『君と綴る風は今も尚、煌めき溢れる』

昨日撮った写真を見ながらにやけるのを我慢する。
窓辺から遠くを見つめる君の姿と、私の近くで花のように笑う君。
二枚とも、同じような瞳の奥の揺れをどことなく感じた。
ぎぎぎぎっ。
扉を開いてゆっくりと瞬きをした後、いつもの席を見たら、君はいなかった。
窓辺にも、本棚の裏にも、カウンターのそばにも、どこにも。
何か用事があったのかな。鞄を持ち直す。
ミシミシと床を鳴らしながら今日は図書室を後にした。
次の日も、また次の日も、そのまた次の日も、君は図書室には来ない。
なんでだろう。
もしかして、事故?何かの病気?
でも、そんな噂は聞いたことがない。
嫌われたかな。しつこかった?
そんな不安だけが頭の中で駆け回って。
連絡先を交換していないことに、すごく、後悔する。交換しよって言ってればよかった。
毎日会っていたからいいや、ときっとどこかで思っていた。そして、明日も会えると疑うことなく信じていた。
どうせ、明日も会えないんだろう。
私は、図書室に行くのをやめた。
面と向かって、何か言われるのも、何度行っても君に会えないと考えるのも、なぜか心がぐっと痛む。
もう、何日だろうか。
それもわからなくなった今日の放課後は、茉文と詩葉とカラオケに行く。
前まで嫌だったのに、今日はなぜか歌いたくなった。
「とりあえずなんか曲入れよー」
私からでいい?と首を傾げる詩葉に頷いて、いいよ、と呟く。
その後に続いて一人ずつ何曲か歌って、注文したポテトを持ってきた店員さんが部屋を出ていった時、
「綴璃、最近図書室行ってないよね」
と茉文がポテトを頬張りながら私の方を見てきた。
「なんかあった?」
そう私を見据える二人に、言うべきかわからない。でも、言いたい。
「なんか、図書室に来てくれなくなってさ。」
明るい声を出そうとしたのに、声のトーンは意識したものよりも低かった。
「なんか、怖くて。行けない。」
「そっかそっか。」
「また行きたいって思ったら行けばいいよ。」
そんな二人の言葉に、うん、と笑う。
「その彼は何年生なの?」
そう聞かれて、私が君の年齢を知らないことに気がついた。
「わかんない。でも、タメ口だったし同い年だと思う。」
私もポテトを頬張った。
ほくほくのポテトと、ほんのり刺激を感じる塩味がふんわりと口に広がる。
「名前は?」
詩葉がポテトを取りながら聞いてくる。
「えっと、柊巽だよ。」
二人は顎に手を置いてうーん、と全く同じポーズで考えていた。
その光景に目尻が下がる。
「聞いたことないかも」
「うん、私も。」
二人が知らないなんて、珍しい。
「学校で探してみる?」
そう聞く茉文と、乗り気な詩葉に
「探す!」
とお腹から声が出た。
次の日の昼休み。
早速、食堂に行ってみる。男子は食堂で食べる人がほとんどだよ、という詩葉の助言を受けて、三人で渡り廊下を歩く。
私は日替わり定食、茉文はチキン南蛮、詩葉はうどんを頼んで席に着く。
何度も首を回して君を探した。でも、君はいない。見落とした?そんなわけない。
定食を頬張りながらも、心はずっと一方に進んでいた。
次の日には、詩葉が別のクラスの友達に、クラスメイトに柊くんがいないか聞いてくれた。
返答は、どのクラスにもいない、だ。じゃあ、先輩かな。後輩かもな。
なんて呑気な考えが流れ込む。
毎日会っていた君が、触れられる距離にいた君が、本当に、遠くに、行ってしまった。
家に帰って、自分の椅子に座る。ふうっと息を吐いて横を見ると、本棚が目を占領する。
立ち上がって、手を伸ばしたのは、一つのファイルだ。
かつて君が届けてくれた手紙が全部入っている。
一日目も、二日目も、三日目も、直接会う日の前日まで。
一つずつ、ファイルから取り出す。
懐かしい桃色。久しぶりに見た生成り色。
そして、もう見れない君の文字。
細くて、達筆な、君の文字。
いつの間にか視界が潤む。
会いたいよ。
私の好きな君の文字に触れる。
本当。
その二文字はあの日と変わらずでこぼこしていて。
一通り見たら、桃色を棚にしまった。
毎日、毎日、君を探した。
移動教室の度、廊下のずっと奥の方まで、通り過ぎる教室を横目で見ていた。昼休みが来ると必ず、すれ違う人に、窓から見える人に、君の姿がないかだけを考えていた。
でも、君が再び現れたことは、今まで一度もない。
あの場所が閉鎖する日が近づいてくることに焦りを感じながらも、心のどこかでは、どうせ、と諦めの感情がふつふつと湧いていた。
君と会わなくなって、会えなくなって。
図書室に行かなくなって、時間はあっという間に過ぎたよ。
もう、旧校舎に入れる最後の日。
クリスマスだ。
こんな日まで学校に来るのが嫌だった。
でも、もっともっと学校に行く日が長ければ、もっともっと君とあの場所にいれたかもしれない。
でも、きっと君は来ないんでしょ。
もう、私の居場所は、他にあるから。
私はもうね、笑えるんだよ。
でも、なのにね、私、もう一度だけ、会いたいって思っちゃうの。
昼休みは、もう諦めて教室で三人、お弁当を広げる。
その時、スピーカーから放送のチャイムが流れた。
「本日から旧校舎には立ち入り禁止になっています。生徒は立ち入らないようよろしくお願いします。」
担任の先生の声に耳の奥に熱が走る。
「綴璃、よかったの?」
茉文は眉を下げて、聞いてきた。
「いいの。もう。」
「そっか。」
三人で過ごすのが日常になってきた放課後。
茉文のスマホで一緒に動画を見ていたら
「乾、ちょっといいか」
と担任の先生から呼ばれた。
「はーい。ごめん、ちょっと行ってくるね」
詩葉たちにそう言って先生について行く。
教室から出て、少し歩いた人通りの少ない場所。
先生は、
「図書室に忘れ物してないか?」
と尋ねてきた。
「忘れ物?何もしてないと思いますけど」
「昨日点検に行ったら、これが落ちてたんだ。」
そう言って、先生は丁寧にバインダーから何かを外した。
先生が見つけたものに見当がつかない。
何か、落としたっけ。
先生の手元を見つめる。
遠くから笑い声が聞こえる。あとはただ図書室とは違う日常の香りが漂うだけ。
そして先生が差し出してきたものに、心臓が止まった。
音が、一瞬にして消える。
先生の手に握られているのは、
「乾 綴璃へ」
そう書かれた、桃色の、封筒。この前部屋で見た、あの色。君の文字。
「私のです。」
気が付かないうちに返事をして、先生から封筒を受け取っていた。
右手で持っている封筒を左手で撫でる。
先生は、「よかった」と呟いて、戻っていった。
だけれど、すぐに先生の足音が消えた。封筒から顔を上げると同時に、
「お前も、救われたんだな。」
という先生の声が聞こえてきた。振り返った先生は今まで見たことないほど優しく笑っていた。
何かを懐かしむような。
何かを確かめるような。
よく耳を澄ませる。
「本当に凄いな。全然変わってないよ。」
一歩また一歩と先生の背中は遠ざかっていく。かろうじて聞こえたのはそこまでだった。
「しゅう」
最後の呟きは、私に届くことはない。先生の姿が消えるまで、私は何もできなかった。
この場所に私一人になったことを確認して、封筒に視線を戻す。震える手でそれを裏返すと、
「柊 巽」
と書いてあった。
ふうっと息を吐いて丁寧に封を開けると、見慣れた生成り色が覗いた。
便箋を出すと、あの図書室の匂いと、君の匂いが鼻を燻った。
便箋にびっしりと文字が書いてあった。
一文字ずつ、ゆっくりと目で追う。
綴璃へ
あの日から、綴璃って呼ぶのは二回目だね。
なんだか距離が一気に縮まった感じがして嬉しいな。
君がね、最初のお手紙に返事をくれた時は、本当に嬉しかったんだ。
乱雑なあの字が、助けてって言っているように見えて。
その字が、なぜか、どこか懐かしく感じて。
もしかしたら、僕の魂は、ずっと前から君に決まっていたのかもね。
桃色の封筒が誰にも見つからなかったら、君に見つけてもらえなかったら、返事が来なかったらどうしようって思ってたから。
君は、空気を読んで、相手の求めているものを与えて。
すっごく大人っぽいなって思ったんだよ。
でもね、話していく度、綴っていく度、君のあどけなさとか、笑顔の華やかさとか、子供っぽさとか、優しさとか、たくさんの君を知った。
一緒に笑って、一緒に喋って、一緒に勉強して、一緒に寝落ちして、一緒に写真を撮って。そんな風に時を重ねるうちに。
いつの間にか、好きになっていた。
好きだよ。
大好きだ。
ありがとう。
僕に、恋を、心を教えてくれて。
あのまま、君の隣にいられるまま、時間が止まってしまえばいいのにって何度思ったか。
でも、永遠なんてないから。
自分は進めなくても、時間は進んでいくから。
きっと、君の未来は、誰のものよりも、どんな星よりも輝かしくて、どんな花よりも、綺麗だ。
会いたいよ。
君に、会いたい。
さっきまで会っていたのに。
君は、僕を寂しがり屋にまでしたんだね。
やられたよ。厄介なのに、なくなって欲しくない。
会いたい。
でも、会えないんだ。
いつよりも柔らかいその字。
息を止めて読んだ内容は、すっごく真っ直ぐ伝わった。
頬が熱く、心が溶けていく。
一行ごとの空白を挟みながら綴られていた言葉。
でも、最後はどういう意味か分からなかった。
えっ、と声が漏れる。
指先を少し動かすと、二枚目があることに気がついた。
震える手で、紙をめくる。
一枚目よりも小さな字で書かれていた。空白なんてほとんどない。
君がこれを読んでいるということは、もう、会えないんだろうね。いや、もう会わないよ。
なのにね。すごく会いたいよ。自分で会わないって決めたのに。
わがままだね。

ねえ、綴璃。
全ての物には、精霊が宿るって言い伝え、知ってるかな。
精霊はね、届いた願いを、自分が宿ったものが滅びるまで叶えるんだ。
それでね。僕に届いた願いが、
「居場所が欲しい」
っていう君の願いだった。
僕は君の居場所になるために、この姿を手にしたんだ。
いや、君が、埃だらけのあの空間に逃げ込んできたときだったかもね。
木の机の上で、涙ぐみながら、息を荒らげながら、笑うのに疲れましたって殴り書きしたとき。
僕に、心が生まれたんだ。
いつか君は、僕が居場所を作ってくれたって言ったね。
本当は、君が、僕に居場所をくれたんだ。
思ったよりも人間の姿は、エネルギーが必要で、図書室がどんどんぼろぼろになっていった。
僕は最後まで君の願いを叶えるために力を尽くそうって誓ったんだ。
でも、君は、自分の力で、願いを叶えたね。
茉文ちゃんと、詩葉ちゃんの隣、っていう本当の居場所を手に入れた。
だから、僕の最後の仕事は終わったんだ。
君が悩みを小テストの裏に殴り書きしてくれたあの日。
古文の授業でやったって、乾と巽の意味を自慢げに教えてくれた日。
海ではしゃぐ君を、静かに見つめたあの日。
僕たちは真逆にいるって言ったけど、磁石のN極とS極みたいに、真逆だからこそ、惹かれたのかもしれないね。
もちろん、私、強くなったよ、って君が笑ったあの日も。
君と過ごした全ての日が、君と出会って巡った全ての時間が、僕の心を奪っていったんだ。
もう気づいているだろう。驚かないでよ。
僕はね、図書室の精霊、図書室そのものなんだ。
図書室が消えるってことは。ね。
君が、これからもずっと、君らしくありますように。
泣かないで。
ほら、笑って。
柊 巽より
途中から目から溢れた雫で便箋が濡れた。
泣かないなんて、無理に決まってるでしょ。
まだ、まだ間に合うなら、会いたい。
私も伝えたい。
目尻を拭って、先生を探す。
足を大きく踏み出して走り出す。
初めて図書室に行った日よりも早く、周りなんて気にしない。
どこにいるかなんてわからない。
髪が乱れても、顔がぐしゃぐしゃでも、どうでもいい。
もっともっと速く。
しばらく走って息が切れ始めたとき、見つけた。
「せんせい!」
息が切れた声は掠れて、でも、先生は振り返ってくれた。
「おお、どうした」
「図書室、図書室に行かせてください。お願いします。」
「ええ、でもなあ。もう点検終わったんだよ。」
昔の私なら、諦めていただろう。
「お願いですっ。伝えなくてはいけないことがあるんです。」
息が途切れて、苦しくて。でも、言葉を止めない。
だって、声を出すのを止めたら、涙が、さっきせっかく拭った雫が、また溢れてしまいそうだから。
「……まあ、本来今日までだったし、いっか。うん、いいよ。」
「ほんと、ですか。」
「おう。そんな顔されたらな。鍵は開いてるから。」
「ありがとうございます。」
また、走り始める。
早く会いたい。
君に、伝えたいよ。
いつの間にか、ぎいぎい、と床が鳴るようになった。
でこぼこを感じるようになった。
どんどん、君に、近づいている。
胸の高まりが止まない。
見慣れた扉が見えてきた。
その前に立って、乱れた呼吸を整える。
でも、落ち着くのなんて待ちきれない。
ぎぎぎぎっと木の扉を開ける。
何度も触れたこのドアノブ。
慣れた落ち着く香りが鼻に滑り込む。
いつもの席に視線が吸い込まれる。
君が、まだいた。
窓の外を見ながら、あの日と同じように佇んでいる。
ほっと胸を撫で下ろす。
透けているように見えるけど、確かに、そこに、いる。
走ってきたことなんて気にせずに。
喉が、肺が痛いのを後回しにして。
「巽くん!」
今までで一番大きな声だろう。
君は、髪の毛を揺らしながら、勢いよく振り返った。
そして、私を見て、息を呑むのを感じた。
目を大きく見開いて、口を少し開いて。
すごく小さな声で、
「なんで、」
と呟いた。
どんなに小さくても、私には聞こえるよ。
だって、他でもない、君の声だから。
「手紙、読んだよ。」
あれ。
さっきまで我慢できたのに、鼻の奥がつんと痛い。
まだ。
まだだめ。
にっこりと笑う。
「会いに、きたよ。会いたいって言ってたから。」
君は、花のように笑った。
「あれ、点検は、明日のはずだから、乾さん、いや、綴璃に届くのは、三学期のはずなんだけどな。」
予定が変わったのか、先生の気まぐれか。
でも、最後に、会えてよかった。
君は、さっきまでの笑顔を、崩していった。
いや、君の、さっきまでの笑顔は、崩れていった。
「綴璃が手紙を読む頃には、ここはもう入れなくて、もう二度と会えなくなっているはずだったのにな。そうしたら、そうしたら、僕の涙は、見られることなく済んだのに。」
君は一気に話して、ゆっくりと呼吸した。
「それだったら、私、一生後悔して、立ち直れなかったかも」
といたずらっぽく笑う。
君は嬉しそうに微笑んで、
「冗談も言えるようになったんだね。」
と言った。
「冗談なんかじゃ、ないよ。」
そう伝えた瞬間、目尻から、涙が一筋落ちた。
「あれ、泣かないつもりだったのに。」
と言うと、君がこっちに歩いてきた。
少しだけ、君の向こう側が見えるような、そんな気がした。
君はゆっくりと近づいてきて、躊躇いながら、私の涙を拭った。
震えるその指が、とても、温かかった。
「ずるいよ。もう決めてたのに。そんな顔されたら、消えるにも消えにくいだろう。」
「消えるなんて、消えるなんて言わないで。」
君は困ったような顔をした。
「でも、僕の仕事は終わった。」
「終わってない!終わってないよ。私が願うから。君の仕事を作るから。」
息を吸うのを忘れるくらい話した。
柊くんと、両思いになりたい。
少しして、君はふっと笑った。
「それは、もう、叶ってるよ。」
知ってるよ。だって、手紙を読んだんだもん。
「でも、それでも、」
そういう私に君は言葉を被せた。
「好きだ。好きだよ。綴璃。」
「私も。私も大好き。巽くん。」
少し呼吸をおいて、
君と、柊巽と、恋人になりたい。
心の中でそう唱える。
強く強く強く。
少しして君は残念そうに眉を下げる。
そして、ふっと笑みを零し、首を傾げた。
君の髪が少し揺れる。
「それは、できない。」
「どうして。」
「だって、僕はもう消えるから。」
君のことなんてお構いなしに、言葉が溢れていく。君にはどうにもできないことなのに。
本当は、こんなことが言いたいんじゃないの。
綺麗に、お別れしたいのに。
心が、許してくれない。
「なんで、なんで。やだよ。やだよ。消えて欲しくない。いなくならないで。」
君の両腕を掴む。
ねえ、お願いだから。
私の願いを、叶えてよ。
君は、ふるふると首を振った。
「それは、できない。」
崖から突き落とされたような気がした。
やだよ。
まだ耐えている残りの涙が、もう雪崩を起こしそうだ。
「でも、これくらいなら」
君がそう言うと、私の視界は真っ暗になった。
顔をあげると、そこは君の胸元だった。
君に、抱擁されていた。
息を呑むほど、濃い君の匂いに包まれる。
甘くて、優しくて、落ち着く、この匂い。
ずっとずっと嗅いでいたこの香り。これから先も嗅いでいたい君の香り。
君の少し透けている背中に手を回す。
これでもかというほどの力を込めて、ぎゅうっとする。
本当に、君は消えかけてるの?透けているの?
そう思うほど、大きくて、温かい。
君は、「ちょっと、苦しいよ」って笑って。その言葉に、私も笑って。
手をぐっと握る。
そのまま、顔を上げて、君の唇を塞いだ。
結ばれないなら、これくらい、許してよね。
しばらくそうしていた。
吐息が伝わるほどの近さで、目を開ければ、君の瞳がすぐ側にあって。長いまつげはずっと伏せていて。
でも、君の頬に伸ばした手は、感覚がなくて。
背中に回した手にも、温もりが感じられなくなって。
その事実に、目頭が熱くなって。
君は、私の目尻に手を添えてくれた。
でも、その手が、私に触れることはなかった。
すり抜けて、私じゃなくて、宙を掠めて。
君から離れる。
「わがままになったね、綴璃」
そう君は笑った。
「巽くんの、せいだからね。」
涙が、溢れそうだ。
「泣かないで。」
もう一度、君は私の目尻に触れようとした。
でも、やっぱりその温もりは伝わらなくて。
「もう、涙を拭うことも出来ないんだ。」
その言葉に、君が目尻を下げて、口角を上げた顔に、胸が締め付けられて。
何も、言えなかった。
自分の気持ちが、わからない。いや、わかっているのにわかりたくない。
二人で、ただ窓の外を見た。
何度も見てきた、海を。
窓を開けると、私と君の髪がなびいた。
潮風を感じる。
「好き。」
いつの間にかそう言っていた。
「知ってる。」
返ってきたのはその言葉で。
「好き。」
もう一度伝えると。
「ずるい。」
次はそう返ってきた。
「好き。」
今度こそ、そう伝えると。
「好き。」
やっと返ってきた。
「正解。」
そう大きく口を開けて声を出す。顔が綻んでいく。
「あれ、正解はやめたんじゃなかった?」
と君は笑ってきた。
「いじわる。今はいいの。」
「へえ、わかんないなー」
君は自分の髪を手でほぐした。
「いいの、わかんなくて。」
と伝える。
「なんで?」
息を吸う。
「私が、わかってるから。」
自然と笑顔が溢れる。
私も、君も、何も言わずにただ外を見つめる。
寄せては返す波のさらに遠くを見る。
「あーあ、もっと早く出会いたかった。もっともっと一緒にいたかった。」
口を開けると止まらなくて、
「もしさ、もし、君が人間なら、私が精霊なら、私たちは結ばれたかな。」
君はしばらく何も言わないで、何度か呼吸をした。
「さあ、どうかな。」
と。
「それなら、私、今よりずっと幸せになれるよ。」
「えー、それはそうなって欲しかったな。」
そう嘆く君を横目に、言っても意味がないことが、声となって漏れた。
「今日、クリスマスなんだよ。プレゼントは無いの?」
と笑う。
君は、瞳を大きく見開いて
「あるわけないだろう。今日会えるなんて思っていなかったんだから。」
ふふっ、と笑みが零れる。
「知ってる」
と呟くと、
「なんだ、それ」
と君も笑った。
その笑顔を見ると、嫌でも考えてしまう。
もう言わないって決めたのに、君を苦しめるから考えないようにしてたのに、油断をしたら、口から滑り落ちていた。
「……消えないで」
「ごめん」
君の答えは、すごく早い。
まるで言われることが最初から分かっているみたいに。
答えがずっと決まっていたみたいに。
「お願い、そばにいてよ。」
「ずっとそばにいるよ。」
そう笑う君に、涙が出そうだ。
我慢してたのに。
笑顔で君を見送りたいから、まだ、だめ。
吸っては吐いて。心に空気を送る。
大丈夫。大丈夫。
「そんな顔しないで。綴璃が帰るまで、待っててあげるから。」
「そんなの、私、一生帰んないよ。」
そのとき、ぎぎい、と音が鳴った。
ぱっと振り返る。
「綴璃いた!先生に聞いたらここにいるって言ってたんだー。一緒に帰ろ。」
開いた扉から、茉文と詩葉が覗いた。
にやにやと二人は笑っていた。
「...うん!ちょっと待ってて」
そう笑うと、その辺で待ってるねー、と聞こえた。
自然と扉が閉まる。
君はその扉の方を見て微笑んで、
「ほら、呼んでるよ。君を待ってる。お迎えが来たよ。」
「分かってる。でも」
君の方を振り返る。
君は、笑っていた。
幸せそうに、目をうるうるさせながら。
強いね、巽くん。
「つづりー!」
その声が聞こえた。
扉の方に歩く。
「待ってー!」
そう呟いて、扉のそばに立って、もう一度振り返る。
君は、まだ泣いていない。
本当に、どこまで、強いの。
私は、もう壊れそうだよ。
ずっと壊れかけてたけど、本当に崩れてしまいそうだよ。
「ありがとう、巽くん。大好きだよ。」
君は大きく頷いて、
「僕も大好きだよ。頑張ったね。ありがとう、綴璃。」
と温かい声を出した。
扉に手をかけて、開けようとしても、力が入らない。
私は、どこまでも弱いな。
「帰りたくないって、体が、心が、言ってる。」
「ははっ、困ったな」
君は肩をすくめた。
そして、君は一粒の雫を流した。
君の頬を伝う涙は、とても、綺麗だった。
「巽くん、今、泣いた。」
君は、少し俯いた。
「綴璃が早く行かないから。限界だよ。」
そう力なく笑った。君の両方の目から大粒の涙が溢れはじめる。
私の目からも、同じものが零れた。
「つづりおそーい!!」
その声を聞いた君は、
「ほら、早く!君を待ってる人がいる。」
そう言って、君は私の隣に来た。
そして、手を握ってくれた。温もりを感じられなくても、私の温もりが君に伝わっていればいい。
「大丈夫。きっとまた会えるよ。」
嘘つき。会えないくせに。
でも、行かないと。
「うん。」
手をほどき、扉を開ける。
君の方を向いて精一杯の笑顔を作る。このまま、綺麗に。
「行ってくるね。巽くん。」
一歩外に出る。
君は、手を振ってくれた。
「行ってらっしゃい。綴璃。」
君の笑顔は、扉の向こうに消えた。
もう、あの匂いはしなかった。
君の声も聞こえなかった。
なのに、今までよりも足取りがすごく軽い。
二人の後ろ姿が目に入る。涙は、いつの間にか乾き始めていた。
「お待たせー!」
そう声をかけながら駆け寄る。
「おそすぎー」
二人は笑顔で振り向いた。
三人で昇降口までの道を歩く。
「それで、彼とは会えたの?」
「うん、会えたよ。」
「付き合えた?」
「ううん。でも、キス、したよ。」
二人は一瞬動きを止めた。
そして少しして、
「はあああ?!」
と言った。
「どゆこと」
「くわしく」
そう聞く二人に、
「ひみつー」
と笑う。
「けちんぼ」
二人は頬をふくらませた。
だけどすぐに表情を緩めて、
「でも、よかったね、綴璃」
「え?」
と聞き返す。
「今までで、一番いい顔してる」
「それも彼のおかげかなー。恐るべしだね。」
三人で笑う。
昇降口を出ると、鼻を掠める香りに、心を奪われる。
君の、匂いだ。
さっきまで嗅いでいた、君の。
二人よりも早く靴を履き替えて、小走りで外へと出る。
砂利を踏みしめる音だけが、風に乗る。
少し歩くと、なにがその香りを放っていたか分かった。
小さくて、白い、金木犀みたいな花。
「今度は早いよ、綴璃」
二人は私の後ろに立って、
「何してんの?」
と尋ねる。
「柊の花じゃん」
詩葉が、そう言った。
柊の、花、と呟く。
柊の花。
君みたいな香り。
君に、ぴったりだ。
この花と同じ名を持つ君と。
甘くて優しくて綺麗な君と。
「なんでもない」
そう言って三人で歩く。
耳を撫でるのは、流行りの音楽でも、知らない人の笑い声でもない。
私の、本当の居場所の音。
二人の声と、風の音。
君が、君と同じ名前の花の香りが、背中を押してくれる。
大丈夫だよって。
うん。
もう大丈夫。
もう怖くない。
私、本当の自分で、本当の笑顔で、歩けるようになったよ。
まだ身体中に君の温もりが残っている気がした。
スマホを取り出して、写真フォルダを開く。
少しスクロールすると、それはすぐに出てきた。
私と君で撮ったはずのツーショットに、君はもう居なくて。私の隣は空白で。
海辺から撮ったはずの君の写真に、君は写っていなくて。ただ開いた窓があるだけで。
君は、もうどこにもいなかった。
世界は、君を消していた。
でも、君は、ここにいる。
私は胸にそっと手を置いた。
そして、削除ボタンを押す。
『本当に削除しますか?』
その質問に、迷わず『はい』を押す予定だったのに、指先が止まる。
でも、『はい』をタップした。
静かに風が吹き抜ける。
「ああ、消しちゃった」
小さく声を出し、潤んだ目尻を激しく拭う。
二人には、聞こえてないみたいだ。
「明日、クリスマスパーティしよ!」
茉文の言葉に詩葉と目を合わせる。
「「最高!」」
そう笑う。
もう君はここにはいないけど、私は生きていける。
私、もう大丈夫だ。
君がいる。居場所もある。
君が作ってくれた未来があるから。
君が守ってくれた私がいるから。
天を仰いだ私の目に、笑う君が写った気がした。