連れてゆかれたのは、対面所と思しき大きな建物だった。
此処に来るまでの間に、幾つの渡廊や反渡殿を通って来たか分からない。邸は思っていた以上に広く、廊下にはたくさんの曲がり角があり、数え切れないほどの襖や扉があちらこちらに連なっていた。もしかしたら村の端から端までをすっぽり呑み込んでしまうのではないかと、そんなことをつい考えてしまうほど、兎に角何もかもが広く大きく、そして荘厳で、目を瞠るほど華やかだった。
高欄の所々に設けられた、蓮の蕾のような青銅製の飾り。杢目のくっきりと浮き出た切目縁。反渡殿を過ぎる度に耳へ届くさわさわとした水の涼やかな音と、どこからともなく流れてくる鈴の凛とした響き。破れも罅も隙間もない白壁が一面に続く廊下。堅格子を嵌め込んだ虫籠窓からは、池の先に建つ小ぢんまりとした草庵茶室が見える。よくある草葺き屋根と、薄白茶色の土壁。辺りを取り囲む灌木の緑はやつやつやとしていて瑞々しく、真っ直ぐに伸びた泰山木には季節外れの白い花が咲いていた。ぽってりとしてなめらかな、愛らしい白い花。
対面所の襖は、その奥に控える主の威厳を現すかのように、豪華で格式高い造りをしていた。金箔や砂子を施した地紙、繊細な筆遣いで描かれた、今にも飛び出してきそうなほど生気の感じられる松や蓮や孔雀。縁には艷やかな黒漆が塗られ、同じ色をした引手には花のような浮彫がされている。
襖の両隣には、槍を携えた見張りの男がふたり、険しい顔をして立っていた。着物の上からでも分かるほど屈強な身体、感情のまるで読み取れない双眸。女の後ろをおどおどと歩く千代を、ふたりは半ば睨め付けるような視線でじろりと見下ろしたものの、口を開くこともなければ、槍を持つ無骨な手を動かすこともなかった。それでも、一挙手一投足を“監視されている”という感覚がべっとりと身体に纏わりつき、緊張を否応なく煽られる。
「こちらへどうぞ、花嫁様」
先程までとは違う落ち着いた声音でそう告げると、女はすっと動かした手で、隣に並び立つよう指し示す。色の白い瓜実顔は、あの大胆さがまるで嘘のように澄まされ、僅かに伏せられた目からは、深い奥ゆかしさすら感じられる。あまりの変わりように、千代は暫し言葉を失った。本当に同じ人物なのだろうか、と。同じ顔をした別人だと言われた方がまだしっくりくるのでは、とも。
呆気に取られつつも、千代はそっと足を動かし、指示された通りに彼女の隣へ並ぶ。それを視界の端で確かめた女は、しなやかな所作で礼儀正しく床に両膝をつくと、またもや横目で千代を一瞥し、同じようにと目だけで促した。背筋をぴんと伸ばし、太腿の上に手を置いて、きっちりと五指を揃えた、美しい佇まい。
「お館様。最後の“花嫁候補”に御座います」
千代が座ったのを視界の端で確かめると、女は凛としたよく通る声で、襖の向こうに控える“誰か”へ向けてそう告げた。刹那、いずこからともなく鈴の音が鳴り響く。星が瞬くような、或いは、氷片が触れ合うような、澄んだ音色。それは、心地の良い透明感のある余韻を残しながら、白檀の仄かに薫る空気の中へすうっと溶けるように消えていった。
再び訪れた、静寂。まるでそれが合図でもあるかのように、女は上品な身のこなしで床に両手をつくと、深々と頭を下げて座礼した。千代もまたそれに倣い、深く、そして静かに頭を垂れる。そんなふたりの頭の先で、誰かが床を踏み締める気配がした。微かに床板の軋む音が聞こえる。それから、衣擦れの小さな音も。
それを聞くともなく聞きながら、千代はこくりと唾を呑んだ。お館様――ということは、この邸で最も偉い立場の人間が、この襖の先にいるのだろう。大人しくしていれば悪いようにはならない、と、女は言っていたけれど。襖が開く静かな音――というより、どちらかといえば空気の震えのようなもの――に自ずと身体を強張らせながら、千代は思う。本当に大丈夫なのだろうか、と。そう思えば思うほど、不安が背筋を冷ややかに撫でてゆく。
「――おや、“人間”ではありませんか」
頭上から降ってきた声に、千代は床についた指先を小さく震わせる。低く落ち着いたその声は、穏やかでありながら、その実、ひどく訝しんでもいた。警戒を孕み、何故、という疑問を含んだ鋭い視線が後頭部に突き刺さるのを、ひしひしと感じる。まさかもう、闖入者だと気付かれてしまったのだろうか。名乗るどころか、顔を上げてすらいないというのに。
それにしても、一体どうして“人間”というだけで、誰も彼も反応を示すのだろう。驚いたり、怪しんだり。そんなにも奇っ怪な見目をしているのだろうか。確かに、決して美しく整っているわけではないけれど。それとも或いは、“人間”という存在自体が珍しいのだろうか。此処が現世ではなく、死した者のゆく常世、或いは、神々の住まう高天原だから――。
「まあ、今回は特別に良しとしましょう」
呆れたような溜息が漏れるのと同時に、襖の開き切る音がした。
「夜彌様。お靜の連れてきた“花嫁”で最後になります」
「……まだいたのか」
夜彌――と呼ばれた男が、ひどくうんざりとした声で呟く。冷淡な目を向けられているのだろうことは、顔を上げて確かめずとも、ひりついた空気から否応なく察せられる。
早く終わらせてしまいたい、という気怠げな態度から滲む無言の圧力にたじろぎながら、でも、千代の胸には何故か、あたたかな風が吹いていた。穏やかで、とろりと甘美なやわらかさもあるそれは、まるで春陽に照らされた草花を揺らすように、千代の心を――その奥にしまわれた何かを――やさしく震わせる。
どうしてだろう、と思った。此処に来たのも、“夜彌”という男と相見えるのも、これが初めてだというのに。どうしてその響きに、聞き覚えがある気がするのだろう、と。どうしてこんなにも、懐かしさだけが、次から次へと溢れ出してくるのだろう、とも。胸の奥深く、決して届かないはずの場所から。まるで――ずっと昔からその名を、知っていたかのように。
此処に来るまでの間に、幾つの渡廊や反渡殿を通って来たか分からない。邸は思っていた以上に広く、廊下にはたくさんの曲がり角があり、数え切れないほどの襖や扉があちらこちらに連なっていた。もしかしたら村の端から端までをすっぽり呑み込んでしまうのではないかと、そんなことをつい考えてしまうほど、兎に角何もかもが広く大きく、そして荘厳で、目を瞠るほど華やかだった。
高欄の所々に設けられた、蓮の蕾のような青銅製の飾り。杢目のくっきりと浮き出た切目縁。反渡殿を過ぎる度に耳へ届くさわさわとした水の涼やかな音と、どこからともなく流れてくる鈴の凛とした響き。破れも罅も隙間もない白壁が一面に続く廊下。堅格子を嵌め込んだ虫籠窓からは、池の先に建つ小ぢんまりとした草庵茶室が見える。よくある草葺き屋根と、薄白茶色の土壁。辺りを取り囲む灌木の緑はやつやつやとしていて瑞々しく、真っ直ぐに伸びた泰山木には季節外れの白い花が咲いていた。ぽってりとしてなめらかな、愛らしい白い花。
対面所の襖は、その奥に控える主の威厳を現すかのように、豪華で格式高い造りをしていた。金箔や砂子を施した地紙、繊細な筆遣いで描かれた、今にも飛び出してきそうなほど生気の感じられる松や蓮や孔雀。縁には艷やかな黒漆が塗られ、同じ色をした引手には花のような浮彫がされている。
襖の両隣には、槍を携えた見張りの男がふたり、険しい顔をして立っていた。着物の上からでも分かるほど屈強な身体、感情のまるで読み取れない双眸。女の後ろをおどおどと歩く千代を、ふたりは半ば睨め付けるような視線でじろりと見下ろしたものの、口を開くこともなければ、槍を持つ無骨な手を動かすこともなかった。それでも、一挙手一投足を“監視されている”という感覚がべっとりと身体に纏わりつき、緊張を否応なく煽られる。
「こちらへどうぞ、花嫁様」
先程までとは違う落ち着いた声音でそう告げると、女はすっと動かした手で、隣に並び立つよう指し示す。色の白い瓜実顔は、あの大胆さがまるで嘘のように澄まされ、僅かに伏せられた目からは、深い奥ゆかしさすら感じられる。あまりの変わりように、千代は暫し言葉を失った。本当に同じ人物なのだろうか、と。同じ顔をした別人だと言われた方がまだしっくりくるのでは、とも。
呆気に取られつつも、千代はそっと足を動かし、指示された通りに彼女の隣へ並ぶ。それを視界の端で確かめた女は、しなやかな所作で礼儀正しく床に両膝をつくと、またもや横目で千代を一瞥し、同じようにと目だけで促した。背筋をぴんと伸ばし、太腿の上に手を置いて、きっちりと五指を揃えた、美しい佇まい。
「お館様。最後の“花嫁候補”に御座います」
千代が座ったのを視界の端で確かめると、女は凛としたよく通る声で、襖の向こうに控える“誰か”へ向けてそう告げた。刹那、いずこからともなく鈴の音が鳴り響く。星が瞬くような、或いは、氷片が触れ合うような、澄んだ音色。それは、心地の良い透明感のある余韻を残しながら、白檀の仄かに薫る空気の中へすうっと溶けるように消えていった。
再び訪れた、静寂。まるでそれが合図でもあるかのように、女は上品な身のこなしで床に両手をつくと、深々と頭を下げて座礼した。千代もまたそれに倣い、深く、そして静かに頭を垂れる。そんなふたりの頭の先で、誰かが床を踏み締める気配がした。微かに床板の軋む音が聞こえる。それから、衣擦れの小さな音も。
それを聞くともなく聞きながら、千代はこくりと唾を呑んだ。お館様――ということは、この邸で最も偉い立場の人間が、この襖の先にいるのだろう。大人しくしていれば悪いようにはならない、と、女は言っていたけれど。襖が開く静かな音――というより、どちらかといえば空気の震えのようなもの――に自ずと身体を強張らせながら、千代は思う。本当に大丈夫なのだろうか、と。そう思えば思うほど、不安が背筋を冷ややかに撫でてゆく。
「――おや、“人間”ではありませんか」
頭上から降ってきた声に、千代は床についた指先を小さく震わせる。低く落ち着いたその声は、穏やかでありながら、その実、ひどく訝しんでもいた。警戒を孕み、何故、という疑問を含んだ鋭い視線が後頭部に突き刺さるのを、ひしひしと感じる。まさかもう、闖入者だと気付かれてしまったのだろうか。名乗るどころか、顔を上げてすらいないというのに。
それにしても、一体どうして“人間”というだけで、誰も彼も反応を示すのだろう。驚いたり、怪しんだり。そんなにも奇っ怪な見目をしているのだろうか。確かに、決して美しく整っているわけではないけれど。それとも或いは、“人間”という存在自体が珍しいのだろうか。此処が現世ではなく、死した者のゆく常世、或いは、神々の住まう高天原だから――。
「まあ、今回は特別に良しとしましょう」
呆れたような溜息が漏れるのと同時に、襖の開き切る音がした。
「夜彌様。お靜の連れてきた“花嫁”で最後になります」
「……まだいたのか」
夜彌――と呼ばれた男が、ひどくうんざりとした声で呟く。冷淡な目を向けられているのだろうことは、顔を上げて確かめずとも、ひりついた空気から否応なく察せられる。
早く終わらせてしまいたい、という気怠げな態度から滲む無言の圧力にたじろぎながら、でも、千代の胸には何故か、あたたかな風が吹いていた。穏やかで、とろりと甘美なやわらかさもあるそれは、まるで春陽に照らされた草花を揺らすように、千代の心を――その奥にしまわれた何かを――やさしく震わせる。
どうしてだろう、と思った。此処に来たのも、“夜彌”という男と相見えるのも、これが初めてだというのに。どうしてその響きに、聞き覚えがある気がするのだろう、と。どうしてこんなにも、懐かしさだけが、次から次へと溢れ出してくるのだろう、とも。胸の奥深く、決して届かないはずの場所から。まるで――ずっと昔からその名を、知っていたかのように。



