奴延鳥の一途婚〜輪廻の花嫁は幽世の主に溺愛される〜

 真新しい上等な布団に包まれたまま、千代はじっと、天井を凝視していた。少しも身動ぎせず、ただただ静かに、息を殺して。目はすっかり冴えていた。昼間はあんなにも慌ただしく、理解の追いつかないことばかりが起きて、てんてこ舞いだったというのに。食事を摂り、湯浴みを済ませ、充てがわれた部屋で横になっても、しかし眠気は少しも襲ってはこなかった。

 原因は、分かっている。部屋を埋め尽くす闇のせいだ。壁に丸く刳られた窓からは、ほんの僅かばかり月明かりが淡く差し込んでいるものの、それはそこここに蔓延る、墨のように黒々とした夜陰を払うほどではない。邸全体が漆黒の帷に包まれているのだと分かるほど、しんとしている。虫や蛙、梟の鳴き声さえ少しも聞こえず、その分、静けさそのものが音となって耳の奥へ響いているようだった。

 夜は怖い。得体の知れない生き物のような闇が、とても。それは漠然としたものであるけれど、でも確かな存在として千代の中に深く根ざし、夜毎身体中を少しずつ少しずつ、ゆっくりと蝕んでゆく。

 そのおどろおどろしさに、幼い頃はよく泣いたものだ。母があやしても、父が呆れても、火がついたように泣きじゃくり、そうなるともう、陽が昇るまで涙が途切れることはなかった。ある程度歳を重ねてからはもう、そんなことはしなくなったけれど。しかし、だからだろうか。部屋のそこここに、或いは身体の端々に、悍ましいものの気配を色濃く感じるようになったのは。

 家に居た頃は、母がすぐ傍にいたので、気持ちとしては幾分救われていた。それでも、雲のせいで月が翳る夜には、燭台に灯をともして眠ることもあった。朝目が覚めた時にはすっかり消えていたので、恐らくは夜中に母が消していたのだろうと思う。母はやさしく、そしてとても心配症だった。夜――というより、闇――をひどく恐れる私の為に、何処そこに高名な祈祷師がいるだとか、隣村に霊山で修行を積んだ山伏が来ているだとか、色々と調べてくれたものだ。結局、彼等に布施を払えるほどに豊かではなかったので、どれも叶うことはなかったけれど。

 深く吸い込んだ息をゆっくりと吐き出し、千代はのそりと上体を起こす。これではとても、眠れそうにない。かといって、このまま朝を迎えるというわけにはいかないだろう。ただでさえ、何の力も持たない役立たずなのだ。寝不足で迷惑をかけることは――しかも初日から――どうしても避けたい。

 もし誰か起きていたら、灯を分けてもらう。そう思いながら布団を抜け出し、文机の上に畳んで置いていた肩掛けを羽織って、千代はなるべく音を立てぬよう細心の注意を払いながら、そろりと襖戸を開けた。既に夜目に慣れているとはいえ、それでも廊下は一層濃い闇に塗り潰され、千代はその深い暗さに怖気づく。それでもどうにかなけなしの気を奮い立たせ、胸の前で寄せ合わせた肩掛けをぎゅっと握り締めながら、ひんやりと夜気の漂う廊下へ足を踏み出した。

 眠りに沈んだ廊下は、とても静謐だ。足音を立てないようにと気を付けても、歩く度に、床板の軋む微かな音が響いてしまう。自分のせいだというのに、そのいちいちにびくりとしてしまい、最初の曲がり角に辿り着くまでの間に幾度も息を呑んでしまった。

 厨へ行けば良いのだろうか。それとも、昼夜問わず誰かしらが見張りについているという門だろうか。夜彌も葛ノ葉もお靜も、もう疾うに眠りについてしまっているだろう。それなのに、己の幼稚な我儘のせいで起こしてしまうのは憚られた。けれども、勝手に邸の物を――油や火打ち石を――持ち出すのも気が引ける。やはり一度邸の外へ出て、見張りに声をかけるべきだろうか。彼等に声をかけるのには勇気がいるけれど、しかしこのまま夜闇の中でひとり震えながら過ごすよりかは良いだろう。

 見張りの詰所や厨は、北対(きたのたい)の更にその奥に広がる雑舎にある――と、葛ノ葉は言っていた。彼に教えてもらった部屋の配置を思い出しながら、千代は恐る恐る廊下を進む。こんなことなら恥を忍んで、初めから誰かしらに頼んでおけば良かった、と後悔するも、今更もう遅い。

 そっと溜息をつきながら、心許ない足取りで廊下を進んでいると――ふいに、何かが聞こえたような気がした。てっきり、皆もう眠りについているのだろうと思っていたのだけれど。千代はびくりと両肩を震わせながら、きょろきょろと辺りを見回す。しかし、音の出処となりえそうなところは、何もない。息を潜め、よくよく耳を澄ませてみると、でも確かに何かが聞こえる。それは物が動く時に立つような音でも、虫や野鳥の鳴き声でも、はたまたあやかしたちの話し声でもない。

 誰か居るのだろうか。こんな夜更けに。邸の中は安全だと聞いてはいるけれど――。そう訝しみながら、何処からともなく流れてくる謎の音に誘われるようにして、千代は足先を変えた。厨のある北の方ではなく、主殿と東対(ひがしのたい)とを繋ぐ渡廊の方へ向かって。そこから聞こえる、という保証はなかったけれど。それでも足は自然と動き、灯りのない真っ暗な廊下をそろそろと進んでゆく。いつでも逃げ出せるように、常に周囲へ――隅という隅に至るまでしっかりと――目を配りながら。

 歩けば歩くほど、近付いてゆけば近付いてゆくほど、初めは何がなんだか分からないほどぼんやりとしていた音は、やがて輪郭を持ち始め、渡廊へと続く最後の曲がり角へ辿り着いた時には、それが笛の音色であることがはっきりと聞き取れた。澄んだ水面を思わせるような、とても美しい音の連なり。静かに紡がれる旋律は艷やかであたたかく、それでいて、胸の奥底が締め付けられるほど儚くも切ない。夜気の中へ溶けるようにして消えてゆく響きは、ふっ、となくなるその刹那も清らかなままで。それはまるで、透き通る泡沫の夢のようだった。或いは、夜に散る桜の花びらのような。

 壁に手を添え、千代はそっと、曲がり角の向こう側を覗き込む。青白い月明かりに照らされた渡廊の一角。ちょうど庭へ降りる為の短い階段が設けられたそこに、笛を奏でながら座っている夜彌の姿があった。夜風にゆるく靡く濡れ羽色の髪の毛、清光を浴びてきらりと輝く耳飾り、すっと伸ばされた背筋、なめらかに動く骨の張った白い指。伏せられた目元に、睫毛の影が落ちている。凹凸のくっきりとした、涼やかな横顔。月華に彩られたそれは、昼間に見た時よりも一層麗しく、思わず目を奪われてしまうほど神秘的で。

 こんなにも優雅な美貌をした人は、初めて見た――。瞬きをするのも忘れ、こくりと息を呑みながら、千代はやわらかな音色を奏で続ける夜彌の横顔に、静かに魅入る。葛ノ葉もまた、精巧に作られた人形のような、端正な顔立ちをしていたけれど。それでも、今眼の前にいる夜彌は、格別に美しく、幽玄だった。

 彼は“人間”ではなく“あやかし”なのだから、“人ならざるもの”独特の妖しさがあるのは、当然なのだろうけれど。彼の奏でる笛の音や、天から降り注ぐ冷たい月明かりも相まってか、目の前に広がる光景は、実に幻想的だ。

 暫くの間、千代は廊下の影に身を潜め、密かに夜彌の横顔を眺めていたものの、どれくらい経った頃だろうか。ふいに、笛の音色が途切れた。伏せられていた瞼がゆっくりと持ち上がり、金色の瞳が姿を現す。かさかさとした葉擦れの音と共に庭を亘ってきた風が耳飾りを微かに揺らし、白檀の薫りをふわりと立ち上らせる。

「――眠れないのか」