奴延鳥の一途婚〜輪廻の花嫁は幽世の主に溺愛される〜

「えっ……?」

 思わず、千代は伏せていた顔を上げた。頓狂な声をぽつりとこぼし、間の抜けた表情をして。跳ねるように、勢いよく。

 男は、すぐ傍に立っていた。いつの間に、と、つい驚いてしまいそうになるほどの近い場所に。手を伸ばせば届きそうなそこで、彼はどこか切なげに微笑みながら千代を見下ろしていた。睫毛の影が仄かに落ちた金色の瞳が、微かにゆらめいている。くっきりと隆起した喉仏が一度、小さく上下した。まるで、何かを必死に堪らえようとしているかのように。

 とても綺麗な瞳をした人だ、と思った。呆然としながら、他人事のように。眩い金色は、澄んだ青空から燦々と光を降らせる太陽のそれによく似ている、と。無論、太陽そのものを見たことなどないのだけれど。それでも、見る者を圧倒するような力強さや、それでいて包み込むようなあたたかさを滲ませた様は、正に太陽のようだ、と、懐かしく思わずにはいられなかった。

 懐かしく――?

 ふと込み上げてきたその感慨に、千代は自分で自分に驚く。まだ出会って間もない、特に親しい間柄というわけでもない相手に、どうしてそんな感情が浮かんでくるのだろう。夜彌と相対してからというもの、何かがどうにもおかしい。心の揺れというのだろうか。感情の乱れというのだろうか。兎にも角にも、さっきからずっと、心緒は道理の分からない動き方ばかりする。

 本当は、何処かで会ったことがあるのだろうか。しかし、彼ほどの麗しい見目と類稀な――気品溢れる――存在感を併せ持つ人物が村にいれば、とても忘れられそうにないけれど。政と文化、そしえ繁栄の中心地である都ならばまだしも、あんな辺鄙なところにある決して大きくはない村で出会うだなんて、そもそも考えづらい。

 じゃあ、この懐かしさは、一体――。

 そんなことを考えながら、ぼんやりと夜彌の瞳を見つめていると、ふいに、彼が唇を開いた。左耳にだけつけられた耳飾りが、小さく揺れる。丸い金細工の先に黒い房の垂れ下がった――何処かで見た覚えのある気がする、高価そうな耳飾り。

「彼女を花嫁にする」

 やけにきっぱりとした口調だった。異を唱えさせる隙を誰にも与えぬような。揺るぎのない意思の強さを感じさせる、凛とした声。それは確かに千代の鼓膜に触れ、幾つかの言葉を紡いだところまでは、理解出来たけれど。しかし、それがどんな言葉で、どんな意味を含んでいるのかを、千代は少しも呑み込むことが出来なかった。

 受け入れられない、というより――。さざ波のようにざわめき立つ周囲の只中で、千代は気の抜けたようにぱちりと大きく目を瞬かせながら、息を詰める。受け入れられないというより、ただただ純粋に、“何を言われたのかが分からない”。彼が何かしら喋ったことは、目でも耳でもしかと捉えたというのに。でも、それはまるで別の国の言葉のような響きをしていて、“文字”という輪郭を、頭の中でひとつも形作ることが出来なかった。

「……正気ですか」

 呆れを含んだ、心底解せないと言いたげな声が傍らから落ちてきて、千代はそろりと、ぎこちない動きで見張りの脇に立つ男――お靜に許可を出したあの男――へ視線を移す。

 刹那、千代はぎょっと肩を震わせた。目を瞠るほどの美しい顔貌がそこにあったから、というのも無論ありはするけれど。しかしそれ以上に千代を驚愕させたのは、彼の艷やかな白銀の頭に生えたふたつの耳と、まるで別の生き物のようにふわりと動く同じ色の尻尾だった。耳も尾も、狐のそれによく似ている。他は殆ど人の姿と同じだというのに。寧ろ、だからこそ、と千代は思う。だからこそ、人間には本来ないものがより異様に、際立って見えるのかもしれない、と。

 白狐――。遠い昔、年端もゆかぬ子どもだった頃、まだ元気だった母に草子を読み聞かせてもらったことがある。定期的に村を訪ねてくる貸本屋から借りたのだというそれは、地域に根ざした幾つかの異聞奇譚をまとめたもので、その中のひとつに、白い狐の出てくる話が載っていた。白狐は稲荷神の眷属である一方、強大な妖力を持ったあやかしとも伝えられている。その話でも、白狐はあやかしの一種として描かれていた。

 あやかし――。そんなものは存在しないと、思っていた。怖がる幼い千代に、母も同じことを言っていた。けれど今千代の目の前には確かに、狐の耳と尾を生やした男が立っている。人の姿をしながら、けれど人ではない特徴を持った、不可思議な男が。

「視たところ、神力を宿した巫女でもない、ただの“人間の娘”に過ぎないようですが」

 淡々とした口調でそう告げ、白銀の男は千代の顔を一瞥する。とても冷ややかな、棘の潜められた薄紫色の瞳。得体の知れないものを見るような、或いは、値踏みをするような、ほんの一瞬ばかりの視線に、けれど千代はたまらず身を竦めた。彼が、此処にいる誰より“人ならざるもの”の姿をしているからこそ、尚の事。緊張と焦りの混じった嫌な汗が、白無垢に包まれた背筋を滑り落ちてゆく。

「俺の好きに選んで良いと言ったのは、お前たちの方だろう」

 そう言って、夜彌は不満げに鼻を鳴らした。

「確かに言いはしましたが、しかしまさか、神力さえ持たぬ人の娘を選ばれるとは思っておらず」

 狐の男は顔を顰め、相応しい娘はもっと他にいたでしょう、と言葉を続ける。鬼の娘、河童の娘、天狗の娘、雪女や犬神や磯女の娘たち――。彼の口から次から次へと紡がれる名はどれもこれも、千代には耳を疑わざるを得ないものばかりだった。それは“人間”ではなく、所謂“あやかし”と呼ばれる類のものだったからだ。あやかし、或いは、妖怪、と。けれども狐の男は平然と、表情ひとつ変えずに言い切った。貴方様が選ぶべきは、そういう“あやかしの娘”だった、と。

「もう一度、よくよくお考えになられては如何ですか」
「お前に幾度乞われようが、俺は考えを改めるつもりはない」

 しかし、夜彌は意に介したふうもなく男の忠言を一蹴すると、微かにせせら笑った。

「たとえお前が、どんなに頭を下げようともな」

 眉を顰めながら、狐の男は深々と溜息を吐き捨てる。そんな彼から顔を逸し、千代は途方に暮れながら視線を彷徨わせた。一体どうすれば良いのだろう、という、答えのない自問ばかりが、頭の中をぐるぐると駆け回っている。

 狐の男の言う通り、夜彌に相応しい“花嫁”が“あやかしの娘”だったとして、ならばそれはつまり、夜彌もまた“あやかし”だということではないだろうか。お靜だけでなく、狐の男もまた従える彼はきっと、あやかしの中でも群を抜いた存在であるのかもしれない。こんなにも大きな――とても全容を把握しきれるとは思えない――邸を持ってもいるのだから。そんな邸の主が、一介の商人、或いはただの貴族どまりとは思えない。都でも、こんなに華やかで荘厳な邸を構えられるのは、恐らくは帝だけであろうから。

 疑問は、浮かべば浮かぶほど、堆く積み上がってゆく。頭の中だけでは抱えきれなくなったそれらは、身体のそこここへ溢れ出し、引き結んだ唇を震わせる。本当に――そう、本当に。夜彌があやかしの、その中でも飛び抜けて偉い立場にある者であるのなら。確かに狐の男の指摘は正しい、と、千代は思う。何の取り柄もなく、何の能力も持ち合わせていないただの人間の娘よりも、鬼や天狗や犬神といった、あやかしにとって大事な“力”を宿す娘の方が、花嫁として明らかに相応しい、と。