奴延鳥の一途婚〜輪廻の花嫁は幽世の主に溺愛される〜

 木々や丈高い草々の合間に伸びる(こみち)を、男は手にした提灯で照らしながら、迷いのない足取りで進んでゆく。頭上を覆うように茂った枝葉のせいで、月明かりはほんの気休め程度しか差し込まない。どんどんと森の奥深くへ入って行っているような気がするのに、獣の声も虫の声も聞こえない。時折、草花をさわさわと揺らしながら吹き抜ける風が、ひんやりと頬を撫でてゆく。雨に濡れた土の甘い匂いと、緑の青い匂い。

 何故ついてきてしまったのだろう。文句を言うことも、問い詰めることもせず。ただ大人しく、彼の誘いを受けてしまったのだろう。今更になってそう疑問に思うも、けれどあの時、そうするのが当然のことのような気がしてならなかったのだ、と、千代は胸の内で小さく溜息をこぼす。それがどうしてなのかも、無論分からないのだけれど。彼の言葉には、でも不思議な“安心感”のようなものがあったのだ。信じても良いのだ、と、説明もつかないのにすんなりと受け入れてしまえるような安心感が。

「逃げないのですね」

 村の男たちへはあんなにも饒舌だったというのに、径へ入ってからはずっと口を閉ざしていた猿面の男が、漸く沈黙を破ってくれた。千代はちらりと横目で男の横顔を一瞥し、視界の端を掠める朱色へ意識を向けながら微笑んだ。彼の手にした蛇の目傘は、半分以上が千代の方へ差しかけられている。

「私が逃げ戻っては、村の人たちも困るでしょうから」

 それは正しくもあり、間違いでもあった。村の人々は、確かに頭を抱えて困るだろう。ただでさえ猿面の男に邪魔をされて“狐の嫁入り”は中断せざるを得なくなり、更には土地神様に捧げる為の生贄が生きて戻ってきたとなれば、今後何かしらの大厄災に見舞われる可能性が出てきてしまうのだから。

 その上、千代には約束があった。母の為に都から腕一番の医者を呼んでもらうという、村長との約束が。それと引き換えに、生贄を受け入れたのだ。村人たちの為というより、千代にとっては母の為に生きて戻ってはならない、というのが正しい理屈だった。

「後悔はなかったのですか」
「なかった……と言えれば、良かったのですけれど」

 出立の間際、足を引き摺るようにして玄関へと出てきた母は、泣いていた。夫を亡くした時でさえ、娘の前では頑なに涙を見せようとしなかった母が、まるで子どものように大声をあげて泣きじゃくっていた。ごめんなさい、ごめんなさい、と何度も謝りながら。全てを分かっていながら、それでも、幸せになるのよ、と本物の花嫁へ送るような言葉も、途切れ途切れにこぼして。

 そんな母をひとりにするのは、どうしても心残りだった。今でもそれは変わらない。医者が来れば、適切な治療を受けられると分かっていても。もう薬に困ることはないと、頭ではそう理解していても。それでも、頑張りすぎて身体を壊してしまった母をひとり置いてゆくのは、とても覚悟の――そして、ある種の諦念も――要ることだった。

 元気になった母の傍には、誰かがいてくれるだろうか。夫の代わりに、娘の代わりに――。

「貴女は随分とお人好しなのですね」
「そう、でしょうか……?」

 猿面の裏側で、男が小さく笑う気配がした。肯定とも否定とも違う、けれど、まるで何かに納得したかのような、静かな笑み。

「さあ、着きましたよ」

 言いながら、男は提灯を持った手を真っ直ぐ前へ伸ばした。橙色の明かりに彩られた指先を辿って、千代はそっと、彼の指し示す方へ視線を向ける。

 そこには、四角い井戸があった。雑草と土が混ざり合ったような小さく開けた場所に、ぽつりと。年月を吸って黒ずんだ古い木枠に囲まれたそれは、しかし“井戸”と呼ぶにはあまりに簡素で、釣瓶もなければ縄や滑車もない。ただ地下へ通じる穴だけが、ぽっかりと空いている。

「井戸……?」
「ええ、井戸です」

 飄々とした口調で答え、男は井戸へと歩み寄る。傘の下にいる千代もまた、引き寄せられるようにその横に続き、井戸の傍で彼が足をとめるのに合わせて動きをとめた。月明かりにぼんやりと縁取られていただけの井戸は、提灯の灯りを受けたことでその姿をありありと晒し、蓋も何もされていない口の中の闇を一層濃く際立たせる。

 何故こんなところに井戸があるのだろう。それとなく周囲を見回してみるも、ただ夜の帷に包まれた木々が広がるだけで、集落のようなものは僅かも見えない。人の行き来のある場所ならば、少なくとも踏み分け路が何処かにあって良いようなものだけれど、それも見当たらなかった。そもそも釣瓶などがないのだから、日常使いされている井戸ではないのかもしれない。

 ぱっくりと口を開けた井戸は、まるで奈落へと続く入口のようだった。深淵に立たされている、という気がする。呑み込まれてしまいそうだ、と。或いは、引き摺り込まれてしまいそうだ、とも。

「不思議ですよね。井戸というものには昔から、様々な伝承があるのですから」

 誰にともなく、というふうにそう呟いて、猿面の男は提灯を地面に置いた。明かりの位置が下がったことで、井戸の半分以上が、再び暗く沈む。

「ひとつ、訊いても良いですか」

 唐突にそう言われ、千代はひとつ頷いてから、そっと隣を見上げた。猿面にすっぽりと覆われているせいで、横から見ても、男の顔はまるで分からない。色の白い首をしていることと、長い髪の毛を項でひとつに結っていること以外は、何も。

 視線には気付いているだろうに、男は千代へ目を向けようとはしなかった。面に刳られたふたつの穴から、井戸を――或いはその中に広がる闇を――ただじっと見つめている。何かを考え、思いを馳せるように。

 小さな間をひとつ置いて、男は口を開いた。夜気を少しも震わせない静けさで。

「――人の世は、お好きですか」

 言葉は呑み込めても、その意図がまるで理解出来ず、千代は困ったように眉尻を僅かに下げながら小首を傾げた。人の世は、お好きですか――と問われても、どう答えれば良いのか分からない。人間として産まれ、人間として人間の世界で何年も生きてきたのだから、それが当たり前であり、故に“好き”かどうかなんて考えたことは一度もなかった。もちろん、それ以外――たとえば動物や、あやかしや、幽霊――の世界と比べることだって。

 でも、そう問われて初めて考えてみると、自信を持って、そして素直にはっきりと“好き”だとは言えないことに、千代は自分で自分に驚く。母も父も大好きだったけれど。しかし、千代にとって“人の世”そのものであったあの村を好きだったかといわれれば、それはまた違うような気がしてならなかった。

「どうでしょう……よく分かりません」

 だから正直にそう答えると、猿面の男は「そうですか」と言って、微かに笑った。ひそやかな、それでいて美しくもある笑い声。隣から聞こえてくるはずのそれを、千代は――ぐらりと視界を揺らしながら、何故か背中で聞いた。

 足元にあったはずのものが、ない。地面のかたさや、泥濘や草の感触が、何処にも。

 背中を強く押された、と思う間もなく、目の前が一気に暗闇で埋め尽くされる。抗えぬまま放り出された身体が、勢いよく宙を滑り落ちてゆく。臓腑を底から激しく突き上げられるような感覚。髪の毛が、荒れ狂うように靡いている。冷たい空気が顔にぶつかって、目を開けていることが出来ない。足掻くことも、叫び声をあげることも、なにひとつ。鼓膜のすぐ傍で、ひゅうひゅうと、風の切れる音がする。視界はどこもかしこも、黒々とした闇、闇、闇――。

「今度こそ幸せにおなり――千代」

 男が何かを言ったような気がしたけれど。しかしそれは、轟々と唸る風に攫われて、意識の薄れゆく千代の耳には届かなかった。