『君と綴る風は今も尚、煌めき溢れる』

歩ける。進める。ありのままの私を綴れる。


『風影る』

もう、二十年以上、か。
「しゅうー!」
その言葉に振り向く。最近いつも話している短髪の色黒の男の子。確かサッカー部とかだったような。
夏の太陽のように笑う人だった。
その子は、僕が誰かに嫌いって言われた時に、こんな言葉をくれたんだ。
「好きっていう言葉は何千回言われたってちゃんと信じられないのに、嫌いってのは一瞬で信じちゃうよな。俺は、お前のことが好き。これは、何千回でも何万回でも言ってやる。」
俯きがちだった少年は、いつの間にか僕を励ますほど強くなっていた。
まあ、そんなこと、どうでもいいけどね。
落ち込みがちな君に、考えすぎるほど優しい君に、重なるんだ。
僕は、僕をしゅうって呼んでくれるあの少年からの言葉を、君に、捧げたんだ。
時が走りすぎるのは、本当にあっという間だ。
居場所。
それは、どうすればできるのだろう。
この願いは、どうすれば叶えることができるのだろう。
そもそも居場所ってなんだろう。
本当に笑える場所か。
落ち着く場所か。
たのしい場所か。
僕を一番苦しめて、そして、愛してくれた君からの願いは、今までで一番、難しかった。
君の求めていた正解が分からなくて。
君の正解は、なんだったのだろう。
そんな場所を、君の正解を、僕は作ることができただろうか。
足場で覆われ始めたこの場所も、僕も、確実に終わりへと足を進めている。
君の後ろ姿が、今も尚、ここにある気がして。
何か話しかければすぐに笑いかけてくれる気がして。
君の声が聞こえる気がして。
必死に伸ばした手は、ただ宙を掠めるだけで。
ああ、本当に行ってしまった。
行きなって言ったのに、行かないで欲しいなんて。
本当に……ずるいよ。
もしかしたら、君はもう一度扉を開けてくれるかもしれない。
笑いかけてくれるかもしれない。
そう思っていた自分がいたんだ。
でも、君は、真っ直ぐと、歩き出して行った。綴璃は、僕が思っているよりも、ずっとずっと、強くなっていたんだね。
強くなりすぎだよ。
胸の中にじんわりと温もりが広がる。
綴璃、君は、どれほど僕を変えれば気が済むの。
君と紡いだ感情はほんとに厄介だね。
君のせいで、こんなにも悲しいよ。
君が心を教えてくれたせいで。
君と出会ったせいで。
胸の奥が、じんわりと温もる。
いや、違うね。
君のおかげだ。
君のおかげで、こんなにも恋しいよ。
君が心を教えてくれたおかげで。
君と出会えたおかげで。
こんなに、あったかい。
一人になったこの場所で、ただ、見つめた。
窓の向こうを。
木の机の上を。
古い本の山を。
そして、
君の面影を。
君がいたこの椅子を。
その椅子に、触れる。
触れられるはずがないのに、温もりが残っているような気がした。
窓辺の本棚も、机の傷も、君が座っていた席も、全部、全部。
君だらけだ。
君が初めて僕のところに来たあのときは。
瞳を揺らしながら。
肩で息をして。
震える指先を握りしめて。
苦しそうにしていた君。
そんな君は、今。
たくさん笑って。
幸せそうに息をついて。
楽しそうにここに来てくれて。
君の笑顔は、魔法だった。
僕を幸せにする。
僕を笑顔にする。
僕を温かくする。
そして、
僕を離れたくなくする。
僕の心を釘付けにする。
ほら、もう終わりだ。
床の軋み。
扉の音。
崩れていく、この場所が。
君があの日、開けたまま帰った窓から、君の隣で浴びたものと同じ風が頬を撫でる。
僕も、未来へと綴らなければならない。
現像が間に合って良かったよ。
君が好きだと言ってくれたこの字で、綴るから。
いつかの君に。
見つけ出してよね。
書き終えたと同時に、ペンは乾いた音を立てて机から落ちていった。
拾いあげようと腰を屈めても、触れることができない。
体から、力が抜けていく。
どこからか、君の笑い声が届いたような気がした。
それだけで、もう、十分だ。
穏やかな光に包まれる。
どうせ消えるのなら、君のそばで薫る風になりたい。
好きだ。
好きだ。
もっと早く言えていれば。
答え合わせは、終わっていたのにね。
愛おしいよ。
君が。
ありがとう。
僕のか細い声は空気が、風が、かき消してくれる。
もう、こんなにも寒いね、綴璃。
空っぽで乾いた僕の心は、弾ける波のような君の笑い声にほどけていった。


『風光る』

もうすぐ春なのに、冬のような風。海辺の風はすごくすごく冷たくて。
吐息は白く宙にほどけた。
寒いねって笑う君の声が聞こえた気がして振り返っても、そこには柊の木が静かに佇むだけで。
白い花はもうなくて。でもどこか甘い香りが泳いでいて。
足場で覆われた私と君だけの居場所を横目に少し立ち止まる。
足場を覆う布の光が風が漂う。
まるで波のようだった。
いつも君のそばで眺めていた海が、そこにあった。
君の面影が、見えた気がした。
君の声が、聞こえた気がした。
君の香りが、届いた気がした。
君が、すぐそばにいる気がする。
私たちが巡り会った場所が光ったように見えた。
君の居場所は、私の隣は、ずっと空席のままだよ。
頬が緩む。
私たちは正反対って言ったけど、それは、お互いまっすぐ歩いていけば、必ず逢えるってこと。
なら、私、歩くよ。
早く逢いたいから走るかも。
君と再び出会うためなら、私は地球を何周もするよ。
なんてね。
ほら、大きな声で笑ってよ。長いまつ毛を揺らしてよ。
あれ、もう、君の笑い声が聞こえないや。
「つづりー!」
君の声は聞こえなくても、茉文が、詩葉が、私を呼ぶ声が聞こえる。
大きく息を吸い込んで、口を開ける。
「はーい!」
ふふっと笑みが溢れた。
ほら、君がくれた居場所で、君がくれた勇気のおかげで、私は本当の居場所を作れたよ。
胸に手を当てる。
君からもらったこの気持ちは、終わりを知らないみたい。
居場所が消えたって、気持ちは消えない。
夏のような風が光るあの日、君は私の心をほどいてくれた。
だから、次は私が、私の心を、居場所を、織り成すよ。
君と出逢った日の風のような薫りがした。
君の、甘い香りも鼻を掠めたように感じた。
私の本当の居場所に、君に逢えるかもしれないこの道に、私は一歩を踏み出す。
たとえ、居場所が消えたって、踏みしめる道は、君が思い出させてくれた心は、君との記憶は、ここにある。
『正解』はまだ分からない。
だけど、今の私なら、私に丸をしてあげられる。
名前より先に心の傷を知って。
顔より先に考え方を知って。
声より先に文字を知って。
そんな君が背中を押してくれたから。


『晴花咲(はるかさく)』

奇跡のような君と巡り会って。
君としか歩めない軌跡を進んで。
君は祈跡となって消えてしまって。

もう、ずいぶんと時が経ったよ。

チョークを握り、黒板に大きな丸を書く。
そして、それを八等分する。
窓から差し込む陽の光は、静かに私の手元を照らした。
この内容を授業する時は、いつも決まって、君の声を、顔を、匂いを、文字を、存在を、思い出す。
すうっと息を吸う。
「昔は、干支を使って、時間や方位を表していました。例えば私の名前も、戌と亥の間。つまり、北西の方向を表す時に使われていたのです。」
微笑みながら口にした声は、いつよりもはっきりとしていた。
自分の声が教室中に響き渡るのを感じる。
指先には白い粉が乗っている。
「これがメモできたら、今日は終わり。みんな自由に終わっていいよ。」
教材を抱え、とん、と教壇を降りる。
柊が咲くこの場所。
海が近いこの学校。
太陽輝くこの教室。
潮風香るこの窓辺。
そして。
新しくなった図書室。
教師として、この南東柊高校に戻ってくるなんて思いもしなかった。
私たちが旧校舎と呼んでいたものが、今は新校舎と呼ばれていて、不思議な感覚が湧き上がる。
放課後の夕焼けの中、静かな廊下を踏みしめて歩く。
すべすべした床は、なんだか物足りないね。
軽くなったドアをすーっと開ける。
埃の匂いはもうしなかった。
あのころの君の姿も、床の軋みも、机の傷も、もうない。
でも、窓から見える景色は、あの日と、あの時と、少しも変わらない。
窓の鍵に手をかける。
力を込めなくても、鍵は開いた。
鉄の縁に手を添える。
あの頃の音は、もうならない。
スーッと横に滑るそれが少し味気なく感じた。
ざあ、ざあ。
波の音がする。
さら、さら。
潮風がそよぐ。
きら、きら。
水面が揺れる。
ふう、小さく息が漏れた。
いつの間にか無意識に探していた。
君と、出会うきっかけとなった本を。
本棚を確認していくと、それらしきものがあった。
あの日は、新しい本だと思ったのに、いつの間にか、周りと同じように、いや、周りの本よりも古くなってしまっている。
誰も手にしていないのだろう。
色あせた本に埃が光っている。
それを手に取ると、あの日に戻ったような感覚がした。
あの埃の香りが鼻に触れた気がした。
いるはずもないのに、君に呼ばれているように感じて、手が勝手に動いていく。
あるはずもないのに、君の言葉が綴られている気がして、指が自然とページをめくる。
ぱらぱらとめくると、そこには、一つの封筒。
桃色のそれは、少し色褪せている。
これは。
「えっ」と吐息が漏れる。
指先が震えて、息が細くなる。
耳の奥が、燃える。
ふう、と息を吐いてゆっくりと開く。
生成り色の便箋が覗いた。
開きたい。見たい。なのに、見たくない。
本当に終わってしまう気がして。
ずっとずっと思い出さなかったんだよ、君のこと。
だってね、忘れたことがないんだから。
忘れられないの。忘れたくないの。
封筒から便箋を丁寧に出して、空の封筒を本棚の上に置く。
微かに震える手が便箋を開く手を妨げる。
耳が勝手に、周りの音を全て遮断する。
『歩け。進め。ありのままを綴って。』
その文字に、目を見張った。
誰からか。
確信は持てない。
なのに、分かってしまう。
この字で。
ぴんぴんとした細くて、優しい字で。いつになく丁寧に。
下の方には、
『おかえり』
と書かれている。
自然と頬が緩む。
その文字に。その台詞に。
ただいま。
柔らかく息をする。
ただいま、巽くん。
目頭が熱くなっていく。
だめだよ。あの頃とは違うから。大人だから。
必死に溢れてくる物を塞ぎ止める。
歩く。歩くよ。もう、歩けるんだから。ここまで自分で歩いてきたんだよ。
封筒を手に取ると、少し重さを感じた。
改めて開くと、そこには、一枚の写真。
きらきらと光る海辺で、しゃがむ制服姿の女の子。
風に髪をなびかせながら、くしゃっと微笑むその顔は、私にそっくりだ。
私だ。
シャッター音が微かに届いたあの日。
カメラを持って二階から覗く君は、きっとここから私を見ていたんだろう。
君の目に映る私は、こんなにも眩しく笑えるようになったんだね。
写真を少し撫でる。
つるつるとした表面には、あの頃の砂の感覚が思い出された。
まだ封筒に重みがあって、軽く振ってみる。
カラ。
封筒から音が響いた。
手を添えて、封筒を逆さまにする。
手に何かが落ちてきた感覚があった。
封筒を避けると、カラフルな二枚の貝殻が覗く。
「波間柏はね、人魚の涙と呼ばれているんだ。」
そう笑う君の顔が、声が、浮かぶ。
貝殻を指先で掴み、角度を変えてみる。
少しザラザラとした表面に、太陽光が反射して、あの日のように虹色に輝く。
その瞬間。
サラサラと。
貝殻は、粉に変わり、風に乗って、光った。
さっきまでそこにあった貝殻は、最初から何もなかったように消えた。
鼻の奥がツンと痛む。
目尻に雫が溜まって。
さっき塞き止めたものは、簡単に崩れた。
ずるいのは、そっちだよ。
私、頑張って写真も消したのに。
全部、全部、君が与えてくる。
ー君は。
君は本当にずるいよ。
床にへたりこむ。目元を指で擦る。
やっぱり、私は君の前では、泣き虫になっちゃうね。
ポケットの中のスマホが震えた。
手に取り、ロックを解除する。
画面に表示されたのは、茉文と詩葉からのメッセージ。
『今日飲み行かない?』
という茉文からの誘いと
『いいよ』
という詩葉の返信。
あの頃から変わらないやり取りに自然と笑みがこぼれる。
『行きたい!』
指が軽やかに送信ボタンを押した。
今、あの頃の私のように悩んでいる人も、たくさんいるだろう。
その人に、私は、なんと伝えられるだろうか。
いつかの君みたいになれるだろうか。
こんな私でも。こんな私だからこそ。言えるものがあるはずだ。
もうきっと、言える。
あの日の君のように、柔らかな眼差しで。
好きっていう言葉は、何度言われたって信じるのは難しい。嫌いって言葉はたった一度で簡単に突き刺さる。
少しずつ、自分で自分を生きていけばいい。
たとえ、誰かの不正解だとしても、私があなたに、大きな丸をしよう。
自分で丸をしたっていい。
『正解』の採点者なんて、いない。
先生でも、友達でも、家族でもない。
あなたが『正解』だと思うものを、あなたが『正解』と採点すればいい。
その採点は、採点ミスなんかではない。
こんなの、綺麗事だ。
でも、私はこれを選んできた。
あなたの正解を、私は丸にする。
風が結んでくれた君と巡り逢って。
そして変われた。
だから私は、真っ直ぐと歩けるよ。
たまには振り返るかもしれない。でも、進み続けたい。
果てしない空の下で、君の香りに想いを馳せて。
百点満点のあなたを、巡る風は撫でるだろう。
その風は、きっと、私にとってのーー。
この晴れた空の下で、君と笑ったこの世界で、私はこれからも笑いたい。
君の薫りのする花が咲くから、私は遥か先まで、歩き続けられるよ。
だから、待っていて。
歩くから。進むから。私らしく綴るから。
ーー巽くん。君だよ。君なんだよ。
生まれ、陰り、光り、巡る風は、君にしか見えないよ。
目尻にはまだ雫が残っている。
すうっとゆっくり、胸いっぱいに息を吸って、立ち上がる。
潮の香りは、あの日々のように、強いままだ。
海は、空は、手紙は、文字は、写真は、未来は、風は、そしてー、煌めく。
涙は、笑顔は、恋は、愛は、心は、記憶の欠片は、香りは、そして私の中のー、溢れる。
指先に残った人魚の涙が、僅かに光った気がした。