雨が降っている。しとしとと、夜気に絡まるような細かな雨が。闇に呑まれた木々から、枝葉の震える音が聞こえる。今夜は虫の声も、蛙の声も、梟の声もまるでない。ただ雨音だけが、薄ぼんやりと照らされた古路にやさしく響く。
ふと視線を上げると、雫を垂らす傘の先から、青白い満月が見えた。今朝からずっと雨は降り続いているというのに、深い紺色に塗られた夜空には不吉な黒雲はなく、幾千もの小さな星々だけが煌々と輝いている。
それは、昼間もまた同じだった、と、許斐千代はゆっくりとひとつ瞬きながら思う。もう二度と戻ることはない愛しい我が家の小さな窓から眺めた、一片の曇りもない、どこまでも吸い込まれてしまいそうな美しい青空。燦々と降り注ぐ陽光はあたたかく、けれども、庭に植わった草花は艷やかな雨粒に濡れていた。さわさわとした音と共に。
正に“狐の嫁入り”――村人の誰かが、嘲笑混じりの声で囁いていた言葉が、ふいに、鼓膜の裏側に蘇る。嬉々とした顔と、軽蔑を孕んだ視線。嫁入り日和だ、と、村長はにこやかに言っていた。こんなにも恵まれた“花嫁”なら、きっと土地神様も大喜びだろう、と。もしかしたら、これは祝福の慈雨なのかもしれない、とも。
夜の帷に深く包まれた、丑三つ時。土地神様を祀る神社へ続く一本路を、幾つもの提灯に彩られながらぞろぞろと進む花嫁行列は、確かに数多の書物に記されてきた“狐の婚”のそれに見えるだろう。とはいえ、そもそも意図的に真似ているのだから、同じであるのは当然なのだけれど。
千代の生まれ育った村には、何百年という昔から連綿と受け継がれてきた“とある風習”が存在する。それは十年に一度、村にいる若い娘の中からひとりを選び、土地神様の“花嫁”としてその身を捧げるというもので――つまりは“生贄”、人身御供の一種だ。商売繁盛の祈願や、或いは大規模な厄災を鎮め、加護を賜る為の、最上級の捧げ物。
そんな“神様の花嫁”を、悪意ある者に――人も、人ならざるものからも――奪われるのを防ぐ為、村人たちはいつからか“狐の嫁入り”の伝承を真似るようになったという。夜闇の中にぼんやりと浮かぶ提灯や松明の灯りは、さながら狐たちの操る怪火の連なりのようで、その妖しい光景を前にすると、どんなに屈強な盗賊たちでさえ転げるように逃げてゆくのだと言い伝えられている。
本当に、それほど不気味な有様をしているのかは、分からないけれど。しかし、事実として未だ“生贄”の風習は続いているのだから、盗賊たちの逸話も事実であるのかもしれない。
「なにぼさっと歩いてんだ」
不意に背中を強く押され、千代は前のめりにたたらを踏んだ。いつも身につけている質素な――着古したせいで布地は薄くなり、継ぎ接ぎだらけだった――着物とはまるで違う、上等な反物で仕立てられた白無垢はひどく重く、腰回りをきつく締め上げているせいで、うまく態勢を整えられない。それでもどうにか踏ん張って堪えると、白い草履の先端が、小さな泥濘に僅かばかり沈んだ。雑草の葉に貼り付いた雨粒が初々しい緑の上を滑り落ち、下ろし立ての白足袋を微かに湿らせる。
暗闇は苦手だ。嫌いだと言っても良い。もとの歩調を取り戻し、周りに遅れぬよう前へ進みながら、千代は胸の内で静かに溜息をこぼす。小さい頃からずっと、暗闇が怖いのは変わらない。でもそれは、“この世の者ならざるもの”が恐ろしいのとは違う。奈落の底のような、真っ黒に塗り潰された“闇”そのものが怖いのだ。けれど、その恐怖を言葉に表すと、“得体の知れない何か”としか言えなかった。曖昧で、でもだからこそ、ひどく悍ましいもの。
部屋のそここを蝕む夜闇が空恐ろしくて、なかなか寝付けなかった時には、よく母が子守唄を歌ってくれたものだ。ねんねんころり、とんとろり。眠れや眠れ、良い子ゆえ。母の袂に、くるまりて――。
幾つも連なる提灯や松明の灯りを見つめながら、千代は家にひとり置いてきてしまった母のことを想う。夫を早くに亡くし、病弱ながらも女手一つで育ててくれた、大切な母。たったひとりの、家族。最近は特に咳が酷く、布団から起き上がれないほど病が悪化して、随分と痩せ細ってしまっていたけれど。しかしもうじき、都から医者が来てくれる。生贄となるのと引き換えに、村長はそう約束してくれたのだから。都で一番の医者を、母の為に呼んでくれる、と。だからきっと、大丈夫だろう。
「――おや、こんな夜更けに花嫁行列とは、珍しいものですね」
ふと視線を上げると、雫を垂らす傘の先から、青白い満月が見えた。今朝からずっと雨は降り続いているというのに、深い紺色に塗られた夜空には不吉な黒雲はなく、幾千もの小さな星々だけが煌々と輝いている。
それは、昼間もまた同じだった、と、許斐千代はゆっくりとひとつ瞬きながら思う。もう二度と戻ることはない愛しい我が家の小さな窓から眺めた、一片の曇りもない、どこまでも吸い込まれてしまいそうな美しい青空。燦々と降り注ぐ陽光はあたたかく、けれども、庭に植わった草花は艷やかな雨粒に濡れていた。さわさわとした音と共に。
正に“狐の嫁入り”――村人の誰かが、嘲笑混じりの声で囁いていた言葉が、ふいに、鼓膜の裏側に蘇る。嬉々とした顔と、軽蔑を孕んだ視線。嫁入り日和だ、と、村長はにこやかに言っていた。こんなにも恵まれた“花嫁”なら、きっと土地神様も大喜びだろう、と。もしかしたら、これは祝福の慈雨なのかもしれない、とも。
夜の帷に深く包まれた、丑三つ時。土地神様を祀る神社へ続く一本路を、幾つもの提灯に彩られながらぞろぞろと進む花嫁行列は、確かに数多の書物に記されてきた“狐の婚”のそれに見えるだろう。とはいえ、そもそも意図的に真似ているのだから、同じであるのは当然なのだけれど。
千代の生まれ育った村には、何百年という昔から連綿と受け継がれてきた“とある風習”が存在する。それは十年に一度、村にいる若い娘の中からひとりを選び、土地神様の“花嫁”としてその身を捧げるというもので――つまりは“生贄”、人身御供の一種だ。商売繁盛の祈願や、或いは大規模な厄災を鎮め、加護を賜る為の、最上級の捧げ物。
そんな“神様の花嫁”を、悪意ある者に――人も、人ならざるものからも――奪われるのを防ぐ為、村人たちはいつからか“狐の嫁入り”の伝承を真似るようになったという。夜闇の中にぼんやりと浮かぶ提灯や松明の灯りは、さながら狐たちの操る怪火の連なりのようで、その妖しい光景を前にすると、どんなに屈強な盗賊たちでさえ転げるように逃げてゆくのだと言い伝えられている。
本当に、それほど不気味な有様をしているのかは、分からないけれど。しかし、事実として未だ“生贄”の風習は続いているのだから、盗賊たちの逸話も事実であるのかもしれない。
「なにぼさっと歩いてんだ」
不意に背中を強く押され、千代は前のめりにたたらを踏んだ。いつも身につけている質素な――着古したせいで布地は薄くなり、継ぎ接ぎだらけだった――着物とはまるで違う、上等な反物で仕立てられた白無垢はひどく重く、腰回りをきつく締め上げているせいで、うまく態勢を整えられない。それでもどうにか踏ん張って堪えると、白い草履の先端が、小さな泥濘に僅かばかり沈んだ。雑草の葉に貼り付いた雨粒が初々しい緑の上を滑り落ち、下ろし立ての白足袋を微かに湿らせる。
暗闇は苦手だ。嫌いだと言っても良い。もとの歩調を取り戻し、周りに遅れぬよう前へ進みながら、千代は胸の内で静かに溜息をこぼす。小さい頃からずっと、暗闇が怖いのは変わらない。でもそれは、“この世の者ならざるもの”が恐ろしいのとは違う。奈落の底のような、真っ黒に塗り潰された“闇”そのものが怖いのだ。けれど、その恐怖を言葉に表すと、“得体の知れない何か”としか言えなかった。曖昧で、でもだからこそ、ひどく悍ましいもの。
部屋のそここを蝕む夜闇が空恐ろしくて、なかなか寝付けなかった時には、よく母が子守唄を歌ってくれたものだ。ねんねんころり、とんとろり。眠れや眠れ、良い子ゆえ。母の袂に、くるまりて――。
幾つも連なる提灯や松明の灯りを見つめながら、千代は家にひとり置いてきてしまった母のことを想う。夫を早くに亡くし、病弱ながらも女手一つで育ててくれた、大切な母。たったひとりの、家族。最近は特に咳が酷く、布団から起き上がれないほど病が悪化して、随分と痩せ細ってしまっていたけれど。しかしもうじき、都から医者が来てくれる。生贄となるのと引き換えに、村長はそう約束してくれたのだから。都で一番の医者を、母の為に呼んでくれる、と。だからきっと、大丈夫だろう。
「――おや、こんな夜更けに花嫁行列とは、珍しいものですね」



