ざく、ざく、と、音が聞こえる。地の底から。獣が爪を立てて何かを引っ掻いているような、或いは抉っているような乾いた音が。ざく、ざく、と、絶え間なく。それが辺りに響く度、身体がどんどんと重く、深く沈んでゆくような気がした。足も手も腹も頭も。身体の至る所がずっしりとして、ひんやりと湿った感触に包まれる。けれどそれは、水の中に浸っているのとは違う――と、千代には何故だかそれが分かった。水でも、朝露に濡れた草花でも、はたまた苔むした石でもない、やわらかく、でもひどく重たい、微かに仄暗い甘さを孕んだ匂いのする何か。それが少しずつ、鼻を、口を、ゆっくりと塞いでゆく――。
息苦しさを感じて、千代はたまらず飛び起きた。心臓が、胸を突き破らんばかりの勢いで、激しく脈打っている。呼吸は浅く、大袈裟なほど両肩を上下させて空気を取り込んでみるも、そうすればするほど喉につっかえて、なかなかうまくいかない。身体の中がぐちゃぐちゃになっているような、えも言われぬ気持ち悪さが、腹の底から込み上げる。視界はぼんやりと曇っているが、起き抜けのせいか、それとも涙のせいなのか、千代にはまだ判然としなかった。
身体を強張らせ、暫くの間じっとしていた。息を潜め、身体の端々こびりつく恐怖が薄れてゆくのを、ただひたすらに待つ。蛇に睨まれた蛙のような心地だった。でも、いったい何にこんなにも怯えているのか、分からない。
やがて鼓動が落ち着き、吸い込んだ空気がするりと喉を通って身体の内側へ流れ込んでくる。そこで漸く、千代は辺りへ目を向けた。視界を覆う霞を晴らすように、幾度も瞬きながら。
埃ひとつなく磨かれた、杢目の美しい床板。朱色に塗られた高欄。反渡殿の下には小さな川が緩い弧を描きながら流れ、釣殿の庇には鈴型の大きな飾りが幾つも吊り下げられている。庭の大部分を占める広々とした池、澄んだ水の上に浮かんだ色とりどりの睡蓮。空は突き抜けるような青色で、天高いところから燦々と降り注ぐ陽光はとても眩い。
どこからともなく流れてくる白檀のふくよかな薫りが鼻先を掠め、それは忘れかけていた記憶を、頭の奥底から乱雑な手つきで引き摺り出す。古い木枠で囲われた四角い井戸、ぱっくりと口を開けた底なしの暗闇、そして――木肌そのままの猿面と、刳られたふたつの穴から向けられる真っ直ぐな視線。
――人の世は、お好きですか。
あの男は一体何者だったのだろう。行列から救い出してくれたのかと思ったけれど、しかし最後には背中を押されて――そう、背中を押されたのだ、と、千代は改めてその事実をはっきりと認識する。気付いた時には、井戸の中だった。奈落のような、黒々とした闇の中。風を切るひゅるひゅるとした音や、陰気な冷たさ、身体の底から臓腑を突き上げられるような感覚を、今でも生々しく思い出すことが出来る。
初めから殺すつもりだったのなら、どうしてあの場で――破れた火袋や松明の残骸や放り出された槍や刀の散らばるあの路で――殺さなかったのだろう。わざわざ森の中へ分け入り、井戸まで連れてゆく必要などなかっただろうに。物取りだったとしても、金になりそうなものと言えば上等な反物で仕立てられた白無垢くらいで、けれどそれは今もまだ千代の身体を包み込んでいる。
或いは、あの井戸に何かしらの意味があったのだろうか――。
兎も角、あんな深く暗い井戸の中へ突き落とされたというのに、身体は不思議なほど何処も痛くはない。目覚めてすぐはまだぼんやりとしていた頭も、今ではすっかり冴えている。念の為に、手指の先から足の先まで検めてみるけれど、泥や雨水で汚れた部分こそありはするものの、出血の滲んだような痕は見られない。白無垢は破れもなければほつれもなく、帯の結び目もそのままだ。
生きている――。ゆっくりと立ち上がり、千代は長閑な景色を見るともなく眺めながら、細く長く息を吐き出す。生きている。その実感を再確認するように。そして同時に、疑問に思う。生きているのなら、果たして此処は何処なのだろう、と。まさか天国だろうか。それとも、土地神様のお邸だろうか。或いは、“生きている”というのはそもそも勘違いで、本当は死んでいる――。
「あっ! いたいた!」
唐突に大きな叫び声が聞こえ、千代はぎょっと両肩を震わせた。手入れが行き届いているところからするに、此処は明らかに誰かの邸だ。恐らくは、とても裕福な貴族か誰かの。そんな場所に、見ず知らずの無関係な人間がいれば不審でしかないだろう。不可抗力だったとはいえ、それでも無断で立ち入ったことには変わりないのだから、盗人と間違えられてもしかたがない。
どう説明すれば、分かってくれるだろうか。狐の嫁入り、妖しい猿面の男、七尺はあろう獰猛な狒々、滑車も釣瓶もない古びた四角い井戸――。駄目だ、と、千代は顔を強張らせながら思う。頭の中で言葉を組み立ててみるも、何をどうしたところで現実味がまるでなく、とても信じてもらえそうにない。
「ちょっと、聞いてるのかい!」
耳を劈くような怒鳴り声に、千代はびくりと、身体を小さく跳ねさせる。見つかってしまった以上は無視することも出来ず、袖を握り締めながら恐る恐る振り返ると、そこには梅色の着物を身に着けた妙齢の女性が立っていた。廊下の先で、腰に両手を当てて仁王立ちする彼女の瓜実顔には、怒りを孕みながらも、困ったような、呆れているような、それでいてどこか疲れてもいるような、渋い表情が浮かんでいる。
息苦しさを感じて、千代はたまらず飛び起きた。心臓が、胸を突き破らんばかりの勢いで、激しく脈打っている。呼吸は浅く、大袈裟なほど両肩を上下させて空気を取り込んでみるも、そうすればするほど喉につっかえて、なかなかうまくいかない。身体の中がぐちゃぐちゃになっているような、えも言われぬ気持ち悪さが、腹の底から込み上げる。視界はぼんやりと曇っているが、起き抜けのせいか、それとも涙のせいなのか、千代にはまだ判然としなかった。
身体を強張らせ、暫くの間じっとしていた。息を潜め、身体の端々こびりつく恐怖が薄れてゆくのを、ただひたすらに待つ。蛇に睨まれた蛙のような心地だった。でも、いったい何にこんなにも怯えているのか、分からない。
やがて鼓動が落ち着き、吸い込んだ空気がするりと喉を通って身体の内側へ流れ込んでくる。そこで漸く、千代は辺りへ目を向けた。視界を覆う霞を晴らすように、幾度も瞬きながら。
埃ひとつなく磨かれた、杢目の美しい床板。朱色に塗られた高欄。反渡殿の下には小さな川が緩い弧を描きながら流れ、釣殿の庇には鈴型の大きな飾りが幾つも吊り下げられている。庭の大部分を占める広々とした池、澄んだ水の上に浮かんだ色とりどりの睡蓮。空は突き抜けるような青色で、天高いところから燦々と降り注ぐ陽光はとても眩い。
どこからともなく流れてくる白檀のふくよかな薫りが鼻先を掠め、それは忘れかけていた記憶を、頭の奥底から乱雑な手つきで引き摺り出す。古い木枠で囲われた四角い井戸、ぱっくりと口を開けた底なしの暗闇、そして――木肌そのままの猿面と、刳られたふたつの穴から向けられる真っ直ぐな視線。
――人の世は、お好きですか。
あの男は一体何者だったのだろう。行列から救い出してくれたのかと思ったけれど、しかし最後には背中を押されて――そう、背中を押されたのだ、と、千代は改めてその事実をはっきりと認識する。気付いた時には、井戸の中だった。奈落のような、黒々とした闇の中。風を切るひゅるひゅるとした音や、陰気な冷たさ、身体の底から臓腑を突き上げられるような感覚を、今でも生々しく思い出すことが出来る。
初めから殺すつもりだったのなら、どうしてあの場で――破れた火袋や松明の残骸や放り出された槍や刀の散らばるあの路で――殺さなかったのだろう。わざわざ森の中へ分け入り、井戸まで連れてゆく必要などなかっただろうに。物取りだったとしても、金になりそうなものと言えば上等な反物で仕立てられた白無垢くらいで、けれどそれは今もまだ千代の身体を包み込んでいる。
或いは、あの井戸に何かしらの意味があったのだろうか――。
兎も角、あんな深く暗い井戸の中へ突き落とされたというのに、身体は不思議なほど何処も痛くはない。目覚めてすぐはまだぼんやりとしていた頭も、今ではすっかり冴えている。念の為に、手指の先から足の先まで検めてみるけれど、泥や雨水で汚れた部分こそありはするものの、出血の滲んだような痕は見られない。白無垢は破れもなければほつれもなく、帯の結び目もそのままだ。
生きている――。ゆっくりと立ち上がり、千代は長閑な景色を見るともなく眺めながら、細く長く息を吐き出す。生きている。その実感を再確認するように。そして同時に、疑問に思う。生きているのなら、果たして此処は何処なのだろう、と。まさか天国だろうか。それとも、土地神様のお邸だろうか。或いは、“生きている”というのはそもそも勘違いで、本当は死んでいる――。
「あっ! いたいた!」
唐突に大きな叫び声が聞こえ、千代はぎょっと両肩を震わせた。手入れが行き届いているところからするに、此処は明らかに誰かの邸だ。恐らくは、とても裕福な貴族か誰かの。そんな場所に、見ず知らずの無関係な人間がいれば不審でしかないだろう。不可抗力だったとはいえ、それでも無断で立ち入ったことには変わりないのだから、盗人と間違えられてもしかたがない。
どう説明すれば、分かってくれるだろうか。狐の嫁入り、妖しい猿面の男、七尺はあろう獰猛な狒々、滑車も釣瓶もない古びた四角い井戸――。駄目だ、と、千代は顔を強張らせながら思う。頭の中で言葉を組み立ててみるも、何をどうしたところで現実味がまるでなく、とても信じてもらえそうにない。
「ちょっと、聞いてるのかい!」
耳を劈くような怒鳴り声に、千代はびくりと、身体を小さく跳ねさせる。見つかってしまった以上は無視することも出来ず、袖を握り締めながら恐る恐る振り返ると、そこには梅色の着物を身に着けた妙齢の女性が立っていた。廊下の先で、腰に両手を当てて仁王立ちする彼女の瓜実顔には、怒りを孕みながらも、困ったような、呆れているような、それでいてどこか疲れてもいるような、渋い表情が浮かんでいる。



