推しが恋人になるなんてお断りです!

そして話は冒頭へと戻ってくる。

 一緒に帰るっていうから頷いたのに、結局連れて行かれたのは校舎裏。学生が告白するスポットの定番の場所。人気が少なく、校舎の影のせいでほんの少しだけ暗いそこで仁は遥にいわゆる壁ドンをされていた。

 それだけならまだしも、告白のようなものをされ、後生大事に守ってきたファーストキスすら奪われてしまう。奪われてしまったものは生涯の宝にするとしても、告白はどうしても受け入れられない。


 どこの世界に推しと付き合いたい奴がいるんだよ! 俺はリア恋勢じゃないんだよ!


 そんな仁の悲鳴は声になることはなく。お互いの息遣いを肌で感じられるほど近くにある遥の顔から表情が消えた。怒っているとかそういう感じではなく、本当に無って感じだった。初めて見る表情に仁は咄嗟にポケットに忍ばせているマル秘ノートを取り出そうとして、腕を遥に掴まれる。

 えっ——と思った時には、腕を思いっきり引っ張られる。急なことに体勢を保つことができず、つい遥の胸の中に飛び込む形になった。



 ……あ、これ、レモンの香りだ。



 人は驚きすぎるとどうでもいいことを考えてしまうらしい。仁は遙のシャツから香るレモンの香りに意識が持っていかれる。

「ねぇ、仁。僕、ずいぶん待ったと思うんだ」

 静かな声が耳元で聞こえる。遥は170センチ近く身長があり、余裕で仁を腕の中に抱き込むことができた。仁はこんなところで自分の身長が低いことが裏目に出るとは思ってなかった。それでもなんとか腕に拘束された隙間から顔をあげると、瞳の奥に隠しきれない欲望が燻っていることに気がつく。

「僕からたくさんアピールしたし、仁もいつも嬉しそうに頬を赤らめてたよね」
「……いや、それは」

 推しからの供給が凄くて昇天しそうになっていただけ、とはなぜか言えない雰囲気だった。仁は正直に伝えることをやめて、視線を彷徨わせる。なんでもいいから推しの腕の中から解放されたかった。早く離れないと、それこそ天に召されてしまう。

「僕のこと、仁も好きなんだと思ってたけど、違うの?」
「お、俺のはあくまで推しが尊いっていう気持ちで、決してそんな邪な気持ちでは……」
「なら、俺のこと、嫌い?」
「いえ! 大好きです!」

 潤んだ瞳で哀しげに見つめられたら嘘でも嫌いなんて言えるわけなかった。好きの意味が違ったとしても、仁が遥を推していてファンとして好きということに変わりはない。そこを偽れば、自分の信念に傷がつくと思った。

 そこで仁は、ふと立ち止まって会話を思い出す。


 いや、そうだ。俺の推しは一体なんて言った——? たしか——。



「ま、あ、え? お、俺のことす、す……!?」


 好き、という単語はなぜか口にすることはできなかった。その代わり、驚きで見開いた目で遥のことを見つめる。自分と遥を交互に指差して、心の中でなんて、と何回も繰り返しながら。

 ようやく遥の告白に気がついた仁に、彼は仕方なさそうに肩を竦めた。「そういうところも可愛くて好きだけどね」とまるで惚れた弱みだというように呟く。

「そうだよ、仁。僕は君のことが好きなんだ——だから、付き合ってよ」
「……っ! い、いやそれは……あくまで推しは推しっていうか……推しとファンがどうこうなっちゃいけないっていうか」
「最近では推しとファンが付き合うこともあるよ」
「え? い、いやそれは嘘だ! 誇張された現実だ! ファンは推しと同じ空気を吸って、その姿を拝めればもうそれだけで満足なんだから! 決して、付き合いたいなんて」
「でも、俺のこと好きなんでしょ?」
「……うぅ、好きです、大好きです…………」
「なら、問題ないよね」

 にっこりと笑う遥に仁は心の中で「問題しかないよ」と全力で否定する。だが、その言葉が声になることはなかった。それほど美人の微笑みに仁は耐性がなかった——いや、推しである遥の顔面に負けたというのか。

「……問題、ありません…………」
「良かった! ここまでして仁に振られたら、どうやって仁を閉じ込めようかと思ってたから」
「さりげなく拉致監禁エンドフラグを打ち立てないでもらってもいいですか!?」
「あはは、大丈夫だよ。仁がちゃんと素直になってくれればそんな未来は来ないから。……あ、でも、他の人と必要以上に仲良くしたらありえるかも?」

 笑顔で物騒なことを言う。普通ならその執着に怯えるところなのだろうが、仁の頭はあいにく普通じゃない。仁は遥の言葉を頭の中で反芻させながら、遥が監禁したらどんな生活になるのか、という妄想を繰り広げていた。きっと、至れりつくせりの生活が待っていて、遥なしの生活ができなくなるくらい甘やかされるのだろう。そう考えると、遥に拉致監禁される人はもしかしたらすごい幸運なんじゃないか?

「仁、また一人で妄想の世界にいるでしょ。目の前に僕がいるのに」

 遥はぷくっと頬を膨らませる。ハムスターみたいな表情の可愛さに胸打たれた。実際「うぐっ」と濁った悲鳴をあげ、痛む胸をガシッと掴んだ。だが、その発言はいただけない。まるで冴えないモブ生徒の妄想に嫉妬するかのような発言は。


「じゃあ、まずは僕の名前を呼んでみようか。ほら、遥って」


 にこやかに告げられた内容に仁は目を見開きながらわなわなと体を震わせる。どの界隈でも推しのことを名前で呼んだり、愛称で呼んだりする人がいることはわかっている。それは親しみを込めていたり、推しをより近くで感じたいと思うファンの心理になるのだろう。だが、世の中には推しを神聖視している人たちもいる。神のように崇め奉り、推しのことは呼び捨てにしない。それは鉄の掟と言っても過言ではなく、もれなく仁は後者のタイプだった。



「——推しの名前呼びは解釈不一致です!」



 だから、遥のお願いごとではあったが、丁重にお断りさせてもらった。