鬱蒼とした木立の傍らから、唐突に、軽やかな声が飛んできた。低く落ち着いた、それでいて、凛とした透明感をも感じさせる、不思議な声。
隣を歩いていた男が足を止め、すかさず腰に差した刀へ手をかける。それに続いて、あちこちで草履の音がやんだ。一瞬の、沈黙。忽ち、吹き抜けた風がざあざあと木枝を揺らしながら静寂を連れ去り、雨粒に紛れて幾つかの葉っぱが宙を舞う。
護衛の男がひとり、持っていた提灯を掲げた。土地神様を祀る神社の紋章が描かれた、白地の大きな提灯。“狐の嫁入り”の時にだけ用いられるそれから漏れる蝋燭の灯りが、ぼうっと、木立に佇む男の姿を闇夜の中に浮かび上がらせる。
その男は、朱色の傘を差していた。艶と張りのある紙の中央に、白い輪の模様が施された蛇の目傘。それは灯りがなくともくっきりとしていて、周りが暗く沈んでいる分、より異質さを際立たせている。
けれど、何より千代の目を引いたのは、傘の下から覗く木彫りの面だった。色付けも絵付けもされていない木肌そのままのそれは、ただ削っただけのものに過ぎないというのに、凹凸の落とす陰影は紛れもなく猿の貌そのもので。色彩に乏しすぎるが故に不気味で、虚ろな雰囲気は底の知れない禍々しさを感じさせる。
人間だろうか、それとも“人ならざるもの”だろうか――。ごく普通の長着と袴を纏っているが、あやかしの中には人と瓜二つに擬態するものもいると聞く。こんな時刻に、しかもひと気のない木立の前に、まるで霧の中から滲み出るようにして忽然と姿を現す様は、とても人間の成し得るものとは思えない。気配というのだろうか、或いは生気というのだろうか。“人がそこに立っている”というより、あたたかな甘みのある白檀の香りそのものが佇んでいるような――。
「誰だ、貴様はっ!」
行列に並ぶ村人の中で、最も短気で気性の荒い男が、身の丈以上もある立派な槍を構えながら怒号を放つ。しかし、猿面の男は全く意に介した素振りもなく、くすりと、小さく笑った。
「名乗れるものは疾うに失いました故。誰だと問われましても、はて、困りましたね」
おかしなことを言う人だ、と、千代はまるで他人事のように思う。此処にいながら、けれど此処にいないような心地で。そうして、でも、と考える。でも彼の言いたいことは分からなくもない、と。名乗れるものは疾うに失った――今この場所に存在していることよりも、千代にはその言葉の方が、何故だかより身近に感じられた。どうせもうじき、“千代”という名を持つ人間はこの世からいなくなり、やがてはそんな人間がいたという事実さえも薄れ消えてゆくのだから。
「馬鹿なことを抜かすな!」
幾人かの男が、各々武器を手に列から外れる。薄闇と霧雨に覆われて、靄がかかったように薄ぼんやりとした猿面を明瞭に晒し出そうと、誰かが松明を高く掲げ、一歩、また一歩と慎重に――及び腰になりながらも――近づいてゆく。それでも、猿面の男は微動だにしなかった。蛇の目傘を差し、美しいまでの正しさで、すっと背筋を伸ばして立っている。
猿面の下には、どんな素顔が隠れているのだろう。殺気立つ一行の中で、恐らくはただひとり――もちろん他にも訝しんでいる者はいるだろうが、彼等とは違って、ただただ純粋に――場違いな呑気さでそんな疑問を頭に浮かべていたせいだろうか、
「私はただ、そこの女性をこちらに渡してほしいだけなのですが」
不意に、芯のある真っ直ぐな声でそう言われ、千代は思わず間の抜けた表情で、ぱちりと目を瞬かせた。そこで初めて、猿面の目元に刳り抜かれたふたつの虚から向けられる視線を、千代は意識する。冷ややかでもなければ、あたたかくもやさしくもない、どこまでも淡々としたそれ。瞳は闇に埋もれて少しも見えないというのに、そのふたつの穴に見つめられるのは、しかし不思議と嫌ではなかった。
「この女は、土地神様の大事な“花嫁”なんだぞ! お前なんかに渡せるものか!」
「それはそれは……しかたありませんね」
そう言って、くすくすと笑いながら肩を竦める男の背後で、ぬっと、何かが蠢く。木立が揺れたような、或いは、黒々としや闇そのものが歪んだような。気の所為だろうか、と思ったのも束の間、男の傍らにすうっと、まるで影の底から滲み出るように一匹の大猿が姿を現した。凡そ七尺はあるであろう巨体は茶褐色の毛に覆われ、黒と金の目は、その身に宿した獰猛さを誇示するように吊り上がっている。
「ひ、狒々だっ……!」
村一番の怪力で知られていた男が、情けない声をあげながら、泥濘の中にびちゃりと尻もちをつく。それを皮切りに、ぴんと張り詰めていた緊張感は一気に恐怖へと取って代わられ、統制を失った行列は瞬く間に散り散りとなった。そこここに響く悲鳴、水溜りを踏む足音、放り出された提灯の明かりに照らされながら弾ける飛沫、それでもなお変わらずしとしとと振り続ける雨。
気付いた時にはもう、辺りに誰の姿もなくなっていた。残っているのは水を吸って消えた松明の残骸と、踏み付けられて破れた提灯の火袋、ほうぼうに捨てられた槍や刀、それから――傘を差したまま静かに佇む猿面の男だけ。あの大猿は、いつの間にか消えていた。鳴き声ひとつ漏らすことなく、まるで最初から存在などしなかったかのように。
土地神様の大事な“花嫁”だと言いながら、しかし千代を連れてゆく者は誰ひとりとしていなかった。そもそも生贄として捧げる――つまりは殺すつもりでいたのだから、妖しい男に連れ去られようが、彼等にとってはどちらであろうと同じことなのかもしれない。置き去りにされたのだと分かっても、胸の中はずっと凪いだままだった。哀しみも虚しさも、はたまた腹立たしさすら、微塵も湧いてはこない。
「私が、怖くないのですか」
どこか愉しげな声音で問いかけられ、千代はそろりと夜空を仰ぎながら考える。怖い――確かに、不気味な男だとは思った。人かそうでないのかも分からない妖しさと、あまりの生気のなさに、禍々しすら感じはしたけれど。しかし、だからといって彼を“怖い”とは思わなかった、と、千代は奇妙な感覚を抱きながら、猿面のふたつの穴へ視線を向けた。この男も、あの大猿も――“花嫁行列”の先に待つものに比べれば、少しも恐ろしくはない。
「怖くは、ありません。理由は、私自身にも分からないのですけれど……」
その返答に、男はふっと笑った。吐息をこぼすような、やさしい笑み。飄々とした口調とは裏腹に、声も眼差しも淡々としていて人間味の感じられなかった男の見せる、それは初めての“感情”だった。
「さあ、行きましょう」
驚きに目を見開く千代をよそに、男は地面に落ちていた提灯を手に取ると、消えかけの松明から灯りを移し、そうしてひとつに結わえられた髪の毛を靡かせながら颯爽と踵を返した。
「ど、何処に行くのですか……?」
「さあ。それは着いてからのお楽しみです」
隣を歩いていた男が足を止め、すかさず腰に差した刀へ手をかける。それに続いて、あちこちで草履の音がやんだ。一瞬の、沈黙。忽ち、吹き抜けた風がざあざあと木枝を揺らしながら静寂を連れ去り、雨粒に紛れて幾つかの葉っぱが宙を舞う。
護衛の男がひとり、持っていた提灯を掲げた。土地神様を祀る神社の紋章が描かれた、白地の大きな提灯。“狐の嫁入り”の時にだけ用いられるそれから漏れる蝋燭の灯りが、ぼうっと、木立に佇む男の姿を闇夜の中に浮かび上がらせる。
その男は、朱色の傘を差していた。艶と張りのある紙の中央に、白い輪の模様が施された蛇の目傘。それは灯りがなくともくっきりとしていて、周りが暗く沈んでいる分、より異質さを際立たせている。
けれど、何より千代の目を引いたのは、傘の下から覗く木彫りの面だった。色付けも絵付けもされていない木肌そのままのそれは、ただ削っただけのものに過ぎないというのに、凹凸の落とす陰影は紛れもなく猿の貌そのもので。色彩に乏しすぎるが故に不気味で、虚ろな雰囲気は底の知れない禍々しさを感じさせる。
人間だろうか、それとも“人ならざるもの”だろうか――。ごく普通の長着と袴を纏っているが、あやかしの中には人と瓜二つに擬態するものもいると聞く。こんな時刻に、しかもひと気のない木立の前に、まるで霧の中から滲み出るようにして忽然と姿を現す様は、とても人間の成し得るものとは思えない。気配というのだろうか、或いは生気というのだろうか。“人がそこに立っている”というより、あたたかな甘みのある白檀の香りそのものが佇んでいるような――。
「誰だ、貴様はっ!」
行列に並ぶ村人の中で、最も短気で気性の荒い男が、身の丈以上もある立派な槍を構えながら怒号を放つ。しかし、猿面の男は全く意に介した素振りもなく、くすりと、小さく笑った。
「名乗れるものは疾うに失いました故。誰だと問われましても、はて、困りましたね」
おかしなことを言う人だ、と、千代はまるで他人事のように思う。此処にいながら、けれど此処にいないような心地で。そうして、でも、と考える。でも彼の言いたいことは分からなくもない、と。名乗れるものは疾うに失った――今この場所に存在していることよりも、千代にはその言葉の方が、何故だかより身近に感じられた。どうせもうじき、“千代”という名を持つ人間はこの世からいなくなり、やがてはそんな人間がいたという事実さえも薄れ消えてゆくのだから。
「馬鹿なことを抜かすな!」
幾人かの男が、各々武器を手に列から外れる。薄闇と霧雨に覆われて、靄がかかったように薄ぼんやりとした猿面を明瞭に晒し出そうと、誰かが松明を高く掲げ、一歩、また一歩と慎重に――及び腰になりながらも――近づいてゆく。それでも、猿面の男は微動だにしなかった。蛇の目傘を差し、美しいまでの正しさで、すっと背筋を伸ばして立っている。
猿面の下には、どんな素顔が隠れているのだろう。殺気立つ一行の中で、恐らくはただひとり――もちろん他にも訝しんでいる者はいるだろうが、彼等とは違って、ただただ純粋に――場違いな呑気さでそんな疑問を頭に浮かべていたせいだろうか、
「私はただ、そこの女性をこちらに渡してほしいだけなのですが」
不意に、芯のある真っ直ぐな声でそう言われ、千代は思わず間の抜けた表情で、ぱちりと目を瞬かせた。そこで初めて、猿面の目元に刳り抜かれたふたつの虚から向けられる視線を、千代は意識する。冷ややかでもなければ、あたたかくもやさしくもない、どこまでも淡々としたそれ。瞳は闇に埋もれて少しも見えないというのに、そのふたつの穴に見つめられるのは、しかし不思議と嫌ではなかった。
「この女は、土地神様の大事な“花嫁”なんだぞ! お前なんかに渡せるものか!」
「それはそれは……しかたありませんね」
そう言って、くすくすと笑いながら肩を竦める男の背後で、ぬっと、何かが蠢く。木立が揺れたような、或いは、黒々としや闇そのものが歪んだような。気の所為だろうか、と思ったのも束の間、男の傍らにすうっと、まるで影の底から滲み出るように一匹の大猿が姿を現した。凡そ七尺はあるであろう巨体は茶褐色の毛に覆われ、黒と金の目は、その身に宿した獰猛さを誇示するように吊り上がっている。
「ひ、狒々だっ……!」
村一番の怪力で知られていた男が、情けない声をあげながら、泥濘の中にびちゃりと尻もちをつく。それを皮切りに、ぴんと張り詰めていた緊張感は一気に恐怖へと取って代わられ、統制を失った行列は瞬く間に散り散りとなった。そこここに響く悲鳴、水溜りを踏む足音、放り出された提灯の明かりに照らされながら弾ける飛沫、それでもなお変わらずしとしとと振り続ける雨。
気付いた時にはもう、辺りに誰の姿もなくなっていた。残っているのは水を吸って消えた松明の残骸と、踏み付けられて破れた提灯の火袋、ほうぼうに捨てられた槍や刀、それから――傘を差したまま静かに佇む猿面の男だけ。あの大猿は、いつの間にか消えていた。鳴き声ひとつ漏らすことなく、まるで最初から存在などしなかったかのように。
土地神様の大事な“花嫁”だと言いながら、しかし千代を連れてゆく者は誰ひとりとしていなかった。そもそも生贄として捧げる――つまりは殺すつもりでいたのだから、妖しい男に連れ去られようが、彼等にとってはどちらであろうと同じことなのかもしれない。置き去りにされたのだと分かっても、胸の中はずっと凪いだままだった。哀しみも虚しさも、はたまた腹立たしさすら、微塵も湧いてはこない。
「私が、怖くないのですか」
どこか愉しげな声音で問いかけられ、千代はそろりと夜空を仰ぎながら考える。怖い――確かに、不気味な男だとは思った。人かそうでないのかも分からない妖しさと、あまりの生気のなさに、禍々しすら感じはしたけれど。しかし、だからといって彼を“怖い”とは思わなかった、と、千代は奇妙な感覚を抱きながら、猿面のふたつの穴へ視線を向けた。この男も、あの大猿も――“花嫁行列”の先に待つものに比べれば、少しも恐ろしくはない。
「怖くは、ありません。理由は、私自身にも分からないのですけれど……」
その返答に、男はふっと笑った。吐息をこぼすような、やさしい笑み。飄々とした口調とは裏腹に、声も眼差しも淡々としていて人間味の感じられなかった男の見せる、それは初めての“感情”だった。
「さあ、行きましょう」
驚きに目を見開く千代をよそに、男は地面に落ちていた提灯を手に取ると、消えかけの松明から灯りを移し、そうしてひとつに結わえられた髪の毛を靡かせながら颯爽と踵を返した。
「ど、何処に行くのですか……?」
「さあ。それは着いてからのお楽しみです」



