推しが恋人になるなんてお断りです!

 思わず唇の隙間から漏れた声はとても小さかったのに、静かな店内に大きく響き渡った気がした。

 仁は瞳がこぼれ落ちそうなほど大きく目を見開き、無意識のうちにカメラを起動していた。そして、カシャという乾いた音が二人の間に落ちる。その音で何をされたのか気がついた遥は、「……消して」と消え入りそうな声で呟いた。

 遥は顔を真っ赤に染め、照れた顔を隠すように口元を手で覆っている。困ったように目尻は下がっているのに、なぜか仁のことを睨んでいるようにも見えた。そんなちぐはぐな表情が、なんだか妙に可愛らしく思えた。必死に取り繕うとしているのが丸わかりだった。

 仁はそんな推しの照れ顔に、無心でシャッターを切っている。何度も響く乾いた音に、痺れを切らした遥が「ちょっと! 何枚撮るんだよ!」と珍しく怒りながら仁のスマートフォンに手を伸ばす。見たことない推しの姿に呆然としながらも、仁は遥からスマートフォンを遠ざけた。こんな照れた推しの顔、消されたらたまったもんじゃない、と考えながら。


「ねぇ、お願いだよ、仁。さすがに、情けないし、恥ずかしいし……だから、スマホ貸して」
「……い、嫌だ」
「仁……どうしても?」


 首をコテンと傾けて可愛い顔をしても無駄だ。頬はリンゴのように真っ赤に染まっていて、感情を隠しきれていない。それに、推しの頼みでもこの写真だけは渡せない。それほどインパクトが強く、また新鮮に感じたのだ。


 仁の知らない推し——遥の表情がこんなにもたくさんある。


 これは海斗の指摘を馬鹿にすることはできなくなってきた。結局、仁は遥の上辺だけしか見えておらず、知っていることも誰もが知っているようなことばかりなのだ。

「あー、わかったよ。その代わり、その写真、誰にも見せないで」
「も、もちろん……!」
「久しぶりにこんなに動揺しちゃって、みっともない顔まで見せて……ちょっと情けないね」
「そんなことない!」

 笑って自分のことを卑下する遥に仁は即座に否定する。

「情けなくなんてない! むしろ、は、遥の新しい一面が見れて嬉しい! 新しい扉を開きそうっていうか、知らなかったことが知れて、また一つ宝物が増えたみたいな……」

 ぐちゃぐちゃな感情のまま言葉にしたからか、支離滅裂で結局何を言いたいのかわからなくなる。それでも、この気持ちをちゃんと伝えなければいけない、とそう思ったのだ。

 仁が恐る恐る遥の顔を伺えば、彼は一瞬目を見開いた後、すぐに心の底から嬉しそうに破顔した。

「……あはは。僕の情けない姿が宝物かぁ。そう思ってくれるなら、僕も嬉しいかも」

 俺も、と続けようとした時、横から店主が現れる。ハッとして視線を向ければ、店主は氷の入ったオレンジジュースとアイスコーヒーをそれぞれの前に置く。真ん中には綺麗に並べられた焼き菓子の皿を置き、ニコリと笑って下がった。


 ——もしかしなくても、今の会話全部聞かれてた?


 そのことに気がついた時、今度は仁が顔を真っ赤に染める番だった。


 ——なんだよ。俺、今、アホみたいに恥ずかしいこと言わなかったか!?


 必死に話しかけていたから、正直何を言ったのかは思い出せなかったが、絶対に恥ずかしいことを言ったはずだ。

 そんなことを考えていると、目の前からカシャっという音が聞こえた。

 驚いて顔を上げれば、イタズラが成功した子供のように笑う遥が、スマートフォンを仁に向けている。一瞬、何をされたのかわからなかったが、すぐにやり返されたのだと気がついた。

「ちょ、お、俺の写真はいらないですよね!?」

 つい敬語になってしまうほど激しく動揺する。遥と同じようにスマートフォンを奪おうとするが、身長差的にどう足掻いても届かないのが悔しかった。

「仁が僕の写真持ってるなら、僕も持ってていいよね」
「それとこれとは……!」
「僕も、仁の新しい一面が見れて嬉しいんだよ」
「……っ!」

 そんなことを言われてしまえば、仁は何も言い返せなくなる。

 ——なんだよ、なんだよそれ! なんで、そんな夢みたいにあり得ないファンサを俺に……。

 そこまで考えて、ふと思考を止めた。


 ——違う。これはファンサなんかじゃない。


 仁はゆっくりと席に座り直して、遥のことを真正面から見つめる。急に静かになった仁に遥が不思議そうな顔をしていたが、今の仁に気にする余裕はなかった。

 だけど、じっと見つめた飴色の瞳が、彼の思いをちゃんと仁に伝えていた。

 仁は悩んだ末に震える唇を動かす。


「……なんで、俺だったんだよ」
「なんで、か……。逆に聞きたいんだけど、どうして僕だったの」


 質問に質問で返されるが、仁は気にしなかった。

 ——どうして……。そんなの簡単な話だ。


 仁はあの日のことを思い出す。誰もが自分の道を歩くのに必死になっている中、一人で空を見上げていた時のことを。

 夕陽が沈んでいき、夜の帳が空にかかりかけていた。空に現れた自然のコントラストに胸打たれて、食い入るように空を見ていたら、ふと視線に気がついたのだ。今と同じように、飴色の瞳が何かに驚いたように目を見開いていることに。

 あの時、唯一、仁のことに気がつき、仁の見る世界を一緒に見ようと空を見上げた遥のことが気になったのは、絶対に偶然なんかじゃない。

 あの日から仁の心の中にはずっと遥がいた。


「……は、遥が——俺の見る世界を、綺麗だって言ってくれたから」
「!」
「お、俺は話した!」

 次はお前の番だ、というように話を打ち切る。ターンを譲られた遥は何かを考えた後、静かに話し始めた。

「前も言ったけど、僕は仁の瞳がキラキラと輝いてたから興味を持ったんだ」

 またそれか、と険しい顔を見せれば遥は楽しそうに口元に笑みを浮かべた。

「好きなものを好きだと、言葉以上に伝えてくるその瞳が、僕は羨ましかったんだと思う」
「羨ましい?」
「うん。僕は昔から人の顔色を伺う癖があってね。自分の気持ちを優先するより、周囲の人が望むような自分でいる方が楽だったんだ」

 遥は遠くを見つめながら何かを思い出しているようだった。

「だから、仁を学校の帰り道に見つけた時、とってもびっくりした。周囲の視線も気にせずに、みんなが見ようとしない空を見上げて。あんなにも目を輝かせることができる人がいるんだって」
「……ん? ちょっと、待って。それって——」

「空、撮ってたでしょ?」

 秘めた思いを打ち明けるように、遥は小さな声で仁に言う。仁はまさか、と思って目を見開く。

「は、遥、あの日のこと覚えて……?」
「もちろんだよ。仁は僕に気がついたらそそくさとどこへと行っちゃったけど」

 せめて世間話くらいしたかったのに、とあの日のことを思い出して遥は頬を掻いていた。だが、仁としてはそれどころじゃなかった。

 ずっと覚えているのは仁だけだと思っていた。だって、あんな数分にも満たない時間を、後生大事に抱えるなんて。普通に考えたら気持ち悪いだろう。最初から知り合いだったわけでも、話したわけでもないのに。ただあの時間、同じ場所にいただけのやつのことを……。


 ——そんな些細な出会いを覚えてる理由は?


 そう聞きたくて、喉が震えた。だけど、結局仁は顔を真っ赤にしただけで何も言えなかった。その答えが、二人の関係を決定的に変えてしまいそうだったから。