「あ、あのっ……!」
気付いたら、言葉が口を衝いて出ていた。忽ち、幾つもの視線に晒され、千代はひゅっと喉を窄めながらたじろぐ。言い出したのは――そうしようと思っていたわけではないのだけれど――自分自身だというのに、いざ唇を動かそうとすると、情けなく震えてしまいそうになる。あやかし――人知を超えた力を持つ存在――を前に、自らの罪を打ち明けるというのは、正直なところ、千代にとってはとても勇気の要ることだった。悪気なんてものはまるでなかったにしろ。そもそも、事情を聞いてくれるか否かすら、賭けでしかない。
それでも――。千代は肺いっぱいに吸い込んだ息を細く長くゆっくりと吐き出すと、眼前に立つ夜彌の双眸を決然と見上げた。
「申し訳、ございません。私は、本当は……”花嫁候補"などではないのです」
視界の端で、お靜が慌ただしく顔を上げるのが見えたが、けれど千代はそれには気付かぬふりをして、床に揃えた指先に力をこめながら深々と頭を下げた。木肌に額を擦り付けんばかりの勢いで。金があるわけでも、他に差し出せる何かがあるわけでもない千代にとって、誠心誠意を示すには、ただそれくらいしか出来ることはなかった。
罵られる覚悟も、咎められる覚悟も、ある。――ある、と思い込まなければ、今にも怯んでしまいそうで、だから“腹を括ったのだ”と、千代は自分自身に言い聞かせた。何度も何度も、頭の中でそれを繰り返して。
所詮、元は死ぬ命だったのだ。村人たちに“土地神様の花嫁”として殺されるか、それとも、あやかしたちに“得体の知れない怪しい侵入者”として殺されるかの、その違いでしかない。結局行き着く先は同じであるのなら、そういう“人生”だった、と思う他にない。決して拭いきれない恐怖と、それでも滲み湧く諦念と共に。
夜彌は、何も言わなかった。後頭部に、じっと見下ろしているのだろう彼の視線を、強く感じるだけ。そこに含まれる感情を読み取ることは、出来ない。軽蔑しているのだろうか、それとも嫌悪しているのだろうか。
「では何故、貴女はこの邸にいたのですか」
未だ口を開かない夜彌に代わって、狐の男が鋭い声音で問いかけてくる。それは質問といより、尋問のような響きを孕んでいた。彼が訝るのも、無理はない。これほどの邸ならば、十全な警備体制が敷かれているのだろうから。それなのに、女がひとり、白無垢姿で忍び込んだとなれば、何か腹に一物を抱えていると考えるのは当然であるし、不備――警備の穴――があったとなれば、責任問題にもなりかねないだろう。
何年か前、村長の邸に盗人が忍び込むという事件が起こったが、その時門番を務めていた男たちは、以降姿を見ることはなくなった。母は顔を顰めるだけで何も語りはしなかったけれど。井戸端会議は暫くの間、その話でもちきりだった。
お靜も――殆ど一方的で強引だったとはいえ――他の見張りたちも、決して悪くはない。何の非もないのだ。突然井戸に落としたのはあの猿面の男なのだし、それに、何がどうなってあの場にいたのかは分からぬことだけれど、それでも勝手に邸に入ってしまったのは千代自身であることに変わりはないのだから。
千代はざわつく心を落ち着けるように一度深呼吸をし、ゆっくりと瞬いてから事の経緯を語り始めた。ひとつひとつの言葉を慎重に選びながら、訥々と。村の風習である“狐の嫁入り”――土地神様への生贄――のこと。その花嫁行列の最中に、猿面を付けた妖しい男に出会ったこと。彼が七尺はあろう大きな狒々を連れていたこと。彼につれてゆかれた先で、突然井戸の底へ落とされてしまったこと。そうして目覚めた時には何故か此処にいて、池を見渡せる廊下――恐らくは縁――に倒れていたこと。そこで偶然、お靜に出会ったこと。
「私がこんな格好をしていたせいで、お靜さんを勘違いさせてしまったのです。彼女には、何の非もございません。ですから、どうか……」
悪いのは自分だ、と言葉にも声にも含み、千代は一層頭を低く落とす。行儀が悪いと分かっていながら、それでも、今度こそ額を床板に押し付けて。
許してもらおう、という気はなかった。千代にとっては“本当のこと”を語っただけであるが、しかしそれを、彼等――特に誰より用心深そうである狐の男が――信じてくれるとは、とても思えない。“猿面の男”という時点で、もしかしたら彼は嘘くさい話だと感じたかもしれない。信用ならない話だ、と。とても鵜呑みには出来ない、とも。
けれど、千代の予想に反し、真っ先に反応を示したのは、夜彌の方だった。
「……猿面の男、か」
そう呟いたきり、彼はまたもや暫し黙り込んだ。数瞬の間――けれどその沈黙は、千代にはひどく長いものに感じられた。気の遠くなるような、重苦しいものに。
しかしやがて、彼はふっと吐息をこぼすようにして、くすりと小さく笑った。風習のことでも、生贄のことでも、狒々のことでも、井戸のことでも、目覚めたら此処にいたということでもなく、何故かあの猿面の男のことに対して。
何か引っかかるものがあったのかは、分からない。でも、そこでふと、千代は思い出す。そういえば押板に描かれていた奇妙な生き物もまた、猿の顔をしてはいなかっただろうか、と。
「気にすべきは、そこではないでしょう」
呆れを滲ませつつも、狐の男のその声には、明らかに千代へ対する疑念が色濃く表れていた。彼が不審がるのも無理はない、と、千代は胸の内で密かに溜息をこぼしながら思う。何せ、当の千代自身でさえ、とても信じられるような話ではないのだから。今顔を上げれば、あの冷淡な瞳で射抜かれるであろうことは、考えるまでもなかった。
「つまり彼女は、ただの侵入者ということではありませんか」
狐の男が言うな否や、ひゅっと風の切れるような音がして、千代は頭上に、鋭利な切っ先が向けられたのを気配で感じ取る。ひとつではなく、ふたつも。恐らくは、見張りの男たちの手に握られていた、あの無骨な槍だろう。そう思うと、否応にも身体は強張り、吸い込んだ息が、乾ききった喉に貼り付いた。一際強く跳ねた心臓が、どく、どく、と、警鐘を鳴らすようにけたたましく騒いでいる。
「物取りか、或いは刺客か」
しかし、槍なんかよりももっと恐ろしいのは、狐の男の向ける凍てつくような視線だった。睨みつけるだけで、相手を容易に射殺せるのではないかと思うほど、それは一片の容赦もなく、そしてひどく酷薄だった。
「ち、違いますっ……! そんなつもりは決して……!」
慌てて否定するも、緊張で上ずった声は掠れ、か細く震えていた。これでは説得力の欠片もない、と思うのに、しかし声を押し出そうとしても、言葉はつっかえるばかりで、どんどんと出口を塞いでゆく。物取りでも刺客でもないと証明出来るものなど、何も持ち合わせていない。猿面の男が本当に存在したのかも、井戸に突き落とされたという事実も、それが本当のことだと証言してくれる人物だって誰もいないのだ。
どれほど言い繕ったところで、状況が好転することはないだろう。このまま牢屋まで引っ立てられるのだろうか。そう考え、唇を強く噛み締めた――その時だった。
「――槍を退け」
低く冷たい声が、騒然とする廊下に重く響き渡る。それは、たったひと言でその場の空気を押し潰すような迫力を孕み、誰もがその威圧感に、息を呑むのが分かった。
気付いたら、言葉が口を衝いて出ていた。忽ち、幾つもの視線に晒され、千代はひゅっと喉を窄めながらたじろぐ。言い出したのは――そうしようと思っていたわけではないのだけれど――自分自身だというのに、いざ唇を動かそうとすると、情けなく震えてしまいそうになる。あやかし――人知を超えた力を持つ存在――を前に、自らの罪を打ち明けるというのは、正直なところ、千代にとってはとても勇気の要ることだった。悪気なんてものはまるでなかったにしろ。そもそも、事情を聞いてくれるか否かすら、賭けでしかない。
それでも――。千代は肺いっぱいに吸い込んだ息を細く長くゆっくりと吐き出すと、眼前に立つ夜彌の双眸を決然と見上げた。
「申し訳、ございません。私は、本当は……”花嫁候補"などではないのです」
視界の端で、お靜が慌ただしく顔を上げるのが見えたが、けれど千代はそれには気付かぬふりをして、床に揃えた指先に力をこめながら深々と頭を下げた。木肌に額を擦り付けんばかりの勢いで。金があるわけでも、他に差し出せる何かがあるわけでもない千代にとって、誠心誠意を示すには、ただそれくらいしか出来ることはなかった。
罵られる覚悟も、咎められる覚悟も、ある。――ある、と思い込まなければ、今にも怯んでしまいそうで、だから“腹を括ったのだ”と、千代は自分自身に言い聞かせた。何度も何度も、頭の中でそれを繰り返して。
所詮、元は死ぬ命だったのだ。村人たちに“土地神様の花嫁”として殺されるか、それとも、あやかしたちに“得体の知れない怪しい侵入者”として殺されるかの、その違いでしかない。結局行き着く先は同じであるのなら、そういう“人生”だった、と思う他にない。決して拭いきれない恐怖と、それでも滲み湧く諦念と共に。
夜彌は、何も言わなかった。後頭部に、じっと見下ろしているのだろう彼の視線を、強く感じるだけ。そこに含まれる感情を読み取ることは、出来ない。軽蔑しているのだろうか、それとも嫌悪しているのだろうか。
「では何故、貴女はこの邸にいたのですか」
未だ口を開かない夜彌に代わって、狐の男が鋭い声音で問いかけてくる。それは質問といより、尋問のような響きを孕んでいた。彼が訝るのも、無理はない。これほどの邸ならば、十全な警備体制が敷かれているのだろうから。それなのに、女がひとり、白無垢姿で忍び込んだとなれば、何か腹に一物を抱えていると考えるのは当然であるし、不備――警備の穴――があったとなれば、責任問題にもなりかねないだろう。
何年か前、村長の邸に盗人が忍び込むという事件が起こったが、その時門番を務めていた男たちは、以降姿を見ることはなくなった。母は顔を顰めるだけで何も語りはしなかったけれど。井戸端会議は暫くの間、その話でもちきりだった。
お靜も――殆ど一方的で強引だったとはいえ――他の見張りたちも、決して悪くはない。何の非もないのだ。突然井戸に落としたのはあの猿面の男なのだし、それに、何がどうなってあの場にいたのかは分からぬことだけれど、それでも勝手に邸に入ってしまったのは千代自身であることに変わりはないのだから。
千代はざわつく心を落ち着けるように一度深呼吸をし、ゆっくりと瞬いてから事の経緯を語り始めた。ひとつひとつの言葉を慎重に選びながら、訥々と。村の風習である“狐の嫁入り”――土地神様への生贄――のこと。その花嫁行列の最中に、猿面を付けた妖しい男に出会ったこと。彼が七尺はあろう大きな狒々を連れていたこと。彼につれてゆかれた先で、突然井戸の底へ落とされてしまったこと。そうして目覚めた時には何故か此処にいて、池を見渡せる廊下――恐らくは縁――に倒れていたこと。そこで偶然、お靜に出会ったこと。
「私がこんな格好をしていたせいで、お靜さんを勘違いさせてしまったのです。彼女には、何の非もございません。ですから、どうか……」
悪いのは自分だ、と言葉にも声にも含み、千代は一層頭を低く落とす。行儀が悪いと分かっていながら、それでも、今度こそ額を床板に押し付けて。
許してもらおう、という気はなかった。千代にとっては“本当のこと”を語っただけであるが、しかしそれを、彼等――特に誰より用心深そうである狐の男が――信じてくれるとは、とても思えない。“猿面の男”という時点で、もしかしたら彼は嘘くさい話だと感じたかもしれない。信用ならない話だ、と。とても鵜呑みには出来ない、とも。
けれど、千代の予想に反し、真っ先に反応を示したのは、夜彌の方だった。
「……猿面の男、か」
そう呟いたきり、彼はまたもや暫し黙り込んだ。数瞬の間――けれどその沈黙は、千代にはひどく長いものに感じられた。気の遠くなるような、重苦しいものに。
しかしやがて、彼はふっと吐息をこぼすようにして、くすりと小さく笑った。風習のことでも、生贄のことでも、狒々のことでも、井戸のことでも、目覚めたら此処にいたということでもなく、何故かあの猿面の男のことに対して。
何か引っかかるものがあったのかは、分からない。でも、そこでふと、千代は思い出す。そういえば押板に描かれていた奇妙な生き物もまた、猿の顔をしてはいなかっただろうか、と。
「気にすべきは、そこではないでしょう」
呆れを滲ませつつも、狐の男のその声には、明らかに千代へ対する疑念が色濃く表れていた。彼が不審がるのも無理はない、と、千代は胸の内で密かに溜息をこぼしながら思う。何せ、当の千代自身でさえ、とても信じられるような話ではないのだから。今顔を上げれば、あの冷淡な瞳で射抜かれるであろうことは、考えるまでもなかった。
「つまり彼女は、ただの侵入者ということではありませんか」
狐の男が言うな否や、ひゅっと風の切れるような音がして、千代は頭上に、鋭利な切っ先が向けられたのを気配で感じ取る。ひとつではなく、ふたつも。恐らくは、見張りの男たちの手に握られていた、あの無骨な槍だろう。そう思うと、否応にも身体は強張り、吸い込んだ息が、乾ききった喉に貼り付いた。一際強く跳ねた心臓が、どく、どく、と、警鐘を鳴らすようにけたたましく騒いでいる。
「物取りか、或いは刺客か」
しかし、槍なんかよりももっと恐ろしいのは、狐の男の向ける凍てつくような視線だった。睨みつけるだけで、相手を容易に射殺せるのではないかと思うほど、それは一片の容赦もなく、そしてひどく酷薄だった。
「ち、違いますっ……! そんなつもりは決して……!」
慌てて否定するも、緊張で上ずった声は掠れ、か細く震えていた。これでは説得力の欠片もない、と思うのに、しかし声を押し出そうとしても、言葉はつっかえるばかりで、どんどんと出口を塞いでゆく。物取りでも刺客でもないと証明出来るものなど、何も持ち合わせていない。猿面の男が本当に存在したのかも、井戸に突き落とされたという事実も、それが本当のことだと証言してくれる人物だって誰もいないのだ。
どれほど言い繕ったところで、状況が好転することはないだろう。このまま牢屋まで引っ立てられるのだろうか。そう考え、唇を強く噛み締めた――その時だった。
「――槍を退け」
低く冷たい声が、騒然とする廊下に重く響き渡る。それは、たったひと言でその場の空気を押し潰すような迫力を孕み、誰もがその威圧感に、息を呑むのが分かった。



