「誰に切っ先を向けているのか、分かっているのだろうな」
剣を含んだ声に、見張りの男たちの、戸惑いを滲ませた吐息が聞こえてくる。それに続いて、ちゃり、と、槍の動く微かな音も。そうして忽ち、辺りはぴんと張り詰めた冷たい静寂に包まれた。誰も、何も言わない。あの狐の男でさえも。
こくりと固唾を呑み、千代は穴が空きそうなほどまじまじと、くっきりと浮かび上がる美しい木目を凝視する。もし今少しでも身動げば、その途端に首が飛んでしまいそうな気がしてならなかった。槍を退け、と、夜彌は言っていたし、実際にそれが遠のく気配はしたけれど。それでも、槍ではなく、この場に漂うひりついた息苦しいほどの静寂そのものに首を刎ねられてしまいそうだ、と。
「――千代」
しかし、彼はさっきとはまるで違う――別人かと思うほどの――やさしい声で、千代の名を呼んだ。穏やかで、とてもあたたかみのある、それでいて懐かしさを滲ませた、心地の良い響きで。
「顔を上げてくれるか」
抗えるはずもなく、千代は恐る恐る、彼の言う通りに顔を上げた。その視線を、夜彌は腰を屈めて、間近で受け止める。そのまま彼はじっと、千代を真っ直ぐに見つめていた。何を考えているのかまるで読み取れない、澄んだ金色の瞳で。それは確かに太陽のよう眩いけれど、とろりとした蜜のようでもある、と、千代は半ば見惚れながら思う。
あの日――“あの男”に無理矢理襲われた時。彼の、欲望に濡れてぎらついた視線は、ただただ恐ろしく、吐き気を催すほどの気持ち悪さしか感じなかったというのに。どうしてだろう。あの男とは違って、夜彌の双眸はこんなにもすんなりと、受け止めることが出来るのは。網膜だけでなく、その先にある心にも沁み渡るように。見つめられることが、少しも嫌ではない。怖いと感じることも、嫌悪を抱くことも、ない。寧ろ、このままずっと見つめ合っていたいとさえ思ってしまう。その目に呑まれても良いから、ずっと。その瞳の中に映り込んでいたい、と。
「君に神力がなくとも、本来の“花嫁候補”でなかったのだとしても」
そう言いながら、彼は千代の右手を己の右手で掬い上げると、親指の腹で、微かに震える指先をそうっと撫ぜた。繊細な硝子細工に触れるような、或いは、生まれたての小さな雛を愛でるような手つきで。
「それでも俺は、君を花嫁に選ぶ」
確たる強い意志を宿した声で、夜彌はきっぱりとそう断言すると、まるで千代の心を落ち着けようとするかのように、朗らかに微笑んだ。そのかんばせに、とくりと鼓動が跳ねる。彼の笑みがあまりにも綺麗だったから、というより、もっと奥の深い、もっとあたたかな“何か”が琴線に触れて。
「俺の傍にいる限り、二度と辛い思いはさせない。この先何があろうと、必ず俺が君を護る」
その言葉が本心であることを示すように、夜彌はぎゅっと、千代の指先を握り締めた。皮膚からじんわりと沁みこんでくるぬくもりが、切なく胸を締め付ける。触れ合った場所が、向けられる眼差しが、あまりにもやさしくて。何故だか無性に泣きたい衝動に駆られるのを必死に堪えながら、千代は静かに目を伏せた。哀しいからでも、苦しいからでもない。ただただ――彼の言葉が、嬉しくて。
狡いことをしている、と思った。もといた場所へ戻る術は今のところ何もなく、でも、帰ったところであの村にも、そして母のもとへゆくことも出来ない。あそこにはもう、千代の居場所はないのだ。ならば、求めてくれる誰かの傍にいることの方が、良いのではないだろうか。必要としてくれる人の傍に。――それは、本当に狡いことだ、と。夜彌の親切心を利用しているようだ、と、千代は胸中でそっと自嘲をこぼしながら、徐に目を開ける。
――千代。
後ろめたさがないわけではない。罪悪感がないわけでもない。それでも――彼の真摯な眼差しは、素直に嬉しかった。何の混じり気もない、まっさらな情動。それは偽りようのない、純粋な喜びだった。
目の前にあるあたたかな金色をおずおずと見上げながら、千代は握り締められた指先に、ほんの僅か力をこめる。金もなく、神力もなく、ないないばかりの、何の取り柄のないただの人間の娘でも。もし彼が本当に、心から自分を必要としてくれるているのならば――。
「本当に……こんな私で宜しいのでしょうか」
僅かに首を傾げ、躊躇いがちにそう問いかけると、夜彌はほんの刹那目を瞠らせ、それからふわりと顔を綻ばせた。
「ああ、もちろんだ」
剣を含んだ声に、見張りの男たちの、戸惑いを滲ませた吐息が聞こえてくる。それに続いて、ちゃり、と、槍の動く微かな音も。そうして忽ち、辺りはぴんと張り詰めた冷たい静寂に包まれた。誰も、何も言わない。あの狐の男でさえも。
こくりと固唾を呑み、千代は穴が空きそうなほどまじまじと、くっきりと浮かび上がる美しい木目を凝視する。もし今少しでも身動げば、その途端に首が飛んでしまいそうな気がしてならなかった。槍を退け、と、夜彌は言っていたし、実際にそれが遠のく気配はしたけれど。それでも、槍ではなく、この場に漂うひりついた息苦しいほどの静寂そのものに首を刎ねられてしまいそうだ、と。
「――千代」
しかし、彼はさっきとはまるで違う――別人かと思うほどの――やさしい声で、千代の名を呼んだ。穏やかで、とてもあたたかみのある、それでいて懐かしさを滲ませた、心地の良い響きで。
「顔を上げてくれるか」
抗えるはずもなく、千代は恐る恐る、彼の言う通りに顔を上げた。その視線を、夜彌は腰を屈めて、間近で受け止める。そのまま彼はじっと、千代を真っ直ぐに見つめていた。何を考えているのかまるで読み取れない、澄んだ金色の瞳で。それは確かに太陽のよう眩いけれど、とろりとした蜜のようでもある、と、千代は半ば見惚れながら思う。
あの日――“あの男”に無理矢理襲われた時。彼の、欲望に濡れてぎらついた視線は、ただただ恐ろしく、吐き気を催すほどの気持ち悪さしか感じなかったというのに。どうしてだろう。あの男とは違って、夜彌の双眸はこんなにもすんなりと、受け止めることが出来るのは。網膜だけでなく、その先にある心にも沁み渡るように。見つめられることが、少しも嫌ではない。怖いと感じることも、嫌悪を抱くことも、ない。寧ろ、このままずっと見つめ合っていたいとさえ思ってしまう。その目に呑まれても良いから、ずっと。その瞳の中に映り込んでいたい、と。
「君に神力がなくとも、本来の“花嫁候補”でなかったのだとしても」
そう言いながら、彼は千代の右手を己の右手で掬い上げると、親指の腹で、微かに震える指先をそうっと撫ぜた。繊細な硝子細工に触れるような、或いは、生まれたての小さな雛を愛でるような手つきで。
「それでも俺は、君を花嫁に選ぶ」
確たる強い意志を宿した声で、夜彌はきっぱりとそう断言すると、まるで千代の心を落ち着けようとするかのように、朗らかに微笑んだ。そのかんばせに、とくりと鼓動が跳ねる。彼の笑みがあまりにも綺麗だったから、というより、もっと奥の深い、もっとあたたかな“何か”が琴線に触れて。
「俺の傍にいる限り、二度と辛い思いはさせない。この先何があろうと、必ず俺が君を護る」
その言葉が本心であることを示すように、夜彌はぎゅっと、千代の指先を握り締めた。皮膚からじんわりと沁みこんでくるぬくもりが、切なく胸を締め付ける。触れ合った場所が、向けられる眼差しが、あまりにもやさしくて。何故だか無性に泣きたい衝動に駆られるのを必死に堪えながら、千代は静かに目を伏せた。哀しいからでも、苦しいからでもない。ただただ――彼の言葉が、嬉しくて。
狡いことをしている、と思った。もといた場所へ戻る術は今のところ何もなく、でも、帰ったところであの村にも、そして母のもとへゆくことも出来ない。あそこにはもう、千代の居場所はないのだ。ならば、求めてくれる誰かの傍にいることの方が、良いのではないだろうか。必要としてくれる人の傍に。――それは、本当に狡いことだ、と。夜彌の親切心を利用しているようだ、と、千代は胸中でそっと自嘲をこぼしながら、徐に目を開ける。
――千代。
後ろめたさがないわけではない。罪悪感がないわけでもない。それでも――彼の真摯な眼差しは、素直に嬉しかった。何の混じり気もない、まっさらな情動。それは偽りようのない、純粋な喜びだった。
目の前にあるあたたかな金色をおずおずと見上げながら、千代は握り締められた指先に、ほんの僅か力をこめる。金もなく、神力もなく、ないないばかりの、何の取り柄のないただの人間の娘でも。もし彼が本当に、心から自分を必要としてくれるているのならば――。
「本当に……こんな私で宜しいのでしょうか」
僅かに首を傾げ、躊躇いがちにそう問いかけると、夜彌はほんの刹那目を瞠らせ、それからふわりと顔を綻ばせた。
「ああ、もちろんだ」



