廊下から、外を見る。さっきまでザーザー降りだった雨が、まるで最初から降ってなかったかのように止んでいた。もう空は青く、雲は白く、太陽が覗き始めた。
いつものように重い扉を開ける。
ぎぎぎっという音が、鼓膜に響き渡る。
ぶわっと鼻を襲ったのは、いつも嗅いでいる埃と古い紙の匂い、そして昨日も感じた、甘い香り。
今までとは全然違う、濃くて、凄く甘い。でも、しつこくない。とても、好きな香り。
埃が光る空間を見渡すと、窓辺に、いつもと違う光景があった。
外を見つめる、後ろ姿。
すらっとして、背が高い男の子だろうか。制服を着ている。黒いさらさらな髪が太陽に照らされて、ところどころほのかに茶色く見える。
窓の右上の方から、ぎりぎり見える太陽は、もう燦々と光り始めている。
気がついたら呟いていた。
「あなたは…」
その声を聞いて、男の子は少し肩を震わせた。
目の前にいる君は、ふんわりと振り向く。
第一ボタンまできっちり閉められたシャツ。
長い足が映えるスラックス。
軽そうな髪の毛が揺れていて、色白な肌が太陽に照らされていて、零れ落ちそうなほどの大きな瞳を細めて、通った鼻筋が綺麗で、唇や頬はほんのり桃色で、口角が自然に上がっていた。
その顔は、柔らかく微笑んでいて。
直感で分かった。
きっと、この人が、今まで手紙を書いてくれていたのだろう。あの字を綴る人だろう。私に、学校に来る理由を作ってくれたのだろう。
震える唇を動かす。
「あなたが、お手紙をくれましたか。」
彼は大きく頷いた。
「乾さん。やっと、会えました。」
そう言う声は、思ったよりも高めで、透き通っていて、優しくて。
「はい、やっと会えました。」
私の声も、少し高くなった気がした。
自然と笑顔になる。
私、会えて嬉しいんだ。
そして、ずっと気になっていたこと。
「あなたのお名前はなんですか。」
彼はふふっと息を吐いて、
「柊、巽(ひいらぎ たつみ)です。」
ひいらぎ、たつみ、と口を動かす。
「柊くん、というのですね。」
少しの間の沈黙。
気まずい。今までお手紙を交換してたのに、目の前にいるだけで、すごく気まずい。
彼は、気まずく感じていないだろうか。なにか、話題を。
ちらっと見た君は、にこやかにこちらを見つめていた。
「な、なんですか」
そう聞くと、君は頬を掻きながら、
「いやあ、あんなに手紙では仲良くお話してたのに、直接会うと敬語って、、なんて言えばいいのかな。」
それに関しては、たしかに、と思った。
「そう、だね。」
そう言うと、バクバクと心臓が騒ぎ出した。
また、沈黙が続く。
「手紙では、結構話すのに、直接だと、あんまり話さないんだね」
君の声は、どこか儚くて、落ち着く。
「そんなことないよ」
対面すると、タメ口が急に高いハードルに見えてきた。
「あっ!見て!」
その君の声に驚く。君は、長い指で、窓の外の左側を指さしていた。
私は振り返って、窓から身を乗り出し、君の指の先を見つめる。
青い空の上に、虹が淡くかかっていた。
「すごいっ!虹だ!」
久しぶりにこんなに大きな声を出した。
潮の香りも波の音も上書きするような大きな声。顔が熱くなる。
「綺麗だね」
ふと、右を見る。立体的な横顔と、黒髪。
綺麗だな、と思う。
「うん」
いつの間にか、頬は緩み、君も、私も、顔が綻んでいた。
二人で並んで外を見ると、時の流れの速さを実感する。
太陽は動いて。雲は泳いで。波は寄せては返って。風は通り過ぎれば、新しいものが吹いて。
もう、夜になっていく。日が短くなったせいで、ここにいられる時間が少なくなる。
「柊くん。私、帰るね」
柊くんは、こっちを向いて、微笑んだ。
「うん。また明日ね」
また明日。明日も、ここに来ていいんだ。
「うん!」
鞄を手に、図書室を後にする。
いつも君の名前を呼んで、顔を見合わせて笑って、たくさん話して、また明日って手を振って、次の日も会って。
ここに来たら、君はいつも窓を開けていて。そこから感じる世界の眩しさにいつも圧倒されて。
一緒に空を見て、海を見て、風を感じて。
ここで一緒に過ごすうちに、だんだん、君の隣が落ち着くようになった。
二週間後の古典の授業。
少し開いた窓から風がそよぐ。涼しい風が髪を撫でた。
五限目の古典は眠くて眠くて。寝ちゃいけないと頬をつねりながら先生の話を聞く。
正直、先生の声が右耳から左耳へ通り抜けているだけだ。
「古文では、方位や時間を干支で表していたんです。」
そんなことみんな知っているだろう。そう思い、少し目を瞑る。
「あらっ」
先生が声を発した。
ぱっと顔をあげる。
先生は教卓の上にある座席表を持ち上げ、
「このクラスには乾さんがいるのね。」
と私の方を見た。
クラス中の視線が私に集まる。
どうしよう。絶対変な顔してる。
「乾、というのは、戌と亥の間のことを示すのよ。だから、北西、という意味ね。」
先生は茶色の髪を触りながら話した。
なんて言うべきだろう。そもそも何か言うべきか。
そんなことを考えていたら、先生は、
「他にも、北東は丑寅で艮(ごん)、鬼門とされていました。南西は未申で坤(こん)、乾さんの反対の南東は辰巳で巽(たつみ)。十六方位になると、癸(みずのと)、庚(かのえ)などどんどん難しくなるの。まあ、ここまでは覚えなくていいからね。」
カツカツと黒板にチョークを走らせる音が耳を包む。
先生は、黒板に大きな円を書き、それぞれの方位に名前を書き込む。
子、午、酉、卯。
そして、艮、坤、乾、巽。
巽が黒板に書かれたとき、どくんと心臓が跳ねた。
「あとは、時刻ね。」
先生の言葉が遠くなる。
先生が何か言っている。聞かないと。
でも、そんなことよりも、巽。
その字だけが、異様に浮き上がって見えた。
柊くんの名前は、私とは真逆。なんだか悲しくて。でも、彼と私の共通点を見つけた気をして嬉しくて。
放課後は、すぐに図書室に向かった。
柊くんは、また、窓の外を見ていた。
空いた窓から差し込む陽の光。
風にそよいだ君の髪。波の音はとっても大きくて。
晴れた日の空に照らされる君は、いつ見ても儚くて、まるで夢の中の存在のようで。人間では無いように感じるほど、美しい。
私が入るとすぐに振り向いて、
「お疲れ様、乾さん」
と微笑んだ。
「お疲れ様、柊くん」
私も微笑む。
早く、言いたい。今日教えてもらったことを。
いつもの席に腰を下ろす。
座ると、右隣にいる柊くんの甘い香りがした。
「ねえ、柊くん。あのね」
そう柊くんの方を向く。
長いまつ毛は、私の方を向いた。
「うん」
朗らかな君の声は、とても落ち着く。
なんて言えばいいかな。
私たちね、真逆の方向にいるんだよ。
これは、少し冷たいか。
私と柊くんは、反対の方向を示してるの。
これも少し寂しい。
口を開いて、できるだけ優しい声を出す。
「私たちね、すっごい共通点があるの」
君は大きな瞳をさらに見開いて、ふわっと笑った。
「どんな?」
そう小首を傾げる仕草に、揺れる前髪に、どきりとする。
「名前にね、方位が入ってるの。私は乾で北西、た」
巽。そう言おうとすると、喉が閉まる。
頬が赤い気がする。
「巽は、南東。」
少し小声になってしまった。
君は、ニヤッと笑って、
「えー、聞こえないな」
そうこっちを見た。
「もう、いいから!柊くんは南東なの。」
そう早口で話す。
君は残念そうに目を伏せたかと思うと、すぐに目尻を下げた。
「反対だ、世界一遠い場所」
ほんのちょっと切なさを感じる声色だ。
自分の足を見つめて、太ももの上の手を、握ったり開いたりする。
「そうだね、世界で一番遠い」
さっきみたいな君の声を聞いたら、私もなんだか寂しくなる。
「おかしいね。」
君の声は、さっきよりも随分明るい。
え、と声が出た。
パッと顔を上げると、君は太陽のように笑った。
「変なの。おかしいよ。今はこんなに近くにいるのにね。世界でいっちばん近くにいるよ。」
そう顔をくしゃっとして言った。
左肩を上げて、歯を出して笑う君に、ドキッとする。
「本当だね。」
私も微笑む。
正反対なんかじゃないよね。
今は、触れられそうなほど、近くにいるんだから。
「綴璃」
柊くんに急に名前を呼ばれて心臓が跳ねる。
「え、なに急に」
「いや、どういう意味が込められてるのかなって」
君は、目を細めて微笑んだ。
「たしかに。昔聞いたけど、忘れたな」
小学生の頃、総合の授業だったか、自分の名前の由来を親に聞いたことがあった。
そのときは、ちゃんと聞いて覚えていたのに、もう忘れてしまった。
綴璃。
まだ君が私の名前を呼んだ声が耳の中に響き渡っている。
「聞いてみるね。」
「うん。」
二人で目を合わせる。太陽は、確実に、傾いていった。
家に帰ると、お母さんはご飯を作っていた。
香ばしい匂いが鼻をつつく。
「ねえお母さん。私の名前、なんで綴璃なの?」
お母さんは、
「急にどうしたの」
と不思議そうに微笑んだ。
私はお弁当を出しながら、なんとなく、と答える。
おいしかったよ、とお弁当箱をシンクに置く。
お母さんは、ありがとう、と言った。
「綴璃。綴るっていう字は、あなただけの人生を、綴って欲しいってことと、自分のことを言葉にして伝えられる人になって欲しいって意味を込めたの。璃はね、瑠璃っていう宝石なんだけど、深い青色でとっても綺麗なんだよ。だからね、宝石のように輝く人生を送れますように。澄んだ心を持ちますようにって想いを込めたのよ。」
お母さんは途中からどこか懐かしそうに私の顔を見つめた。
「昔も、聞いてきたわね。あの頃の綴璃と、全然変わってない。」
嘘。小学生の頃は、笑ってたよ。もっと自然に。自分の気持ちを自分の言葉で表せてた。
もしかしたら、昔の私の方が本当の綴璃だったのかもしれない。
名前にふさわしい女の子だったのかもしれない。
昔は、自分の名前について知れて、純粋に喜んでいたように覚えている。
今は、もう純粋な心はない。汚れてしまった。
だから、なんだか複雑な気持ちになる。
あの頃と変わらない。お母さんには、そういう風に見えているんだね。全く見えてないよ、お母さん。私、ちゃんとできてるんだね。あの頃と同じように、笑えているんだね。
「ありがとう」
そう言って、二階の自分の部屋へと向かった。
「あ、窓開けてるから閉めといてー」
リビングからお母さんの声が聞こえる。
はーい、と返事をして、ドアを開ける。
窓から入り込んだ風で、カーテンが揺れていた。
風は私の髪も揺らして、顔にかかったのを手で整える。
私の名前の意味が、心の端にこびりついて消えないまま眠りについた。
今日はよく晴れていた。冬も間近とは思えないほどの温かさで、カーディガンを着なくても過ごせる。陽気な日には、なぜだか心が軽くなる。
「聞いたよ、綴璃の意味。」
柊くんはパッと笑う。
「どんな意味だったの?」
えーとね、と呟いて、息を吸う。
潮風の香りで胸をいっぱいにする。こんなこと、自分で言うのはなんだかくすぐったい。
「自分だけの人生を綴って、自分のことを言葉にして。あと、澄んだ心を持って欲しいだったかな。」
君は、顎に手を置いて、長いまつ毛で何度か瞬きをした。
「それなら、乾さんはちゃんと綴璃だよ。」
口角をふわっと上げて、愛しそうに目を細めて、綺麗な瞳で私を見つめる。
その優しい声に、甘い表情に、心臓がドキッとする。
「そうかな」
昨日は、私は綴璃をできていないと思っていたのに、君に言われると、なんだかそんな気がしてくる。
「そうだよ。だって、君は手紙に自分のことを書いたじゃないか。今、ここに来ているのも自分の選択だ。そして、その笑顔。それは綺麗な心の人にしかできないと思うけどな。」
私、今笑ってるんだ。
嬉しいよ。口元が緩む。表情筋がほぐれていく。
心の隅々まで、君の声が広がっていった。
次の日の朝礼では、先生が
「あと少しで期末だが、ちゃんと勉強しろよ」
と口を開いた。
あともう少しで、期末考査だ。
はあ、とため息を吐く。
勉強をしないと。私はただでさえ頭が悪いんだから。
教材がたくさん入った鞄を肩にかけ直して、今日もまたこの扉に手をかける。
ぎぎぎっと音を立てて開くそれは、最近重くなっているように感じた。
君はまた窓辺に立っていた。
なんだか寂しそうな儚い目をしている。
「柊くん、お疲れ様」
君の隣まで床をミシミシと鳴らしながら歩く。
「おつかれ」
君は、窓の外から私の方に目を向ける。
さっきの目とは違う、明るくて、穏やかで、輝いている視線。
「今日はね、古文の勉強をしようと思うの。」
ぎーっと椅子を引いて、腰を下ろす。
右隣の席には、いつも通り君が座る。
鞄の中から筆箱とノートと教科書、参考書を取り出す。
机の上で、トントン、と耳を揃えると、
「お、古文いいね」
君は朗らかに目を細めた。
窓の外からほんの少しだけ波の音が届く。
君の吐息の音が聞こえる。
カリカリとペンを走らせる。
内容の整理の問題で手が止まった。
それに気づいたのか、
「どっかわかんないとこあった?」
と首を傾げる。
「ここ、どういう意味なのかわかんない」
左手の人差し指で示すと、君は、見せて、と言いながら私の左手を握って、少し横へと避けた。
触れた手の温もりが、私の心臓を鷲掴みにする。
ほんの少し、ほんの一瞬なのに、私の鼓動は、どんどん早くなっていく。
「ああ、これはね、主語が同じになる時の法則を覚えればいいよ。この問題なら、て、て、て、と文が続いてるでしょ?」
君は問題文をなぞりながらほのかに色付いた唇を動かす。
「うん」
辛うじてそう言うと、
「これは、この文では主語が同じってことなんだ。」
君の手元の例文に目を落とすと、言う通り、て、て、て、と続いていた。
「じゃあ主語はこれ?」
そう言って四角で囲んだ人物名をペン先でトントンと指す。
「うん、当たり」
君は私の方を見て、少し歯を見せながら笑った。
その後も、助動詞の活用や日本語訳の仕方、反語を教えてもらった。
君の吐息はずっと優しくて、そんな君に私は見惚れて。
勉強に集中なんてできなかった。
だんだん睡魔が襲ってくる。
はあ。
と口の前に手を置いて欠伸をする。目に涙が溜まって、潤っていく。
目を擦りながらペンを握りしめて問題集と向き合う。
気がついたら目を瞑ってしまいそうになり、頭を軽く振る。
「眠いの?」
柊くんはいつも本当に優しい声を出すね。
「うん、ちょっと」
そう微笑みかけると、
「寝ちゃえば?完全下校時間前になったら起こすよ」
できればそうしたい。でも、その間君は一人で何をしてるんだろう。
寂しいかもしれない。退屈かもしれない。
「大丈夫だよ。」
そう、次の問題に目を移す。
少しの間、問題と向き合っていたはずなのに、気がついたら眠ってしまっていて、ペンを机の上までぎいっと引きずってしまった。
少しずつ視界が鮮やかになっていく。
ふと目を落とすと、机に傷ができていた。
私がペン先を引きずってしまったせいだ。
「ありゃ」
柊くんの頭がすぐ側にある。
私の前から傷を見ているようだ。
柔らかそうな髪の毛が、長くて綺麗なまつ毛が、大きな瞳が、通った鼻筋が目立つ整った横顔が、すぐ隣に。
「どうしよう。」
そう呟くと、
「いいからいいから。もう古いし。建て替えもあるんだし。」
そう君は少し哀愁漂う瞳を揺らして笑った。
そうだ。ここは、今学期の末に封鎖されて建て替え工事が始まるんだ。
心做しか本が少なくなっているように感じる。
ごめん。そう呟く前に、君が口を開いた。
「眠い時にやったって頭に入りにくいかもよ?寝ちゃいな。」
さっきの哀愁はもう綺麗さっぱり消えていた。
思いやりで溢れた目を細めている。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
机の上に腕を置き、その上に顔を埋める。
近くで君の匂いがする。自分の柔軟剤の香りも、この図書室の香りもあるはずなのに、君の匂いだけが鼻の奥に、心に届いてくる。
近くでペラペラと音がする。
本を読んでいるのかな。
ざあ、ざあ。と波の音がする。
潮の香りもほのかに感じる。
窓が開いているのだろうか。
吸っては吐く君の息の音もする。
この空間が、この空気が、君の隣が、こんなにも綺麗で溢れている。
そのまま私は眠りについた。
ゆっくりと目を開く。
顔を上げると、黄色い電気がついていた。
隣にいる君は、瞳を閉じて、すーすー、と寝息を立てている。
前髪が流れていて、いつもなら見えない額が覗いていた。長いまつ毛は軽く伏せていて。
起こしてくれるって言ったのに。
ふと後ろを向いた時に覗いた空はとても深い紺色で。
いくつか星が輝いていた。
海と夜空との境目が分からない。
柊くんの肩に触れようとする。
その瞬間、君が少し光を放ったような気がした。
そんな風にきらきら輝いているように見える。
どくっ、と心臓が暴れる。
こんなに近くにいるのに、もう少し手を伸ばせば触れられる距離なのに、あと少しが、届かない。
出していた手を引っ込めて、机の上に下ろすと、ひんやりとした木の冷たさが、手から一気に伝わっていく。
その冷たさが頬の暑さを逃がす。
息を吸うと、甘い香りとほんのちょっとの埃の匂い。
「柊くん、起きて」
できるだけ穏やかで優しい声を意識する。
うう、と愛らしい声を上げながら、ゆっくりと瞼が開いた。
「今何時?」
いつもよりも少しだけ幼く感じる声色で、少し崩れた前髪と、虚ろな瞳。何度か瞬きをして、私の方を見た。
私はスマホの電源を入れる。
表示された数字に驚きを隠せない。
「九時だ」
「え?」
君はさっきの眠そうな瞳を大きく見開いた。口も閉じていない。
私もきっと同じ顔をしているのだろう。
少しの静けさの後、
「完全下校時間を二時間も過ぎてるよ。どうしよう。」
と柊くんは声を出した。
「ほんとだよ。見つかったら怒られるかも。」
そう机の上に開いた教材たちをパタパタと畳む。
筆箱にペンと消しゴムを戻していると、
「僕が起こすって言ったのにごめんね」
子犬のような君の目が私の顔を申し訳なさそうに写している。
「いいよ。こんな景色、滅多に見られないからね。」
しまおうとしていた赤ペンを机の上に置いて、後ろを振り向き、窓の外を指差す。
瞬く星に、吸い込まれそうな空。そして、遠くに見える灯台の光。
波はよく見えなくて、音だけは届いている。
「綺麗だね。」
君は優しく笑った。
赤ペンを握り直し、筆箱に放り込む。
ぎい、ぎい。
図書室の前の廊下から、足音が聞こえてくる。
旧校舎は床の軋みが響くから、遠くでも風に乗って音が聞こえることがある。
「やば、先生来るかも」
私は椅子から立ち上がり、柊くんの手首を引いて、本棚の間に隠れる。
入口から死角になりそうなところに息を潜めて。
さっきまでは遠かったほんの少しが、こんなにもあっさりと縮まっていく。
君の手首を掴んだ手のひらが熱い。
鼓動が早い。
「柊くん」
そう振り向いたら、君は口元に人差し指を添えて、静かに、と透き通った声を出した。
その仕草と儚げな風貌に目が離せない。
ぎいい。
いつも聞く扉の音が聞こえる。
「誰かいるのか」
担任の先生に似た声だ。
ミシ、ミシと床を鳴らしながら少しずつ近づいてくる音にびくっと肩が震える。
このままなら二人とも怒られてしまうかも。
私が寝たせいだから、私が先生に怒られるべきだ。
手でスカートを掴み、すぐに離す。足を踏み出すと、床はミシッと音を奏でる。
本棚の影から飛び出すと、いつも見ている担任の先生の姿があった。
先生は飛び出そうなほど目を開いていた。でも、その目は私よりも遠くを見ているようで。
「おお、乾か。驚いたぞ。」
そう先生は少し笑うとすぐに真顔に戻して、
「じゃなくて、こんな時間に何してんだ」
「えーと。」
いい感じの言い訳が思いつかない。手が震え出して、またスカートを左手で掴む。真っ直ぐ先生の方を見れない。
「勉強してたらいつの間にか寝てて、気が付いたら。すみません」
そう言うと、先生は、はあっと息を吐いて、微笑んだ。優しく下がる目尻に、鼓動が落ち着く。
「俺でよかったな。さっさと帰れ。昇降口まで送ってやるから。」
図書室を出る先生の後を追う。
柊くんがいるであろう方向に手を振って、私も床を鳴らす。
「もう暗いから誰かに迎えに来てもらえよ。」
先生は私の前を歩きながら、窓の外を見ていた。
真っ暗な校舎は、いつもと全然雰囲気が違って少しだけわくわくする。
「そうします。」
私も先生の視線の先を見て、答える。
でも、こんな遅くに迎えに来てなんてお父さんに言えるはずもない。
「先生はな、実はここの学校の卒業生なんだよ。」
「へえ、そうなんですか。」
二人の声だけが響いていく。
「俺も乾みたいに図書室に通っていてな。もう、二十、何年だ。まあ、進路とか、部活とかに悩んでいた時にふと現れた男の子がいた。しゅうって呼んでいて。本名は忘れてしまったんだが。しゅうと毎日笑って、話して。懐かしいな。」
先生は窓の外をさっきよりも落ち着いた視線で見つめた。夏の終わりの向日葵のような先生の笑顔は、どこか若々しい雰囲気を纏っている。
「へえ」
あそこには大切な友達との思い出が詰まっているんだ。
昇降口に着くと、先生は、
「迎えは来てもらえそうか?」
と首を傾げた。
「はい!ちょっと時間がかかるそうなので、コンビニにでも寄ります」
嘘を隠すように、にこっと微笑んで、ありがとうございました、と軽く会釈する。
「じゃあ、気をつけろよ」
先生は職員室へと続く廊下を歩いていった。その背中を見つめて、自分の靴箱からローファーを取り出してスリッパと履き替える。
例年よりもだいぶ暑い秋でも、夜になると一気に冷え込む。
乾いた涼しい風が今にも落ちそうな木の葉を弄ぶように揺らす。カサカサ、という不気味な音は、この暗さだと、なんだか怖い。
やっぱり迎えに来てもらえばよかったな。
学校の前の歩道を歩きながら、駅へと向かう。
街灯と街灯との距離が大きいせいで、光が届かない場所を通る時は、歩くのが少し速くなる気がする。
ふと、さっきの君の寝顔を、声を、台詞を思い出した。
君の手首を掴んだことも蘇ってきて、急に暑さを感じる。
いつもと違う道を通って駅前の大通りに出ると、飲食店の看板や、車のヘッドライト、マンションの電気が夜の街並みを照らしている。
目の前が明るくなって、人気を感じるようになると、自然と心臓は静かになった。
駅まで歩いていく間、すれ違う人の笑い声や、話し声に私まで心が軽くなっていく。
スマホをポケットから取り出して、メッセージアプリを開いて、
今帰ってる!遅くなってごめん!
と家族のグループに入力した。そして、ちょうど良さそうな電車の時間をスクリーンショットして、送信する。
お母さんから、了解というスタンプとお父さんから、最寄り駅まで迎えに行くよ、という返信が来た。ありがとう、と送って電源を落とす。
電車は空いていて、最寄り駅から家まではお父さんが車で流している何度も聞く曲を口ずさみながら帰った。
次の日の放課後に机を近づけて期末考査に向けて教科書と問題集を広げる。
時々昨日あったことを思い出して、にやけそうになってしまう瞬間が多々あった。
「ねえつづりー」
茉文は、首を傾げながら口を開いた。
「どうしたの?」
と微笑みかける。視界の端で、詩葉が手を止めたように見えた。
「ここ、わかんない」
そう彼女が指で示すのは、古文の現代語訳の問題。
この前、柊くんに教えてもらったばかりのところだ。できるだけ、穏やかな声を出す。
問題にされている文を指差し、
「ここの文の主語は、前の文と同じなの。て、て、て、って続いてたら、主語は変わらないことが多い。ってなると、主語は何?」
茉文は少し上を見て、ぱっと思いついた顔をした。すぐにペンを走らせていく。その回答を見て、
「正解」
と口に出す。
「ここの助動詞は?」
首を傾げながら、私の方を見つめる。
「この助動詞はね、主語が一人称か二人称かで意味が変わるの。さっきの主語、どっちだった?」
「てことは、こう?」
茉文のペンはゆっくりと、丁寧に答えを綴っていく。
「大正解」
彼女はやった!と呟いて、問題集と向き合った。
私も、問題集と向き合う。
柊くんが教えてくれたところが、次々と出題されて、問題が簡単に思えた。
答え合わせをしてみると、ほとんどが正解で、心がすーっとする。
「これ、なんでこうなるかわかる?」
私の腕をトントンと叩いた詩葉は、数学の解答を私の方に向けてきて、ペン先で応用問題を指してきた。
「えーと」
「うん」
少しの間、回答を読んでみると、授業中に先生が解説してくれた問題と、似ていた。
「多分、この公式に当てはめて、解いてるんじゃないかな。後はグラフとか書いてみてもいいかも」
詩葉の方を見て微笑むと、
「あー、だからか!ありがと」
と小首を傾げて微笑んでくれた。
揺れる金髪っぽい茶髪が彼女の笑顔を更に華やかにしていく。
「綴璃さ、先生になったらいいと思う」
予想外の言葉に、へ?と変な声が漏れる。
「うんうん。私もそう思う!教えるの上手いから」
茉文は、大きく頷いて笑う。
「そう、かな」
今までなら、そんなことないよって、笑っていただろうに、今は、純粋に嬉しかった。
「ありがとう」
そう言うと、
「最近の綴璃、なんか楽しそう」
茉文は私の手を握って、口角を上げる。
「そうかも」
と呟く。
私、楽しい。
「いいじゃん。そっちの方が好き。」
詩葉も、歯を見せてにっと笑った。好き、なんて、お世辞かもしれない。でも。
「うん!」
そう発した口は、とても軽くて。
夕焼けに溶けていく私たちの声は、いつもよりも長く漂うような気がした。
今日も図書室に行く前に少しだけ詩葉と茉文と話す。
三人で笑って。茉文のおふざけに詩葉がツッコミを入れて。
また三人で笑って。
ふわっときつい香水の匂いが鼻を独占した。
「お前なんか最近、調子乗ってね?なんか嫌いになったわ。冷めた。」
そうニヤニヤしながら言ってきたのは、いつかも私をいじってきた峰崎だった。
その言葉に、瞬きをするのを、口を閉じるのを、忘れる。心に重い何かが降ってきて、押し潰されて。苦しくなる。
笑わないと。え、ごめんって。
「え、」
出した声は掠れた。峰崎は顔を歪めて、私の方を見ている。
自分の気持ちを言葉にしようとする度、喉の蓋が閉まったように、声が出せない。ひゅうっと細い息が出るだけ。
何か。何か言わないと。とにかく謝って。
ごめんってまた笑えばいい。戻ればいい。
なのに、このままでいたい。
このままでいれば、きっとお母さんが望む綴璃に近づける。
でも、もっと嫌われてしまう。別にこの人に嫌われてもいいんじゃないか。そんなことを考える自分が醜い。全部全部むしり取ってしまいたい。
乾綴璃、という仮面も。嘘で固まった笑顔も。歪みまくった性格も。
でも、みんなは、私をその仮面で押し潰してくる。
考えるほど、息が苦しい。
私、どうすればいいんだ。
私ってなんだろう。私は、やっぱりダメだ。不正解だ。
いつの間にか、私の目線は下がり、自分の足と、峰崎の足と床に占領されていた。
「どこが?綴璃のどこが調子乗ってるの?」
飛び込んできたのは、詩葉の声だ。
顔を上げて、左を見ると、詩葉が見たこともない顔をしていた。歯を食いしばり、強く峰崎を睨んでいる。
右を見ると、茉文がいつもの明るい笑顔とは程遠い、暗くて、どこが大人っぽい雰囲気をまとっている。
「峰崎は、綴璃のどこが気に食わないの?」
茉文の声は、いつもの優しさがなかった。尖っていて、真っ直ぐと風に運ばれていく。
峰崎は、はあっと息をついて、
「だるっ。きもすぎ。」
と声を上げ、背を向けて歩いて行った。
揺れる金髪が、気だるげに伏せた目が、嘲笑うように上がった口角が、視界から、脳裏から消えない。
「なにあいつ」
「許せない」
二人はそう言って、
「気にしなくていいからね」
「綴璃、大丈夫?」
と私に心配の眼差しを向けた。
私のせいで、二人が悪く言われた。
私が調子に乗ったせいで。
二人はこんなに優しいのに。
ダメだ。
考えたら泣きそうだ。
泣いちゃダメ。泣いちゃダメ。
「ごめん」
そう言って足早に教室を出る。
歩いて、歩いて。
いつもよりも遅めにこの場所へとやって来た。
毎日優しく開けるこの扉を、今日は勢いよく開けてしまう。
ぎいいっという普段よりも大きな音が廊下に響いた。
窓は閉め切っていて。君はもういなくて。
帰ってしまったようだ。今は、今だけは、それで良かった。こんな姿、見せられない。今まで寄り添ってくれた君に、昔に戻るようなこんな姿。
少し歩いて、いつもの席へと向かおうとする。
途中で、足が絡まり、胸の奥がギュッと掴まれたように痛む。耐えられなくて、床に手をついてしまう。
四つん這いのような体勢になると、涙が溢れてきた。床に、雫が落ちていく。
ひゅう、ひゅうという呼吸を何度か続けると、いつの間にか声が出ていた。
「やだ。やだよ。もう、いや。どうして!どうして私はこうなの。」
拳を握りしめて、床を叩く。
「ちっとも変わってないじゃん!」
うっと呻く。
「私のせいで、私はやっぱり」
ダメな人間だ。
そう言おうとした時、背後からミシミシと床の軋みが聞こえた。
「どうしたの、乾さん。」
頭上から降ってきたのは、何度も聞いてきた君の声だ。
「...なんで、なんでここにいるの。帰ったんじゃないの?」
柊くん。今は、そっちを向けない。だって、こんなにも酷い顔をして、醜い言葉を言って、汚い涙を流しているから。
「違うよ。君を、待っていた。」
君の声は落ち着いていた。私のそばにしゃがみこんだのか、近くに温もりと甘い香りを感じる。
「やだ。見られたくない。」
見られたくない。こんな姿。
「じゃあ見ない。どうしたの?」
君の声が、近くから聞こえる。
どうしたのか、自分でも分からない。
分からないよ。これって何?なんで?私って何?
「分からない!分からないよ。」
涙は止まることなく流れてく。
「悲しいの?」
悲しくない。悲しいわけじゃないの。
『自分のことを言葉にして伝えられる人になって欲しい』
ごめん。私、できない。なんて言えばいいの。この感情を。私は知らないの。この気持ちの名前すら。
「ちがう。分からないの、私が。」
肺が縮んで、気道が狭くなる気がする。
「分からない、、か。僕はわかるよ。乾さんのこと。」
柊くんに、わかるはずがない。
ダメだと分かっていても、声を荒げてしまう。
「あなたが!柊くんが私の何を知ってるの!」
はあ、はあ、と肩で息をする。
隣から息を吸う声が聞こえた。
「知らない。でも知ってる。乾さんがハンバーグが好きだったこと、ここを好きでいてくれること。そして、笑いたいって思ってること。」
やめて。全部忘れて。知りたくない。君が知ってる乾綴璃を、知りたくない。
「乾さんは、変わりたいんじゃないの?」
いつになく優しさに満ちた声だった。
目頭が熱くなる。キーンと耳鳴りがする。
そうだよ。変わりたいんだよ。少しだけ変われたと思ったんだよ。でも、その結果、二人を傷つけてしまった。
だから、変わっちゃダメだ。私はずっと、正解を求めないといけない。
簡単に言わないでよ。そんな優しそうな声を出さないで。私に寄り添わないでよ。私、また甘えてしまうから。
「……やめて!もう、やめてよ。」
大きな声を出してしまう。
息が上手く吸えなくて。
「ごめん」
君の声は、どこか寂しそうだった。
「一人に、して。」
違う。こんなこと、言いたくない。
一人になんて、なりたくない。誰かに、柊くんに、そばにいて欲しい。
行かないで。ここにいて。
長い沈黙が横たわる。
甘い香りはまだあるのに、なぜか一人のような気がして、心がきゅっとなる。
寂しい。寂しいよ。
「乾さん。それは、一人にして、じゃなくて、そばにいて。じゃない?」
ドキリとする。
そうだよ。でも、言えないよ。強くなりたいから。
でも、少しくらい寄りかかってもいいかな。
君は、本当に私の心の底を見透かすのが得意だね。
息を吸う。ああ、また期待をしてしまう。君ならここにいてくれるって。
今は、その声に、背中に、縋ってもいいの?
「そばに、いて。」
思ったよりも小さくて、消え入りそうな声だった。
「うん。ここにいるよ。」
その声を聞くと、涙も、嗚咽も、苦しみも、もう押し殺せなかった。
君のそばで、これでもかという程のたくさんの涙を流した。
君は、ただ、そばにいた。
自分が情けなくて。やるせなくて。
でも、変えたくて。変わりたくて。
拳を強く握りしめて、涙を拭った。
いつものように重い扉を開ける。
ぎぎぎっという音が、鼓膜に響き渡る。
ぶわっと鼻を襲ったのは、いつも嗅いでいる埃と古い紙の匂い、そして昨日も感じた、甘い香り。
今までとは全然違う、濃くて、凄く甘い。でも、しつこくない。とても、好きな香り。
埃が光る空間を見渡すと、窓辺に、いつもと違う光景があった。
外を見つめる、後ろ姿。
すらっとして、背が高い男の子だろうか。制服を着ている。黒いさらさらな髪が太陽に照らされて、ところどころほのかに茶色く見える。
窓の右上の方から、ぎりぎり見える太陽は、もう燦々と光り始めている。
気がついたら呟いていた。
「あなたは…」
その声を聞いて、男の子は少し肩を震わせた。
目の前にいる君は、ふんわりと振り向く。
第一ボタンまできっちり閉められたシャツ。
長い足が映えるスラックス。
軽そうな髪の毛が揺れていて、色白な肌が太陽に照らされていて、零れ落ちそうなほどの大きな瞳を細めて、通った鼻筋が綺麗で、唇や頬はほんのり桃色で、口角が自然に上がっていた。
その顔は、柔らかく微笑んでいて。
直感で分かった。
きっと、この人が、今まで手紙を書いてくれていたのだろう。あの字を綴る人だろう。私に、学校に来る理由を作ってくれたのだろう。
震える唇を動かす。
「あなたが、お手紙をくれましたか。」
彼は大きく頷いた。
「乾さん。やっと、会えました。」
そう言う声は、思ったよりも高めで、透き通っていて、優しくて。
「はい、やっと会えました。」
私の声も、少し高くなった気がした。
自然と笑顔になる。
私、会えて嬉しいんだ。
そして、ずっと気になっていたこと。
「あなたのお名前はなんですか。」
彼はふふっと息を吐いて、
「柊、巽(ひいらぎ たつみ)です。」
ひいらぎ、たつみ、と口を動かす。
「柊くん、というのですね。」
少しの間の沈黙。
気まずい。今までお手紙を交換してたのに、目の前にいるだけで、すごく気まずい。
彼は、気まずく感じていないだろうか。なにか、話題を。
ちらっと見た君は、にこやかにこちらを見つめていた。
「な、なんですか」
そう聞くと、君は頬を掻きながら、
「いやあ、あんなに手紙では仲良くお話してたのに、直接会うと敬語って、、なんて言えばいいのかな。」
それに関しては、たしかに、と思った。
「そう、だね。」
そう言うと、バクバクと心臓が騒ぎ出した。
また、沈黙が続く。
「手紙では、結構話すのに、直接だと、あんまり話さないんだね」
君の声は、どこか儚くて、落ち着く。
「そんなことないよ」
対面すると、タメ口が急に高いハードルに見えてきた。
「あっ!見て!」
その君の声に驚く。君は、長い指で、窓の外の左側を指さしていた。
私は振り返って、窓から身を乗り出し、君の指の先を見つめる。
青い空の上に、虹が淡くかかっていた。
「すごいっ!虹だ!」
久しぶりにこんなに大きな声を出した。
潮の香りも波の音も上書きするような大きな声。顔が熱くなる。
「綺麗だね」
ふと、右を見る。立体的な横顔と、黒髪。
綺麗だな、と思う。
「うん」
いつの間にか、頬は緩み、君も、私も、顔が綻んでいた。
二人で並んで外を見ると、時の流れの速さを実感する。
太陽は動いて。雲は泳いで。波は寄せては返って。風は通り過ぎれば、新しいものが吹いて。
もう、夜になっていく。日が短くなったせいで、ここにいられる時間が少なくなる。
「柊くん。私、帰るね」
柊くんは、こっちを向いて、微笑んだ。
「うん。また明日ね」
また明日。明日も、ここに来ていいんだ。
「うん!」
鞄を手に、図書室を後にする。
いつも君の名前を呼んで、顔を見合わせて笑って、たくさん話して、また明日って手を振って、次の日も会って。
ここに来たら、君はいつも窓を開けていて。そこから感じる世界の眩しさにいつも圧倒されて。
一緒に空を見て、海を見て、風を感じて。
ここで一緒に過ごすうちに、だんだん、君の隣が落ち着くようになった。
二週間後の古典の授業。
少し開いた窓から風がそよぐ。涼しい風が髪を撫でた。
五限目の古典は眠くて眠くて。寝ちゃいけないと頬をつねりながら先生の話を聞く。
正直、先生の声が右耳から左耳へ通り抜けているだけだ。
「古文では、方位や時間を干支で表していたんです。」
そんなことみんな知っているだろう。そう思い、少し目を瞑る。
「あらっ」
先生が声を発した。
ぱっと顔をあげる。
先生は教卓の上にある座席表を持ち上げ、
「このクラスには乾さんがいるのね。」
と私の方を見た。
クラス中の視線が私に集まる。
どうしよう。絶対変な顔してる。
「乾、というのは、戌と亥の間のことを示すのよ。だから、北西、という意味ね。」
先生は茶色の髪を触りながら話した。
なんて言うべきだろう。そもそも何か言うべきか。
そんなことを考えていたら、先生は、
「他にも、北東は丑寅で艮(ごん)、鬼門とされていました。南西は未申で坤(こん)、乾さんの反対の南東は辰巳で巽(たつみ)。十六方位になると、癸(みずのと)、庚(かのえ)などどんどん難しくなるの。まあ、ここまでは覚えなくていいからね。」
カツカツと黒板にチョークを走らせる音が耳を包む。
先生は、黒板に大きな円を書き、それぞれの方位に名前を書き込む。
子、午、酉、卯。
そして、艮、坤、乾、巽。
巽が黒板に書かれたとき、どくんと心臓が跳ねた。
「あとは、時刻ね。」
先生の言葉が遠くなる。
先生が何か言っている。聞かないと。
でも、そんなことよりも、巽。
その字だけが、異様に浮き上がって見えた。
柊くんの名前は、私とは真逆。なんだか悲しくて。でも、彼と私の共通点を見つけた気をして嬉しくて。
放課後は、すぐに図書室に向かった。
柊くんは、また、窓の外を見ていた。
空いた窓から差し込む陽の光。
風にそよいだ君の髪。波の音はとっても大きくて。
晴れた日の空に照らされる君は、いつ見ても儚くて、まるで夢の中の存在のようで。人間では無いように感じるほど、美しい。
私が入るとすぐに振り向いて、
「お疲れ様、乾さん」
と微笑んだ。
「お疲れ様、柊くん」
私も微笑む。
早く、言いたい。今日教えてもらったことを。
いつもの席に腰を下ろす。
座ると、右隣にいる柊くんの甘い香りがした。
「ねえ、柊くん。あのね」
そう柊くんの方を向く。
長いまつ毛は、私の方を向いた。
「うん」
朗らかな君の声は、とても落ち着く。
なんて言えばいいかな。
私たちね、真逆の方向にいるんだよ。
これは、少し冷たいか。
私と柊くんは、反対の方向を示してるの。
これも少し寂しい。
口を開いて、できるだけ優しい声を出す。
「私たちね、すっごい共通点があるの」
君は大きな瞳をさらに見開いて、ふわっと笑った。
「どんな?」
そう小首を傾げる仕草に、揺れる前髪に、どきりとする。
「名前にね、方位が入ってるの。私は乾で北西、た」
巽。そう言おうとすると、喉が閉まる。
頬が赤い気がする。
「巽は、南東。」
少し小声になってしまった。
君は、ニヤッと笑って、
「えー、聞こえないな」
そうこっちを見た。
「もう、いいから!柊くんは南東なの。」
そう早口で話す。
君は残念そうに目を伏せたかと思うと、すぐに目尻を下げた。
「反対だ、世界一遠い場所」
ほんのちょっと切なさを感じる声色だ。
自分の足を見つめて、太ももの上の手を、握ったり開いたりする。
「そうだね、世界で一番遠い」
さっきみたいな君の声を聞いたら、私もなんだか寂しくなる。
「おかしいね。」
君の声は、さっきよりも随分明るい。
え、と声が出た。
パッと顔を上げると、君は太陽のように笑った。
「変なの。おかしいよ。今はこんなに近くにいるのにね。世界でいっちばん近くにいるよ。」
そう顔をくしゃっとして言った。
左肩を上げて、歯を出して笑う君に、ドキッとする。
「本当だね。」
私も微笑む。
正反対なんかじゃないよね。
今は、触れられそうなほど、近くにいるんだから。
「綴璃」
柊くんに急に名前を呼ばれて心臓が跳ねる。
「え、なに急に」
「いや、どういう意味が込められてるのかなって」
君は、目を細めて微笑んだ。
「たしかに。昔聞いたけど、忘れたな」
小学生の頃、総合の授業だったか、自分の名前の由来を親に聞いたことがあった。
そのときは、ちゃんと聞いて覚えていたのに、もう忘れてしまった。
綴璃。
まだ君が私の名前を呼んだ声が耳の中に響き渡っている。
「聞いてみるね。」
「うん。」
二人で目を合わせる。太陽は、確実に、傾いていった。
家に帰ると、お母さんはご飯を作っていた。
香ばしい匂いが鼻をつつく。
「ねえお母さん。私の名前、なんで綴璃なの?」
お母さんは、
「急にどうしたの」
と不思議そうに微笑んだ。
私はお弁当を出しながら、なんとなく、と答える。
おいしかったよ、とお弁当箱をシンクに置く。
お母さんは、ありがとう、と言った。
「綴璃。綴るっていう字は、あなただけの人生を、綴って欲しいってことと、自分のことを言葉にして伝えられる人になって欲しいって意味を込めたの。璃はね、瑠璃っていう宝石なんだけど、深い青色でとっても綺麗なんだよ。だからね、宝石のように輝く人生を送れますように。澄んだ心を持ちますようにって想いを込めたのよ。」
お母さんは途中からどこか懐かしそうに私の顔を見つめた。
「昔も、聞いてきたわね。あの頃の綴璃と、全然変わってない。」
嘘。小学生の頃は、笑ってたよ。もっと自然に。自分の気持ちを自分の言葉で表せてた。
もしかしたら、昔の私の方が本当の綴璃だったのかもしれない。
名前にふさわしい女の子だったのかもしれない。
昔は、自分の名前について知れて、純粋に喜んでいたように覚えている。
今は、もう純粋な心はない。汚れてしまった。
だから、なんだか複雑な気持ちになる。
あの頃と変わらない。お母さんには、そういう風に見えているんだね。全く見えてないよ、お母さん。私、ちゃんとできてるんだね。あの頃と同じように、笑えているんだね。
「ありがとう」
そう言って、二階の自分の部屋へと向かった。
「あ、窓開けてるから閉めといてー」
リビングからお母さんの声が聞こえる。
はーい、と返事をして、ドアを開ける。
窓から入り込んだ風で、カーテンが揺れていた。
風は私の髪も揺らして、顔にかかったのを手で整える。
私の名前の意味が、心の端にこびりついて消えないまま眠りについた。
今日はよく晴れていた。冬も間近とは思えないほどの温かさで、カーディガンを着なくても過ごせる。陽気な日には、なぜだか心が軽くなる。
「聞いたよ、綴璃の意味。」
柊くんはパッと笑う。
「どんな意味だったの?」
えーとね、と呟いて、息を吸う。
潮風の香りで胸をいっぱいにする。こんなこと、自分で言うのはなんだかくすぐったい。
「自分だけの人生を綴って、自分のことを言葉にして。あと、澄んだ心を持って欲しいだったかな。」
君は、顎に手を置いて、長いまつ毛で何度か瞬きをした。
「それなら、乾さんはちゃんと綴璃だよ。」
口角をふわっと上げて、愛しそうに目を細めて、綺麗な瞳で私を見つめる。
その優しい声に、甘い表情に、心臓がドキッとする。
「そうかな」
昨日は、私は綴璃をできていないと思っていたのに、君に言われると、なんだかそんな気がしてくる。
「そうだよ。だって、君は手紙に自分のことを書いたじゃないか。今、ここに来ているのも自分の選択だ。そして、その笑顔。それは綺麗な心の人にしかできないと思うけどな。」
私、今笑ってるんだ。
嬉しいよ。口元が緩む。表情筋がほぐれていく。
心の隅々まで、君の声が広がっていった。
次の日の朝礼では、先生が
「あと少しで期末だが、ちゃんと勉強しろよ」
と口を開いた。
あともう少しで、期末考査だ。
はあ、とため息を吐く。
勉強をしないと。私はただでさえ頭が悪いんだから。
教材がたくさん入った鞄を肩にかけ直して、今日もまたこの扉に手をかける。
ぎぎぎっと音を立てて開くそれは、最近重くなっているように感じた。
君はまた窓辺に立っていた。
なんだか寂しそうな儚い目をしている。
「柊くん、お疲れ様」
君の隣まで床をミシミシと鳴らしながら歩く。
「おつかれ」
君は、窓の外から私の方に目を向ける。
さっきの目とは違う、明るくて、穏やかで、輝いている視線。
「今日はね、古文の勉強をしようと思うの。」
ぎーっと椅子を引いて、腰を下ろす。
右隣の席には、いつも通り君が座る。
鞄の中から筆箱とノートと教科書、参考書を取り出す。
机の上で、トントン、と耳を揃えると、
「お、古文いいね」
君は朗らかに目を細めた。
窓の外からほんの少しだけ波の音が届く。
君の吐息の音が聞こえる。
カリカリとペンを走らせる。
内容の整理の問題で手が止まった。
それに気づいたのか、
「どっかわかんないとこあった?」
と首を傾げる。
「ここ、どういう意味なのかわかんない」
左手の人差し指で示すと、君は、見せて、と言いながら私の左手を握って、少し横へと避けた。
触れた手の温もりが、私の心臓を鷲掴みにする。
ほんの少し、ほんの一瞬なのに、私の鼓動は、どんどん早くなっていく。
「ああ、これはね、主語が同じになる時の法則を覚えればいいよ。この問題なら、て、て、て、と文が続いてるでしょ?」
君は問題文をなぞりながらほのかに色付いた唇を動かす。
「うん」
辛うじてそう言うと、
「これは、この文では主語が同じってことなんだ。」
君の手元の例文に目を落とすと、言う通り、て、て、て、と続いていた。
「じゃあ主語はこれ?」
そう言って四角で囲んだ人物名をペン先でトントンと指す。
「うん、当たり」
君は私の方を見て、少し歯を見せながら笑った。
その後も、助動詞の活用や日本語訳の仕方、反語を教えてもらった。
君の吐息はずっと優しくて、そんな君に私は見惚れて。
勉強に集中なんてできなかった。
だんだん睡魔が襲ってくる。
はあ。
と口の前に手を置いて欠伸をする。目に涙が溜まって、潤っていく。
目を擦りながらペンを握りしめて問題集と向き合う。
気がついたら目を瞑ってしまいそうになり、頭を軽く振る。
「眠いの?」
柊くんはいつも本当に優しい声を出すね。
「うん、ちょっと」
そう微笑みかけると、
「寝ちゃえば?完全下校時間前になったら起こすよ」
できればそうしたい。でも、その間君は一人で何をしてるんだろう。
寂しいかもしれない。退屈かもしれない。
「大丈夫だよ。」
そう、次の問題に目を移す。
少しの間、問題と向き合っていたはずなのに、気がついたら眠ってしまっていて、ペンを机の上までぎいっと引きずってしまった。
少しずつ視界が鮮やかになっていく。
ふと目を落とすと、机に傷ができていた。
私がペン先を引きずってしまったせいだ。
「ありゃ」
柊くんの頭がすぐ側にある。
私の前から傷を見ているようだ。
柔らかそうな髪の毛が、長くて綺麗なまつ毛が、大きな瞳が、通った鼻筋が目立つ整った横顔が、すぐ隣に。
「どうしよう。」
そう呟くと、
「いいからいいから。もう古いし。建て替えもあるんだし。」
そう君は少し哀愁漂う瞳を揺らして笑った。
そうだ。ここは、今学期の末に封鎖されて建て替え工事が始まるんだ。
心做しか本が少なくなっているように感じる。
ごめん。そう呟く前に、君が口を開いた。
「眠い時にやったって頭に入りにくいかもよ?寝ちゃいな。」
さっきの哀愁はもう綺麗さっぱり消えていた。
思いやりで溢れた目を細めている。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
机の上に腕を置き、その上に顔を埋める。
近くで君の匂いがする。自分の柔軟剤の香りも、この図書室の香りもあるはずなのに、君の匂いだけが鼻の奥に、心に届いてくる。
近くでペラペラと音がする。
本を読んでいるのかな。
ざあ、ざあ。と波の音がする。
潮の香りもほのかに感じる。
窓が開いているのだろうか。
吸っては吐く君の息の音もする。
この空間が、この空気が、君の隣が、こんなにも綺麗で溢れている。
そのまま私は眠りについた。
ゆっくりと目を開く。
顔を上げると、黄色い電気がついていた。
隣にいる君は、瞳を閉じて、すーすー、と寝息を立てている。
前髪が流れていて、いつもなら見えない額が覗いていた。長いまつ毛は軽く伏せていて。
起こしてくれるって言ったのに。
ふと後ろを向いた時に覗いた空はとても深い紺色で。
いくつか星が輝いていた。
海と夜空との境目が分からない。
柊くんの肩に触れようとする。
その瞬間、君が少し光を放ったような気がした。
そんな風にきらきら輝いているように見える。
どくっ、と心臓が暴れる。
こんなに近くにいるのに、もう少し手を伸ばせば触れられる距離なのに、あと少しが、届かない。
出していた手を引っ込めて、机の上に下ろすと、ひんやりとした木の冷たさが、手から一気に伝わっていく。
その冷たさが頬の暑さを逃がす。
息を吸うと、甘い香りとほんのちょっとの埃の匂い。
「柊くん、起きて」
できるだけ穏やかで優しい声を意識する。
うう、と愛らしい声を上げながら、ゆっくりと瞼が開いた。
「今何時?」
いつもよりも少しだけ幼く感じる声色で、少し崩れた前髪と、虚ろな瞳。何度か瞬きをして、私の方を見た。
私はスマホの電源を入れる。
表示された数字に驚きを隠せない。
「九時だ」
「え?」
君はさっきの眠そうな瞳を大きく見開いた。口も閉じていない。
私もきっと同じ顔をしているのだろう。
少しの静けさの後、
「完全下校時間を二時間も過ぎてるよ。どうしよう。」
と柊くんは声を出した。
「ほんとだよ。見つかったら怒られるかも。」
そう机の上に開いた教材たちをパタパタと畳む。
筆箱にペンと消しゴムを戻していると、
「僕が起こすって言ったのにごめんね」
子犬のような君の目が私の顔を申し訳なさそうに写している。
「いいよ。こんな景色、滅多に見られないからね。」
しまおうとしていた赤ペンを机の上に置いて、後ろを振り向き、窓の外を指差す。
瞬く星に、吸い込まれそうな空。そして、遠くに見える灯台の光。
波はよく見えなくて、音だけは届いている。
「綺麗だね。」
君は優しく笑った。
赤ペンを握り直し、筆箱に放り込む。
ぎい、ぎい。
図書室の前の廊下から、足音が聞こえてくる。
旧校舎は床の軋みが響くから、遠くでも風に乗って音が聞こえることがある。
「やば、先生来るかも」
私は椅子から立ち上がり、柊くんの手首を引いて、本棚の間に隠れる。
入口から死角になりそうなところに息を潜めて。
さっきまでは遠かったほんの少しが、こんなにもあっさりと縮まっていく。
君の手首を掴んだ手のひらが熱い。
鼓動が早い。
「柊くん」
そう振り向いたら、君は口元に人差し指を添えて、静かに、と透き通った声を出した。
その仕草と儚げな風貌に目が離せない。
ぎいい。
いつも聞く扉の音が聞こえる。
「誰かいるのか」
担任の先生に似た声だ。
ミシ、ミシと床を鳴らしながら少しずつ近づいてくる音にびくっと肩が震える。
このままなら二人とも怒られてしまうかも。
私が寝たせいだから、私が先生に怒られるべきだ。
手でスカートを掴み、すぐに離す。足を踏み出すと、床はミシッと音を奏でる。
本棚の影から飛び出すと、いつも見ている担任の先生の姿があった。
先生は飛び出そうなほど目を開いていた。でも、その目は私よりも遠くを見ているようで。
「おお、乾か。驚いたぞ。」
そう先生は少し笑うとすぐに真顔に戻して、
「じゃなくて、こんな時間に何してんだ」
「えーと。」
いい感じの言い訳が思いつかない。手が震え出して、またスカートを左手で掴む。真っ直ぐ先生の方を見れない。
「勉強してたらいつの間にか寝てて、気が付いたら。すみません」
そう言うと、先生は、はあっと息を吐いて、微笑んだ。優しく下がる目尻に、鼓動が落ち着く。
「俺でよかったな。さっさと帰れ。昇降口まで送ってやるから。」
図書室を出る先生の後を追う。
柊くんがいるであろう方向に手を振って、私も床を鳴らす。
「もう暗いから誰かに迎えに来てもらえよ。」
先生は私の前を歩きながら、窓の外を見ていた。
真っ暗な校舎は、いつもと全然雰囲気が違って少しだけわくわくする。
「そうします。」
私も先生の視線の先を見て、答える。
でも、こんな遅くに迎えに来てなんてお父さんに言えるはずもない。
「先生はな、実はここの学校の卒業生なんだよ。」
「へえ、そうなんですか。」
二人の声だけが響いていく。
「俺も乾みたいに図書室に通っていてな。もう、二十、何年だ。まあ、進路とか、部活とかに悩んでいた時にふと現れた男の子がいた。しゅうって呼んでいて。本名は忘れてしまったんだが。しゅうと毎日笑って、話して。懐かしいな。」
先生は窓の外をさっきよりも落ち着いた視線で見つめた。夏の終わりの向日葵のような先生の笑顔は、どこか若々しい雰囲気を纏っている。
「へえ」
あそこには大切な友達との思い出が詰まっているんだ。
昇降口に着くと、先生は、
「迎えは来てもらえそうか?」
と首を傾げた。
「はい!ちょっと時間がかかるそうなので、コンビニにでも寄ります」
嘘を隠すように、にこっと微笑んで、ありがとうございました、と軽く会釈する。
「じゃあ、気をつけろよ」
先生は職員室へと続く廊下を歩いていった。その背中を見つめて、自分の靴箱からローファーを取り出してスリッパと履き替える。
例年よりもだいぶ暑い秋でも、夜になると一気に冷え込む。
乾いた涼しい風が今にも落ちそうな木の葉を弄ぶように揺らす。カサカサ、という不気味な音は、この暗さだと、なんだか怖い。
やっぱり迎えに来てもらえばよかったな。
学校の前の歩道を歩きながら、駅へと向かう。
街灯と街灯との距離が大きいせいで、光が届かない場所を通る時は、歩くのが少し速くなる気がする。
ふと、さっきの君の寝顔を、声を、台詞を思い出した。
君の手首を掴んだことも蘇ってきて、急に暑さを感じる。
いつもと違う道を通って駅前の大通りに出ると、飲食店の看板や、車のヘッドライト、マンションの電気が夜の街並みを照らしている。
目の前が明るくなって、人気を感じるようになると、自然と心臓は静かになった。
駅まで歩いていく間、すれ違う人の笑い声や、話し声に私まで心が軽くなっていく。
スマホをポケットから取り出して、メッセージアプリを開いて、
今帰ってる!遅くなってごめん!
と家族のグループに入力した。そして、ちょうど良さそうな電車の時間をスクリーンショットして、送信する。
お母さんから、了解というスタンプとお父さんから、最寄り駅まで迎えに行くよ、という返信が来た。ありがとう、と送って電源を落とす。
電車は空いていて、最寄り駅から家まではお父さんが車で流している何度も聞く曲を口ずさみながら帰った。
次の日の放課後に机を近づけて期末考査に向けて教科書と問題集を広げる。
時々昨日あったことを思い出して、にやけそうになってしまう瞬間が多々あった。
「ねえつづりー」
茉文は、首を傾げながら口を開いた。
「どうしたの?」
と微笑みかける。視界の端で、詩葉が手を止めたように見えた。
「ここ、わかんない」
そう彼女が指で示すのは、古文の現代語訳の問題。
この前、柊くんに教えてもらったばかりのところだ。できるだけ、穏やかな声を出す。
問題にされている文を指差し、
「ここの文の主語は、前の文と同じなの。て、て、て、って続いてたら、主語は変わらないことが多い。ってなると、主語は何?」
茉文は少し上を見て、ぱっと思いついた顔をした。すぐにペンを走らせていく。その回答を見て、
「正解」
と口に出す。
「ここの助動詞は?」
首を傾げながら、私の方を見つめる。
「この助動詞はね、主語が一人称か二人称かで意味が変わるの。さっきの主語、どっちだった?」
「てことは、こう?」
茉文のペンはゆっくりと、丁寧に答えを綴っていく。
「大正解」
彼女はやった!と呟いて、問題集と向き合った。
私も、問題集と向き合う。
柊くんが教えてくれたところが、次々と出題されて、問題が簡単に思えた。
答え合わせをしてみると、ほとんどが正解で、心がすーっとする。
「これ、なんでこうなるかわかる?」
私の腕をトントンと叩いた詩葉は、数学の解答を私の方に向けてきて、ペン先で応用問題を指してきた。
「えーと」
「うん」
少しの間、回答を読んでみると、授業中に先生が解説してくれた問題と、似ていた。
「多分、この公式に当てはめて、解いてるんじゃないかな。後はグラフとか書いてみてもいいかも」
詩葉の方を見て微笑むと、
「あー、だからか!ありがと」
と小首を傾げて微笑んでくれた。
揺れる金髪っぽい茶髪が彼女の笑顔を更に華やかにしていく。
「綴璃さ、先生になったらいいと思う」
予想外の言葉に、へ?と変な声が漏れる。
「うんうん。私もそう思う!教えるの上手いから」
茉文は、大きく頷いて笑う。
「そう、かな」
今までなら、そんなことないよって、笑っていただろうに、今は、純粋に嬉しかった。
「ありがとう」
そう言うと、
「最近の綴璃、なんか楽しそう」
茉文は私の手を握って、口角を上げる。
「そうかも」
と呟く。
私、楽しい。
「いいじゃん。そっちの方が好き。」
詩葉も、歯を見せてにっと笑った。好き、なんて、お世辞かもしれない。でも。
「うん!」
そう発した口は、とても軽くて。
夕焼けに溶けていく私たちの声は、いつもよりも長く漂うような気がした。
今日も図書室に行く前に少しだけ詩葉と茉文と話す。
三人で笑って。茉文のおふざけに詩葉がツッコミを入れて。
また三人で笑って。
ふわっときつい香水の匂いが鼻を独占した。
「お前なんか最近、調子乗ってね?なんか嫌いになったわ。冷めた。」
そうニヤニヤしながら言ってきたのは、いつかも私をいじってきた峰崎だった。
その言葉に、瞬きをするのを、口を閉じるのを、忘れる。心に重い何かが降ってきて、押し潰されて。苦しくなる。
笑わないと。え、ごめんって。
「え、」
出した声は掠れた。峰崎は顔を歪めて、私の方を見ている。
自分の気持ちを言葉にしようとする度、喉の蓋が閉まったように、声が出せない。ひゅうっと細い息が出るだけ。
何か。何か言わないと。とにかく謝って。
ごめんってまた笑えばいい。戻ればいい。
なのに、このままでいたい。
このままでいれば、きっとお母さんが望む綴璃に近づける。
でも、もっと嫌われてしまう。別にこの人に嫌われてもいいんじゃないか。そんなことを考える自分が醜い。全部全部むしり取ってしまいたい。
乾綴璃、という仮面も。嘘で固まった笑顔も。歪みまくった性格も。
でも、みんなは、私をその仮面で押し潰してくる。
考えるほど、息が苦しい。
私、どうすればいいんだ。
私ってなんだろう。私は、やっぱりダメだ。不正解だ。
いつの間にか、私の目線は下がり、自分の足と、峰崎の足と床に占領されていた。
「どこが?綴璃のどこが調子乗ってるの?」
飛び込んできたのは、詩葉の声だ。
顔を上げて、左を見ると、詩葉が見たこともない顔をしていた。歯を食いしばり、強く峰崎を睨んでいる。
右を見ると、茉文がいつもの明るい笑顔とは程遠い、暗くて、どこが大人っぽい雰囲気をまとっている。
「峰崎は、綴璃のどこが気に食わないの?」
茉文の声は、いつもの優しさがなかった。尖っていて、真っ直ぐと風に運ばれていく。
峰崎は、はあっと息をついて、
「だるっ。きもすぎ。」
と声を上げ、背を向けて歩いて行った。
揺れる金髪が、気だるげに伏せた目が、嘲笑うように上がった口角が、視界から、脳裏から消えない。
「なにあいつ」
「許せない」
二人はそう言って、
「気にしなくていいからね」
「綴璃、大丈夫?」
と私に心配の眼差しを向けた。
私のせいで、二人が悪く言われた。
私が調子に乗ったせいで。
二人はこんなに優しいのに。
ダメだ。
考えたら泣きそうだ。
泣いちゃダメ。泣いちゃダメ。
「ごめん」
そう言って足早に教室を出る。
歩いて、歩いて。
いつもよりも遅めにこの場所へとやって来た。
毎日優しく開けるこの扉を、今日は勢いよく開けてしまう。
ぎいいっという普段よりも大きな音が廊下に響いた。
窓は閉め切っていて。君はもういなくて。
帰ってしまったようだ。今は、今だけは、それで良かった。こんな姿、見せられない。今まで寄り添ってくれた君に、昔に戻るようなこんな姿。
少し歩いて、いつもの席へと向かおうとする。
途中で、足が絡まり、胸の奥がギュッと掴まれたように痛む。耐えられなくて、床に手をついてしまう。
四つん這いのような体勢になると、涙が溢れてきた。床に、雫が落ちていく。
ひゅう、ひゅうという呼吸を何度か続けると、いつの間にか声が出ていた。
「やだ。やだよ。もう、いや。どうして!どうして私はこうなの。」
拳を握りしめて、床を叩く。
「ちっとも変わってないじゃん!」
うっと呻く。
「私のせいで、私はやっぱり」
ダメな人間だ。
そう言おうとした時、背後からミシミシと床の軋みが聞こえた。
「どうしたの、乾さん。」
頭上から降ってきたのは、何度も聞いてきた君の声だ。
「...なんで、なんでここにいるの。帰ったんじゃないの?」
柊くん。今は、そっちを向けない。だって、こんなにも酷い顔をして、醜い言葉を言って、汚い涙を流しているから。
「違うよ。君を、待っていた。」
君の声は落ち着いていた。私のそばにしゃがみこんだのか、近くに温もりと甘い香りを感じる。
「やだ。見られたくない。」
見られたくない。こんな姿。
「じゃあ見ない。どうしたの?」
君の声が、近くから聞こえる。
どうしたのか、自分でも分からない。
分からないよ。これって何?なんで?私って何?
「分からない!分からないよ。」
涙は止まることなく流れてく。
「悲しいの?」
悲しくない。悲しいわけじゃないの。
『自分のことを言葉にして伝えられる人になって欲しい』
ごめん。私、できない。なんて言えばいいの。この感情を。私は知らないの。この気持ちの名前すら。
「ちがう。分からないの、私が。」
肺が縮んで、気道が狭くなる気がする。
「分からない、、か。僕はわかるよ。乾さんのこと。」
柊くんに、わかるはずがない。
ダメだと分かっていても、声を荒げてしまう。
「あなたが!柊くんが私の何を知ってるの!」
はあ、はあ、と肩で息をする。
隣から息を吸う声が聞こえた。
「知らない。でも知ってる。乾さんがハンバーグが好きだったこと、ここを好きでいてくれること。そして、笑いたいって思ってること。」
やめて。全部忘れて。知りたくない。君が知ってる乾綴璃を、知りたくない。
「乾さんは、変わりたいんじゃないの?」
いつになく優しさに満ちた声だった。
目頭が熱くなる。キーンと耳鳴りがする。
そうだよ。変わりたいんだよ。少しだけ変われたと思ったんだよ。でも、その結果、二人を傷つけてしまった。
だから、変わっちゃダメだ。私はずっと、正解を求めないといけない。
簡単に言わないでよ。そんな優しそうな声を出さないで。私に寄り添わないでよ。私、また甘えてしまうから。
「……やめて!もう、やめてよ。」
大きな声を出してしまう。
息が上手く吸えなくて。
「ごめん」
君の声は、どこか寂しそうだった。
「一人に、して。」
違う。こんなこと、言いたくない。
一人になんて、なりたくない。誰かに、柊くんに、そばにいて欲しい。
行かないで。ここにいて。
長い沈黙が横たわる。
甘い香りはまだあるのに、なぜか一人のような気がして、心がきゅっとなる。
寂しい。寂しいよ。
「乾さん。それは、一人にして、じゃなくて、そばにいて。じゃない?」
ドキリとする。
そうだよ。でも、言えないよ。強くなりたいから。
でも、少しくらい寄りかかってもいいかな。
君は、本当に私の心の底を見透かすのが得意だね。
息を吸う。ああ、また期待をしてしまう。君ならここにいてくれるって。
今は、その声に、背中に、縋ってもいいの?
「そばに、いて。」
思ったよりも小さくて、消え入りそうな声だった。
「うん。ここにいるよ。」
その声を聞くと、涙も、嗚咽も、苦しみも、もう押し殺せなかった。
君のそばで、これでもかという程のたくさんの涙を流した。
君は、ただ、そばにいた。
自分が情けなくて。やるせなくて。
でも、変えたくて。変わりたくて。
拳を強く握りしめて、涙を拭った。


