あの時握った拳は、力なく開いて。
無理だ。もう無理だ。私、どうすればいいの?どうすればよかったの?
変わらない方が良かった?笑わない方がいい?
また、乾綴璃の仮面を着ければいい?
分からない。分からないよ。
ずっとずっと考えてるのに正解が分からない。
変わらないままで、誰にも嫌われないように、過ごすか。
ありのままの私で、誰かに嫌われても、それでも生きていくか。
図書室にいる時は、少し落ち着いていた脈が、身体中を暴れ回るほどに激しい。
家に帰っても、落ち着かない。
自分の部屋の鏡を横目に見ると、やつれた顔が私の方を見ている。
もっと、普通の顔にしないと。明るくて、親しみやすくて、優しく笑う、そんないつもの私にならないと。
笑おうとすると、頬がぴくぴくと小さく震える。
一瞬できたと思っても、すぐに戻ってしまう。
下がる目尻が、眉が、上がる口角が、頬が、変えていく私の顔の全部が気持ち悪く見える。
視界が揺らいで、目から雫が零れていく。
どうしよう。どうすれば、作れたっけ。
頬を何度も撫でて。温もりを感じて。鏡に触れて。冷たさが伝わって。
よく眠れない夜を越すと、昨日よりも酷い顔ができあがっていた。
泣いたせいで腫れた目の周り。いつもよりも下がって見える口角。
やっぱり上手く乾綴璃が演じられない。
二人が話している声も、右耳から左耳へ抜けていく。
うん、とか、へえ、とか、生気のない返事しかできない。
ふとした時に、昨日の峰崎が思い出される。
私は、調子に乗っている。嫌われている。
「綴璃、大丈夫?」
詩葉は私の方を見て眉を寄せた。
「大丈夫だよ」
考えるより前に出てしまった言葉は、強がりだ。
「そっか」
詩葉は、心配そうに首を傾けた。
気が付けばまた一日が終わる。
旧校舎の廊下を歩く。
柊くんに、昨日のことを謝らないと。私が感情的に彼に当たってしまった。彼は少しも悪くない。むしろ、優しい。いい人だ。
今日は、床の軋みが聞こえない。
ぎぎぎっと扉を開けると、いつもの陽の光と、大きな空、たくさんの本棚が目を独占した。ガチャッと扉が閉じるのを合図に、喉の蓋を開ける。いつもの席に、君は腰を下ろしている。
「柊くん。昨日は、ごめんなさい。」
扉の前で私は俯きながら告げた。目線の先には、自分のスリッパと木目調の床。
恐る恐る君の方を向くために顔を上げると、髪の毛が顔にかかり、右手でサッと払う。
君はきょとんとした顔で、
「え?気にしてないよ。乾さん、大丈夫?」
「大丈夫だよ」
そう笑う。いつぶりだろう。頬が、口角が、目尻が、ズキッと痛む。
また、強がってしまう。
上げようとした口角も、下げようとした目尻も、痛みに耐えられず、元に戻ってしまう。
君は何も言わずに、ただ、私の方を見ていた。
「、、どうしよう、柊くん。私、笑えないの。」
君は口をハッと開けて、ぎゅっと口と目を閉じた。
「ずいぶん前に、手紙に蔑みが嫌いって書いたの覚えてる?」
君はうん、と頷いた。
「その時もある人に馬鹿にされてんだけど、昨日もね。同じ人に、お前最近調子乗ってね?なんか嫌いになったわ。冷めた。って言われたの。」
思い出すだけで、心臓がきりきりと痛む。
あの時の峰崎の顔が、声が、全部、全部鮮明に脳に刻み込まれている。
「そうなんだね。そんなことがあったんだ。乾さんはどう思ったの?」
その時の感情を思い出す。でも、いい感じの言葉が見つからない。
「胸の奥がムカムカして、少し痛くて、泣きたくて。そんな感じだった。嫌いって言葉が、すごく痛かった。辛い、も違うし、悲しい、も違う。」
「そっか。よく言えたね。」
君は私のすべてを包み込むような優しさをまとった笑顔を浮かべた。
「これは、ある人の受け売りだけど。人ってね、好きって言葉は何度言われても信じられないのに、嫌いって言葉はたった一度で心の奥底まで突き刺して、抜けなくなってしまうんだ。」
たしかにそうだ。私は詩葉がくれた好きを信じられなかったのに、峰崎から投げられた嫌いはあっさりと信じてしまっていた。
「そうかも」
柊くんは、色白で大きくて、筋が目立つ手を胸に置いている。
その表情は、私よりも苦しそうに見えた。心配になって
「どうしたの?」
と尋ねる。
「痛いよ。ここが。僕は君に何もしてあげられない。どうしてこんなにも痛むんだ。」
「心。きっと心があるんだよ、そこに。」
気が付けばそんな言葉が口から飛び出ていた。自分のその声は、一番に私を深く突き刺す。
心。なにそれ。そんなの、邪魔なだけだよ。
ただ好かれるように、嫌われないように毎日振舞って、言われたことをこなして。
嫌だ、とか、悲しい、苦しいって知ってしまったら、もう、できなくなる。
そんな頭の中の考えを君の声は遮った。
「じゃあ、乾さんのは、どこにあるの?」
「私のは、」
私の心は、どこに行ってしまったのだろう。
峰崎のあの一言で、砕けてしまったのだろうか。私の脆くてまだ小さな心は。
「わかんないや」
私は、こればっかりだ。向き合ってこなかったことに、わからないって言い訳をして。笑おうとしても笑えない。今、私はとても不気味な笑い方をしているんだろうな。ごめん。こんな顔見せて。ごめん。困らせちゃって。
どく、どく、と全身を巡る血液がうるさい。
長い沈黙は、波の音と心音だけを響かせる。
何度か入ってきた風は、柔らかい君の髪の毛を揺らして消えていく。
「そっか。すぐになんて言わない。少しずつ、少しずつでいいから、君として、生きていけばいいと思う。」
君の言葉で、私の心臓は凪いでいく。
「うん」
怖い。また変わろうとしたら、同じようなことを言われるかもしれない。もしかしたら、茉文も詩葉も同じように思っていたのかもしれない。
「怖いよね。」
君は、少し目を細めながら首を傾げて私を映した。
黒い細めの髪が、重力に従って流れる。
「うん。」
さっきよりも力ない声でも、君は拾ってくれる。
「でも、僕はね。変わろうとしていた、たしかに変わっていく君が、初めて会った時よりもずっとずっと、好きだ。」
好きっていう言葉は信じるのが難しい。
変わっていいかなんて私にはわからない。
「その言葉は、信じてもいい?」
「信じたいのなら。」
「信じる。」
二人で微笑み合う。にっと歯を覗かせている君の顔は、逆光でも、目の奥に飛び込んできて、脳裏に焼き付く。カーテンが風で膨らんで、太陽の僅かな光が、全てを照らして染めていく。
言いたい。詩葉たちに、全部。
なのに、口が開かない。喉がぎゅっと締め付けられる。
あれから何度も遊びに誘われた。私は都合のいい口実を作って断って、笑って、謝って。
はあ。
小さく吐いたため息は、宙へと溶けていく。
君は、何も言わなかった。
あれから何日経っても何もできずにいる私に、
柊くんは「言えた?」とか「大丈夫?」なんて言葉はかけない。
ただ、この本、面白いよ。とか、今日のお弁当、何が入ってた?とか。
他愛もなく、いつも通りの会話。
「私ね、まだ言えないの。」
ある日。自分から話を切り出した。
君はふうっと息を吐いて
「そっか。」
と頬を緩めた。
「怖いんだ。まだ。」
そう自嘲気味に笑う。君は、何も言わない。ただ沈黙が横たわる。
「嫌われそうでさ。」
「こんなこと言うのもあれだけどさ。僕にありのままを見せたって、僕は君を嫌いにならなかっただろ?」
「うん。」
「言ってみてもいいと思うよ。今の綴璃なら、きっと言える。」
「でも。」
こんなに優しい言葉で包んでくれるにも関わらず、私の思考は常に悪い方向へと流れていく。
「もしさ、言ってみて、ダメだったら。僕を殴りに来い」
君は私の方を見ながら歯を見せて、顔をくしゃっと崩して笑った。
「ふふっあはは」
しばらく笑いが止まらなくて、ははっ、と短い息が何度も続く。
「殴りに行く」
私も君の真似をして、歯を見せて笑う。
こんな風に、二人の前でも笑えたら。
次の日の放課後には、怖さがまた増えていた。
「綴璃も今日こそ行けるよねー」
そう笑いかけられて、肩が震える。
教室にはいつの間にか、私たち三人だけ。
私たちの息遣いだけが漂う。
「えと、」
どうしよう。
空いている窓から乾いた風が流れ込む。
なんて言って断ろう。
「...今日も、ちょっと」
笑おうとするのに、体が拒否する。
沈黙がうるさい。
耳が裂けそうだ。
やだ。
何か、何か言って。
「……最近、綴璃おかしいよ。」
その言葉がやけに胸の奥に深く刺さった。
「そんなこと、」
そんなことないよって言おうとしたはずなのに、声が出ない。
それどころか、涙が溢れてきた。
手の甲で、目尻を擦る。
なんで。
止まってよ。
変に思われちゃうでしょ。
ねえ、なんで止まんないの。
手のひらで、顔を覆ってしまう。
二人の反応を見るのが怖くて、顔をあげられない。
「あれ、どうしたんだろ」
かろうじてその声だけが出た。
はあ、はあ、はあ。
息が上手く吸えない。
喉の奥が焼けるように痛い。
ごめん、って口にしようとしても、声が体の奥に押し戻される。
どうしよう。
苦しい。
耐えきれなくなって、床に座り込む。
「ごめん」
言えたかどうかわからない。
冷たい床に、指の間から涙が落ちる。
こんなの、いつも耐えてたじゃない。
大丈夫。
いつものこと。
なのに、どうして。
声を出そうとしても掠れて。
涙を止めようとしても零れて。
その時、背中に温かいものが触れた。
二つの手が、私の背中を上下に撫でる。
二人が、茉文が、詩葉が、そばにしゃがみこんで、私の背中を摩ってくれているのかもしれない。
「落ち着いて、綴璃」
「大丈夫だよ」
二人の声が耳を包み込む。
その温もりに、呼吸が落ち着く。
夕焼けが照らす中、涙だけが止まらない。
でも、勇気が出た。
柊くんがくれたあの言葉。
「少しずつでいいから、君として、生きていけばいいと思う」
「僕にありのままを見せたって、僕は君を嫌いにならなかっただろ?」
落ち着いた声と台詞が蘇る。
それと、背中から巡る二人のこの温もり。
あの日、私を守ってくれたあの台詞。
すうっと上手く息が吸えた。
言わないと。
「……私、!」
思ったよりも大きな声が出てしまった。
高鳴る鼓動を抑えるように胸に手を置く。
少し呼吸を整えて、
「...私、二人みたいに可愛くないし、いつも嘘ばっかで、二人の顔色勝手に読んで、勝手に落ち込んで、合わせるだけで必死でっ……!変わりたいのにっ!!」
ぼろぼろと私の仮面が砕けていくように感じる。欠片が指の隙間から落ちていく。息が詰まる。それでも。
「変われないの。嫌われたくなくて、二人が大好きだからっ!」
はあ、はあ。と息が切れる。少しだけ息を吸い込んだ。そして、零れたのは、涙でも、嗚咽でもない。笑みだった。
「.....ほんと、馬鹿みたいだよね。情けないよね。ごめん。こんな私、間違ってるよね。ごめんね。」
沈黙が横たわった。
膝に置いた右手はいつの間にか強く拳を握りしめていた。
永遠のように長く感じた静けさは、一つの音に切り裂かれる。
「...ごめん。」
詩葉の声が耳に届いた。
「ごめん。ごめんね、綴璃。気づいてた。知ってたよ。無理して笑ってくれてたこと。私たちの顔色を読んでくれてたこと。でも、なんて言えばいいか、分からなくて。見て見ぬふりしてた。本当にごめん。……私は、綴璃のこと、大好きだよ。綴璃が私と思っていることとか、考えていることが違っても、その気持ちは変わらない。間違いかなんて分からない。」
間違い。その言葉は、いつも私の胸を詰まらせる。
「でも、私は綴璃なら、間違いでもいい。だから、もっともっと、気を抜いてっていうか、何も考えずにっていうか。」
すうっと息を吸い込む音が聞こえた。
「まあ、とにかく!私は、どんな綴璃でも大好きってこと!」
その言葉が心に滲んだ。大好き。そんなに簡単に信じられる言葉じゃない。でも、私は、信じたい。
いつの間にか温かくなった風が吹く。
さっきまで冷たかった床が温もっていく。
「……まあ、茉文がどう思ってるかは分かんないけど。」
少し笑ったような声が聞こえた。
まだ、顔を上げることは出来なかった。
「……って、なんであんたも泣いてんの」
ずびっと鼻をすする音が聞こえた。
「だってえー。」
いつもよりも少しこもった茉文の声が響く。
「ごめんね。ごめんね綴璃。間違いなんかじゃないって言いたい。私も、私もどんな綴璃でも大好きだよー」
泣き声が混じりながらも、しっかりと聞こえた。
二人の好きを、私は信じられる。
耳に届く二人の声が、自然と背中を押してくれる。
床に落ちた壊れた仮面を、拾おうとは、もう思わなかった。
顔を、上げる。
夕焼けが眩しくて。二人の涙は美しくて。
泣いてる茉文と、呆れながらも涙ぐむ詩葉と、大泣きしている私。
真っ赤な陽の光が包む中、三人で抱きしめあった。
温かい。あったかいね、二人とも。
何度か三人でふっと笑い合って。お互いの顔を見て吹き出して。
どのくらい経っただろうか。
詩葉が、ポケットティッシュを私たちに差し出して、
「とりあえず、涙拭きなよ」
と微笑んだ。
「ありがと」
そう言ってティッシュを受け取る。目尻をぐっと押さえた。ティッシュから指先に滲んだ涙が広がる。今までとは比べ物にならないくらい柔らかくて、温かい感情。
また、涙が出てきそうだ。
でも、泣いてもいい。もう、私は一人じゃないかもしれないから。
二人も涙を拭いて、少し変な空気になる。
この際、全部言いたい。私はまだ、言わないといけないことがある。彼のことを。もう、伝えられる。自分の言葉で。大きく息を吸い込む。
「あのね。私、気になる人がいるの。」
えっ、と目を丸くする二人に頬が緩む。
「聞きたい?」
そう言うと、詩葉と茉文は目を合わせて、
「あたりまえでしょ」
「気になる人ってだれ!」
と前のめりになった。
三人で椅子に座る。
日が傾き、夕焼けが溶けていく中、三人で小さな息で話す。
心臓がばくばくとうるさい。二人に自分と柊くんのことをちゃんと話すのなんて、初めてだ。
「えっとね、まず、図書室で開いた本に手紙が入ってたの。」
思ったよりも変な話の入りに、二人は困惑の表情を浮かべた。でも、私の顔を見て、続きを促してくれる。
「それでね、何度も手紙を交換するうちに、惹かれたの。」
そこで詩葉は、口を開いて、
「誰かも分からない相手の手紙に返事を書いたの?」
と首を傾げた。
「え?うん。だって私が受け取ったから。」
と答えると、
「何あたりまえみたいな顔してんの。ピュアすぎ」
そう小さく笑っていた。
ふと隣を見ると、堪えきれないというように茉文も口元に手を添えて、ふふっと微笑んだ。
「何二人とも笑ってんの。」
だって、と笑い続ける二人を横目に、強引に話を戻す。
「それでっ!直接会ったら、手紙の時よりもずっとずっと彼のことばかり考えちゃうようになって。放課後一緒に帰らなくなったのも、彼に会いに行ってたからなの。ごめんね。」
息を忘れるくらい早口に話すと、茉文が、
「それって、もう好きなんじゃない?」
と首を傾げた。
その言葉に心が揺れる。好き。そんなのかな。なんだか、急に恥ずかしくなる。
「いや、まだ」
そう言ったのに、詩葉は、遮って
「うん、好き以外の何者でもない。付き合わないの?一緒に帰ったの?」
と一人頷いて、たくさん質問を投げかけてきた。
恥ずかしくて、
「もう!この話終わり!」
と呟いて、
「私、行くね」
と鞄を手に取る。
二人はえー、と残念そうに、でも少し嬉しそうに笑った。
「彼のとこ?」
茉文はいたずらっぽく私を見た。
「そう。今日はありがとう」
紅くなっているであろう頬を掻いて、微笑む。
「うん」
「こちらこそ」
二人の声を聞くと、なんでだろう。もっともっと笑いたくなる。
「また明日」
柊くんがくれた言葉を、今度は二人に贈る。
穏やかな足取りで歩き出す。
「「行ってらっしゃーい」」
教室から届く二人の声を心に留め、足を進める。
すごく、すごく軽い。足も、心も、全部が。
息を深く吸える。
ぎい。
聞き慣れた音とともに、何度も嗅いできた香りに触れる。
柊くんは、私がいつも座っていた席の隣に座っていた。
「あ、お疲れ様」
私に気づくと、笑いかけてくれる。
さっき、二人に、私は柊くんのことが好きだって言われたせいで、変に意識してしまう。
「お、お疲れ様」
少ししどろもどろになってしまった。
いつもの席に腰を下ろす。
振り返ると、窓から海が見えた。
いつものことなのに、なぜか目を離せない。
窓ガラスが、いつもよりも透明度が高く、柔らかく感じる。
「窓、開けてもいい?」
そう聞くと、
「いいよ。」
と柊くんは答えてくれた。
最近ずっと開けているから、ガッガッという音も、少しずつ小さくなっている。
少しだけ、物足りないと感じるよ。
私が大好きな景色を確認してから、息を吸う。
「私、二人に話せたよ。」
柊くんは少し目を見開いて、
「うん」
と呟いた。
「私、強くなれたよ。」
と言う。
「うん。」
「柊くんのおかげだよ。」
君の方を見つめる。
「乾さんが、頑張ったんだよ。頑張ったね。よく言えたね。すごいよ。」
そう笑う君はどこか寂しげに感じられた。
「ありがとう。柊くん。私に居場所をくれて。」
自然と笑えた。
口角も、頬も、心も、何も痛くない。
それどころか、全てが、心地よい。
そうだ。
笑顔ってこれだった。
柊くん。
本当にありがとうね。
二人でいつものようにかけがえのない時間を過ごして、家路を歩く。
「ただいまー」
「おかえり」
お母さんが玄関へと歩いてくる音が聞こえる。
急いで笑おうとする。そんなことしなくても、もう、笑顔になっていた。
お母さんは、朗らかな表情で、笑いかけてくれる。でも、すぐに目を開いた。
「あら、目が腫れてるじゃない。」
びくっと肩が震えた。知られてしまう。私が泣いたことを。
「え、そう?」
何もないように首を傾げて笑う。
「なにか、あった?」
なんでもないよ、と言おうとして口を開いたのに、自然と閉じた。
今なら、言える気がした。今なら、私を見せられる気がした。言いたい。見せたい。
「……うん。あったよ、とっても大きなことが...でもね、もう大丈夫。」
肺いっぱいに息を吸い込む。
「私、今すっごく楽しいよ。」
言えた。糸が切れたように自然と口が動いた。
お母さんはふっと笑って、
「...そう、良かった。」
それ以上何も聞いてこないことが心地よくて。
お母さんは花柄のエプロンを揺らしながらキッチンに戻った。
私もその後を追う。
お母さんの手元を見ると、ひき肉と刻んだ玉ねぎを捏ねている。
「ハンバーグ?」
そう言うと、
「ええ、嫌だった?」
「そんなわけないでしょ!」
鞄を置いて、お母さんのそばに立つ。
「手伝うよ。」
隣のシンクで手を洗って、お母さんの隣に立つと、
「綴璃のそんな優しいところは、きっとお父さんに似たのね。」
とお母さんはふわふわな髪を揺らした。
「え、そうかな。」
自然と口角が上がった。頬が熱くなる。
「ええ、そうよ。」
「じゃあ、顔はお母さんに似たのかな」
気まずくて、自然と声を出した。
あ、間違えた。私のこんな顔が、お母さんに似ているなんて言ってしまった。
そんなにかわいくない私の顔と、とってもかわいいお母さんの顔が似てるわけがない。
なのにお母さんは、
「ええ、お母さんは綴璃ほどかわいくないよ。」
と笑った。
え?私かわいくないよ。なんて言えば。
「いや、お母さんの方が何十倍もかわいいよ」
と口が勝手に開いた。
と目を合わせると、
「もう冗談言わないでよ!いいからちゃっちゃと着替えちゃいなさい」
と笑われた。
「はーい」
二階に上がって自分の部屋に入る。
レースカーテンから覗く街は、何件かの灯りが灯っていて。
第一ボタンを開けたシャツも、折ったプリーツスカートも、吹き付けた香水も、もう、私を締め付けない。
楽な部屋着に着替えて、一階へと階段を下りる。
お母さんはハンバーグのソースを作っていた。
その隣に立って、一緒に料理をする。
お母さんとハンバーグを作るのなんて小学生以来だろう。
部屋にハンバーグのいい匂いが充満する。
「ただいまー」
帰ってきたお父さんは、私の顔を見ると、優しく微笑んで、着替えてくる、とリビングを出た。
ダイニングテーブルに並んだハンバーグとご飯とお味噌汁。
いただきます、と箸を握ってハンバーグを一口サイズ取って。口に放り込む。
ホロホロと崩れていく柔らかい肉、時々感じる玉ねぎの甘み。いつまでも変わらないソースの味。
おいしい。
おいしい。
箸が止まらない。
ご飯をおかわりする。
おかわりなんて何ヶ月ぶりかもわからない。
いい食べっぷり、と笑うお母さんとお父さんにつられて私も笑う。
ご飯の時間が、家族と笑うこの空間が、こんなにも楽しい。幸せに満ち溢れていた。
今日は、放課後に二人とカフェに来ている。
二人はクリスマスのフラペチーノを頼んでいて、私は温かいチョコレートの飲み物を啜る。
「綴璃のおいしそー!」
茉文があまりにも目を輝かせて見てくるものだから、
「ひとくちいる?」
と尋ねた。
「いいの!」
「いいよ」
首を傾げて笑う。
茉文の香水の香りがふっと鼻に降ってくる。
「おいしいね!」
そう笑う茉文を見て、
「飲みすぎじゃない?」
と詩葉が頬を緩ませながら声を出した。
「ごめん!私のも飲んじゃって」
茉文はフラペチーノを私の方に向ける。
今の私なら。今なら、言えるかも。
「実はね、フラペチーノ苦手なの」
「えっ、そうなの!」
と声を上げる茉文と驚いた顔をする詩葉に、少し申し訳なくなる。
「言わなくてごめんね」
「いいよいいよ!なら、これ食べな」
と茉文がベリーのケーキが乗ったお皿を私の前において、フォークを渡してくれる。
ほんとだ。ほんとだね、柊くん。
私のこと、受け止めてくれたよ。
「いいの?」
「もちろん!」
いつか飲んだ、味が濃くて、口に残る感じの甘みじゃなくて、甘酸っぱくて、爽やかで、でもやっぱり甘い、そんな味だった。
「おいしっ」
自然と声が出る。
「どれどれー」
と詩葉も自分のフォークで茉文のケーキをつつく。
「ちょっと!それ私のなんですけど!」
「まあまあ、私のもお食べ。」
詩葉は自分のスコーンを茉文の口に運ぶ。
そんなやり取りがなんだか楽しくて、ふふっと息が溢れ落ちる。
それぞれのドリンクもスイーツも食べ合って。
甘くとろける放課後だった。
次の日の図書室。
「海、入りたかったなー」
そう言うと、
「明日は暑さが戻るらしいよ。」
と柊くんは淡々と口にした。
「ほんと?」
スマホの天気アプリを開く。
最高気温26度。
その文字を見て、え、と息が漏れる。
「夏日じゃん」
「ねー、百何十年ぶりの奇跡の夏日。とか聞いたよ。」
「すごいね。」
「ね。」
今日は椅子には座らず、出会った頃のように本棚に腕を置いて体重を預ける。
真っ直ぐに外の景色を見つめて、二人で笑って。
夜に自分の部屋に入ると、鏡に目がいった。
鏡に映る私の顔をしばらく見ていた。
でも、ふっと息を吐いて、ベッドに潜り込む。
異様な暑さで目が覚める。そういえば、今日は百何十年に一度の奇跡の夏日、だっけ。
本当に、とっても暑い。
ジャケットは着ずに長袖のシャツだけで学校に向かったのに、腕をまくっていても暑い。
風もなくて、本当に夏に戻ったみたいだ。
教室でも、あちー、冷房入んないのー、という言葉が飛び交っている。
授業中に何度も手で風を送った。
放課後になっても、暑さは全く消えない。
海辺まで校舎の外を回って歩いていく。
目の前に広がる光景に、足が止まる。
晴れ渡る澄み切った大きな青空。
微かに薄い雲が空を自由に泳いで。
太陽が溢れんばかりの光を降らせて。
水面はその光を吸い込んで反射させて。
波音は大きくて繊細でそれでいて癒しで。
海の色は深くて淡く鮮やかに世界を染めて。
砂浜は真っ白でどこまでも続いているようで。
ローファーと靴下を脱ぎ、手に持つ。
人通りのないここは、賑やかな教室から切り離された様で。
砂浜を踏みしめる。
砂に埋もれていく感覚がくすぐったい。
白くて、温かくて、柔らかくて。
ふふっと息が漏れて、足が軽やかになる。
スキップを踏むと砂が舞って風と踊り出す。
波打ち際まで来ると、涼やかな風に抱擁される。
潮の香りがいつもよりも強く鼻を燻る。
こっちに向かってくる波を蹴ると、水しぶきが上がる。
ひんやりとした海の水が、気持ちいい。
ひとつひとつの雫に、それぞれに世界が映し出された。
その雫が落ちるまでの一瞬に見惚れた。
冷たい水が足を包み込んで。
次の波は、たくさんの貝殻を運んできた。
スカートを手で持って、近くにしゃがむ。
すぐ隣にローファーを置く。
波に背を向け、校舎の方を向く。
貝殻はすぐに砂の中に身を隠した。
ふふっ、あははっ。
いつの間にか笑っていた。
顔を上げて、笑って。
波が静かに凪いだとき。
カシャッーー
シャッター音が響いた。
金属がぶつかるような聞いたことない大きな音。
はっと見上げると、二階の窓に。
図書室の窓から、柊くんが覗いていた。
手元にはカメラ。
古いカメラが握られていた。
立ち上がって、柊くんを見つめる。
すうっと肺いっぱいに息を送り込んで、
「柊くーん!」
と両手を上げて手を振った。
それを見た柊くんは、柔らかく微笑んで小さく手を振った。
「おいでよー!」
と声をかけると、
「僕はいいー!ここから見てるよ」
といういつもより大きな柊くんの声が聞こえた。
ここに来ないことに、少しだけしょんぼりする。
百何十年に一度の奇跡の夏日に二人で海辺で遊びたかったな。
静かで、落ち着いていて、どこか遠くを見ているその君の眼差しは、息の仕方を忘れるほど綺麗だった。
スマホを構えて、シャッターボタンを押す。
カシャッ。
さっきよりも小さな音が流れた。
これでおあいこ。
写真を見ると、どくどくと心臓が早まる。
写真の中の君は、いつもよりも人間離れした容貌で。
その時、目の端にきらきらと光るものがあった。
すぐ近くに駆け寄り、それに手を伸ばす。
二枚の貝殻。
ピンク色のような、オレンジ色のような色の物と、白っぽい少し水色がかった物。
どちらとも透明度が高くて、太陽に透かすと、ふんわりと、光を通した。
それを手に握って、海水に浸す。
砂が取れて、水をまとった貝殻はより一層強く輝きを放つ。
ついでに足も洗い、少し乾かして、湿ったまま靴下とローファーを履いて、歩く。
じゃり、じゃり、と砂を踏みしめる音は、どこか儚くて。
しばらく歩いて、昇降口で上靴に履き替える。
校舎内から聞こえる波の音は本当に小さくて、さっきまでの音が嘘みたいに感じる。
ぎいっ。
重い木の扉を開ける。
いつも嗅ぐ、埃と古い紙の匂い。
そして、ほんのり甘い君の香りと、海の香り。
「あ、来たんだ。」
柊くんがこっちを見て笑いかけた。
「うん。」
そう言って、君の隣に立って、本棚に手を置く。
ここで見ると、さっきよりも遠くまで見える。
遠くに、海の向こう側には、街が見える。
「さっき、写真撮ったでしょ」
そう呟くと、
「ばれた?」
と君はいたずらっぽく口角を上げた。
「ばればれ。」
私もつられて笑う。
手に握りしめていた貝殻を柊くんに差し出す。
「これ、あげる」
そう言うと、君はぱっと眩しく笑って
「嬉しい!」
と私の手からそれを二つつまみ上げる。
触れた柊くんの温もりにどきっとさせられた。
「これ、波間柏(なみまがしわ)でしょ。」
君の声が、横から降ってきた。
波間柏。
初めて聞く名前だ。
「そうなの?」
そう聞くと、
「うん。きっと。」
と大きく頷いて、ねえ知ってる?と首を傾げて私を見つめてきた。
知らない。と笑うと、
まだ言ってない!って君も笑って。
「波間柏はね、人魚の涙と呼ばれているんだ。」
と言った。
「人魚の、涙」
そう呟くと、
「幻想的だよね。」
と笑った。
たしかに、小さめで、見る角度で色が変わって、丸っこくて、涙のようだ。
「そうだね。人魚の涙ってこんなに綺麗なんだ。私のとは大違い。」
微笑んで窓の外を見つめる。
君も笑ってくれるかと思った。大笑いしてくれると思った。
でも、君は黙っていた。
君の方を見る。
目に飛び込んできた君の横顔は、少し目を伏せ、色白の肌はほのかに光り、頬はピンク色で、透けてなくなってしまいそうなほど、儚い雰囲気を纏っていた。
そんな君は、いきなり私の方を見た。
真っ直ぐな瞳に吸い込まれるように私も見つめた。
「僕には君の涙は、これよりもずっとずっと綺麗に見えたよ。」
貝殻を撫でながら、目を細めてはっきりと言う君の声は、柔らかだった。
恥ずかしげもなくそんなことを言う君を前に、こっちが恥ずかしくなる。
何事もなかったかのように窓の外に視線を戻したけど、微笑んでしまう。
君の涙は綺麗。
言われて嬉しくないはずがない。
「ありがと」
そう言い君の方を向く。
カシャッ。
君はカメラを構えていた。
「また撮ったでしょ。」
そう言うと
「あー、乾さんが動くからぶれた」
と残念そうな顔をした。
そんな君にふふっと息が漏れる。
「じゃあさ、どうせなら二人で撮ろうよ」
気がついたら口に出していた。
君は一瞬驚いた顔をして、すぐにうん!と笑う。
でも、その顔はどこか哀しみが滲んでいるような気がした。
そんな考えは押しのけて、スマホを握る。
カメラアプリを起動させて、適当な加工をタップした。
内カメにして斜め上に手を伸ばし、私と君を範囲に納める。
納めようとしても、なかなか入らなくて、どちらかを画角に入れようとすると、どちらかが見切れた。
カメラを持った手を小さく何度も動かす。
それを見た君は私の肩を掴んで、ぐいっと引き寄せた。
「もっと寄らないと入んないよ」
さっきよりもずっと近くから声がする。
脈が早くなって、どきどきとする。
そんな気を紛らせて
「はいチーズ」
と呟いた。
シャッターボタンを押す指は小さく震えた。
カシャッ。
少しの沈黙が横たわる。
何を言おう。
「あっ!さっき盗撮した写真見せてよ」
出てきたのはこんな言葉だった。
君は照れくさそうに笑って、
「やだよ。盗撮なんて人聞きが悪いだろう?」
と言った。
「ふふっ、まあいいや」
君の隣は、本当に心地よい。
こんな日常が、いつまでも、いつまでも、そばに。
神様は、どうしてこんな意地悪するのかな。
ね、柊くん。
次の日から、図書室に君は現れなくなった。
何日通っても、あの姿を見ることも、声を聞くことも、香りを嗅ぐことも、なかった。
無理だ。もう無理だ。私、どうすればいいの?どうすればよかったの?
変わらない方が良かった?笑わない方がいい?
また、乾綴璃の仮面を着ければいい?
分からない。分からないよ。
ずっとずっと考えてるのに正解が分からない。
変わらないままで、誰にも嫌われないように、過ごすか。
ありのままの私で、誰かに嫌われても、それでも生きていくか。
図書室にいる時は、少し落ち着いていた脈が、身体中を暴れ回るほどに激しい。
家に帰っても、落ち着かない。
自分の部屋の鏡を横目に見ると、やつれた顔が私の方を見ている。
もっと、普通の顔にしないと。明るくて、親しみやすくて、優しく笑う、そんないつもの私にならないと。
笑おうとすると、頬がぴくぴくと小さく震える。
一瞬できたと思っても、すぐに戻ってしまう。
下がる目尻が、眉が、上がる口角が、頬が、変えていく私の顔の全部が気持ち悪く見える。
視界が揺らいで、目から雫が零れていく。
どうしよう。どうすれば、作れたっけ。
頬を何度も撫でて。温もりを感じて。鏡に触れて。冷たさが伝わって。
よく眠れない夜を越すと、昨日よりも酷い顔ができあがっていた。
泣いたせいで腫れた目の周り。いつもよりも下がって見える口角。
やっぱり上手く乾綴璃が演じられない。
二人が話している声も、右耳から左耳へ抜けていく。
うん、とか、へえ、とか、生気のない返事しかできない。
ふとした時に、昨日の峰崎が思い出される。
私は、調子に乗っている。嫌われている。
「綴璃、大丈夫?」
詩葉は私の方を見て眉を寄せた。
「大丈夫だよ」
考えるより前に出てしまった言葉は、強がりだ。
「そっか」
詩葉は、心配そうに首を傾けた。
気が付けばまた一日が終わる。
旧校舎の廊下を歩く。
柊くんに、昨日のことを謝らないと。私が感情的に彼に当たってしまった。彼は少しも悪くない。むしろ、優しい。いい人だ。
今日は、床の軋みが聞こえない。
ぎぎぎっと扉を開けると、いつもの陽の光と、大きな空、たくさんの本棚が目を独占した。ガチャッと扉が閉じるのを合図に、喉の蓋を開ける。いつもの席に、君は腰を下ろしている。
「柊くん。昨日は、ごめんなさい。」
扉の前で私は俯きながら告げた。目線の先には、自分のスリッパと木目調の床。
恐る恐る君の方を向くために顔を上げると、髪の毛が顔にかかり、右手でサッと払う。
君はきょとんとした顔で、
「え?気にしてないよ。乾さん、大丈夫?」
「大丈夫だよ」
そう笑う。いつぶりだろう。頬が、口角が、目尻が、ズキッと痛む。
また、強がってしまう。
上げようとした口角も、下げようとした目尻も、痛みに耐えられず、元に戻ってしまう。
君は何も言わずに、ただ、私の方を見ていた。
「、、どうしよう、柊くん。私、笑えないの。」
君は口をハッと開けて、ぎゅっと口と目を閉じた。
「ずいぶん前に、手紙に蔑みが嫌いって書いたの覚えてる?」
君はうん、と頷いた。
「その時もある人に馬鹿にされてんだけど、昨日もね。同じ人に、お前最近調子乗ってね?なんか嫌いになったわ。冷めた。って言われたの。」
思い出すだけで、心臓がきりきりと痛む。
あの時の峰崎の顔が、声が、全部、全部鮮明に脳に刻み込まれている。
「そうなんだね。そんなことがあったんだ。乾さんはどう思ったの?」
その時の感情を思い出す。でも、いい感じの言葉が見つからない。
「胸の奥がムカムカして、少し痛くて、泣きたくて。そんな感じだった。嫌いって言葉が、すごく痛かった。辛い、も違うし、悲しい、も違う。」
「そっか。よく言えたね。」
君は私のすべてを包み込むような優しさをまとった笑顔を浮かべた。
「これは、ある人の受け売りだけど。人ってね、好きって言葉は何度言われても信じられないのに、嫌いって言葉はたった一度で心の奥底まで突き刺して、抜けなくなってしまうんだ。」
たしかにそうだ。私は詩葉がくれた好きを信じられなかったのに、峰崎から投げられた嫌いはあっさりと信じてしまっていた。
「そうかも」
柊くんは、色白で大きくて、筋が目立つ手を胸に置いている。
その表情は、私よりも苦しそうに見えた。心配になって
「どうしたの?」
と尋ねる。
「痛いよ。ここが。僕は君に何もしてあげられない。どうしてこんなにも痛むんだ。」
「心。きっと心があるんだよ、そこに。」
気が付けばそんな言葉が口から飛び出ていた。自分のその声は、一番に私を深く突き刺す。
心。なにそれ。そんなの、邪魔なだけだよ。
ただ好かれるように、嫌われないように毎日振舞って、言われたことをこなして。
嫌だ、とか、悲しい、苦しいって知ってしまったら、もう、できなくなる。
そんな頭の中の考えを君の声は遮った。
「じゃあ、乾さんのは、どこにあるの?」
「私のは、」
私の心は、どこに行ってしまったのだろう。
峰崎のあの一言で、砕けてしまったのだろうか。私の脆くてまだ小さな心は。
「わかんないや」
私は、こればっかりだ。向き合ってこなかったことに、わからないって言い訳をして。笑おうとしても笑えない。今、私はとても不気味な笑い方をしているんだろうな。ごめん。こんな顔見せて。ごめん。困らせちゃって。
どく、どく、と全身を巡る血液がうるさい。
長い沈黙は、波の音と心音だけを響かせる。
何度か入ってきた風は、柔らかい君の髪の毛を揺らして消えていく。
「そっか。すぐになんて言わない。少しずつ、少しずつでいいから、君として、生きていけばいいと思う。」
君の言葉で、私の心臓は凪いでいく。
「うん」
怖い。また変わろうとしたら、同じようなことを言われるかもしれない。もしかしたら、茉文も詩葉も同じように思っていたのかもしれない。
「怖いよね。」
君は、少し目を細めながら首を傾げて私を映した。
黒い細めの髪が、重力に従って流れる。
「うん。」
さっきよりも力ない声でも、君は拾ってくれる。
「でも、僕はね。変わろうとしていた、たしかに変わっていく君が、初めて会った時よりもずっとずっと、好きだ。」
好きっていう言葉は信じるのが難しい。
変わっていいかなんて私にはわからない。
「その言葉は、信じてもいい?」
「信じたいのなら。」
「信じる。」
二人で微笑み合う。にっと歯を覗かせている君の顔は、逆光でも、目の奥に飛び込んできて、脳裏に焼き付く。カーテンが風で膨らんで、太陽の僅かな光が、全てを照らして染めていく。
言いたい。詩葉たちに、全部。
なのに、口が開かない。喉がぎゅっと締め付けられる。
あれから何度も遊びに誘われた。私は都合のいい口実を作って断って、笑って、謝って。
はあ。
小さく吐いたため息は、宙へと溶けていく。
君は、何も言わなかった。
あれから何日経っても何もできずにいる私に、
柊くんは「言えた?」とか「大丈夫?」なんて言葉はかけない。
ただ、この本、面白いよ。とか、今日のお弁当、何が入ってた?とか。
他愛もなく、いつも通りの会話。
「私ね、まだ言えないの。」
ある日。自分から話を切り出した。
君はふうっと息を吐いて
「そっか。」
と頬を緩めた。
「怖いんだ。まだ。」
そう自嘲気味に笑う。君は、何も言わない。ただ沈黙が横たわる。
「嫌われそうでさ。」
「こんなこと言うのもあれだけどさ。僕にありのままを見せたって、僕は君を嫌いにならなかっただろ?」
「うん。」
「言ってみてもいいと思うよ。今の綴璃なら、きっと言える。」
「でも。」
こんなに優しい言葉で包んでくれるにも関わらず、私の思考は常に悪い方向へと流れていく。
「もしさ、言ってみて、ダメだったら。僕を殴りに来い」
君は私の方を見ながら歯を見せて、顔をくしゃっと崩して笑った。
「ふふっあはは」
しばらく笑いが止まらなくて、ははっ、と短い息が何度も続く。
「殴りに行く」
私も君の真似をして、歯を見せて笑う。
こんな風に、二人の前でも笑えたら。
次の日の放課後には、怖さがまた増えていた。
「綴璃も今日こそ行けるよねー」
そう笑いかけられて、肩が震える。
教室にはいつの間にか、私たち三人だけ。
私たちの息遣いだけが漂う。
「えと、」
どうしよう。
空いている窓から乾いた風が流れ込む。
なんて言って断ろう。
「...今日も、ちょっと」
笑おうとするのに、体が拒否する。
沈黙がうるさい。
耳が裂けそうだ。
やだ。
何か、何か言って。
「……最近、綴璃おかしいよ。」
その言葉がやけに胸の奥に深く刺さった。
「そんなこと、」
そんなことないよって言おうとしたはずなのに、声が出ない。
それどころか、涙が溢れてきた。
手の甲で、目尻を擦る。
なんで。
止まってよ。
変に思われちゃうでしょ。
ねえ、なんで止まんないの。
手のひらで、顔を覆ってしまう。
二人の反応を見るのが怖くて、顔をあげられない。
「あれ、どうしたんだろ」
かろうじてその声だけが出た。
はあ、はあ、はあ。
息が上手く吸えない。
喉の奥が焼けるように痛い。
ごめん、って口にしようとしても、声が体の奥に押し戻される。
どうしよう。
苦しい。
耐えきれなくなって、床に座り込む。
「ごめん」
言えたかどうかわからない。
冷たい床に、指の間から涙が落ちる。
こんなの、いつも耐えてたじゃない。
大丈夫。
いつものこと。
なのに、どうして。
声を出そうとしても掠れて。
涙を止めようとしても零れて。
その時、背中に温かいものが触れた。
二つの手が、私の背中を上下に撫でる。
二人が、茉文が、詩葉が、そばにしゃがみこんで、私の背中を摩ってくれているのかもしれない。
「落ち着いて、綴璃」
「大丈夫だよ」
二人の声が耳を包み込む。
その温もりに、呼吸が落ち着く。
夕焼けが照らす中、涙だけが止まらない。
でも、勇気が出た。
柊くんがくれたあの言葉。
「少しずつでいいから、君として、生きていけばいいと思う」
「僕にありのままを見せたって、僕は君を嫌いにならなかっただろ?」
落ち着いた声と台詞が蘇る。
それと、背中から巡る二人のこの温もり。
あの日、私を守ってくれたあの台詞。
すうっと上手く息が吸えた。
言わないと。
「……私、!」
思ったよりも大きな声が出てしまった。
高鳴る鼓動を抑えるように胸に手を置く。
少し呼吸を整えて、
「...私、二人みたいに可愛くないし、いつも嘘ばっかで、二人の顔色勝手に読んで、勝手に落ち込んで、合わせるだけで必死でっ……!変わりたいのにっ!!」
ぼろぼろと私の仮面が砕けていくように感じる。欠片が指の隙間から落ちていく。息が詰まる。それでも。
「変われないの。嫌われたくなくて、二人が大好きだからっ!」
はあ、はあ。と息が切れる。少しだけ息を吸い込んだ。そして、零れたのは、涙でも、嗚咽でもない。笑みだった。
「.....ほんと、馬鹿みたいだよね。情けないよね。ごめん。こんな私、間違ってるよね。ごめんね。」
沈黙が横たわった。
膝に置いた右手はいつの間にか強く拳を握りしめていた。
永遠のように長く感じた静けさは、一つの音に切り裂かれる。
「...ごめん。」
詩葉の声が耳に届いた。
「ごめん。ごめんね、綴璃。気づいてた。知ってたよ。無理して笑ってくれてたこと。私たちの顔色を読んでくれてたこと。でも、なんて言えばいいか、分からなくて。見て見ぬふりしてた。本当にごめん。……私は、綴璃のこと、大好きだよ。綴璃が私と思っていることとか、考えていることが違っても、その気持ちは変わらない。間違いかなんて分からない。」
間違い。その言葉は、いつも私の胸を詰まらせる。
「でも、私は綴璃なら、間違いでもいい。だから、もっともっと、気を抜いてっていうか、何も考えずにっていうか。」
すうっと息を吸い込む音が聞こえた。
「まあ、とにかく!私は、どんな綴璃でも大好きってこと!」
その言葉が心に滲んだ。大好き。そんなに簡単に信じられる言葉じゃない。でも、私は、信じたい。
いつの間にか温かくなった風が吹く。
さっきまで冷たかった床が温もっていく。
「……まあ、茉文がどう思ってるかは分かんないけど。」
少し笑ったような声が聞こえた。
まだ、顔を上げることは出来なかった。
「……って、なんであんたも泣いてんの」
ずびっと鼻をすする音が聞こえた。
「だってえー。」
いつもよりも少しこもった茉文の声が響く。
「ごめんね。ごめんね綴璃。間違いなんかじゃないって言いたい。私も、私もどんな綴璃でも大好きだよー」
泣き声が混じりながらも、しっかりと聞こえた。
二人の好きを、私は信じられる。
耳に届く二人の声が、自然と背中を押してくれる。
床に落ちた壊れた仮面を、拾おうとは、もう思わなかった。
顔を、上げる。
夕焼けが眩しくて。二人の涙は美しくて。
泣いてる茉文と、呆れながらも涙ぐむ詩葉と、大泣きしている私。
真っ赤な陽の光が包む中、三人で抱きしめあった。
温かい。あったかいね、二人とも。
何度か三人でふっと笑い合って。お互いの顔を見て吹き出して。
どのくらい経っただろうか。
詩葉が、ポケットティッシュを私たちに差し出して、
「とりあえず、涙拭きなよ」
と微笑んだ。
「ありがと」
そう言ってティッシュを受け取る。目尻をぐっと押さえた。ティッシュから指先に滲んだ涙が広がる。今までとは比べ物にならないくらい柔らかくて、温かい感情。
また、涙が出てきそうだ。
でも、泣いてもいい。もう、私は一人じゃないかもしれないから。
二人も涙を拭いて、少し変な空気になる。
この際、全部言いたい。私はまだ、言わないといけないことがある。彼のことを。もう、伝えられる。自分の言葉で。大きく息を吸い込む。
「あのね。私、気になる人がいるの。」
えっ、と目を丸くする二人に頬が緩む。
「聞きたい?」
そう言うと、詩葉と茉文は目を合わせて、
「あたりまえでしょ」
「気になる人ってだれ!」
と前のめりになった。
三人で椅子に座る。
日が傾き、夕焼けが溶けていく中、三人で小さな息で話す。
心臓がばくばくとうるさい。二人に自分と柊くんのことをちゃんと話すのなんて、初めてだ。
「えっとね、まず、図書室で開いた本に手紙が入ってたの。」
思ったよりも変な話の入りに、二人は困惑の表情を浮かべた。でも、私の顔を見て、続きを促してくれる。
「それでね、何度も手紙を交換するうちに、惹かれたの。」
そこで詩葉は、口を開いて、
「誰かも分からない相手の手紙に返事を書いたの?」
と首を傾げた。
「え?うん。だって私が受け取ったから。」
と答えると、
「何あたりまえみたいな顔してんの。ピュアすぎ」
そう小さく笑っていた。
ふと隣を見ると、堪えきれないというように茉文も口元に手を添えて、ふふっと微笑んだ。
「何二人とも笑ってんの。」
だって、と笑い続ける二人を横目に、強引に話を戻す。
「それでっ!直接会ったら、手紙の時よりもずっとずっと彼のことばかり考えちゃうようになって。放課後一緒に帰らなくなったのも、彼に会いに行ってたからなの。ごめんね。」
息を忘れるくらい早口に話すと、茉文が、
「それって、もう好きなんじゃない?」
と首を傾げた。
その言葉に心が揺れる。好き。そんなのかな。なんだか、急に恥ずかしくなる。
「いや、まだ」
そう言ったのに、詩葉は、遮って
「うん、好き以外の何者でもない。付き合わないの?一緒に帰ったの?」
と一人頷いて、たくさん質問を投げかけてきた。
恥ずかしくて、
「もう!この話終わり!」
と呟いて、
「私、行くね」
と鞄を手に取る。
二人はえー、と残念そうに、でも少し嬉しそうに笑った。
「彼のとこ?」
茉文はいたずらっぽく私を見た。
「そう。今日はありがとう」
紅くなっているであろう頬を掻いて、微笑む。
「うん」
「こちらこそ」
二人の声を聞くと、なんでだろう。もっともっと笑いたくなる。
「また明日」
柊くんがくれた言葉を、今度は二人に贈る。
穏やかな足取りで歩き出す。
「「行ってらっしゃーい」」
教室から届く二人の声を心に留め、足を進める。
すごく、すごく軽い。足も、心も、全部が。
息を深く吸える。
ぎい。
聞き慣れた音とともに、何度も嗅いできた香りに触れる。
柊くんは、私がいつも座っていた席の隣に座っていた。
「あ、お疲れ様」
私に気づくと、笑いかけてくれる。
さっき、二人に、私は柊くんのことが好きだって言われたせいで、変に意識してしまう。
「お、お疲れ様」
少ししどろもどろになってしまった。
いつもの席に腰を下ろす。
振り返ると、窓から海が見えた。
いつものことなのに、なぜか目を離せない。
窓ガラスが、いつもよりも透明度が高く、柔らかく感じる。
「窓、開けてもいい?」
そう聞くと、
「いいよ。」
と柊くんは答えてくれた。
最近ずっと開けているから、ガッガッという音も、少しずつ小さくなっている。
少しだけ、物足りないと感じるよ。
私が大好きな景色を確認してから、息を吸う。
「私、二人に話せたよ。」
柊くんは少し目を見開いて、
「うん」
と呟いた。
「私、強くなれたよ。」
と言う。
「うん。」
「柊くんのおかげだよ。」
君の方を見つめる。
「乾さんが、頑張ったんだよ。頑張ったね。よく言えたね。すごいよ。」
そう笑う君はどこか寂しげに感じられた。
「ありがとう。柊くん。私に居場所をくれて。」
自然と笑えた。
口角も、頬も、心も、何も痛くない。
それどころか、全てが、心地よい。
そうだ。
笑顔ってこれだった。
柊くん。
本当にありがとうね。
二人でいつものようにかけがえのない時間を過ごして、家路を歩く。
「ただいまー」
「おかえり」
お母さんが玄関へと歩いてくる音が聞こえる。
急いで笑おうとする。そんなことしなくても、もう、笑顔になっていた。
お母さんは、朗らかな表情で、笑いかけてくれる。でも、すぐに目を開いた。
「あら、目が腫れてるじゃない。」
びくっと肩が震えた。知られてしまう。私が泣いたことを。
「え、そう?」
何もないように首を傾げて笑う。
「なにか、あった?」
なんでもないよ、と言おうとして口を開いたのに、自然と閉じた。
今なら、言える気がした。今なら、私を見せられる気がした。言いたい。見せたい。
「……うん。あったよ、とっても大きなことが...でもね、もう大丈夫。」
肺いっぱいに息を吸い込む。
「私、今すっごく楽しいよ。」
言えた。糸が切れたように自然と口が動いた。
お母さんはふっと笑って、
「...そう、良かった。」
それ以上何も聞いてこないことが心地よくて。
お母さんは花柄のエプロンを揺らしながらキッチンに戻った。
私もその後を追う。
お母さんの手元を見ると、ひき肉と刻んだ玉ねぎを捏ねている。
「ハンバーグ?」
そう言うと、
「ええ、嫌だった?」
「そんなわけないでしょ!」
鞄を置いて、お母さんのそばに立つ。
「手伝うよ。」
隣のシンクで手を洗って、お母さんの隣に立つと、
「綴璃のそんな優しいところは、きっとお父さんに似たのね。」
とお母さんはふわふわな髪を揺らした。
「え、そうかな。」
自然と口角が上がった。頬が熱くなる。
「ええ、そうよ。」
「じゃあ、顔はお母さんに似たのかな」
気まずくて、自然と声を出した。
あ、間違えた。私のこんな顔が、お母さんに似ているなんて言ってしまった。
そんなにかわいくない私の顔と、とってもかわいいお母さんの顔が似てるわけがない。
なのにお母さんは、
「ええ、お母さんは綴璃ほどかわいくないよ。」
と笑った。
え?私かわいくないよ。なんて言えば。
「いや、お母さんの方が何十倍もかわいいよ」
と口が勝手に開いた。
と目を合わせると、
「もう冗談言わないでよ!いいからちゃっちゃと着替えちゃいなさい」
と笑われた。
「はーい」
二階に上がって自分の部屋に入る。
レースカーテンから覗く街は、何件かの灯りが灯っていて。
第一ボタンを開けたシャツも、折ったプリーツスカートも、吹き付けた香水も、もう、私を締め付けない。
楽な部屋着に着替えて、一階へと階段を下りる。
お母さんはハンバーグのソースを作っていた。
その隣に立って、一緒に料理をする。
お母さんとハンバーグを作るのなんて小学生以来だろう。
部屋にハンバーグのいい匂いが充満する。
「ただいまー」
帰ってきたお父さんは、私の顔を見ると、優しく微笑んで、着替えてくる、とリビングを出た。
ダイニングテーブルに並んだハンバーグとご飯とお味噌汁。
いただきます、と箸を握ってハンバーグを一口サイズ取って。口に放り込む。
ホロホロと崩れていく柔らかい肉、時々感じる玉ねぎの甘み。いつまでも変わらないソースの味。
おいしい。
おいしい。
箸が止まらない。
ご飯をおかわりする。
おかわりなんて何ヶ月ぶりかもわからない。
いい食べっぷり、と笑うお母さんとお父さんにつられて私も笑う。
ご飯の時間が、家族と笑うこの空間が、こんなにも楽しい。幸せに満ち溢れていた。
今日は、放課後に二人とカフェに来ている。
二人はクリスマスのフラペチーノを頼んでいて、私は温かいチョコレートの飲み物を啜る。
「綴璃のおいしそー!」
茉文があまりにも目を輝かせて見てくるものだから、
「ひとくちいる?」
と尋ねた。
「いいの!」
「いいよ」
首を傾げて笑う。
茉文の香水の香りがふっと鼻に降ってくる。
「おいしいね!」
そう笑う茉文を見て、
「飲みすぎじゃない?」
と詩葉が頬を緩ませながら声を出した。
「ごめん!私のも飲んじゃって」
茉文はフラペチーノを私の方に向ける。
今の私なら。今なら、言えるかも。
「実はね、フラペチーノ苦手なの」
「えっ、そうなの!」
と声を上げる茉文と驚いた顔をする詩葉に、少し申し訳なくなる。
「言わなくてごめんね」
「いいよいいよ!なら、これ食べな」
と茉文がベリーのケーキが乗ったお皿を私の前において、フォークを渡してくれる。
ほんとだ。ほんとだね、柊くん。
私のこと、受け止めてくれたよ。
「いいの?」
「もちろん!」
いつか飲んだ、味が濃くて、口に残る感じの甘みじゃなくて、甘酸っぱくて、爽やかで、でもやっぱり甘い、そんな味だった。
「おいしっ」
自然と声が出る。
「どれどれー」
と詩葉も自分のフォークで茉文のケーキをつつく。
「ちょっと!それ私のなんですけど!」
「まあまあ、私のもお食べ。」
詩葉は自分のスコーンを茉文の口に運ぶ。
そんなやり取りがなんだか楽しくて、ふふっと息が溢れ落ちる。
それぞれのドリンクもスイーツも食べ合って。
甘くとろける放課後だった。
次の日の図書室。
「海、入りたかったなー」
そう言うと、
「明日は暑さが戻るらしいよ。」
と柊くんは淡々と口にした。
「ほんと?」
スマホの天気アプリを開く。
最高気温26度。
その文字を見て、え、と息が漏れる。
「夏日じゃん」
「ねー、百何十年ぶりの奇跡の夏日。とか聞いたよ。」
「すごいね。」
「ね。」
今日は椅子には座らず、出会った頃のように本棚に腕を置いて体重を預ける。
真っ直ぐに外の景色を見つめて、二人で笑って。
夜に自分の部屋に入ると、鏡に目がいった。
鏡に映る私の顔をしばらく見ていた。
でも、ふっと息を吐いて、ベッドに潜り込む。
異様な暑さで目が覚める。そういえば、今日は百何十年に一度の奇跡の夏日、だっけ。
本当に、とっても暑い。
ジャケットは着ずに長袖のシャツだけで学校に向かったのに、腕をまくっていても暑い。
風もなくて、本当に夏に戻ったみたいだ。
教室でも、あちー、冷房入んないのー、という言葉が飛び交っている。
授業中に何度も手で風を送った。
放課後になっても、暑さは全く消えない。
海辺まで校舎の外を回って歩いていく。
目の前に広がる光景に、足が止まる。
晴れ渡る澄み切った大きな青空。
微かに薄い雲が空を自由に泳いで。
太陽が溢れんばかりの光を降らせて。
水面はその光を吸い込んで反射させて。
波音は大きくて繊細でそれでいて癒しで。
海の色は深くて淡く鮮やかに世界を染めて。
砂浜は真っ白でどこまでも続いているようで。
ローファーと靴下を脱ぎ、手に持つ。
人通りのないここは、賑やかな教室から切り離された様で。
砂浜を踏みしめる。
砂に埋もれていく感覚がくすぐったい。
白くて、温かくて、柔らかくて。
ふふっと息が漏れて、足が軽やかになる。
スキップを踏むと砂が舞って風と踊り出す。
波打ち際まで来ると、涼やかな風に抱擁される。
潮の香りがいつもよりも強く鼻を燻る。
こっちに向かってくる波を蹴ると、水しぶきが上がる。
ひんやりとした海の水が、気持ちいい。
ひとつひとつの雫に、それぞれに世界が映し出された。
その雫が落ちるまでの一瞬に見惚れた。
冷たい水が足を包み込んで。
次の波は、たくさんの貝殻を運んできた。
スカートを手で持って、近くにしゃがむ。
すぐ隣にローファーを置く。
波に背を向け、校舎の方を向く。
貝殻はすぐに砂の中に身を隠した。
ふふっ、あははっ。
いつの間にか笑っていた。
顔を上げて、笑って。
波が静かに凪いだとき。
カシャッーー
シャッター音が響いた。
金属がぶつかるような聞いたことない大きな音。
はっと見上げると、二階の窓に。
図書室の窓から、柊くんが覗いていた。
手元にはカメラ。
古いカメラが握られていた。
立ち上がって、柊くんを見つめる。
すうっと肺いっぱいに息を送り込んで、
「柊くーん!」
と両手を上げて手を振った。
それを見た柊くんは、柔らかく微笑んで小さく手を振った。
「おいでよー!」
と声をかけると、
「僕はいいー!ここから見てるよ」
といういつもより大きな柊くんの声が聞こえた。
ここに来ないことに、少しだけしょんぼりする。
百何十年に一度の奇跡の夏日に二人で海辺で遊びたかったな。
静かで、落ち着いていて、どこか遠くを見ているその君の眼差しは、息の仕方を忘れるほど綺麗だった。
スマホを構えて、シャッターボタンを押す。
カシャッ。
さっきよりも小さな音が流れた。
これでおあいこ。
写真を見ると、どくどくと心臓が早まる。
写真の中の君は、いつもよりも人間離れした容貌で。
その時、目の端にきらきらと光るものがあった。
すぐ近くに駆け寄り、それに手を伸ばす。
二枚の貝殻。
ピンク色のような、オレンジ色のような色の物と、白っぽい少し水色がかった物。
どちらとも透明度が高くて、太陽に透かすと、ふんわりと、光を通した。
それを手に握って、海水に浸す。
砂が取れて、水をまとった貝殻はより一層強く輝きを放つ。
ついでに足も洗い、少し乾かして、湿ったまま靴下とローファーを履いて、歩く。
じゃり、じゃり、と砂を踏みしめる音は、どこか儚くて。
しばらく歩いて、昇降口で上靴に履き替える。
校舎内から聞こえる波の音は本当に小さくて、さっきまでの音が嘘みたいに感じる。
ぎいっ。
重い木の扉を開ける。
いつも嗅ぐ、埃と古い紙の匂い。
そして、ほんのり甘い君の香りと、海の香り。
「あ、来たんだ。」
柊くんがこっちを見て笑いかけた。
「うん。」
そう言って、君の隣に立って、本棚に手を置く。
ここで見ると、さっきよりも遠くまで見える。
遠くに、海の向こう側には、街が見える。
「さっき、写真撮ったでしょ」
そう呟くと、
「ばれた?」
と君はいたずらっぽく口角を上げた。
「ばればれ。」
私もつられて笑う。
手に握りしめていた貝殻を柊くんに差し出す。
「これ、あげる」
そう言うと、君はぱっと眩しく笑って
「嬉しい!」
と私の手からそれを二つつまみ上げる。
触れた柊くんの温もりにどきっとさせられた。
「これ、波間柏(なみまがしわ)でしょ。」
君の声が、横から降ってきた。
波間柏。
初めて聞く名前だ。
「そうなの?」
そう聞くと、
「うん。きっと。」
と大きく頷いて、ねえ知ってる?と首を傾げて私を見つめてきた。
知らない。と笑うと、
まだ言ってない!って君も笑って。
「波間柏はね、人魚の涙と呼ばれているんだ。」
と言った。
「人魚の、涙」
そう呟くと、
「幻想的だよね。」
と笑った。
たしかに、小さめで、見る角度で色が変わって、丸っこくて、涙のようだ。
「そうだね。人魚の涙ってこんなに綺麗なんだ。私のとは大違い。」
微笑んで窓の外を見つめる。
君も笑ってくれるかと思った。大笑いしてくれると思った。
でも、君は黙っていた。
君の方を見る。
目に飛び込んできた君の横顔は、少し目を伏せ、色白の肌はほのかに光り、頬はピンク色で、透けてなくなってしまいそうなほど、儚い雰囲気を纏っていた。
そんな君は、いきなり私の方を見た。
真っ直ぐな瞳に吸い込まれるように私も見つめた。
「僕には君の涙は、これよりもずっとずっと綺麗に見えたよ。」
貝殻を撫でながら、目を細めてはっきりと言う君の声は、柔らかだった。
恥ずかしげもなくそんなことを言う君を前に、こっちが恥ずかしくなる。
何事もなかったかのように窓の外に視線を戻したけど、微笑んでしまう。
君の涙は綺麗。
言われて嬉しくないはずがない。
「ありがと」
そう言い君の方を向く。
カシャッ。
君はカメラを構えていた。
「また撮ったでしょ。」
そう言うと
「あー、乾さんが動くからぶれた」
と残念そうな顔をした。
そんな君にふふっと息が漏れる。
「じゃあさ、どうせなら二人で撮ろうよ」
気がついたら口に出していた。
君は一瞬驚いた顔をして、すぐにうん!と笑う。
でも、その顔はどこか哀しみが滲んでいるような気がした。
そんな考えは押しのけて、スマホを握る。
カメラアプリを起動させて、適当な加工をタップした。
内カメにして斜め上に手を伸ばし、私と君を範囲に納める。
納めようとしても、なかなか入らなくて、どちらかを画角に入れようとすると、どちらかが見切れた。
カメラを持った手を小さく何度も動かす。
それを見た君は私の肩を掴んで、ぐいっと引き寄せた。
「もっと寄らないと入んないよ」
さっきよりもずっと近くから声がする。
脈が早くなって、どきどきとする。
そんな気を紛らせて
「はいチーズ」
と呟いた。
シャッターボタンを押す指は小さく震えた。
カシャッ。
少しの沈黙が横たわる。
何を言おう。
「あっ!さっき盗撮した写真見せてよ」
出てきたのはこんな言葉だった。
君は照れくさそうに笑って、
「やだよ。盗撮なんて人聞きが悪いだろう?」
と言った。
「ふふっ、まあいいや」
君の隣は、本当に心地よい。
こんな日常が、いつまでも、いつまでも、そばに。
神様は、どうしてこんな意地悪するのかな。
ね、柊くん。
次の日から、図書室に君は現れなくなった。
何日通っても、あの姿を見ることも、声を聞くことも、香りを嗅ぐことも、なかった。


