イライラというより胸焼けのようなムカムカした思いをしたまま仁は教室にいる海斗のところまで移動する。海斗は机の陰に隠れてスマートフォンを操作していた。青葉学園では原則スマートフォンの使用は禁止されているため、バレたら反省文を書くことになる。だが、たかが反省文ごときで高校生の欲を抑制できるかと聞かれれば、絶対に無理だろう。
真剣な表情でスマートフォンを見ている海斗は仁が帰ってきたことに気がついていなかった。だから仁はそっと後ろへ回り込み、「学校でのスマホは使用禁止だぞ!」と生徒指導の先生を真似して怒鳴るフリをする。その声に驚いた海斗は「わっ! すみません!?」と慌ててスマートフォンを隠しながらようやく顔を上げた。
「……って、なんだお前かよ」
「ふふん、そうやって一点に集中してると今みたいに先生にばれて怒られるよ」
「ドヤ顔ムカつくな……。でも言い返したくても、何も言い返せるところがないのが悔しい」
ムッとした表情で海斗が言えば、仁はさらに揶揄うように笑った。
「そんなに笑うなら俺にだって考えがある……。仁、お前、王子様とはどうなってるんだよ」
「はっ!?」
「その様子だと、何も進展がないんだな。いや、王子様は進展させたいけど、鈍チンな仁のせいで何も始まらない、か」
冷静な分析を伝えられ仁は思わず辺りを見渡して遥がそばにいないのを確認する。こんな恋バナみたいな話を推しに聞かれたらと思うと、背筋に嫌な汗がタラタラと流れる。
「何かエピソードないのかよ。今なら出血大サービス、惚気も聞いちゃうけど」
惚気、と言われて仁は慌てて首を横に振る。勢いをつけすぎて若干気持ち悪くなったが、それどころじゃなかった。
たしかに、最近は遥といる時間の方が長くなっているが、推しの一挙手一投足、どんな行動であっても見逃さないようにするので精一杯なのだ。惚気なんて——。
「あっ……!」
「お、何かあるんだな? よし、それを教えろよ。今後、揶揄うネタにするから」
ついに本心を露わにした海斗になんだこいつ、と胡乱げな視線を送りながらも口を開く。
「惚気……ではないけど、海斗。俺の瞳ってそんなにキラキラ光ってるか?」
「キラキラ……? まぁ、濁ってはないとは思うけど、キラキラしてるかと聞かれると……普通の瞳だな」
「そう、だよなぁ」
海斗の言葉を聞きながら、先ほどの遥との会話を思い出す。
「推しが……言ったんだよ。俺の瞳がキラキラしてるところがいいって」
「はーん?」
「だけど、自分の瞳って自分では見えないじゃん。だから海斗の目からはどう見えるのかなって思って」
話しているうちにだんだんと恥ずかしくなってきて、言葉の最後に向かってどんどんと声が小さくなる。生徒たちの喧騒に言葉が呑み込まれていく。同時に仁の視線も下へと落ちていった。なんでこんなに恥ずかしい気持ちになってるんだ、と顔を歪める。
いつも通り推しのファンサだと思えば良かったはずなのに。
仁を喜ばせるため、咄嗟に口から出た言葉だったと思えば、こんなに悩むことはなかったはずなのに。
なのに、最近推しとの距離感がおかしくなっているせいで、遥のすることに対する仁の受け取り方もどんどんと変化しているみたいだった。この変化がいいものなのか、それとも悪い兆候なのか。考えすぎた仁の頭では何が何だかわからなくなる。
だから、揶揄われるかもしれないとわかっていても、誰かに——海斗に話を聞いて欲しかったのだろう。正解じゃなくてもいいから、答えの指針を示して欲しかった。
海斗は少し悩んだ後、ゆっくりと口を開く。
「俺の目にはただの目にしか見えない。きっと他のやつに聞いても同じことを言うと思う。でも、王子様——遥は違ったんだろ?」
「……うん」
「俺から言えるのは、遥のことを『推し』としてじゃなくて、ちゃんと一人の人間として見てやれ、ってことくらいだわ」
「別に、今だって……」
「いーや。見てない。お前は遥のことなーんも見てない。上っ面だけを見て、キャーキャー言ってるその辺の女子と変わらん。——それは、仁が一番嫌いだろ?」
海斗の言葉に仁は小さく頷く。
その通りだった。
好きな食べ物、嫌いな食べ物。好きな色、好きな本。
人から聞けばわかるようなことはなんでも知ってる。なんでもわかる。
でも、仁はいつだって二階堂遥のことを見守っているが、遥の気持ちは全然知らない。
好きなものを前にしてどんな感情を抱くのか。綺麗なものを見て何を思うのか。
仁には何もわからない。
「……ま、そんな顔するなよ。王子様だってそれをわかった上でお前がいいって言ってるんだろうし」
泣きそうな顔を見られたが、海斗はいつものように揶揄うことはなかった。それどころか、仁の背中を軽く叩いて励ますそぶりまで見せる。
「……海斗が優しい…………うぅ、きっと明日は雨が降るんだぁ」
込み上げてくる感情を抑え込むように海斗に抱きつく。海斗は「ちょ、た、のむから、ひっつくな!」と全力で仁の体を押し返していた。
そんなすったもんだを教室で繰り広げていると、ふと二人の上から影が落ちる。海斗が頬を引き攣らせ、壊れた人形のようにゆっくりと背後を振り返った。予想通りの人が、絶対零度のブリザード並みの視線で海斗の方を見ていたから、海斗は思わず「痴話喧嘩に俺を巻き込むな!」と心の中で叫ぶ。
「ねぇ、仁。抱きつくなら僕にしなよ」
「……え、いやぁ?」
「それとも僕より平山くんの方がいい?」
寂しげに首を傾ける遥を見て、仁は反射的に「推しの方がいいです!」と返そうとして口をキュッと引き結ぶ。
もしかしたら遥はそんな些細な言葉の言い回しは気にしないかもしれないが、なぜだか仁がそれは嫌だと思ったのだ。
遥のことが推しとして好きなのは変わらない。きっとこの先も。
だけど、自分にその形はどうであれ好意を寄せてくれている人に、『推し』だからと返すのは失礼なのではないかと海斗の言葉でようやく気がついたのだ。
仁の中に生まれた小さな引っ掛かりを、仁は無視してはいけない。そう思ったら、いつものように遥と話せなかった。
仁は海斗から離れると、遥と向き合う。それなりに身長差があるから、見上げる形になるのはご愛嬌。薄茶色の瞳が不思議そうに仁のことを見ている。
「……俺には、なんでそんなに好きでいてくれるのかわからない」
自分の気持ちも、遥の想いも。そこまで考えて、でも、と思考を切り替える。
「わからないから、教えてほしい」
「……! なら、まずは名前で呼んでよ。そこから始めよう、ね」
遥の提案に一番に思いつくのは「推しの名前を呼ぶのは解釈不一致」という気持ちだった。だけど、その気持ちにそっと蓋をする。感情を殺すのではなく、ちょっと脇にどかすようなイメージで。
仁は深呼吸を数回繰り返すと、覚悟を決めたようにちゃんと遥の瞳を見つめる。
そして、小さな声でその名前を呼んだ。
「遥」と——。
真剣な表情でスマートフォンを見ている海斗は仁が帰ってきたことに気がついていなかった。だから仁はそっと後ろへ回り込み、「学校でのスマホは使用禁止だぞ!」と生徒指導の先生を真似して怒鳴るフリをする。その声に驚いた海斗は「わっ! すみません!?」と慌ててスマートフォンを隠しながらようやく顔を上げた。
「……って、なんだお前かよ」
「ふふん、そうやって一点に集中してると今みたいに先生にばれて怒られるよ」
「ドヤ顔ムカつくな……。でも言い返したくても、何も言い返せるところがないのが悔しい」
ムッとした表情で海斗が言えば、仁はさらに揶揄うように笑った。
「そんなに笑うなら俺にだって考えがある……。仁、お前、王子様とはどうなってるんだよ」
「はっ!?」
「その様子だと、何も進展がないんだな。いや、王子様は進展させたいけど、鈍チンな仁のせいで何も始まらない、か」
冷静な分析を伝えられ仁は思わず辺りを見渡して遥がそばにいないのを確認する。こんな恋バナみたいな話を推しに聞かれたらと思うと、背筋に嫌な汗がタラタラと流れる。
「何かエピソードないのかよ。今なら出血大サービス、惚気も聞いちゃうけど」
惚気、と言われて仁は慌てて首を横に振る。勢いをつけすぎて若干気持ち悪くなったが、それどころじゃなかった。
たしかに、最近は遥といる時間の方が長くなっているが、推しの一挙手一投足、どんな行動であっても見逃さないようにするので精一杯なのだ。惚気なんて——。
「あっ……!」
「お、何かあるんだな? よし、それを教えろよ。今後、揶揄うネタにするから」
ついに本心を露わにした海斗になんだこいつ、と胡乱げな視線を送りながらも口を開く。
「惚気……ではないけど、海斗。俺の瞳ってそんなにキラキラ光ってるか?」
「キラキラ……? まぁ、濁ってはないとは思うけど、キラキラしてるかと聞かれると……普通の瞳だな」
「そう、だよなぁ」
海斗の言葉を聞きながら、先ほどの遥との会話を思い出す。
「推しが……言ったんだよ。俺の瞳がキラキラしてるところがいいって」
「はーん?」
「だけど、自分の瞳って自分では見えないじゃん。だから海斗の目からはどう見えるのかなって思って」
話しているうちにだんだんと恥ずかしくなってきて、言葉の最後に向かってどんどんと声が小さくなる。生徒たちの喧騒に言葉が呑み込まれていく。同時に仁の視線も下へと落ちていった。なんでこんなに恥ずかしい気持ちになってるんだ、と顔を歪める。
いつも通り推しのファンサだと思えば良かったはずなのに。
仁を喜ばせるため、咄嗟に口から出た言葉だったと思えば、こんなに悩むことはなかったはずなのに。
なのに、最近推しとの距離感がおかしくなっているせいで、遥のすることに対する仁の受け取り方もどんどんと変化しているみたいだった。この変化がいいものなのか、それとも悪い兆候なのか。考えすぎた仁の頭では何が何だかわからなくなる。
だから、揶揄われるかもしれないとわかっていても、誰かに——海斗に話を聞いて欲しかったのだろう。正解じゃなくてもいいから、答えの指針を示して欲しかった。
海斗は少し悩んだ後、ゆっくりと口を開く。
「俺の目にはただの目にしか見えない。きっと他のやつに聞いても同じことを言うと思う。でも、王子様——遥は違ったんだろ?」
「……うん」
「俺から言えるのは、遥のことを『推し』としてじゃなくて、ちゃんと一人の人間として見てやれ、ってことくらいだわ」
「別に、今だって……」
「いーや。見てない。お前は遥のことなーんも見てない。上っ面だけを見て、キャーキャー言ってるその辺の女子と変わらん。——それは、仁が一番嫌いだろ?」
海斗の言葉に仁は小さく頷く。
その通りだった。
好きな食べ物、嫌いな食べ物。好きな色、好きな本。
人から聞けばわかるようなことはなんでも知ってる。なんでもわかる。
でも、仁はいつだって二階堂遥のことを見守っているが、遥の気持ちは全然知らない。
好きなものを前にしてどんな感情を抱くのか。綺麗なものを見て何を思うのか。
仁には何もわからない。
「……ま、そんな顔するなよ。王子様だってそれをわかった上でお前がいいって言ってるんだろうし」
泣きそうな顔を見られたが、海斗はいつものように揶揄うことはなかった。それどころか、仁の背中を軽く叩いて励ますそぶりまで見せる。
「……海斗が優しい…………うぅ、きっと明日は雨が降るんだぁ」
込み上げてくる感情を抑え込むように海斗に抱きつく。海斗は「ちょ、た、のむから、ひっつくな!」と全力で仁の体を押し返していた。
そんなすったもんだを教室で繰り広げていると、ふと二人の上から影が落ちる。海斗が頬を引き攣らせ、壊れた人形のようにゆっくりと背後を振り返った。予想通りの人が、絶対零度のブリザード並みの視線で海斗の方を見ていたから、海斗は思わず「痴話喧嘩に俺を巻き込むな!」と心の中で叫ぶ。
「ねぇ、仁。抱きつくなら僕にしなよ」
「……え、いやぁ?」
「それとも僕より平山くんの方がいい?」
寂しげに首を傾ける遥を見て、仁は反射的に「推しの方がいいです!」と返そうとして口をキュッと引き結ぶ。
もしかしたら遥はそんな些細な言葉の言い回しは気にしないかもしれないが、なぜだか仁がそれは嫌だと思ったのだ。
遥のことが推しとして好きなのは変わらない。きっとこの先も。
だけど、自分にその形はどうであれ好意を寄せてくれている人に、『推し』だからと返すのは失礼なのではないかと海斗の言葉でようやく気がついたのだ。
仁の中に生まれた小さな引っ掛かりを、仁は無視してはいけない。そう思ったら、いつものように遥と話せなかった。
仁は海斗から離れると、遥と向き合う。それなりに身長差があるから、見上げる形になるのはご愛嬌。薄茶色の瞳が不思議そうに仁のことを見ている。
「……俺には、なんでそんなに好きでいてくれるのかわからない」
自分の気持ちも、遥の想いも。そこまで考えて、でも、と思考を切り替える。
「わからないから、教えてほしい」
「……! なら、まずは名前で呼んでよ。そこから始めよう、ね」
遥の提案に一番に思いつくのは「推しの名前を呼ぶのは解釈不一致」という気持ちだった。だけど、その気持ちにそっと蓋をする。感情を殺すのではなく、ちょっと脇にどかすようなイメージで。
仁は深呼吸を数回繰り返すと、覚悟を決めたようにちゃんと遥の瞳を見つめる。
そして、小さな声でその名前を呼んだ。
「遥」と——。



