奴延鳥の一途婚〜輪廻の花嫁は幽世の主に溺愛される〜

 突然のことに驚いて、千代は思わず飛び退る。吸い込んだ空気が喉に絡まり、うまく呑み込むことも、吐き出すことも出来ない。咄嗟に角から身を離したものの、とはいえ僅かばかりで、これでは何の誤魔化しにもならないだろう、と、千代は目を瞠らせながら、まるで他人事のように思った。

 物音を立てたつもりはないのだけれど。影が細長く伸びて渡殿の方まで届くに足るほど、角の内側に明かりはない。そうだというのに、どうして気付かれてしまったのだろう。此処に居ることを、いつから知られてしまっていたのだろう。唇をきつく引き結び、千代はまごつきながら視線を彷徨わせる。必死に思案を巡らせるけれど、ぐちゃぐちゃの頭では、良い策を見つけることも、纏めることも出来やしない。

 結局、諦める以外に術はなく、千代は着物の袖を握り締めながら、恐る恐る曲がり角の影から姿を現した。

「も、申し訳、ございません……」

 夜な夜なひとり邸を歩いているだなんて、やはり盗人だと思われても仕方がないだろう。無論、そんなつもりは微塵もありはしないのだけれど。しかし、それはあくまで千代の言い分であって、相手がどう捉えるかは分からない。

 寧ろ、状況的には怪しさしかないだろう。使用人や、或いは彼と同じあやかしならば兎も角、まだ邸にきて殆ど時間の経っていない、何処の馬の骨とも知れぬ人間がこんな夜更けにうろついていれば――その上、物陰に身を隠したりもしていれば――、不審に思われない方が難しい。

 いずれにせよ、問い詰められる前に詫びるのが尤もだろう。そう考え、千代は深々と頭を下げる。けれど返ってきたのは、くすりと笑う朗らかな声だった。

「謝る必要はない」

 顔を上げてくれ、とやさしく言い添えられ、千代はぎこちない動きでそれに従う。足先に落としていた視線をそろりと上げれば、まるで待ち構えていたかのように、真っ直ぐにこちらを見る夜彌と目が合った。人の姿をしていながら、人ならざるものであることを示す、妖しくも美しい金の瞳。ほんの刹那だけ、千代は時の流れを忘れる。瞬くことさえ、置き去りにして。

 そんな自分にはっと気付き、千代は内心狼狽える。どうにもおかしい。今まで誰かを――家族以外の誰かを――見つめていたい、と思ったことなど、一度もなかったというのに。どうして彼にだけは、こう何度も何度も目を奪われそうになってしまうのだろう。

「あのっ、決して何かを盗もうなどとはっ!」

 疑問とともに、胸の奥底からどっと湧き上がった戸惑いと焦りに突き動かされ、千代は慌てて弁明する。挙動不審であるのは否めない。墓穴を掘っているだけのような気も。それがあまりに情けなく、千代は頭を抱えたくなった。寧ろ掘った墓穴の中に隠れることが出来たら、どんなに良いだろう。

 居た堪れなくなり、千代は身を竦めた。夜彌の視界に晒されている、というただそれだけで、今は恥ずかしくてたまらない。何と言われるのだろう、と考えれば考えるほど、彼の言葉を待つのが恐ろしくもある。

 しかし、夜彌は静かに微笑むと、ゆっくりひとつ瞬いた。まるで何かを噛み締めるかのように。

「知っている。君がそんな人間でないことは」

 やけにきっぱりとした口調に、千代は意表を突かれ、吸い込みかけた息を喉に詰まらせる。何故そんなにも簡単に言い切ることが出来るのだろう。疑うこともなければ、特に調べることもせず、それなのにどうして、“そんな人間ではない”と信じることが出来るのだろう、と。

 そもそも――。呆然と立ち尽くしたまま、千代はこくりと、喉を堰き止めていた息を漸く呑み込む。そもそも、“知っている”とはどういうことだろう。まだ出会って間もたいというのに。あたかも、昔からの知己であるかのような、その物言いは。

「それは――」
「夜空でも眺めるか?」

 言いかけた言葉を遮られ、千代は行き場を失ったそれを、声にならぬまま吐き出した。先を続けさせなかったのは、意図的だったのか、それとも偶然だったのかは、分からない。でもなんとなく、千代には前者であるように感じられた。根拠はないけれど。

 強いて言うならば、彼の端正な顔に差した、僅かな翳りのせいだろうか。気の所為にも感じられるような、ほんの微かな。けれど、もしそれが正しいとしたならば、問うたところで夜彌が真意を教えてくれることはないだろう、と思った。恐らくはうまくはぐらかされて終わるだろう、と。

「……ご一緒しても、宜しいのですか」
「良くなければ、誘ってなどいない」

 そう言ってくつくつと笑う夜彌を暫し見つめ、やがて千代は意を決して、彼の傍へと歩み寄った。隣に腰を下ろせば、物陰からでは聞こえなかった遣水の涼やかな音が、穏やかな夜風に混じって耳に届く。静寂に包まれていながら、広大な庭の奏でる自然の息吹は、住人たちの寝静まった後でさえとても賑やかだ。

「それで、こんな夜更けに何をしようとしていたんだ」

 咎めるふうでも、詰問するふうでもなく、あくまで気遣うようなやわらかな声音で、夜彌は静かにそう問うた。そんな彼の横顔を一瞥し、千代はおずおずと、膝の上で握り合わせた両手に視線を落とす。

「灯りを、いただきたく」
「灯り? まさか、寝ずに過ごすつもりだったのか?」
「い、いえ! ただ、その……お恥ずかしい話なのですが……私は幼い頃から、どうしても暗闇が怖いのです……」

 訥々と、尻すぼみになりながらもそう答え、千代はそろりと、横目で夜彌を見上げる。笑われるか、或いは呆れられるかを、覚悟の上で。

 けれど、彼のかんばせはそのどちらでもなく、ただ張り詰めたように固まっていた。僅かに見開かれた双眸が、青白く照らされた薄暗い庭を凝視している。闇に包まれた奥へ、奥へ――そう思いかけて、しかし千代はすぐにそれを否定した。違う、と。本能のような何かで、殆ど確信に近く。庭を見ていながら、その実、彼の瞳は此処ではない何処かを見ているような気がする、と。

 須臾の間、息を呑む気配がしたが、やがて彼は絡まった糸が解けるように、そっと息を吐いた。そうして千代へ目を向け、小さな笑みを静かにこぼす。

 それはまるで、彼の方が深く傷つき、途方に暮れているような、苦さを含んだ切なげな笑みだった。金の瞳に浮かぶ翳りが、一層色を濃くしたような気がする。それが何故か、千代をたまらない気持ちにさせた。不安なのか、哀しみなのか、分からない。どちらにも似ているようで、どちらにも似ていないような、そんな不思議な心地。それは、千代の胸をきつく締め付けた。ぎゅっ、と。心臓までも軋ませるほどに。

 そんな顔をしないで――。ふと、鼓膜の裏に響き渡った誰かの声に、千代はぱちりと目を瞬かせる。今のは一体何だったのだろう。聞き間違いだろうか。でも、確かに誰かが囁いたような気がする。慈しみと哀憐の滲んだ、あたたかな声で――。

「気付いてやれなくて、すまなかった。すぐに灯りを用意させよう」

 そう言って、夜彌は着物の懐から一枚の紙――人の形に切り抜かれた依代――を取り出すと、掌の上にのせたそれに、ふうっ、とやさしく息を吹きかけた。しっとりとした夜気の中へふわりと舞い上がったそれは、庭を亘ってきた穏やかな風に煽られ、羽を広げた小鳥のように、星々の煌めく空へどんどんと飛んでゆく。しかし、屋根の先へ達したところで、形代は腕の先からはらはらと、砂が崩れるように散っていった。跡形もなく、最後のひと片までも虚空に攫われて。