奴延鳥の一途婚〜輪廻の花嫁は幽世の主に溺愛される〜

 それは、不思議な感覚だった。とても“本当のこと”とは思えないような。理由も分からず、漠然とした懐かしさを堰き止める術もなく、千代はただ呆然と杢目を見つめる。鼻先が触れそうなほど間近にある、しっかりと拭き漆の重ねられた、熟されたように深い飴色の木肌を、じっと。

「本当に最後なんだろうな」
「ええ。申し出のあった人数と、彼女でちょうど合致しますので」

 疲労とも呆れともつかない溜息を聞きながら、そういえば“最後の花嫁”と言っていたのを、千代はふと思い出す。辟易とした態度を露わにするほど、たくさんの“花嫁”が此処に座ったのだろうか。夜彌という、この邸を統べる男の前に。果たしてその数は、如何ほどのものだったのだろう。これほど大きな邸の主人の結婚相手となれば、さぞ立派な家柄の娘たちが集められたに違いない。村長の息子の縁談話ですら、同じようなものだったのだから。

 ――千代。嗚呼、愛しい僕の千代。君も勿論、僕との結婚を望むだろう?

 不意に、忌まわしい記憶に襲われて、千代はぞくりと背筋を震わせる。ねっとりと舐め回すような、欲を孕んだ視線。上気した頬に浮かぶ、脂じみた汗。肌に纏わりつく、獣毛のような生温い吐息。熱に浮かされて上ずった、粘りつくような声――。頭の奥底にしまいこんだはずのそれらが、忽ち身体の端々に生々しく蘇ってゆく。突き飛ばした時の、ざらついた着物の感触も。素足で畦道を駆け抜けた時の、まるで刃を呑み込んだような喉の痛みも、何もかも。

「……顔を上げて構わん」

 鼓膜に触れた夜彌の声に、千代は真綿で掬い上げられるような心地で、はたと我に返った。抑揚の少ない、凪いだ水面のように落ち着いた、それでいて、どこかほんのりとぬくもりを感じられるような、低い声。それは、身体のそこここを無遠慮に蝕んでいた悍ましい感覚を瞬く間に拭い去り、澄んだ静けさでやわらかく包み込んでくれるような、不思議な響きを持っていた。

 千代は言われるまま、ゆっくりと顔を上げる。目の前には無論、廊下とを隔てるあの豪奢な襖はもうなかった。代わりに、三十帖は優に超えるであろう大きな広間が、堂々たる威容を放ちながら、視界を埋め尽くす。金箔地に、活き活きとした筆遣いで松や梅の描かれた障壁画。龍の精緻な透かし彫りが施された欄間。黒漆の塗られた格縁と、唐草や唐花で華やかに彩られた格間を組んだ折上格天井。たっぷりとした大輪の牡丹が飾られた違い棚。

 しかし、そのどれよりも千代の目を惹いたのは、上段の間に据えられた厚畳に座るひとりの青年だった。烏の濡れ羽色をした艷やかな髪の毛、抜けるように白いなめらかな肌、筋の通った高い鼻梁、形の整った薄い唇。組んだ足に頬杖をついた彼は、なんとも気怠げな雰囲気を纏っているというのに、見ているだけで思わず背筋を正してしまうような、圧倒的な気品と威厳が隠しようもなく滲み出ていて。

 そんな彼の背後には、奇妙な姿の動物が描かれた、壮麗な押板が聳え立っている。顔は猿だというのに、胴体は狸のような茶褐色をし、太い四肢には黒い縞模様が浮かび、更に尾は妖しく弧を描く蛇――という、実にちぐはぐで不可思議な、そもそも動物かすらも判然としない“何か”。それが、今にも襲いかかってきそうな迫力で、大胆に描き出されている。

 まるで御伽噺に出てくる"あやかし"のようだ、と、場違いにもそんなことを思いながら青年へと目を戻した――刹那、大きく見開かれた男の双眸と、視線が絡んだ。長く濃い睫毛に縁取られた、涼やかな切れ長の目。その真ん中で一等美しく輝く、黄金の瞳。

「君……名は」

 そう問いかける声は、心做しか微かに震えていた。あんなにも億劫そうに歪んでいた端正なかんばせには、茫然とした色が浮かんでいる。信じ難いものを見るような、それでいて縋るようでもある、真っ直ぐな眼差し。その豹変ぶりに、千代は訳が分からず戸惑う。どうしてそんな顔をするのだろう、と。彼の驚きが、張り詰めた空気を通して、痛いほどひしひしと伝わってくるようだった。

「千代……許斐千代、と、申します」

 しどろもどろになりながらもどうにか名乗り、千代は再び深く頭を垂れる。何か気に障るようなことをしてしまったのだろうか。或いは、此処では禁忌とされているようなことを。思い当たる節は――哀しいほどありすぎて、寧ろひとつに絞ることの方が難しい。飴色の床を見つめながら、千代はぎゅっと唇を噛み締める。咎められたらどうしよう、追い出されたらどうしよう――そんな不安があぶくのように湧き上がってくるけれど、しかしそれは怖いというより、どちらかといえば心細さのようなものだった。たとえば、夕暮れ時に母とはぐれてしまった子どものような、或いは、見知らぬ土地にひとり取り残された時のような。

 衣擦れの音がして、千代はこくりと息を呑む。今まで平然と座っていた隣の女――確か“お靜”という名だったろうか――だけでなく、槍を携えた屈強な見張りの男たちまでもが、その微かな音に身を強張らせる気配がして、千代は今すぐ逃げ出したい衝動に駆られた。噛み締めた唇が、無意識にわななく。鼓動が、耳のすぐ傍で鳴っているのではないかと思うほど、煩くてたまらない。

 素直に謝れば、許してくれるだろうか。そんなことを、ぐちゃぐちゃの頭で必死に考えながら、ゆっくりとひとつ瞬いた――その時だった。頭のすぐ上で、白檀の匂いが一際強く、ふわりと薫ったのは。

「――漸く、見つけた」