奴延鳥の一途婚〜輪廻の花嫁は幽世の主に溺愛される〜

 この世には、よっつの世界があるという。
 ひとつ目は人間の住まう“現世(うつしよ)”、ふたつ目は神々の坐す“高天原(たかまがはら)”、みっつ目は死した者の還る場所である“常世(とこよ)”、そしてよっつ目は、あやかしの治める“幽世(かくりよ)”――。

 吹き抜けた穏やかな風に被衣(かずき)が靡き、焚き染められた白檀の上品な匂いが仄かに薫る。それはある種、千代にとっては御守のようなものだった。目眩まし用の被衣よりも、時折鼻先を掠める白檀の薫りの方が。それを感じると、何故だほっとするのだ。邸の中にいるような気がするからかもしれないし、或いは、夜彌が傍にいるような気がするからかもしれない。

妖都(ようと)は、夜彌様のお邸を頂に、碁盤の目状に広がっています」

 起伏のない声で淡々とそう説明する狐の男――葛ノ葉――を横目でちらりと見上げ、千代は「そうなのですね」と手短に返す。此処がどういう場所で、どういう生活が営まれているのか、そういった基本的なことを彼は簡潔に、分かりやすく教えてはくれるけれど、それ以上話題を膨らませることは決していない。まだ疑われているのだ、という気は、ふたりで鳳凰門――夜彌の邸の前に立っていた朱塗りの立派な門――を抜けた時からずっと、ひしひしと感じていた。

 ――異論はないな、葛ノ葉。

 夜彌の明確なそのひと言に、彼がやれやれと溜息をつきながら肩を竦めたのを、千代ははっきりと憶えている。主がそう言うのならば仕方がない、という、ただそれだけの反応だった。故に、葛ノ葉自身が全く逆のことを思っていても仕方はないのだ。

「鳳凰門から真っ直ぐ伸びる大路を“鳳凰大路”といい、この大路を境に左京と右京に別れ、基本的には左京に邸宅が、右京には市や花街といった店々が並んでいます」

 葛ノ葉の言葉を聞きながら、千代は彼から逸した視線で、周囲をくるりと見回す。恐らくは大路の中程を歩いているからだろうか、薄く透ける被衣越しに見る景色は、左右にあまり大差は見受けられない。水を張った側溝、風にゆるく靡く枝垂柳、通りに沿って築地塀が並び、所々に設けられた四脚門の傍には漆喰で上塗りされた脇壁もある。

 “大路”という割には、通りを行き交うあやかしの姿はあまりない。寂れている、というより、落ち着いている、と表現した方が正しいように思う。あやかしの類は基本的に夜にしか動き回らない、と、嘗て読んだ草子にはそう書かれていたが、それは幽世でも同じ――つまりは、彼等の基本的な習性――ということだろうか。

 そう疑問に思いながらきょろきょろしていると、遠くの方に、色とりどりの提灯が幾つも吊り下げられている一角が見えた。灯りこそ点いてはいないけれど、陽の下でも、その鮮やかさは特に目を引く。辺りには、大小様々な幾つかの影が遠目からでもはっきりと見受けられる。

「あの一角より先は、市井になります。鳳凰門に近い北側には位の高いあやかしの住まいがあり、南側にはそれ以外の、中級以下のあやかしが商いや畑仕事をしながら暮らしているのです」

 確かに、大路を下れば下るほど、両脇に並ぶ建物の様相は少しずつ変わってきているように思う。邸を区切る築地塀もなければ、立派な四脚門もない。丸柱で組み立てられた骨格に、土壁や網代を張った家々。屋根はへぎ板で葺き、その上に木材や石を載せて固定している。蔀戸(しとみど)を閉じているところもあれば、それを開け、更には見世棚を出して魚や野菜を売っている小家もあったりと、実に様々だ。

「あやかしにも、身分の違いがあるのですね」
「我々の世界は、人の世以上に、弱肉強食の理によって成り立っています故」

 その弱肉強食の“幽世”を統べる者こそが、鵺の一族の当主である夜彌なのだと、葛ノ葉は言っていた。つまりは、現世でいうところの“帝”に値する存在である、と。嘗ては“奴延鳥(ぬえどり)”と呼ばれ、大昔の書物にもそう記されていたそうだが、いつの頃からか“鵺”と言われるようになり、それが今も引き継がれているのだという。

 確かに、異聞奇譚の草子にも、“奴延鳥”ではなく“鵺”として、その名が書かれていたのを憶えている。ヒョーヒョーと不気味な声で夜に鳴く、正体不明のあやかし。

 あやかし――。その言葉を、千代は頭の中でゆっくりと繰り返す。いち文字いち文字を、意識の指先で丁寧になぞるようにして。此処がもといた世界ではなく、あやかしの棲まう“幽世”だと夜彌に聞かされた時には、やはり、という気持ちがありながらも、ひどく驚いたものだ。目の前には確かに、狐の耳と尻尾を生やした、如何にも“人ならざるもの”がいるにもかかわらず。それでも、それが本当のことだと呑み込むには、どうしても時間が要った。それまであやかしというのは、異聞奇譚や御伽噺の中にしか出てこない、“架空の生き物”だと思い込んでいたのだから。

「あの狒々も、あやかしだったのでしょうか」
「恐らくはそうでしょう。狒々は元来、獰猛なあやかしです。とても人の手に負えるものではありません」

 あの男も恐らく人ではない――言外にそう含まれているように感じられ、千代は被衣越しに辺りを見るともなく眺めながら、胸の内で小さく溜息をつく。あの男は一体、何者だったのだろう。絵付けも色付も施されていない、木肌そのままの猿面。その裏に隠された素顔も、そして彼の抱えていた真意も、まるで分からない。人間だったのか、それとも、あやかしだったのかどうかさえ、全く。

 小家の門口から、実に様々な姿形をしたあやかしたちが、わらわらと大路へ出てくる。赤く長い舌を垂らした男、小豆を入れた笊を抱えた老爺、身体に比して頭の大きな子ども、歯を黒く塗った両目のない女。通り過ぎ様、開いた蔀戸からちらりと中を窺うと、黄金色に変色した畳の上で、髪の長い女がころころと糸車を回しながら糸をひいていた。井戸の傍では、青白い肌をした女と、所々破けた傘に大きな目玉のついた一本足の何か、それから、赤い着物におかっぱ頭の小さな子どもが蹴鞠をして遊んでいる。

 それらを見ていると、やはり此処は“人ならざるものの世界”なのだと思い知らされる。けれどそれと同時に、人間の生活とあまり大差がない、とも思う。それは、とても不思議な感覚だった。幽世にいるのに、まるで現世にいるような。目の前にいる影はどれも、人の姿をしてはいないというのに。

 幽世を知らないのなら、まずは妖都を見てみてはどうか――。そう言い出したのは、夜彌だった。此処に住むのなら、切っても切り離せない場所であるから、と。そこにはたくさんのあやかしが棲んでいるので、信じられないものを信じる為にも良いだろう、と。

 案内役として、夜彌直々に名指しされた葛ノ葉は、とても嫌そうな顔をしていたけれど。それでも妖術を練り込んだ糸で織られた被衣――これを被っていると、人間の匂いを消せる上に、周りからは“何かしらのあやかし”に見えるらしい――を貸してくれたし、千代に歩調を合わせながら肩を並べてくれてもいる。

 素っ気ないが根は良い奴なんだ、と、夜彌は言っていた。当の葛ノ葉は眉を顰めて否定をしてはいたけれど。しかし、そう語る夜彌の声音には確かに、彼へ対する厚い信頼が感じ取れた。

「……少しは、お分かり頂けましたか」

 やわらかな風がふたりの間を吹き抜け、被衣の裾をふわりと靡かせる。同じ着物、同じ髪型、同じ顔をした幾人もの童たちが、きゃあきゃあと楽しげな声をあげながら、小屋(こいえ)と小屋の間に伸びる細い路へと駆けてゆく。桶に張られた水、何処からともなく漂ってくる芳しい匂い。突き上げ窓に飾られた赤と黄色の風車が、小さな音を立ててゆるやかに回っている。

 それらの、長閑な町並みから目を逸らし、千代は隣を歩む葛ノ葉の、端正な横顔を見上げた。その視線に気付いていながら、しかし彼は千代へ目を移すことなく、ただ真っ直ぐに前だけを向いている。

 お分かり頂けましたか――それが、妖都の様子や、あやかしたちの暮らしぶりのことを指しているのではないことは、彼の低く真剣味を帯びた声から、容易に察せられた。

 “夜彌”という男が、幽世にとってどれほど重要な存在であるのか。その全てを理解出来たわけではないけれど。それでも、たかだか人間の――しかも神力さえ持たぬ――娘如きが“花嫁”になって良い相手ではない、ということは、都の様子を見ているだけでさえ、否が応でも痛感させられた。

 でも、もしかしたらこれは、まだ序の口なのかもしれない。葛ノ葉の貸してくれた被衣のおかげで、周りは誰も、此処に人間が――しかも鵺の花嫁が――いるとは、気付いていないのだから。

 もし花嫁が、何の力も持たぬ取り柄のない娘だと知れ渡ったとして。果たして彼等は、どんな目を向けてくるだろう。嫌悪だろうか。嘲笑だろうか。――生贄に選ばれた時、周りを取り囲んでいた村人たちが見せた、好奇と蔑みの入り混じったような、あの目と同じ様に。