月に取りのこされた俺は辺りが暗くなるまで堤防に座っていた。
さすがにそろそろ帰らなきゃ。そう思ってゆっくり立ちあがって、階段を降りて、自転車の鍵を外して乗ろうとしてふらついてこけた。
「うわ……」
自転車で転ぶなんていつ以来だろう。やわらかい地面に尻もちをついた俺は自分に呆れながら空を仰ぐ。藍色の空には雲ばっかりだった。
――俺が好きなの、おまえだよ
「そんなの……一言も言ってなかったじゃん」
自転車を起こしながらつぶやく。
月は俺が好き、なんて。いままでそんな様子一度も見せたことなかったのに。
それとも俺が見逃していただけ?
月がひそかに送ってくれていたサインを――俺は、ずっと見逃してたのかな。
やっぱりすぐには家に帰りたくなくて、俺は自転車を押しながら歩くことにした。
頭上で松の木が風に揺れる。この風のことを松籟っていうんだって、いつか姉崎さんが教えてくれた。いつだったかは思いだせないけど。
――女の子たちと仲よくなっていく俺を、月はどんな想いで見てたんだろう。
彼の気持ちを思うとずきりと胸が痛んだ。
優しいってよく言われるけど、俺はほんとうは自分のことしか考えてない。一番近くにいた月を傷つけることばかりしてたんだから。
気づかないうえに、好きなひとできたら協力するとか言って……。
ごめん、とつぶやきそうになった。それを呑みこむ。
月がほしいのは――こんなその場しのぎの言葉なんかじゃないだろうから。
……月がほしいのは。もっと……。
家に帰ってからスマホを確認したけど月からの連絡はなかった。俺も彼になんて言えばいいのかわからなくて、次の日も、その次の日も家にこもってだらだら過ごした。
なにか言わなくちゃいけない。わかってるけど。
GW最終日の昼、俺はYouTubeを開く。
ほとんど条件反射で指が月のミックスリストを再生した。
彼の音楽。彼の世界。
……月、と俺は彼がはじめて作った『No title』を聴きながら彼に話しかける。
おまえ、どんな気持ちで俺のために曲作るつもりだったんだよ。俺が好きな子に想いを伝えるためのラブソングだろ?
どれだけ優しかったら。
ずっと片想いしてる俺のために、そんなことできるんだよ――。
俺はまぶたを閉じた。ゆっくり深呼吸して、よし、とYouTubeを閉じてかわりにラインを開く。相手はもちろん月。
何度も言葉に迷ってから、俺は『会いたい』と送った。『ひかるの家行っていい?』
びっくりするくらい速く既読になった。月も俺になにか送ろうと思っていたのだろうか。
すぐ既読はついたのに返信はなかなかこない。彼が迷っている顔が目に浮かぶみたいだ。
スマホの時計がどんどん時間を進めていって、気がつくと彼にメッセージを送ってから十二分も経っていた。それでも俺はトークルームを見つめつづける。
やがて。
月から、たった二文字の返事が届いた。
『来て』
俺はすぐに自転車を飛ばした。服なんてジャージだし髪もぼさぼさだったけど。
森本家まで行くと月のおかあさんが出迎えてくれた。挨拶もそこそこに俺は二階の彼の部屋までダッシュする。
「月!」と彼を呼びながら俺はドアを開けた。
「……あ。ほんとにきた」
パソコンの前に座っていた月が回転イスをまわしてくるりと振りかえる。
久々に見る彼の顔にほっとして部屋に足を踏みいれたとき、俺は中の惨状に気づいた。
部屋はぐちゃぐちゃだった。床には破かれた紙が散らばっているし、本棚にずらりと並んでいたCDやレコードはあっちこっちに乱雑に置かれている。そしてあちこちに空のペットボトルが何本も転がっていた。
「ちょっ……」
この部屋に初めて入ったときを思わせる光景に絶句する。
あーあ、と月はヘッドフォンを外すとパソコンラックに取りつけてあるフックにかけた。
「なんで来るんだよ、バカ陽太」
「月が来てって言ったんじゃん」
片づけるからな、と俺はびりびりに破かれた紙を拾っていく。でもすぐにその手を止めた。
紙の正体はルーズリーフだった。月の、ちょっと神経質っぽい字で細かくなにかが書かれている。
……なんだろう。幻想的でよくわからないけど、歌詞、みたいな……
「作れないんだよ」
イスに座ったまま、子供みたいに足をぷらぷらさせて月が言う。
「本物の作曲家だったら。こういう気持ちも曲にすると思ったのに」
「だからあれからずーっとパソコンの前にいるのに」
「ぜんぜんダメ。カスみたいな曲しかできない。あーあ、才能枯れちゃった。これじゃ文化祭もダメだな。ごめんな、陽太」
投げやりなその言葉に俺はなに言ってんだよと返すのが精いっぱいだった。
彼はイルカが海で泳ぐみたいにすいすい曲を作る。こんなふうにいらだっているのはめずらしかった。
「月……」
「ほんとばかみてぇ」
なあ知ってた、と月は床に足をつけると急に俺を見てくる。え、と俺はつぶやいた。
「俺、陽太がいないとなにもできないんだ」
「…………」
「おまえがいないとからっぽなんだ。おまえ抜きだとなんの感情も浮かばない。死体みたい。俺、おまえがそばにいてくれないと曲作れない。おかしいよな? いつからこんなふうになっちゃったんだろ」
「月――」
「あーあ……」
疲れたように息を吐きだすと、月は俺に背を向けてパソコンに向きなおる。そしてヘッドフォンに手を伸ばした。
曲を作れないってたったいま言ったばかりなのに。
作曲する月のこと、俺はイルカみたいだって思ってた。でもいまは――水のない地面でもがく魚みたいだ。
苦しいのに。体中痛いのに。それでも、泳ぐことをやめられないでいる。
月、と俺はヘッドフォンをつけようとした彼の手をつかんで止めた。月はどうでもよさそうに俺を見てくる。
「なに? 邪魔なんだけど」
「飯食ってないんだろ。曲より先、飯。俺が作ってやるから」
「は? べつに頼んでないし」
「うるさい。俺が作りたいんだから、黙って食え」
「…………」
月はヘッドフォンをつかんでいた手をゆるめた。俺はそれをフックにもどし、「なんでもいい?」と言いながらドアのほうに向かう。
「陽太……」
廊下にでてドアを閉めようとしたとき、幻聴かと思うくらい小さな声が聞こえてきた。なにと尋ねる。
「……ロールキャベツがいい」
ぽつりとつぶやかれたそのリクエストの意味をすこし考えたあと、わかった、と俺は応えた。
月のおかあさんは急に食事を摂らなくなった息子のことを心配していた。だから俺がきたときそのことを話そうと思ったのだけど、そのまえに俺が二階に飛んでいってしまったらしい。
いつもみたいに――いつも月が作曲をするときみたいに近くのスーパーで足りない食材を買って(費用はあとで月のおかあさんに払ってもらう)、森本家のキッチンで料理を作る。
三年前にくらべると俺の料理の腕は上がった。でも今回はあえて、三年前と同じように作った。月はそうしてほしいだろうと思ったから。
「……よし」
白い器にコンソメスープで煮込んだロールキャベツを盛り、上からトマトソースをかける。
自作のドレッシングをかけた豆腐のサラダと一緒にトレイに載せ、俺はもう一度月の部屋を訪れた。
月はさっきと同じようにパソコンデスクの前に座っていた。ヘッドフォンはしていない。
俺が部屋に入るとくんくん鼻を動かす。
「……いい匂い」
「すこしずつ食べろよ。胃がびっくりするから」
「わかってるし……」
彼の前にトレイを置いてやると、月はあのときと同じようにナイフでロールキャベツを切って口に運ぶ。
でも、今度の『うまい』は。
あのときとはちがう、特別な想いがこもってるように聞こえた。



