推しが恋人になるなんてお断りです!

 教室で遥のお願いに頷いた時、仁は推しの家に行けることに興奮して気がついていなかった。推しの家に行くということは、推しと一緒に家まで帰るということに。つまり、下校デートイベントが自然と発生することになる。

「仁? また考え事?」

 何度も立ち止まっては今の状況を理解しようと頑張ったが、やはりこの状況は自分に対するご褒美が過ぎるのではないかと不安になった。明日、階段から転んで骨折しますと言われても、今の仁なら甘んじてそれを受け入れる覚悟すらある。

 そんなことを考えていると、「ほら、行こう」と遥が自然な流れで仁の手を握った。ただの友達としての握り方ではなく、いわゆる恋人繋ぎってやつで。

「なっ!?」

 繋がれた手と遥のことを交互に見つめれば、遥は意地悪そうに笑う。

「他のこと考えてた罰だよ、仁」
「い、いやでもそれは……」

 遥のことを考えていたんだよ、とは流石に暴露できず黙り込む。同時にこんなところを他の生徒に見られたら、明日、転んで骨折どころか後ろから刺されても文句は言えない。

 そう思って辺りを見渡すが、近くには同じ高校の生徒はいないよだった。ほっとして胸を撫で下ろすと、それが面白くなかったのか遥がぐいっと仁のを引っ張った。仁は思わずその場でたたらを踏む。

「別に僕は見せつけてもいいと思うんだけど。だって、僕たち付き合ってるんでしょ?」
「え?」
「ん?」


 遥は今、なんと言ったのか。付き合っている? 誰と誰が? ——遥と俺?


 遥の言葉を咀嚼するまでに数秒かかる。そしてハッとする。

 仁は確かに遥の「好きです、付き合って」という言葉に頷いていた。そのことをずっと忘れていた——もとい、正しく認識をしていなかった仁はようやく遥の言葉の意味に気がつく。その瞬間、仁は顔をリンゴよりもさらに濃く、真っ赤に染めた。

 思わず遥の手を振り払って顔を隠そうとしたが、それ以上の力で遥に手を握られる。仕方なく仁はその場にしゃがみ込んで地面を睨みつけた。


 ——なんでこんな大事なことを忘れてたんだ! 俺のばかばか!


 推しのことならなんでも知っていると思っていたのに、実際は知らないことばかりだし。

 推しのことならなんでも覚えていられると思っていたのに、実際は都合よく忘れていた。


 もしかして、俺って——。


「——ファン、失格? 推してる資格ない?」

「こーら、仁。それ以上考えるのは禁止」


 愕然としている仁の顔を遥はぐいっと掴んで無理やり上に向ける。飴色の瞳と仁の瞳が絡み合う。遥の瞳の中には情けない顔をした自分の顔が写っていた。

「忘れられちゃってたのは残念だけど…………でも、無意識にでも僕と一緒にいることを選んでくれたんでしょ?」

 酷い事をした。流石の仁でもそれくらいわかる。なのに遥は傷ついた様子は一切見せず、むしろ嬉しそうに蕩けた笑みを浮かべた。その笑みはまるで聖母のように慈愛に満ちていて、仁は思わずほぅと息を吐く。

「意識してなくても僕といようとしてくれたのは、なんでかな?」
「なんでって……俺は…………」

 推しのことを少しでも近くで観察したくて、と考えて息を止める。「違う」と心の中の自分が推しとしての自分の考えを否定してきた。

 確かに、これまでは推しを遠くから観察して、推しと同じ空気が吸えていればそれでよかった。


 だけど最近はどうだろうか。

 推しが——遥がそばにいてくれることが当たり前になっていて。遥と他の誰かが、と考えればちょっと心がざわつくようになって。


 ——それはどうして?


 自問自答を重ねても、答えは見つかりそうにない。だけど適当な言葉で遥と向き合いたくもなかった。

「……わからない。——けど、わかるようになりたい」

 それが今の仁の精一杯の答えだった。その答えを聞いた遥は大きく目を見開いたあと、「それでいいんだよ」と柔らかく微笑んだ。

「じゃあ、少しでも仁が答えに近づけるように、手はこのままにしようね」

 恋人繋ぎをしている手を持ち上げる。仁は一瞬何かを言おうとして、すぐに口を閉じた。今度はその手を振り払おうとするのではなく、その手を握り返しながら仁は小さく頷いた。