「あ、あの……」
「まったく! どんだけ探し回ったと思ってんのさ!」
そう言いながら、彼女は細く整えられた眉を苛立たしげに寄せた。深々と吐き出された溜息と、つんとした棘のある視線。そうして彼女は、やれやれと言いたげに肩を竦めると、袂を大胆に捌きながら、ずかずかと歩み寄ってきた。一歩、また一歩と距離が縮まる度、白い元結紙で結われた長い黒髪が、右に左にと大きく揺れる。毛先の方を輪の形にまとめ、結び目を透かし彫りの簪でとめた、玉結び。もとは綺麗に整えられていたのだろうそれから、僅かにほつれ毛がこぼれ落ちている。それだけ探し回っていたということだろうか。でも、一体どうして――。
「馬鹿だねえ、あんた。折角お館様への面通りが許されたっていうのに。遅刻は論外。ご法度だよ」
目の前で足を止めた彼女の、少しばかり高い位置にある鳶色の瞳を、千代はたじろぎながらそろりと見上げる。お館様、面通り、ご法度――。言葉ひとつひとつを頭が理解すればするほど、却って、彼女が何のことを言っているのかがますます分からなくなる。もしかしたら、他の誰かと間違えているのではないだろうか。そもそも、此処が何処で、何故此処にいるのかも分からないような人間を、髪を乱すほど切羽詰まって探し回るはずがないのだから。
しかし、ではお前は誰なのだと問われても、千代に返せる答えはなかった。せめて名乗ることくらいは出来るけれど、何の用もないのに何故此処にいるのかと詰められては、忽ち言葉に窮してしまう。ならば、誤解を解かない方が良いのだろうか。――いや、そんなことをしても、どうせすぐに見破られてしまうだろう。騙った分だけ、咎めは重くなってしまうかもしれない。
こんなことになってしまうなら、あの時村人たちと共に逃げ出しておけば良かった、と、千代は頭を抱えたくなるのを堪えながら、胸の内で苦々しい溜息をこぼす。或いは、あの妖しい猿面の男に大人しくついて行かなければよかった、と。今更後悔したところで、もう遅いのだけれど。
「あれ、あんた……もしかして……」
どうしたものか、と、ぐちゃぐちゃな頭をどうにか働かせながら考えていると、何かに気付いたらしい女が、くん、と白い鼻先を微かに動かした。まるで犬や猫が匂いを嗅ぐ時のそれのように。
「――人間かい?」
切れ長の目が大きく見開かれるのを眺めながら、千代もまた、唖然と目を瞬かせる。この人はなんておかしなことを訊くのだろう、と。何者かと問われるのならば、まだ分かるけれど。しかし、まさか“人間か”と問われるだなんて思ってもいなかった。
「人間、ですけれど……」
しどろもどろになりながらもそう答えると、女は眉間に刻んだ皺を更に深くして、険しく歪めたかんばせを、千代の方へぐいと突き出した。そのあまりの近さに、千代は肩を小さく震わせながら、無意識に上体を仰け反らす。庭を渡ってきた風に揺れるほつれ毛と、鼻の先を掠めるやわらかな匂い。よくよく見ると、彼女の瞳は蛇のそれのように瞳孔が細い。
「あ、あの、えっと」
突然の沈黙が苦しく、きょろきょろと視線を彷徨わせる千代をよそに、女はまるで品定めでもするかのように眇めた鳶色で、頭の先から足の先までじろりと眺め回す。なんとも居心地が悪い。今すぐ逃げ出したい、と思うのに、意に反して足は少しも動いてはくれない。爪先まで空に縫い留められてしまったような感覚。その視線は不快というわけではないけれど、しかし、心をそわそわと落ち着かなくさせる。
やがて彼女は、それまでじっと見つめていたのが嘘のような軽さでふいと目を逸らすと、暫し何事かを考えるように首を傾け、そうして再び千代の双眸へと視線を移した。
「まあ、誰も連れてかないよりかは良いか。どうせ受かりゃしないんだし」
誰にともなくそう呟くと、彼女は突然千代の右手首を掴み、半ば引き摺るようにして強引に歩き出した。拒む隙も、声をあげる暇も与えずに。すぐ目の前で、輪に形作られた黒髪が、鼈甲の簪と共にふわりと靡く。間近で見る透かし彫りは、蛇を簡略化したような模様をしていた。花のような蜜のような、甘くやわらかな薫りがより濃く匂う。
「ちょっ、ちょっと待ってください!」
「うるさいなあ。白無垢着てるってことは、“花嫁”になるのを目論んで忍び込んできたんだろ? ……ったく、見張りは何をやってんだろうねえ」
呆れを滲ませた溜息を漏らしながら、女は振り返ることなく、ただひたすら廊下を突き進んでゆく。何処もかしこも丁寧に磨き立てられた、白檀の匂いが仄かに漂う廊下を、真っ直ぐに。朱色の高欄で羽休めをしていた小鳥が、足音に弾かれて飛び立ってゆく。青く美しい翼を広げて、雲ひとつない大空めがけて。
「取り敢えず、大人しくしてりゃあ悪いようにはならないだろうから、安心しな。面通しが終わったら、裏口からこっそり逃がしてやるからさ」
「ち、違います! そんなつもりで此処へ来たわけではっ……!」
「じゃあ、どんなつもりだったんだい?」
肩越しに睨め付けられ、千代は忽ち口を噤む。どんなつもりか、と訊かれても、正直に答えることなどとても出来ない。目が覚めたら此処にいた、だなんて、そんなこと果たして誰が信じるだろうか。猿面の男のことも、狒々のことも、そしてあの井戸のことも――。
「それは……」
「答えらんないなら、黙ってついてきな」
ふん、と鼻を鳴らし、女は進行方向へと目を戻す。ばさばさと布が擦れる音と、床を慌ただしく踏み締めるふたり分の足音。相も変わらず大股なせいで、着慣れない窮屈な白無垢では歩幅が間に合わず、千代はよろりと足を縺れさせる。それを、握った手首の震えから感じ取っているだろうに、女は決して振り返ろうとはしなかった。様子を確かめることも、足を止めることも、決して。
「まあ、ちょっとした“人助け”だと思ってさ。そもそも、“花嫁候補”として顔を合わせる機会があるだけでも恵まれてんだし。ここは“共犯”……ってことで」
「まったく! どんだけ探し回ったと思ってんのさ!」
そう言いながら、彼女は細く整えられた眉を苛立たしげに寄せた。深々と吐き出された溜息と、つんとした棘のある視線。そうして彼女は、やれやれと言いたげに肩を竦めると、袂を大胆に捌きながら、ずかずかと歩み寄ってきた。一歩、また一歩と距離が縮まる度、白い元結紙で結われた長い黒髪が、右に左にと大きく揺れる。毛先の方を輪の形にまとめ、結び目を透かし彫りの簪でとめた、玉結び。もとは綺麗に整えられていたのだろうそれから、僅かにほつれ毛がこぼれ落ちている。それだけ探し回っていたということだろうか。でも、一体どうして――。
「馬鹿だねえ、あんた。折角お館様への面通りが許されたっていうのに。遅刻は論外。ご法度だよ」
目の前で足を止めた彼女の、少しばかり高い位置にある鳶色の瞳を、千代はたじろぎながらそろりと見上げる。お館様、面通り、ご法度――。言葉ひとつひとつを頭が理解すればするほど、却って、彼女が何のことを言っているのかがますます分からなくなる。もしかしたら、他の誰かと間違えているのではないだろうか。そもそも、此処が何処で、何故此処にいるのかも分からないような人間を、髪を乱すほど切羽詰まって探し回るはずがないのだから。
しかし、ではお前は誰なのだと問われても、千代に返せる答えはなかった。せめて名乗ることくらいは出来るけれど、何の用もないのに何故此処にいるのかと詰められては、忽ち言葉に窮してしまう。ならば、誤解を解かない方が良いのだろうか。――いや、そんなことをしても、どうせすぐに見破られてしまうだろう。騙った分だけ、咎めは重くなってしまうかもしれない。
こんなことになってしまうなら、あの時村人たちと共に逃げ出しておけば良かった、と、千代は頭を抱えたくなるのを堪えながら、胸の内で苦々しい溜息をこぼす。或いは、あの妖しい猿面の男に大人しくついて行かなければよかった、と。今更後悔したところで、もう遅いのだけれど。
「あれ、あんた……もしかして……」
どうしたものか、と、ぐちゃぐちゃな頭をどうにか働かせながら考えていると、何かに気付いたらしい女が、くん、と白い鼻先を微かに動かした。まるで犬や猫が匂いを嗅ぐ時のそれのように。
「――人間かい?」
切れ長の目が大きく見開かれるのを眺めながら、千代もまた、唖然と目を瞬かせる。この人はなんておかしなことを訊くのだろう、と。何者かと問われるのならば、まだ分かるけれど。しかし、まさか“人間か”と問われるだなんて思ってもいなかった。
「人間、ですけれど……」
しどろもどろになりながらもそう答えると、女は眉間に刻んだ皺を更に深くして、険しく歪めたかんばせを、千代の方へぐいと突き出した。そのあまりの近さに、千代は肩を小さく震わせながら、無意識に上体を仰け反らす。庭を渡ってきた風に揺れるほつれ毛と、鼻の先を掠めるやわらかな匂い。よくよく見ると、彼女の瞳は蛇のそれのように瞳孔が細い。
「あ、あの、えっと」
突然の沈黙が苦しく、きょろきょろと視線を彷徨わせる千代をよそに、女はまるで品定めでもするかのように眇めた鳶色で、頭の先から足の先までじろりと眺め回す。なんとも居心地が悪い。今すぐ逃げ出したい、と思うのに、意に反して足は少しも動いてはくれない。爪先まで空に縫い留められてしまったような感覚。その視線は不快というわけではないけれど、しかし、心をそわそわと落ち着かなくさせる。
やがて彼女は、それまでじっと見つめていたのが嘘のような軽さでふいと目を逸らすと、暫し何事かを考えるように首を傾け、そうして再び千代の双眸へと視線を移した。
「まあ、誰も連れてかないよりかは良いか。どうせ受かりゃしないんだし」
誰にともなくそう呟くと、彼女は突然千代の右手首を掴み、半ば引き摺るようにして強引に歩き出した。拒む隙も、声をあげる暇も与えずに。すぐ目の前で、輪に形作られた黒髪が、鼈甲の簪と共にふわりと靡く。間近で見る透かし彫りは、蛇を簡略化したような模様をしていた。花のような蜜のような、甘くやわらかな薫りがより濃く匂う。
「ちょっ、ちょっと待ってください!」
「うるさいなあ。白無垢着てるってことは、“花嫁”になるのを目論んで忍び込んできたんだろ? ……ったく、見張りは何をやってんだろうねえ」
呆れを滲ませた溜息を漏らしながら、女は振り返ることなく、ただひたすら廊下を突き進んでゆく。何処もかしこも丁寧に磨き立てられた、白檀の匂いが仄かに漂う廊下を、真っ直ぐに。朱色の高欄で羽休めをしていた小鳥が、足音に弾かれて飛び立ってゆく。青く美しい翼を広げて、雲ひとつない大空めがけて。
「取り敢えず、大人しくしてりゃあ悪いようにはならないだろうから、安心しな。面通しが終わったら、裏口からこっそり逃がしてやるからさ」
「ち、違います! そんなつもりで此処へ来たわけではっ……!」
「じゃあ、どんなつもりだったんだい?」
肩越しに睨め付けられ、千代は忽ち口を噤む。どんなつもりか、と訊かれても、正直に答えることなどとても出来ない。目が覚めたら此処にいた、だなんて、そんなこと果たして誰が信じるだろうか。猿面の男のことも、狒々のことも、そしてあの井戸のことも――。
「それは……」
「答えらんないなら、黙ってついてきな」
ふん、と鼻を鳴らし、女は進行方向へと目を戻す。ばさばさと布が擦れる音と、床を慌ただしく踏み締めるふたり分の足音。相も変わらず大股なせいで、着慣れない窮屈な白無垢では歩幅が間に合わず、千代はよろりと足を縺れさせる。それを、握った手首の震えから感じ取っているだろうに、女は決して振り返ろうとはしなかった。様子を確かめることも、足を止めることも、決して。
「まあ、ちょっとした“人助け”だと思ってさ。そもそも、“花嫁候補”として顔を合わせる機会があるだけでも恵まれてんだし。ここは“共犯”……ってことで」



