先程まで冷え切っていた心臓が徐々に熱を取り戻していくのを感じた。
四倉は俺の隣で、ニコニコしながら遠藤たちのやり取りを眺めている。
俺もつられるように、彼らに視線を移す。そして、柄にもなくワクワクしている自分がいることに気付いた。
一時間目から四時間目までの授業を終え、昼休みを迎える。
教室できちんと授業を受けるのは久しぶりだったが、昨日の緊張が嘘のように、俺の心は落ち着いていた。
それはきっと、彼らのおかげだ。俺はちらりと視線を四人へ向ける。
遠藤、鵜ノ山、佐藤、そして四倉は授業の合間の休憩時間の時にも、よく俺に話しかけてくれた。それは例えば、「腹減った」とか「歴史の先生絶対ヅラだよな」とか、他愛もない話だ。
そんなしてもしなくてもいいような話を、何でもないように俺へ投げかけてくれる彼らの優しさが、すごく嬉しかった。
今まで、俺に話しかけてくれる人がいたとしても、それは俺に気を遣ってのことだった。
一人でいる俺に気を遣い、話題を振ってくれる。でも、俺はそれに上手く返せず、皆少しずつ俺と距離を置くようになる。
俺に話しかけるクラスメイトたちの、どこか気まずそうな表情がずっと忘れられず、それが俺の中で一種のトラウマになっていた。
「ゆーずき!昼、一緒に食べるだろ?」
四倉の問いかけに、俺は一拍おいてから頷く。
彼らは、俺に対してもごく普通に接してくれる。
そのことに安堵する一方で、ふと「彼らがそんな態度をとってくれるのは、まだ会って日が浅いからではないか」というネガティブな思考が浮かんだ。
俺がつまらない人間だと知ったら、彼らも俺から離れていくんじゃないか。そんな不安が、脳裏をよぎった。
「柚葵の弁当うまそう!」
俺の心にかかっていた真っ黒なモヤを吹き飛ばすように、四倉が声を上げた。
気付けば、四倉は俺の弁当を覗き込んでいる。
今朝、母が作ってくれた弁当だ。
「ほんとだ。なぁ、青梅の唐揚げと、俺のハムキュウリ交換しようぜ」
「あ、うん、いいよ」
「いや待て待て!どう考えてもレート合ってないだろ。唐揚げと交換するならハムキュウリともう一品何かつけないとだろ」
「じゃあ、ウィンナーでどうだ」
「どう?青梅」
「何でもいいけど……」
レートってなんだ、と思いながら、俺は佐藤と具のトレードをした。
「いいなーそういうの。俺もやりたかった」
「四倉はパンだもんな」
見ると、四倉は総菜パンを机に並べている。
「食パンじゃないんだ」
無意識にそんなことを口走ってしまい、俺は慌てて口を押さえる。
しかし何気ない俺の一言は、遠藤たちの興味をひくには十分すぎたようだ。
「食パンって?」
「えっと、昨日の朝……あ、いや、何でもない」
四倉が口の前に人差し指を立て、それ以上話すなとジェスチャーを送っているのを見て、俺は咄嗟に言葉を切った。
しかし、遠藤たちの好奇心は、そんなことで収まるはずもない。
気付けば俺は、三人から質問攻めにされていた。
「青梅。何?食パンって」
「朝?四倉の朝飯が食パンだったってこと?」
「え、食パン一枚?随分質素だな」
「いや、そんな!一枚じゃなくて一斤だよ!」
俺は鵜ノ山の言葉に、ついそんな反論をしてしまう。
――しまった。
言わなくていいことまで、つい口を滑らせてしまった。
俺は心の中で、盛大に頭を抱える。
「一斤!?」
「一斤って何?」
「スーパーで売ってる袋の状態が一斤」
「え、あれ丸々!?」
「いや!流石にその時は全部は食べてなかったと思うけど……!」
いや、だから俺はさっきから何を言ってるんだ。もうしゃべるな俺……!
俺は後悔と申し訳なさで頭がくらくらしてくるのを感じた。
ごめん四倉、俺の口から余計なカミングアウトをしてしまって……。この先の高校生活、四倉がずっと食パンネタでいじられ続けてしまうかも、などと心の中で大反省会をする。
しかし、俺の心の声は、目の前から聞こえる笑い声でかき消された。
「高校初日の朝飯、食パン一斤はやばすぎ!」
「食パン一斤片手に登校する四倉想像したらシュールすぎて笑えるんだけど」
「もしやバターも持参?それともイチゴジャム?」
「バター塗ってる暇あるなら家で食ってこい」
三人が思い思いの突っ込みを入れながら、大爆笑する光景に、俺はただただ戸惑うことしかできなかった。
あぁ、俺のせいで四倉が笑いものに……ごめん四倉、本当にごめん。
すると、そんな俺の肩に、四倉がポンと手を置いた。
俺は慌てて四倉の顔を見る。
しかし俺の予想に反して、四倉の顔には笑いをこらえるような表情が浮かんでいた。
「えっ……」
「柚葵、多分俺のこと必死にフォローしてくれようとしたんだろうけど、全然フォローになってないから」
そしてこらえきれなくなったのか、四倉は笑い出す。
ど、どういう状況なんだ、これは。
「最高のネタさんきゅ、青梅」
「四倉のあだ名、今日から食パンマンな」
「食パン大好きな四倉のために今度食パンパーティしよう」
「別に特別好きなわけじゃねえよ!」
俺の話をきっかけに、みんなが異様なまでに盛り上がっている。
そんな経験が初めてだったので、俺は嬉しさよりも戸惑いの感情が勝ってしまった。
そして、俺が頭の中をぐちゃぐちゃにしながら混乱しているうちに、気付けば遠藤たちの会話は「部活見学」の話題へと移っていた。
俺はふと四倉に目線を向ける。
すると四倉は、俺の目線に気づいたのか、にやりとした笑みを浮かべてこちらを見た。
「やってくれたな」
遠藤たちに聞こえない小さな声で、四倉は言う。
「ほんとにごめん」
俺は慌てて四倉に謝った。
しかし、四倉はすぐに顔を綻ばせ、優しい笑みを浮かべる。
「うそうそ。全然いいよ。てか、こんな笑ったの久しぶりかも。いい鉄板ネタができたわ。柚葵も、ネタに困ったら今の話題ガンガン使って」
その言葉に、俺はほっと胸をなでおろす。
でも、果たしてそのネタを使う機会はあるのだろうか。
そんなことを考えながら、俺は食事を再開した。
学校が終わると、遠藤、鵜ノ山、佐藤は部活の見学へと向かった。皆、運動部に入る予定らしい。
一緒に行かないかと誘われたが、俺はそれを断った。元々運動が苦手なのもあるが、学校に来るだけで精一杯の俺が、部活動までこなす気力や体力があるとは思えなかったからだ。
それに加え、俺には放課後、やりたいことがあった。
俺は彼らの「また明日な」という声に応え、教室を出る。
しかしすぐに、「柚葵!」と呼び止められた。声の主は、四倉だった。
「一緒に帰ろう」
「え、部活は?」
「俺入んないし」
意外だな、と思った。偏見かもしれないが、四倉は背が高く、アクティブな印象があるので、てっきり運動部に入るものだとばかり思っていた。
「バイトすんの、俺」
あぁ、そういうことか。
うちの学校はバイトが自由なので、放課後の時間をバイトに使っている生徒が多いと聞く。
「欲しいものあってさ。それ買うお金貯めたくて」
「そうなんだ」
それから、俺は自然な流れで、四倉と一緒に下校することになった。
聞けば、昨日四倉と会ったあの公園のあたりまで、帰り道が一緒なのだという。
校門をくぐったところで、四倉が少し声のトーンを落として呟く。
「やっと二人になれた」
「え?」
四倉の意図が読めず、俺は困惑しながら四倉の顔を見る。
すると四倉と目が合い、その目がにっこりと細められた。
「歌のこと、あんまみんなに言わない方がいい?」
その言葉に、俺はドキッとする。そうだ。四倉には昨日、歌っているところを見られたのだ。
俺は配信をのぞいて、人前では歌ったことがない。それ以前に、歌が好きだということ自体、誰にも話したことがなかった。話すような友達がいないのだから、当然と言えば当然なのだが。
だからこそ、昨日会ったばかりの四倉に、そのことを知られたのは予想外のことであり、自分の中では気恥ずかしさのようなものが芽生えていた。
「あんま、言わないでほしいかも」
別に、秘密にしているわけではない。
それでも、もし軽々しく話してしまえば「歌ってみてよ」などと言われるかもしれない。
その時に、彼らの前で歌える自信が、今の俺にはなかった。
――それじゃ、ダメなのに。
俺が、夢を叶えるためには、そんなことを言っている場合ではないのに。
「おっけ。じゃあ、俺と柚葵だけの秘密ね」
そういえば、四倉は遠藤たちといる時、俺の歌の話を一度も話題に出さなかった。
例えば、例の食パン事件の時に、俺の話にのっかって「柚葵なんか誰もいない公園で歌ってたんだぜ」なんて切り出すこともできたはずだ。それなのに、四倉はそれをしなかった。きっと、俺のことを気遣って、意図的に話さないでいてくれたのだ。
「優しいね」
気付けば、そんな言葉が自然と口からこぼれていた。
「別に、普通じゃない?」
四倉は何でもないようにそう答えるが、何故だか、急に目が合わなくなる。
――あ、照れてる。
なんとなく、そんな気がした。
そんな四倉の様子を見て、不覚にも「可愛い」だなんて思ってしまい、俺は慌てて四倉から視線を外した。
「柚葵の歌、また聞きたいな」
四倉からそう言われ、俺は戸惑う。
「いや……こんな道端で歌うのは……」
「そっかぁ、残念。ところで、柚葵って普段どんな歌聞くの?好きなアーティストとかいる?」
「あー。特定のアーティストが好きってよりは、幅広く聞くかな。最近の曲も、昔の曲も」
「おすすめの曲とかある?」
俺は少し考えた末、以前好きな動画投稿者が歌っていて、好きになった曲を思い出す。
「青の計算式ってわかる?SORASHIROってバンドの」
「あー……、曲名だけ知ってるかも。どういう曲だっけ?確か、雨がなんたら……みたいな感じだよな?あぁ、待って、思い出せそうなんだけど……」
「……雨は灰色 そう言った君のキャンバスに 青い色を乗せていく ただ君の笑う顔が見たかった――♪」
しびれをきらした俺は、曲の冒頭部分を口ずさむ。
「それかー!」
「思い出した?」
「うん。てか、柚葵の歌聞けてラッキー」
「え、まさかわざと……!?」
まんまとやられた。こいつ、俺に歌わせるため、わざとそういう流れに持っていった?
「あと、冒頭部分の歌詞だったら“ただ君の笑う顔が見たかった”じゃなくて“ただ君の驚く顔が見たかった”だな」
「は!?俺より詳しいじゃん」
だ、騙された……。
目の前でどや顔をかます四倉を見て、俺は敗北感を味わった。
その後、俺たちは公園の前で別れた。
帰り際に四倉がかけてくれた「また明日」という言葉。
――明日なんて来なければいい。
中学時代は、ずっとそんなことばかり考えていた。
寝たらすぐに明日が来てしまう。だから、布団の中でずっと起きていたこともあった。
でも今は違う。
明日が早く来てほしい……とまではいかないが、少なくとも「明日」に対する苦手意識は、今の俺にはなかった。
それはきっと、四倉のおかげだ。
そういえば、あれだけ人と話すことに抵抗があった俺が、四倉の前では不思議と上手く話せているような気がする。配信で、リスナーさんたちを相手に話している時のように、リラックスして話すことができた。
それに歌だって、四倉の策略にハマった形ではあるが、人前で歌うことができた。
この調子なら、四倉以外の人の前でも歌えるかもしれない。
俺は頭の中に、たくさんの人の前で歌う自分の姿を思い描く。
そうだ。俺は、夢を叶えるんだ。
俺に生きる希望をくれたあの人と、一緒に歌うために――。
*
夕食後、俺はいつものように配信を開始する。
『そら:学校どうだったよ』
『まめまめま:友達出来た?』
俺は、今日あった出来事をリスナーさんたちに報告した。
『食パン王子:おお!良かったですね』
『ルル:柚が陽キャの仲間入り…だと…!?』
ネタっぽく茶化しつつも、皆、俺が高校生活で好スタートを切れたことを、祝福してくれているようだった。
『そら:その陽キャくん、どんな人なの?』
そらさんのコメントに、俺は「そうだなぁ」と一瞬頭を悩ませる。
四倉は明るくていつもニコニコした太陽みたいな人。ひとつひとつのリアクションが大きくて、感情が凄く分かりやすい。そして、凄く優しい人だと、今日改めて思った。
そこまで考えたところで、「知り合って間もない同級生の紹介」としてはあまりにも事細かすぎることに気付き、頭に浮かんでいた四倉の人物像を一旦振り払う。
そして俺は、コメント欄に並ぶ「食パン王子」という名前を見て、いいことを思いついた。
「その陽キャくんはね、朝ごはんに食パン一斤を持って登校する人」
*
高校生活が始まってから、五日が経った。俺は今のところ、一日も休まず登校できている。
「どうしよう数学全然ついていける気がしねぇ!」
「いやまだそこまで難しくないだろ」
「やばい!宿題忘れた!柚葵、うつさせて!」
「青梅、こいつを甘やかすな」
初めて彼らと話した日からまだ数日しか経っていないにもかかわらず、俺は気付けば彼らの輪の中に溶け込んでいた。
いや、違う。彼らが自然と、俺を輪の中に入れてくれているのだ。
そして彼らと一緒にいることで、他のクラスメイトの視線が気になることもない。
「寂しい」とか「惨めだ」なんて思う暇もないくらい、彼らはたくさん俺に話しかけてくれる。
そのことが、本当にありがたかった。
その中でも、輪をかけて話しかけてくれるのが、四倉だ。
それは、休み時間だけではない。授業中も、ふと視線を感じて横をちらりと見ると、四倉がこちらを見つめていることがある。
俺はそのたびに「前向け」と口パクで伝え、四倉は「はいはい」とでも言いたげな態度でそれに従う。
そんなやり取りを一体何度したことか。
気付けば俺は、四倉の取り扱いにも慣れてきていた。
それはいい意味で、四倉に気を遣わなくなってきた、ということだった。
放課後。
帰り支度をしながらふとスマホを見ると、一件の通知が目に留まった。それは、SNSのDMがきたことを知らせる通知だった。
普段、DMがくることなどめったにないので、俺は首を傾げる。
SNSアプリを開くと、送り主はリスナーのそらさんだった。
『急でごめん。今度、柚の地元らへんに行く用事ができて、良かったらカラオケでも行かない?』
オフ会に誘われるなんて初めてのことだった。DMを読みながら、俺の心臓はドキドキと高鳴っていた。
ネットの人と会うことに、正直抵抗はある。
相手の素性がわからないというのも勿論だが、それと同時に「会って失望されたらどうしよう」という不安もあったからだ。
配信ではすらすらと喋ることができるが、いざ面と向かって会った時に同じように話せる自信はない。
でも、そらさんは一番の古参リスナーだ。それに、いい人だということは間違いないと断言できる。
――初めて会うなら、そらさんがいいのかもしれない。
そう思った俺は、会う約束に応じることに決めた。
「柚葵、帰ろう」
DMへの返信を書き込んでいるところに、四倉が声をかけてくる。あの日以降、四倉とは毎日一緒に帰っていた。
「あー、うん。帰ろうか」
「急ぎの連絡?終わってからでいいよ」
「ごめん、じゃあちょっと待ってて」
俺はワクワクした気持ちを抑えられず、すぐにそらさんに返信を送った。
『ぜひお会いしましょう』
オフ会当日。
俺は一足先に、待ち合わせのカラオケ店の前で待っていた。
そらさんとは付き合いが長いわりに、どんな人なのかはっきりとはわかっていない。
年齢も、性別も、どんな仕事をしているのかも。
だからこそ、「どんな人が来るのだろう」と、そのワクワクや緊張が俺の心拍数を加速させていた。
「柚?」
不意に声をかけられ、俺は慌てて顔を上げる。
そこにいたのは、中年の男性だった。
年齢は40代くらいだろうか。父親よりは少し若く見えるが、はっきりした年齢を推測するのが難しかった。
俺は事前に頭の中で、勝手ながらそらさんの容姿を想像していた。
毎回欠かさず配信に来てくれるし、比較的時間に余裕がある大学生だろうか。もし女性だったら、会うのは緊張してしまうな……など、色々な可能性を考えていたが、正直なことをいうと、目の前のそらさんの姿は想定外だった。
しかし、そんな失礼な考えを俺はすぐに振り払う。
「そらさんですか?」
「うん。ごめんね待たせて」
年齢も容姿も関係ない、そらさんはそらさんだ。
そう自分に言い聞かせながら、俺たちはカラオケ店に入っていった。
「柚、なんか歌う?」
そらさんに問いかけられ、俺は手元の端末で曲を選ぶ。
「何か歌ってほしい曲とか、ありますか?」
「何でもいいよ」
俺は戸惑いつつも、歌いなれた曲を一曲目に選んだ。
イントロが流れ、マイクを持つ手に力が入る。
やがて、歌い出しの歌詞が画面に表示された。
――しかし、声が出ない。
喉の奥でつっかえたように、上手く声を出すことができなかった。
そしてそんな自分の声とは裏腹に、画面には次々と歌詞が表示され、曲がどんどん先へ進んでいく。
「大丈夫?」
そらさんが俺の異変に気付き、心配の声をかけてくれる。
「緊張してる?一旦曲切るね」
そう言うとそらさんは端末を操作し、曲を強制終了させた。
「す、すみません……」
「いいよいいよ。緊張がほぐれるまで話でもしよう。あ、そうだ。一緒に写真撮らない?」
そう言うとそらさんは、俺の隣まで移動してくる。
肩同士が密着する距離に戸惑いつつも、俺は流されるままに写真を撮った。
「ドリンクとってくるね」
そらさんがドリンクバーに向かったため、俺は大きなため息をつく。
そらさんの前ではこれまで幾度となく歌ってきた。だから、今日も大丈夫だと思っていた。
でも、画面を一枚挟んでいるかどうかで、こんなにも違う。
気付けば、マイクを握る手が震えていた。
こんなことじゃ、せっかく来てくれたそらさんに申し訳ない。
気持ちを切り替えようと、俺はカラオケルームの写真を撮影し、SNSに投稿した。
「そらさんとオフ会中」という文言を添えて。
「ネットの人と会うの初めて?」
ドリンクバーから戻ってきたそらさんに聞かれ、俺はコクリと頷く。
「そっか。じゃあ俺が初めてかぁ。なんか嬉しいな。俺のこと特別に思ってくれてるみたいで」
「そらさんは、初期の頃からずっと俺の配信を聞いてくれてるし、感謝してるので……」
俺は配信を始めたばかりの頃のことを思い出す。
あの時は、当時好きだった動画投稿者に影響され歌配信をはじめたものの、全く聞いてくれる人がおらず、誰もいないコメント欄を無言で眺めることしかできなかった。
そんな時に現れたのが、そらさんだった。
その際に、そらさんからリクエストされ、初めて歌ったのがブルースプリングの「青信号」。入学式の日、四倉と初めて会った時に、俺がタコの滑り台の上で歌った曲だ。
「あの、せっかく来たし、やっぱ俺なんか歌います」
「そう?おしゃべりするのも楽しいけど」
「いえ。あの、これ、懐かしくないですか?」
俺は端末で曲を選び、送信する。
画面に映ったのは「青信号」。俺にとっても、そらさんにとっても、思い出深い曲。
――のはずだった。
「へー、知らない曲。有名なの?」
俺はそらさんの言葉に、耳を疑う。
この曲は、そらさんが俺にリクエストしてくれた曲だ。知らないはずがない。それに、そらさんはいろいろなJ-POPに精通している。
仮に昔「青信号」をリクエストしてくれた、というのが俺の記憶違いだったとして、そもそもこんな有名な曲をそらさんが知らないなんてありえない。
既に曲は始まっていたが、俺は声が出なかった。
マイクを持ったまま固まる俺の視界の隅で、スマホの画面が光る。
SNSの通知が来たようだった。
見るとそこには「そらさんからの返信」という文字。
おかしい。目の前のそらさんは、スマホなんて触っていない。
俺は慌てて自分のスマホを手に取り、通知を確認する。
『俺オフ会なんて行ってないよ。どういうこと?』
先程の投稿に対する本物のそらさんからの返信。
待て、じゃあ、目の前にいるこのそらさんは……
いや、このおっさんは、誰だ。
「どうしたの、柚。やっぱり緊張してる?こっち来なよ」
おっさんが俺の肩を引き寄せる。
俺は抵抗しようとしたが、意思に反して体が思ったように動かない。
心臓がバクバクと音を立てる。おっさんの脂ぎった顔が、すぐ目の前にある。
怖い。助けて。誰か……、誰か……!!
「柚葵!!」
その時。俺の名前を呼ぶ声と同時に、部屋のドアが勢いよく開いた。
そこにいたのは、四倉だった。
「おっさん、そいつ嫌がってるよ」
四倉が低い声で言う。
太陽のような四倉には似つかわしくない、暗く、怒りのにじんだ声だった。
「な、なんだよ、お前。俺はこの子と一緒にカラオケに遊びに来ただけでっ……」
四倉の剣幕にひるんだのか、おっさんはおどおどしながら言い訳を並べる。
「そうなの?柚葵」
四倉が俺を見る。俺は涙目になりながら必死に首を横に振った。
「行こう」
四倉は俺の手をとると、強引におっさんから引きはがす。
そしてそのまま、俺を部屋の外に連れ出した。
後ろからおっさんが何かを言っているようだったが、店のBGMにかき消され、すぐ声は聞こえなくなった。
「大丈夫だった?変な事されてない?」
店を出ると、四倉は正面から俺の両肩をつかみ、心配そうに問いかけてきた。
「だ、大丈夫……でも、なんで四倉がここに?」
「あぁ。たまたまカラオケに来てて。そしたら、柚葵が変なおっさんに絡まれてるのが見えたから。つい……」
「そうだったんだ」
安堵のあまり、涙が出そうになるのを必死にこらえた。
すると、俺の手を四倉の手がそっと包み込む。
「もし……、もし、何か危ない目に遭いそうになったら、すぐ俺を呼んで」
「え?」
「柚葵、ああいう変な奴に狙われかねないくらい、かわ……」
四倉は急にハッとした顔をして、口をつぐむ。
しかし、少しだけ視線を泳がせたあと、再び俺の目をまっすぐ見て、言葉をつづけた。
「可愛いんだから」
まさか、その単語が自分に向けられているとは思わず、俺はぽかんとしながら四倉のことを見つめる。
すると四倉は「はぁ……」とため息をつきながら、顔を下に向けた。
「ごめん、変な事言って」
「い、いや、全然、あ、ありがとう」
この場合の返事は「ありがとう」で合っているのか?俺は自分のコミュニケーション能力の低さを呪った。
四倉と別れた後、俺は改めてSNSをチェックした。
そらさんから来たと思っていた、オフ会のお誘いのDM。
差し出し元のアカウントを確認すると、名前とアイコンはそらさんと全く同じだったが、実際はアカウントの中身が全くの別人だった。
つまり、別の人間が、わざとそらさんになりすまし、俺にDMを送ってきていたのだ。
来るもの拒まずの精神で、俺のアカウントは誰でもフォローし放題の状態になっていた。
知らない人からフォローが来ても、「配信を聞いてくれた人なのかな」と思い、軽い気持ちでフォローを返していた。
あのおっさんは、そんな名もなきリスナーの内の一人なのだろう。
俺は、本物のそらさんにDMを送る。
『すみません。俺が間抜けすぎて、騙されちゃいました。心配かけてごめんなさい』
すると、そらさんからすぐに返事が来た。
『柚が無事だったなら良かった。男子高校生を狙う変態も世の中にはたくさんいるんだから、気を付けなよ』
その言葉に俺はゾッとする。もしあの時、四倉が助けてくれなかったら、俺はどうなっていたのだろう。
『今後は気を付けます。今度そらさんからオフ会に誘われることがあったら、絶対本人かどうか確認します』
俺がそう送ると、少ししてそらさんから返信が来た。
『まあ俺は柚と会うことないだろうけどね』
その言葉に、俺は「そらさんらしい」と思った。
性別も年齢も職業も知らないそらさんと、リアルで会うなんて想像できない。
このままの関係が一番心地いいのかもしれない。

