夕日が照りつける波を窓越しにぼんやりと見つめる。小さな波の音に耳を澄ませると、微かに届くそれが耳を包んだ。心が少し軽くなるような感覚がした。強ばっていた表情筋がほぐれて、引き上げていた口角が自然な姿となる。
桃色の封筒を開けて、便箋を取り出した。
なんて書いてあるだろう。私の笑顔について、なんと答えてくれただろう。それをゆっくりとめくる。そこにはピンピンとした細字で、
『風が、気分を良くしてくれました。』
と記してあった。
私がこの前開けて帰ってしまった窓。
君も、私と同じように風を浴びると、いつの間にか笑顔になっているのかな。
その言葉に、なぜか胸が高鳴る。
どうしようもなく、ここの風を浴びたくなった。この前よりもすんなりと鍵が空く。鉄の冷たい縁に手をかけると、ここはこの前と同じように固く、ガッガッと音を立てながら開いた。
小さかった波の音が、海のすぐ側にいるように大きい。潮風はこの前よりも穏やかで、頬をゆっくりと撫でる。ぼんやりとしていた景色は、鮮やかに目に飛び込む。
窓の外から目を逸らし、便箋に視線を当てる。胸に染み渡る喜びと裏腹に、次の行の文に目が止まった。
『笑顔とは、そのようなものなのですね。』
波の音が、聞こえなくなった。
笑顔。私にとって、それは、すごく難しくて、疲れがたまるもの。
だけど、相手にとっては、私とは違う素敵なものであって欲しい。私にとってのそれと、相手にとってのそれは、違うことを願いたいから。勘違いされたくないようにしないと。
私がおかしいだけで、相手の笑顔の理由が、みんなの笑顔の理由と同じであって。
私の笑顔が不正解なだけ。
自分で思っておきながら、チクリと心が痛む。
体が惹き付けられるようにこの前と同じ席に腰を下ろし、手を動かした。
相手にとっては、どんなものなのだろうか。
『あなたにとっては、どんなものですか?』
と。少し考えた。
私は笑顔についての質問が少し苦しかった。胸に手を当てる。どくどくと早い鼓動が手から伝わる。
もし、相手も同じような状況なら、苦しめてしまうかもしれない。傷つけてしまうかもしれない。
すぐに消しゴムを握って、その文字を消しカスに変えた。
消しあとを隠すように、その上から
『私にとっては、ですよ。あなたにとっては違うかもしれないです。』
と書く。
これでよし。
封筒に入れて、本に挟む。
どこからか、ふわっと甘い香りが鼻を掠めた。
気のせいかもしれないけど、どこかで嗅いだことがあるように感じた。
どこで嗅いだだろう。
ただ、どこか懐かしく感じた。
次の日、いつものように茉文と詩葉とお弁当を囲む。
お弁当の包みを広げて、蓋を開けると、美味しそうな臭いが風に乗って運ばれてきた。
昨日、自分で自分の笑顔を不正解と改めて感じてから、頬がひきつる。
でも、笑わないと。曇り空の下、普通と思われるように柔らかく口角を上げる。
おかしく思われないように二人の会話に正解の相槌を打って。
必死に笑って。
野菜の炒め物を箸でつついていた時、
「今日の放課後カラオケ行こうよ、今日ドリンク飲み放題らしい」
スマホを見ながら放たれた詩葉のその台詞に、心が揺れる。
歌も得意じゃない。自分の好きな歌がないから。いや、ある。あるのだけれど、きっとみんな知らないし、正解じゃないから。流行りの歌を何となく歌うしかできない。
そして、友達の歌に手を叩いて、上手!と笑って。
歌のことを考えたら、好きでもない流行りの歌が、いつもイヤホンから流れる耳にこびりついたメロディが、思い出される。
「いいよー」
と言う茉文の声がやけに大きくて、重く響いた。
頭の片隅に、昨日の窓の外の景色が浮かぶ。
相手の細字が浮かぶ。
私は、手紙がみたい。
喉に引っかかりながらも、声に出す。
「ごめん。今日は、ちょっと早く家に帰らないとで」
どんどん嘘を並べるのに無感情になっていく。
「おっけー」
と二人は、なにごともなかったように箸を進めた。
私だけ、口角が上がったまま。
放課後、詩葉と茉文の後ろ姿が消えたのを合図に、一人になった教室を後にする。
足音が響く廊下をゆっくりと歩く。
ぎしぎしとなるこの音が心地よく感じる。
扉を開けると、曇り空だからかいつもよりも少し暗かった。
電気のスイッチを探して、図書室を歩き回る。
木目調の床は、ミシミシとところどころ鳴いていた。
部屋の隅には埃が溜まっている。
カウンターの隅に、それを見つけた。
カチッと押すと、少し間を置いて、ピッと電気が着いた。
いつもとは違う、不自然で人工的な黄色い光。
そんな中、わくわくとした心で開いた生成り色の便箋には、
『それは、悲しいです。僕は笑顔は、楽しくて、嬉しくて溢れてくるものだと知っています。』
と書いてあった。
何度か瞬きをする。
悲しい?赤の他人の私に、この人は、悲しいという感情を抱いてくれている。ふふっ、と息が漏れた。
この人は、どれほど優しいのだろう。
相手にとって笑顔は嬉しくて溢れるもの。
正解だ。それがきっと。
でも、私には、できない。
みんながみんな嬉しくないときに笑ってしまいそうで。
もしそうなったら、空気が読めない奴と思われる。嫌われる。
だから、私は溢れてくるものには蓋をして。
沸き上がらないものを無理やり引き出して。
そうやって生きていく。息をしていく。
もう座るのが当たり前になった同じ席で、ペンを握った。
『私には、できません。だって、嫌われたくないから。』
肺が小さくなったように、息がしづらく感じた。
こんなこと、初めて人に伝える。
怖い。机の上に置いた手が、びくびくと小さく震える。もう片方の手で抑えても、震えは止まらない。
でも、この人になら、伝えられるかもしれない、と思った。
悲しいと思ってくれたこの人なら、きっと受け止めてくれる。
黄色い光が、淡く私の便箋を照らした。
今日も昨日とあまり変わらない天気だ。
昨日より雲が少し薄くなったものの、やはり太陽は出ていない。
今日も、窓を開ける。
その瞬間。
薄い雲の合間から、太陽が顔を出した。
微かな風がそよいだ。
潮の香りと、何度か鼻に触れる甘い香りを運んでくる。
空には天使が歩いていそうな淡く輝いている光が、太陽から雲の間を縫って放射線状に降り注ぐ。
肺がすぅっと晴れていく。
その光は絶え間なく続く波の端を照らし、砂浜を温める。
そんな光景に、心が凪いだ。
あの本を手に取り、いつもの椅子に座る。
後ろから届く風は、私のうなじを撫でる。
太陽の僅かな光が、首の後ろに降り注ぐ。
軽やかな指使いで封筒を開け、便箋に目を落とす。
『本当に嫌われるのですか?』
そう書かれた見慣れ始めた文字が目に飛び込んできた。
ぐっと手に力が籠る。
本当に、嫌われるのだろうか。
私が笑いたいところで笑ったら、その時に誰も笑っていなかったら、嫌われるのか。
もしかしたら、嫌われないかもしれない。
そう思っても、心は一方向を指して変わらなかった。
嫌われるに違いない。
首の後ろに感じていた風が少し強くなり、降り注いでいた陽の光が弱くなっている気がする。
暗くなった目の前に、息を吐く。
吐いても、吐いても、上手く吸えない。
嫌われるに、決まってるじゃない。
相手は、きっと好かれているのだろう。
そんなことで嫌うのは友達じゃないと思っているのだろう。
そんな禍々しい決めつけが心の中で湧き上がる。
暗くてどろどろとした気持ちのまま、ペンを力いっぱい握り、便箋に書き殴る。
『絶対そうです。』
一度ペンを置き、目を落とす。
これだけだと、少し強く見えるだろうか。
ペンを握り、続けて書く。
『みんな、きっとこの私が好きだから。もし、本当なんて見せたら、私の居場所が、無くなるじゃないですか。』
自然と動く腕に、少し鼓動が早くなる。
自分が怖い。こんなことを自然と書ける自分が。
そうだ。
私は都合よく笑って、頷いて、返事をするから好かれているんだ。
そうだよ。なんで忘れかけていたのだろう。
もう少し頑張らないと、本当に居場所が無くなる。
ここに来る足がどんどん早く、軽くなる。
今日のように晴れた日の図書室からの景色は、息を飲むほど輝いていて、ただ美しくて。
今日は、窓が開いていた。
きっと、君が開けたのだろう。
今は風がなくて、波も静かだ。
いつの間にかこの場所を求めるようになった。
ここで息を吸いたくなる。
また、本を開く。
震えてしまう指先は、本を手から落とした。
バサッ。
そう音を立てて床の上でそれは開いた。
桃色の封筒は、いつもより遠くて、眩しく感じた。
昨日書いたことが思い出される。
もし、見放されたら。
自意識過剰と思われたら。
そんな不安が湧き上がる中、震えが収まった指で本を拾い上げる。
そして、少しはたく。
いつもの席で、封を開け、便箋に目を落とす。
『それなら、ここでは、飾らない君でいてください。その君と、お話してみたいです。僕はその君を追い出したり、突き放したりしませんから。』
必死に目で追った。
こんなの、初めてだ。
ここでは、本当の私でいてもいいの?
無理に笑わなくて。
顔色を伺わなくて。
笑いたい時に笑って。
そんな私でいても、いいの?
私、自分の言いたい時に、言いたいことを話したら、空気を壊すかもしれない。
気が遣われていない言葉を放つかもしれない。
傷つけるかもしれない。
また、置いていかれるかもしれない。
一人になるかもしれない。
でも、君は、そんな私と話してみたいと言ってくれている。
どうしようもなく、喜びが溢れてくる。
心臓に、じんわりと温かい何かが流れ込む。
それに、本当の私を突き放されたり、追い出したりもしないと。
息が深くなる。
笑みが零れた。
目尻が下がって、口角が上がって。
ぶわっ。
君が開けたであろう窓から、海辺の風が図書室に満ちる。
一気に潮の香りが、充満する。
髪がなびいて、顔にかかる。
信じられない。
信じたいのに、胸がきゅうっとなる。
手はまた震えだしていた。
ペンを握る手を左手で擦る。
落ち着いてきた手で、文字を綴る。
『本当、ですか。』
少しだけ、背中が汗ばむ。手をぎゅっと握りしめて、ペンを動かした。
風はもう吹いていなかった。
何も感じない首元に触れるのは、太陽の光だけ。
なにか、書き足した方がいいだろうか。
過去のことは、重いか。
信じられないとは書けない。
だって、君はこんなにも優しいのだから。
それなら、これだけでも十分な気がした。
これが、今の私に書けることだ。
きっと、相手なら、もちろん、とか、とっても優しい言葉をかけてくれるのだろう。
期待をしてしまう。
私を認めてくれると。
待ってしまう。
君からの優しい言葉を。
日が沈む時間、私の心は凪いでいた。
『本当、ですか。』
なんでこんなことを聞いてしまったのだろう。
だって、違うとか嘘とか言われたら、耐えられない。
きっと優しい言葉をかけてくれると思っていたのは、私が相手を過剰に信頼していただけかもしれない。
そう思うと、ドキドキが止まらなくて。
今日、図書室に来るときの足は、少し重く感じた。
今日は太陽が燦々と降り注いでいる。
ぎぎいっという音を立てて開いていく重い扉に力を込める。
ふわりと香るいつもの香りに息がほどける。
足を踏み入れた瞬間。
いつもよりも、一段と眩しかった。
本棚の上の埃を輝かせ、古い本を光らせて。
カーテンを束ねているところから埃が舞っていて。
それが光のパウダーの様で。
なんだか、いつもとは違う場所の様だった。
ゆっくりと歩く。
ゆっくりと息を吸う。
いつもよりも甘い香りが強い気がした。
さっきまで、君がいたのかもしれない。
外を見ながら、息を吐く。本棚の上で手を滑らせると、埃が手に付いた。
パンパンと手をはたいて、本を取る。
きっと、君なら、私の望む返答をくれるよね。
大丈夫だよね。
首筋がひんやりとする。
瞬きが早くなる。
封筒の中から、生成り色が覗いた。
それを手でつまみ、開く。
目を瞑って、ふうっと心を落ち着かせた。
手紙が震えているのを感じる。
これを見てしまったら、私はどうなるのだろう。
怖い。でも、見たい。
目を開けると、太陽の光と共に、君の文字が飛び込んできた。
『本当。』
それを見た瞬間、鼻の奥がツンと痛み、喉の奥から、嗚咽が湧き上がってきた。
たった二文字。
止め、はね、はらいが丁寧に施された細い文字。
たった二文字なのに、何度も何度も読み返した。
本当に書いてあるのか、その文字をなぞった。
でこぼことした筆圧に、ほっとする。
嘘じゃないよね。
たったのこの二文字。
でも、私の涙腺を壊すのには十分だった。
ぽつぽつと便箋を染めてゆく。
手がさらに震える。
立っていられず、床にへたりこんだ。
頬に涙が伝っていく。
それを拭う手はやっぱり震えて。
拭っても拭っても溢れ出てきて。
胸がじんわりと温かくなって。
でも、少し怖くて。
だけど、信じたくて。
本当に、疑ってごめんなさい。
私、信じられるかもしれない。
信じたい。
便箋に涙が滲んだ。
ファイルから私のレターセットを出す。
震える指先のまま、ペンを握る。
なんて書くべきか分からなかった。
ペン先は走ることなく、便箋の上に止まる。
疑ってごめんなさい。
嬉しいです。
信じます。
たくさん浮かぶけど、どれも違う気がした。
でも、何を書きたいかは分かった。
『ありがとうございます。』
これだ。感謝の言葉。
私は、君に、ずっとこれを伝えたかったんだ。
『あ』
と書いて少し腕が止まる。
ぷるぷると震え続ける腕にぐっと力を込める。
はあ、吐息を整えて、
『ありがとうございます。』
と書き終えると、手の震えは止まっていた。
乾ききらない涙腺から、絶え間なく雫が零れ落ちる。
便箋には涙が滲んで、少し色が濃くなり、模様が描かれる。
グラデーションの中に、いくつかの丸い跡ができた。
夕焼け色のここで、私は君に、返事を書いた。
灰紫色と空色。
空の色の様な私の便箋を半分に折る。
爪を使ってしっかりと折る。
そして、灰桃色の封筒を開き、ゆっくりと便箋を入れる。
そして、いつもの本に挟み、本棚にしまう。
背表紙をそっと撫でる。
他の本とは比べ物にならないほど鮮やかな色だった。
やはり一層目を惹く。
窓から見える海は、ピンク色と茜色に染まり始めていた。
夕焼けの空も、ずっとずっと柔らかく感じた。
光はここに来たときよりもずいぶんと赤く染まり、何十倍にも優しく感じられた。
明日も、ここに来たい。君の文字を、早く見たい。
今までよりもずっと軽い足取りで、図書室をあとにした。
旧校舎の廊下はやっぱり足音が響く。
でも、この足音さえも、愛おしく感じられる気がした。
たくさん泣いたせいで、朝は目が腫れていた。
朝日が仄かに照らす部屋の隅で、鏡を見る。
赤く染まった瞼は、いつもよりも腫れぼったく見える。
二重は、いつもと違う幅で、違和感がある。
保冷剤を取り出し、目に当てる。
ひんやりとした感覚が、瞼から身体中へ流れていく。
何分かこのままでいた。
保冷剤を取って、目を開ける。
目に飛び込んできた私の瞼は、まだ赤みがかって、腫れていた。
冷やしても引かなくて、二人になんて思われるか、怖かった。
でも、学校に行かないと。
席に着くと、すぐに茉文が話しかけてきた。
「おはよ!綴璃」
振り返って、笑顔を作り、おはよ、と呟く。
少し元気がなかっただろうか。
茉文は一瞬、首を傾げて、
「目、なんか今日おかしくない?」
と言ってきた。
どくどくと心臓が跳ねる。
おかしい。
私って、おかしいのかな。
口角は上がる。口は勝手に動いた。
「そうかなー」
その瞬間、詩葉もおはよー、と手を振りながら私たちに近づき、
「え、綴璃、目どうしたの?」
と目を見開いた。
私の口角は上がり続ける。
「何もしてないよー」
少し柔らかく笑うのを意識した。
二人は、そっかー、と言って、微笑んだ。
自分の笑顔に違和感を覚える。
目が腫れているからかもしれない。
でも、もっと奥深くから、頬の、口角の、目尻の筋肉が、ぴくぴくと動いているように感じた。
頬を撫でても、何も感じない。
私、どうやって作ってたっけ。
二人は笑ったままで、太陽の光は、雲に遮られ、消えていった。
『それじゃあ、君について教えてください。』
今日の便箋には君の字でそう記されていた。
涙で腫れた瞼は、まだ重いままだ。
雲に遮られた太陽は、あれから一度も顔を出さない。
人工的な黄色い光は、この前よりも少し、暗い気がした。
弱い光の中、生成り色と黒い線を撫でる。
私について、か。
短く息を吐く。
私についてって、何を書くべきだろうか。
一応、名前だ。そういえば、私はまだ名前も教えていなかったんだ。
君は、名前も知らない私に、いつも話しかけてくれていた。なんて、なんて優しいのだろう。
目尻が自然と下がる。
ゆっくりと、優しくペンを握った。
灰紫色と空色の便箋に、黒い線を走らせる。
『乾 綴璃です。二年生です。』
私に書ける、私についてはこれくらいだ。
灰桃色の封筒を手に取る。
ザラザラとした質感のそれを開き、半分に折った便箋を入れる。
パラパラ、と本のページを捲る音だけが響き渡った。
封筒を挟んで、本棚に立てる。
明日は、君についても、知ることができるだろうか。
胸の高鳴りを落ち着かせながら、家に帰った。
夜、布団に入る。
昼間とは違う、柔軟剤の甘い香りが満ち溢れた。
でも、私の鼻は、いつかあの場所で嗅いだ甘い香りを掴んで離さなかった。
今日は、なんて書いてあるんだろう。
君の名前が、学年が、書いてあるかもしれない。
私の名前を、君はなんて呼んでくれるだろう。
止まることなく脈打つ心臓を深呼吸で落ち着かせる。
埃の匂いと仄かな潮の香り。
きっと、昨日でも君が窓を開けたのだろう。
そんなことを考えながら、見慣れた封筒を開けた。
目に飛び込んできた文字を追う。
『それならタメ口で行きましょう。好きな物は何ですか。』
君は名前を教えてくれなかった。期待していた私が馬鹿みたい。
だけど、タメ口。
その文字にどきっとする。
タは一画目と二画目を繋げて、角張って書いている。
メの払いはピシャッと真っ直ぐ尖っていて。
口はお手本のような綺麗な形。
その文字で記されたタメ口は、なんだか特別で、気を許した相手にしかしない、そんな風に感じる。
君は、同い年だろうか。
少し距離が縮まった気がした。
でも、その次の文字を見て、肺が小さくなる。
好きな、物。
爪を撫でて、指先をいじる。何が好きなんだろう。
分からない。
子供の頃は確かにあったはずなのに、思い出せない。
茉文が買ったと言っていたリップは好きだ。
ふたりが好きなカフェの雰囲気も好きだ。
詩葉が使うペンも好きだ。
二人が、好きだ。
二人が好きな物が、好きだ。
なんて書けばいいのだろう。
『リップが好きです。』
こんな風に具体的に書ければいいのに。
ペンは亀のように、ゆっくりとゆっくりとしか進まなかった。
『忘れてしまったのです。分からないんです。自分が何が好きなのか。友達が好きなものが好きです。』
よし。これなら、友達思いで、優しい女の子。これが君が思い描く「乾綴璃」なんだろうな。
君に、見放されなければいいな。
半分に折った便箋を封筒に入れ、本に挟む。
それを本棚に戻して、木の重い扉を開く。
ぎぎいっ。
そんな乾いた音が廊下に響き渡った。
慣れた手つきで取った桃色の封筒を片手に、いつもの席で体を休める。
背中を温めるのは、僅かに差し込む太陽光。
いつもよりも少しくらい机上で便箋を開く。
『タメ口だよ。そういう人もいるんだね。じゃあ、嫌いなものとか、昔好きだったものとかはある?』
だね。という初めて見る語尾に心臓は踊った。
タメ口。そうだった。あんなにドキドキしたのに忘れていた。
今日はタメ口で書くと心に深く刻む。
『そういう人もいるんだね。』
そんな短い言葉で、私が肯定されたようで、息が少し吸いやすくなる。
ペンを掴んで、空色の上に走らせる。
『嫌いなものは』
ここで手が止まった。私が嫌いな物は、なんだろう。
振り返って窓の外を見る。少しずつ冬に近づいているのが分かるくらい、初めて手紙を交わした日とは比べ物にならない空の色。
淡くて、薄くて、柔らかな印象だ。
嫌いな物。
好きな物も、嫌いな物も分からないなんて、空っぽな自分に嫌気がさす。
こんな自分の心を抉りとってしまいたくなる。
君が求めている嫌いなものは、虫とか、ホラー映画とか、単純なものだろうに。
私の頭にぽっかりと浮かんできた物は、醜くて、人間の嫌なところを詰め込んだような物ばかり。
もちろん友達に嫌われること。
大きな頬に、薄めの唇。ボサボサの髪に、左目の横にあるホクロ。そんな自分の容姿。
うじうじしてて、はっきりしなくて、面白くなくて、好きになれない自分の性格。
少し高めで、嫌でも通ってしまう自分の声。
自分自身。
嫌いなものは溢れ続ける。
ふと、思い出した。
「分かるに決まってんだろ。勉強してたら不合格なんて滅多にねえよ。」
金髪をいじりながらにやにやと笑う峰崎。
脳内に再生される嫌という程聞いた台詞。
教室の匂いが、鼻にこびりついたそれは、消えなくて、大きく息を吸っても変わらなくて。
湧き上がる怒りは、私に拳を握らせた。
すうっと息を吸う。
ほんの少し前に吸った息とは全然違う。
埃の匂いに、紙の匂い。
そして、昨日の夜思い出した、どこからかほんのり漂う甘い香り。
私が嫌いな物。
一番は、蔑み、かもしれない。金髪の男子からの言葉は忘れようとしても、忘れたと思っても、ふとした時に、思い返してしまって、胸がチクリと痛む。
でも、蔑みって重いかな。君に嫌な思いをさせてしまうだろうか。それは、嫌だ。
まあ、柔らかくなるかは分からないけど、
『、、蔑みですかね。』
と書く。読点を打つだけで、少し軽く感じでもらえればいいな。
タメ口。
君の文字を思い起こす。
どくどくとなる心臓を落ち着かせ、消しゴムで便箋をこする。
微かに震える手で、ゆっくりとペンを動かす。
『、、蔑みかな。』
やはり心臓は跳ねたまま落ち着かない。
そんなことを忘れるために、次に書くことへ思考を移す。
好きだった物。これはすぐに浮かんだ。
ペンはさっきの遅さが嘘みたいに早く走り出した。
『昔はお母さんのハンバーグが好きだったよ。』
そう書いて、灰桃色の封筒に入れて、本に挟んだ。
昨日よりも少し暗めの空色は、海とのコントラストを強く見せる。
少し上を見上げると、私の机の前で、見せたい投稿を探す茉文と、黒板を見ている詩葉が立っている。
チョークの粉が舞い踊り、光る様子は、あの埃を思い出させる。
その奥には、黒板を消しながら話す女子。
大声を出しながらじゃれ合う男子。
図書室とは全く違う真っ白に輝く蛍光灯は、真っ直ぐ教室を照らしている。
どうしてもここでは心臓が早く、呼吸が浅くなってしまう。
私の頭の中には、君の文字がこびりついていた。
好きな物。
君に便箋を通して質問をされた時から、ずっと考えている。
あれから唐揚げを食べた。詩葉の新しい香水も嗅いだ。茉文からグミを貰った。
全部に、心が惹かれる気がした。
なのに、好きだとは思えなかった。
「あっ!これこれ!私こういうの好きなんだよねー」
ぼんやりと考えていた視界が、茉文のスマホの画面に、茉文の好きに占拠される。
目の前に映されたそのワンピースの投稿は、とても茉文が好きそうだった。
淡いベージュで染められたチュール。
ふわふわのフリルが三段に重なり、裾にかけて広がった膝上くらいのスカート。
袖やスカートの裾を包み込む白いレース。
首元からお腹までに施された真珠を模したボタン。
ウエストにはサテンのリボンが巻かれている。
色白で細身の茉文にはピッタリだと思った。
「いいじゃん!!めっちゃ好き!」
口から零れた言葉にハッとする。
思考を挟まずに出た正解の声は、なんだか寂しく感じた。
「かわいい、似合いそう」
「でしょ!」
と柔らかく微笑む詩葉と弾けるように笑う茉文を横目に、口角を上げる。
口の中にじわじわと苦味が広がる。
こんなにも簡単に、思うよりも先に、「好き」という言葉が滑り落ちたことに自分で呆れる。
私は二人の間に、二人のそばにいるはずなのに、心は遥か遠くへ、二人に背を向けて歩いていく。
ふと、潮風が香った気がした。
その香りで一気に心はあの場所へと向かう。
するはずもない埃の香りが、古い紙の匂いが、床が軋む音がしたように感じた。
早く、早く図書室の木の扉を開けたい。
深く息をしたい。あの香りに包まれたい。波の音を聞きたい。
乾いた笑い声を出しながら、机の下でぐっと手を握った。
薄暗い図書室の中、机の上の便箋と見つめ合う。
待ち望んだ文字に体が止まる。
どく、どく、という鼓動だけが、脳に響き渡る。
『蔑み。そんなことする人がいるのか。ハンバーグ!きっと美味しいんだろうね。絶対今の好きな物も、すぐに思い出せるよ。』
君の周りには、そんなことするい人はいないのだろうか。
なんだか、ほっとする。君が私と同じ思いをしていないように感じて。
お母さんのハンバーグをきっと美味しい、と言ってくれるのも、嬉しい。
でも、
『絶対今の好きな物も、すぐ思い出せるよ。』
本当に?本当にすぐに思い出せるのだろうか。
そんなはずない。何も考えなくても出てくる「好き」は本当の好きではない。昔の「好き」も今には繋がっていない。
私は、いつから分からなくなっただろうか。
高校生になってから?二年生に進級して、茉文や詩葉と出会ってから?それとも、小さい頃のあの時から?
私の手は、いつの間にかペンケースの中のペンを掴んでいた。
サラサラと書く文字はいつもよりも薄くて、力なく浮き上がった。
『分からないよ。もう何も。』
そう書いて、便箋の角は合わせずに半分に畳んで封筒に入れた。
ミシミシとなる床の上を歩き、息を吸う。この香りは、なんだか私の心に寄り添ってくれる。
重い扉は、いつもよりも少し大きく音を立てて、閉まった。
ちゃぷちゃぷと浴室に響く水の音は、心地よかった。
自然と君の文字を思い出してしまう。
『絶対今の好きな物も、すぐ思い出せるよ。』
せっかく私を元気づけようと思って書いてくれただろうに。
私は突き放すようなことを言ってしまった。
君は優しいからまた寄り添ってくれるかもしれない。
でも、もしかしたら傷ついているかもしれない。
考えても仕方ないのに、分かるはずもないのに、頭の中からは消えない。
はあっと息を吸いこんで肺に貯める。
鼻をつまむ。目を瞑ってからだを縮めた。
ザブン。
水の中に潜る。何も音は聞こえない。
うっすらとオレンジ色の光を感じる。
明日は、何て返事が来ているだろう。次は、もっともっと君みたいに優しい言葉を紡ぎたい。
本をめくる。
今日の海は、いつもよりも透明度が高くて、淡い色な気がした。
一気に空気を吸い込むと、落ち着く香りが胸いっぱいに流れ込んでくる。
空と混ざり合う景色を眺めながら、髪を耳にかけた。
ぎいっと椅子を引いて腰を下ろす。
今日は少しだけでもいいから優しさを文字に込めたい。
見慣れた便箋に書かれていたのは、君らしさ溢れるものだった。
『少しずつ思い出そうよ。できる。まず、最近嬉しかったことはなにかある?』
君は、本当に優しいね。
私はあんなに冷たい言葉を綴ったのに、こんなにも温かい言葉をくれる。
できる。私にも。できるよね。少しずつなら。
昔はできていたんだから。
最近の嬉しかったこと。
最近あったことを頭に浮かべる。
すっと浮かんできたのは、
ここから見た海。空。
ここで聞こえる風。波。
そして、今目の前にある便箋だった。君から貰う手紙。
君が届けてくれる言葉。
綴ってくれる文字。
ぽおっと頬が熱くなる気がした。
ぶんぶんと首を横に振る。
他のものを頭に浮かべようとしても、君の文字が離れない。
他にはぱっと思い浮かぶものがなかった。
あるというなら、たった一つだけ。
ずっと頭の片隅にある、私が嬉しく感じようとしていること。
『友達が笑ってくれたことかな』
走らせたペンは、止まり、机の上に寝転ぶ。
また、友達のこと。分かってる。君も、またか、と思うだろう。
でも、これしかない。私には、これしかないんだ。
私には、やっぱりできないんだ。
君らしさ溢れる言葉に、私のエゴが蔓延る言葉。
波が、砂浜を、私を、洗い流した。
それでも、私の仮面は張り付いたままだ。
剥がれない仮面を抱えて、日常へと帰る扉を開けた。
桃色の封筒に心がきゅっとなる。
今日の夕日は、いつもよりも濃く、華やかに燃えていた。
茜色は、空を、海を、砂浜を、ここの壁を、染め上げる。
細く開いていた窓から、潮風が入り込む。
最近は少しずつ冷え込んできたけど、この香りが心地よくて、窓を閉めようとした手が止まる。
ここに来ると、なんだか優しくなれる気がする。
生成り色の便箋に引かれた黒い線は、いつもよりも柔らかい気がした。
『うん。いいね。じゃあ、君だけの嬉しいこととか好きなことは?』
見慣れた字を見ると、ほっとする。
でも、やっぱり、君は逃げさせてくれないね。
私だけ。
なんだろう。私だけの嬉しいことや好きなこと。
あれから、ずっと考えていた。
思い浮かぶのは、いつもこの手紙だ。
ここの空気だ。
君の文字だ。
君の言葉だ。
君に、惹かれる。
会ったこともない、声も、顔も、名前も知らない君に、心の全てが持っていかれる。
君の手紙を読むこと。
そう書けたらいいのに。
ふうっと息を吐いて、大きく吸う。
肺いっぱいに流れてくる空気と、鼻に満ちるここの匂い。
埃の匂い。
潮風の匂い。
古い紙の匂い。
そして、なぜか鼻に残るこの甘い香り。
ああ、私、これも好きだ。
ペンを握って、
『最近は、ここの匂いとか、好きだと思う。』
と書く。
好き。こんな言葉、久しぶりに書いたな。
最近は、スマホで文字を打つばかりで、ペンを持って書くのは、授業中くらいだった。
でも、君への手紙はいつも手書きで、懐かしく思えてくる。
君の手紙も手書きで、どこか温もりを感じる。
細くて鋭い日もあれば、温かくて優しい日もある。
そんな字までにも、ドキドキしてしまう。
「ねーねー、最近さこの人の動画めっちゃ見てるの!面白いから見てみて」
次の日、そう笑顔で話しかけてきた茉文に、自然と笑みがこぼれた。
「見てみるね」
詩葉は微笑みながら、髪を耳にかけた。
笑おうって思ったわけでもないのに、なぜか、頬が緩んだ。
どうしてだろう。
「なんか今日の綴璃、楽しそう。」
そう言う詩葉の声がした。
楽しい。
心が温まる。
息を吸いたくなる。
お弁当の匂い、香水の匂い、みんなのざわざわした声。
この時間が前よりも少しだけ、好きだ。
「うん、たのしい。」
そう呟くと、二人は穏やかに笑って、話を続けた。
放課後は二人と別れて、歩きなれた道を進む。
どんどん床の軋みが大きくなる。
一歩踏み出すたびに、ぎいっと響く。
誰ともすれ違わないこの道は、心が落ち着く。
扉に手をかけて、開ける。
ぎぎいっとなって、いつもの香りが肺いっぱいに満ちる。
窓の外は、曇り空と、霞んだ遠くの景色。
そして、ただ大きな海。
慣れた手つきで本を探す。
新しい桃色の封筒の中には、
『それが好きなの?』
と書いてある便箋があった。
君の文字は、ずっと変わらない。
綺麗な線だ。
君は、よく疑問で返してくるね。
でも、この文字は、私を否定しているようには見えなかった。
「好き」について純粋に聞いているように感じた。
だから、私は私が思う「好き」を書きたい。
「好き」ってなんだろう。
ついさっき、感じたものだ。
二人と話す時に、思ったこと。
息を吸いたくなって、心が温まる。
これがみんなの「好き」なのかは分からない。
私の「好き」も本当なのか分からない。
でも、これを「好き」と呼びたい。
『多分。なんだか息をしたくなる。それに、心がぽかぽかする。』
そう書く。どこかいつもより丁寧な字になった。
今日も、空は分厚い灰色の雲に覆われていた。
窓を開けても、眩しい光はない。
でも、風がいつもより澄んでいる。
潮の香りも、強い気がした。
生成り色の便箋を撫でる。
そして、優しくめくる。
『多分か。そんな気持ちは、僕もなるかも。僕も好きなのかもしれない。君の書く文字が。』
その文字を見た途端、今までとは比べ物にならないくらいドクンドクンと心臓が騒ぐ。耳の奥が熱い。
曇った空から、太陽が顔を出した。
傾き始めた赤い炎が窓から入り込む。
「好き」
私の文字が。こんな汚い私の文字が。
顔の力が抜けて、ふっと息を吐く。
目尻が下がって、口角が上がって、笑顔になる。
端っこのいつもの席で、ペンを走らせる。
『うれしい。』
私は、この感情に、「うれしい」と名付けたい。
机の上に置いている自分の鞄を手に、扉を閉めた。
窓の外は、ぽつぽつと雫が世界を濡らしていた。
昨日は、少し晴れ間が見えたのに、今日は全く見えない。
「ねえねえ綴璃、この服とこの服迷ってるんだけど、どっちがいいかなー?」
詩葉は携帯の画面を私に向けた。
がやがやとした教室の中で真っ直ぐな詩葉の声が届く。
「うーん」
そう呟きながら目を下ろす。
一つは淡い水色の少しふんわりとしたトップス。袖にボリュームがあって、ウエスト部分で、キュッと一度しまって、裾は広がる。
可愛いけど、詩葉っぽい感じはしなかった。
もう一つは、グレーのトップス。真っ直ぐなシルエットで、肩が出ていて、肩紐に、大きめの黒いリボンが結ばれている。
こっちは、詩葉っぽい。
二つ目を指差して、
「私は、こっちの方が好き」
と言う。
「私も!」
詩葉が笑う。
その笑顔に、また自然と口角が上がる。
この感情に、昨日私は「うれしい」と名付けた。その気持ちで胸がいっぱいになる。
「私は」
いつぶりに言えただろう。
「私は、こう思う」
言えた。言えるようになった。
私、変われているのかな。
きっと、手紙の、君のおかげだ。
放課後になってすぐ、図書室へ向かう。今も、雨は弱くなるどころか、どんどん強くなる一方だ。
図書室の窓から下を覗く。
赤色。黒。青。黄色。緑。
花柄。水玉。ストライプ。
レースの装飾。少し透ける素材。
空は灰色一色なのに、みんなが歩く道は、みんなが指す傘で、こんなにも色鮮やかだ。
『嬉しい?』
君は、本当に質問するのが好きだね。
おかげで、君のこと、あんまり知らないよ。
まあ、これから知っていけばいいんだけどね。
嬉しい、それは、何も考えなくても、笑顔、ができること。
私は、そう思う。
いつもの席で今日もペンを走らせる。
『うん。自然と笑顔になれるよ。』
本に、私たちだけの郵便ポストに、新しい手紙を投函した。
次の日、本を開く。
すぐに返事が見たくて、封筒から便箋を素早く取り出す。
君の文字を必死に目で追う。
『じゃあ、僕も嬉しいんだね。最近は君からの手紙ばかり待ってるよ。早く来ないかなって。それにね、心がきゅうっとなるんだ。』
心がほかほかになる。
文字は真っ直ぐで鋭いのに、言葉は、こんなにも柔らかくて優しい。
私の手紙を、君が、待っているの?
こんな私を、待ってくれている人がいるの?
君は、私の手紙を見て、嬉しいの?
そんな人が、いるの?
君は、本当に本当に、いい人だね。
『心がきゅうっとなる』
私は、その感情の名前を知っているかもしれない。
君と出会ってから、私も何度もそんな気持ちになった。
多分、その感情は、「寂しい」という名前だ。
いつも君は質問で返してくるから、今日はこっちから質問してみよう。
ペンを握る。
『寂しいってこと?』
そう綴って、灰桃色の封筒に入れて、本に挟む。
君は、なんて返してくれるかな。
次の日の放課後。
「綴璃、今日カフェ行こー」
詩葉と茉文は、明るく私に声をかけた。
最近、二人と一緒に帰ったり、遊んだりすることが減った。
もしかしたら、嫌われるかもしれない。
空気が読めないと言われるかもしれない。
そんなことあるはずがないのに、心の中にどんどん湧き上がってくる。
唇を強く噛む。
いいよ、そう口にしようとしたときだった。
『最近は君からの手紙ばかり待ってるよ。』
あの生成り色の便箋が、桃色の封筒が、君の文字が、頭に浮かぶ。
今日も、君からの返事が来る。
見たい。読みたい。
「ちょっと寄るところがあるからさ、先昇降口行っといてー」
そう笑う。ああ、まだこの仮面は壊れないか。
二人はにこっと笑って、
「分かったー!」
と教室を後にした。
私も鞄を持って、あの場所へと向かう。
廊下から見える空は、だんだん暗くなる。
日が短くなって、なんだか急かされているように感じた。
図書室に入ると、ほとんど何も見えないくらい暗かった。
カチッ、とスイッチを入れると、黄色い光がチカチカしながら、視界を照らした。
すぐに見つけた本から封筒を取る。
便箋を開くと、
『寂しい、そうなのかもしれない。こういう気持ちを寂しいって言うのかな。』
君も、自分の気持ちに名前を付けれたのかな。
二人を待たせているから、早く行かないといけない。
なのに、君からの言葉が柔らかくて、優しくて、ずっとここにいたい。
スマホがブーブー、と鳴った。
その音にビクッと体が震える。
急がないと。
いつもの席に腰を下ろして、ペンで記す。
『きっとそう。私もだよ。君からの手紙が待ち遠しい。』
そう書いて、電気を消して図書室を出た。
昇降口には二人が喋りながら待っていた。
「ごめん、お待たせ」
そう笑うと、
「全然!早く行こ」
と二人も笑顔になった。三人で、歩く。
どこかで嗅いだことあるような、図書室でよく嗅ぐような甘い香りがするような気がした。
桃色の封筒を開けて、便箋を取り出した。
なんて書いてあるだろう。私の笑顔について、なんと答えてくれただろう。それをゆっくりとめくる。そこにはピンピンとした細字で、
『風が、気分を良くしてくれました。』
と記してあった。
私がこの前開けて帰ってしまった窓。
君も、私と同じように風を浴びると、いつの間にか笑顔になっているのかな。
その言葉に、なぜか胸が高鳴る。
どうしようもなく、ここの風を浴びたくなった。この前よりもすんなりと鍵が空く。鉄の冷たい縁に手をかけると、ここはこの前と同じように固く、ガッガッと音を立てながら開いた。
小さかった波の音が、海のすぐ側にいるように大きい。潮風はこの前よりも穏やかで、頬をゆっくりと撫でる。ぼんやりとしていた景色は、鮮やかに目に飛び込む。
窓の外から目を逸らし、便箋に視線を当てる。胸に染み渡る喜びと裏腹に、次の行の文に目が止まった。
『笑顔とは、そのようなものなのですね。』
波の音が、聞こえなくなった。
笑顔。私にとって、それは、すごく難しくて、疲れがたまるもの。
だけど、相手にとっては、私とは違う素敵なものであって欲しい。私にとってのそれと、相手にとってのそれは、違うことを願いたいから。勘違いされたくないようにしないと。
私がおかしいだけで、相手の笑顔の理由が、みんなの笑顔の理由と同じであって。
私の笑顔が不正解なだけ。
自分で思っておきながら、チクリと心が痛む。
体が惹き付けられるようにこの前と同じ席に腰を下ろし、手を動かした。
相手にとっては、どんなものなのだろうか。
『あなたにとっては、どんなものですか?』
と。少し考えた。
私は笑顔についての質問が少し苦しかった。胸に手を当てる。どくどくと早い鼓動が手から伝わる。
もし、相手も同じような状況なら、苦しめてしまうかもしれない。傷つけてしまうかもしれない。
すぐに消しゴムを握って、その文字を消しカスに変えた。
消しあとを隠すように、その上から
『私にとっては、ですよ。あなたにとっては違うかもしれないです。』
と書く。
これでよし。
封筒に入れて、本に挟む。
どこからか、ふわっと甘い香りが鼻を掠めた。
気のせいかもしれないけど、どこかで嗅いだことがあるように感じた。
どこで嗅いだだろう。
ただ、どこか懐かしく感じた。
次の日、いつものように茉文と詩葉とお弁当を囲む。
お弁当の包みを広げて、蓋を開けると、美味しそうな臭いが風に乗って運ばれてきた。
昨日、自分で自分の笑顔を不正解と改めて感じてから、頬がひきつる。
でも、笑わないと。曇り空の下、普通と思われるように柔らかく口角を上げる。
おかしく思われないように二人の会話に正解の相槌を打って。
必死に笑って。
野菜の炒め物を箸でつついていた時、
「今日の放課後カラオケ行こうよ、今日ドリンク飲み放題らしい」
スマホを見ながら放たれた詩葉のその台詞に、心が揺れる。
歌も得意じゃない。自分の好きな歌がないから。いや、ある。あるのだけれど、きっとみんな知らないし、正解じゃないから。流行りの歌を何となく歌うしかできない。
そして、友達の歌に手を叩いて、上手!と笑って。
歌のことを考えたら、好きでもない流行りの歌が、いつもイヤホンから流れる耳にこびりついたメロディが、思い出される。
「いいよー」
と言う茉文の声がやけに大きくて、重く響いた。
頭の片隅に、昨日の窓の外の景色が浮かぶ。
相手の細字が浮かぶ。
私は、手紙がみたい。
喉に引っかかりながらも、声に出す。
「ごめん。今日は、ちょっと早く家に帰らないとで」
どんどん嘘を並べるのに無感情になっていく。
「おっけー」
と二人は、なにごともなかったように箸を進めた。
私だけ、口角が上がったまま。
放課後、詩葉と茉文の後ろ姿が消えたのを合図に、一人になった教室を後にする。
足音が響く廊下をゆっくりと歩く。
ぎしぎしとなるこの音が心地よく感じる。
扉を開けると、曇り空だからかいつもよりも少し暗かった。
電気のスイッチを探して、図書室を歩き回る。
木目調の床は、ミシミシとところどころ鳴いていた。
部屋の隅には埃が溜まっている。
カウンターの隅に、それを見つけた。
カチッと押すと、少し間を置いて、ピッと電気が着いた。
いつもとは違う、不自然で人工的な黄色い光。
そんな中、わくわくとした心で開いた生成り色の便箋には、
『それは、悲しいです。僕は笑顔は、楽しくて、嬉しくて溢れてくるものだと知っています。』
と書いてあった。
何度か瞬きをする。
悲しい?赤の他人の私に、この人は、悲しいという感情を抱いてくれている。ふふっ、と息が漏れた。
この人は、どれほど優しいのだろう。
相手にとって笑顔は嬉しくて溢れるもの。
正解だ。それがきっと。
でも、私には、できない。
みんながみんな嬉しくないときに笑ってしまいそうで。
もしそうなったら、空気が読めない奴と思われる。嫌われる。
だから、私は溢れてくるものには蓋をして。
沸き上がらないものを無理やり引き出して。
そうやって生きていく。息をしていく。
もう座るのが当たり前になった同じ席で、ペンを握った。
『私には、できません。だって、嫌われたくないから。』
肺が小さくなったように、息がしづらく感じた。
こんなこと、初めて人に伝える。
怖い。机の上に置いた手が、びくびくと小さく震える。もう片方の手で抑えても、震えは止まらない。
でも、この人になら、伝えられるかもしれない、と思った。
悲しいと思ってくれたこの人なら、きっと受け止めてくれる。
黄色い光が、淡く私の便箋を照らした。
今日も昨日とあまり変わらない天気だ。
昨日より雲が少し薄くなったものの、やはり太陽は出ていない。
今日も、窓を開ける。
その瞬間。
薄い雲の合間から、太陽が顔を出した。
微かな風がそよいだ。
潮の香りと、何度か鼻に触れる甘い香りを運んでくる。
空には天使が歩いていそうな淡く輝いている光が、太陽から雲の間を縫って放射線状に降り注ぐ。
肺がすぅっと晴れていく。
その光は絶え間なく続く波の端を照らし、砂浜を温める。
そんな光景に、心が凪いだ。
あの本を手に取り、いつもの椅子に座る。
後ろから届く風は、私のうなじを撫でる。
太陽の僅かな光が、首の後ろに降り注ぐ。
軽やかな指使いで封筒を開け、便箋に目を落とす。
『本当に嫌われるのですか?』
そう書かれた見慣れ始めた文字が目に飛び込んできた。
ぐっと手に力が籠る。
本当に、嫌われるのだろうか。
私が笑いたいところで笑ったら、その時に誰も笑っていなかったら、嫌われるのか。
もしかしたら、嫌われないかもしれない。
そう思っても、心は一方向を指して変わらなかった。
嫌われるに違いない。
首の後ろに感じていた風が少し強くなり、降り注いでいた陽の光が弱くなっている気がする。
暗くなった目の前に、息を吐く。
吐いても、吐いても、上手く吸えない。
嫌われるに、決まってるじゃない。
相手は、きっと好かれているのだろう。
そんなことで嫌うのは友達じゃないと思っているのだろう。
そんな禍々しい決めつけが心の中で湧き上がる。
暗くてどろどろとした気持ちのまま、ペンを力いっぱい握り、便箋に書き殴る。
『絶対そうです。』
一度ペンを置き、目を落とす。
これだけだと、少し強く見えるだろうか。
ペンを握り、続けて書く。
『みんな、きっとこの私が好きだから。もし、本当なんて見せたら、私の居場所が、無くなるじゃないですか。』
自然と動く腕に、少し鼓動が早くなる。
自分が怖い。こんなことを自然と書ける自分が。
そうだ。
私は都合よく笑って、頷いて、返事をするから好かれているんだ。
そうだよ。なんで忘れかけていたのだろう。
もう少し頑張らないと、本当に居場所が無くなる。
ここに来る足がどんどん早く、軽くなる。
今日のように晴れた日の図書室からの景色は、息を飲むほど輝いていて、ただ美しくて。
今日は、窓が開いていた。
きっと、君が開けたのだろう。
今は風がなくて、波も静かだ。
いつの間にかこの場所を求めるようになった。
ここで息を吸いたくなる。
また、本を開く。
震えてしまう指先は、本を手から落とした。
バサッ。
そう音を立てて床の上でそれは開いた。
桃色の封筒は、いつもより遠くて、眩しく感じた。
昨日書いたことが思い出される。
もし、見放されたら。
自意識過剰と思われたら。
そんな不安が湧き上がる中、震えが収まった指で本を拾い上げる。
そして、少しはたく。
いつもの席で、封を開け、便箋に目を落とす。
『それなら、ここでは、飾らない君でいてください。その君と、お話してみたいです。僕はその君を追い出したり、突き放したりしませんから。』
必死に目で追った。
こんなの、初めてだ。
ここでは、本当の私でいてもいいの?
無理に笑わなくて。
顔色を伺わなくて。
笑いたい時に笑って。
そんな私でいても、いいの?
私、自分の言いたい時に、言いたいことを話したら、空気を壊すかもしれない。
気が遣われていない言葉を放つかもしれない。
傷つけるかもしれない。
また、置いていかれるかもしれない。
一人になるかもしれない。
でも、君は、そんな私と話してみたいと言ってくれている。
どうしようもなく、喜びが溢れてくる。
心臓に、じんわりと温かい何かが流れ込む。
それに、本当の私を突き放されたり、追い出したりもしないと。
息が深くなる。
笑みが零れた。
目尻が下がって、口角が上がって。
ぶわっ。
君が開けたであろう窓から、海辺の風が図書室に満ちる。
一気に潮の香りが、充満する。
髪がなびいて、顔にかかる。
信じられない。
信じたいのに、胸がきゅうっとなる。
手はまた震えだしていた。
ペンを握る手を左手で擦る。
落ち着いてきた手で、文字を綴る。
『本当、ですか。』
少しだけ、背中が汗ばむ。手をぎゅっと握りしめて、ペンを動かした。
風はもう吹いていなかった。
何も感じない首元に触れるのは、太陽の光だけ。
なにか、書き足した方がいいだろうか。
過去のことは、重いか。
信じられないとは書けない。
だって、君はこんなにも優しいのだから。
それなら、これだけでも十分な気がした。
これが、今の私に書けることだ。
きっと、相手なら、もちろん、とか、とっても優しい言葉をかけてくれるのだろう。
期待をしてしまう。
私を認めてくれると。
待ってしまう。
君からの優しい言葉を。
日が沈む時間、私の心は凪いでいた。
『本当、ですか。』
なんでこんなことを聞いてしまったのだろう。
だって、違うとか嘘とか言われたら、耐えられない。
きっと優しい言葉をかけてくれると思っていたのは、私が相手を過剰に信頼していただけかもしれない。
そう思うと、ドキドキが止まらなくて。
今日、図書室に来るときの足は、少し重く感じた。
今日は太陽が燦々と降り注いでいる。
ぎぎいっという音を立てて開いていく重い扉に力を込める。
ふわりと香るいつもの香りに息がほどける。
足を踏み入れた瞬間。
いつもよりも、一段と眩しかった。
本棚の上の埃を輝かせ、古い本を光らせて。
カーテンを束ねているところから埃が舞っていて。
それが光のパウダーの様で。
なんだか、いつもとは違う場所の様だった。
ゆっくりと歩く。
ゆっくりと息を吸う。
いつもよりも甘い香りが強い気がした。
さっきまで、君がいたのかもしれない。
外を見ながら、息を吐く。本棚の上で手を滑らせると、埃が手に付いた。
パンパンと手をはたいて、本を取る。
きっと、君なら、私の望む返答をくれるよね。
大丈夫だよね。
首筋がひんやりとする。
瞬きが早くなる。
封筒の中から、生成り色が覗いた。
それを手でつまみ、開く。
目を瞑って、ふうっと心を落ち着かせた。
手紙が震えているのを感じる。
これを見てしまったら、私はどうなるのだろう。
怖い。でも、見たい。
目を開けると、太陽の光と共に、君の文字が飛び込んできた。
『本当。』
それを見た瞬間、鼻の奥がツンと痛み、喉の奥から、嗚咽が湧き上がってきた。
たった二文字。
止め、はね、はらいが丁寧に施された細い文字。
たった二文字なのに、何度も何度も読み返した。
本当に書いてあるのか、その文字をなぞった。
でこぼことした筆圧に、ほっとする。
嘘じゃないよね。
たったのこの二文字。
でも、私の涙腺を壊すのには十分だった。
ぽつぽつと便箋を染めてゆく。
手がさらに震える。
立っていられず、床にへたりこんだ。
頬に涙が伝っていく。
それを拭う手はやっぱり震えて。
拭っても拭っても溢れ出てきて。
胸がじんわりと温かくなって。
でも、少し怖くて。
だけど、信じたくて。
本当に、疑ってごめんなさい。
私、信じられるかもしれない。
信じたい。
便箋に涙が滲んだ。
ファイルから私のレターセットを出す。
震える指先のまま、ペンを握る。
なんて書くべきか分からなかった。
ペン先は走ることなく、便箋の上に止まる。
疑ってごめんなさい。
嬉しいです。
信じます。
たくさん浮かぶけど、どれも違う気がした。
でも、何を書きたいかは分かった。
『ありがとうございます。』
これだ。感謝の言葉。
私は、君に、ずっとこれを伝えたかったんだ。
『あ』
と書いて少し腕が止まる。
ぷるぷると震え続ける腕にぐっと力を込める。
はあ、吐息を整えて、
『ありがとうございます。』
と書き終えると、手の震えは止まっていた。
乾ききらない涙腺から、絶え間なく雫が零れ落ちる。
便箋には涙が滲んで、少し色が濃くなり、模様が描かれる。
グラデーションの中に、いくつかの丸い跡ができた。
夕焼け色のここで、私は君に、返事を書いた。
灰紫色と空色。
空の色の様な私の便箋を半分に折る。
爪を使ってしっかりと折る。
そして、灰桃色の封筒を開き、ゆっくりと便箋を入れる。
そして、いつもの本に挟み、本棚にしまう。
背表紙をそっと撫でる。
他の本とは比べ物にならないほど鮮やかな色だった。
やはり一層目を惹く。
窓から見える海は、ピンク色と茜色に染まり始めていた。
夕焼けの空も、ずっとずっと柔らかく感じた。
光はここに来たときよりもずいぶんと赤く染まり、何十倍にも優しく感じられた。
明日も、ここに来たい。君の文字を、早く見たい。
今までよりもずっと軽い足取りで、図書室をあとにした。
旧校舎の廊下はやっぱり足音が響く。
でも、この足音さえも、愛おしく感じられる気がした。
たくさん泣いたせいで、朝は目が腫れていた。
朝日が仄かに照らす部屋の隅で、鏡を見る。
赤く染まった瞼は、いつもよりも腫れぼったく見える。
二重は、いつもと違う幅で、違和感がある。
保冷剤を取り出し、目に当てる。
ひんやりとした感覚が、瞼から身体中へ流れていく。
何分かこのままでいた。
保冷剤を取って、目を開ける。
目に飛び込んできた私の瞼は、まだ赤みがかって、腫れていた。
冷やしても引かなくて、二人になんて思われるか、怖かった。
でも、学校に行かないと。
席に着くと、すぐに茉文が話しかけてきた。
「おはよ!綴璃」
振り返って、笑顔を作り、おはよ、と呟く。
少し元気がなかっただろうか。
茉文は一瞬、首を傾げて、
「目、なんか今日おかしくない?」
と言ってきた。
どくどくと心臓が跳ねる。
おかしい。
私って、おかしいのかな。
口角は上がる。口は勝手に動いた。
「そうかなー」
その瞬間、詩葉もおはよー、と手を振りながら私たちに近づき、
「え、綴璃、目どうしたの?」
と目を見開いた。
私の口角は上がり続ける。
「何もしてないよー」
少し柔らかく笑うのを意識した。
二人は、そっかー、と言って、微笑んだ。
自分の笑顔に違和感を覚える。
目が腫れているからかもしれない。
でも、もっと奥深くから、頬の、口角の、目尻の筋肉が、ぴくぴくと動いているように感じた。
頬を撫でても、何も感じない。
私、どうやって作ってたっけ。
二人は笑ったままで、太陽の光は、雲に遮られ、消えていった。
『それじゃあ、君について教えてください。』
今日の便箋には君の字でそう記されていた。
涙で腫れた瞼は、まだ重いままだ。
雲に遮られた太陽は、あれから一度も顔を出さない。
人工的な黄色い光は、この前よりも少し、暗い気がした。
弱い光の中、生成り色と黒い線を撫でる。
私について、か。
短く息を吐く。
私についてって、何を書くべきだろうか。
一応、名前だ。そういえば、私はまだ名前も教えていなかったんだ。
君は、名前も知らない私に、いつも話しかけてくれていた。なんて、なんて優しいのだろう。
目尻が自然と下がる。
ゆっくりと、優しくペンを握った。
灰紫色と空色の便箋に、黒い線を走らせる。
『乾 綴璃です。二年生です。』
私に書ける、私についてはこれくらいだ。
灰桃色の封筒を手に取る。
ザラザラとした質感のそれを開き、半分に折った便箋を入れる。
パラパラ、と本のページを捲る音だけが響き渡った。
封筒を挟んで、本棚に立てる。
明日は、君についても、知ることができるだろうか。
胸の高鳴りを落ち着かせながら、家に帰った。
夜、布団に入る。
昼間とは違う、柔軟剤の甘い香りが満ち溢れた。
でも、私の鼻は、いつかあの場所で嗅いだ甘い香りを掴んで離さなかった。
今日は、なんて書いてあるんだろう。
君の名前が、学年が、書いてあるかもしれない。
私の名前を、君はなんて呼んでくれるだろう。
止まることなく脈打つ心臓を深呼吸で落ち着かせる。
埃の匂いと仄かな潮の香り。
きっと、昨日でも君が窓を開けたのだろう。
そんなことを考えながら、見慣れた封筒を開けた。
目に飛び込んできた文字を追う。
『それならタメ口で行きましょう。好きな物は何ですか。』
君は名前を教えてくれなかった。期待していた私が馬鹿みたい。
だけど、タメ口。
その文字にどきっとする。
タは一画目と二画目を繋げて、角張って書いている。
メの払いはピシャッと真っ直ぐ尖っていて。
口はお手本のような綺麗な形。
その文字で記されたタメ口は、なんだか特別で、気を許した相手にしかしない、そんな風に感じる。
君は、同い年だろうか。
少し距離が縮まった気がした。
でも、その次の文字を見て、肺が小さくなる。
好きな、物。
爪を撫でて、指先をいじる。何が好きなんだろう。
分からない。
子供の頃は確かにあったはずなのに、思い出せない。
茉文が買ったと言っていたリップは好きだ。
ふたりが好きなカフェの雰囲気も好きだ。
詩葉が使うペンも好きだ。
二人が、好きだ。
二人が好きな物が、好きだ。
なんて書けばいいのだろう。
『リップが好きです。』
こんな風に具体的に書ければいいのに。
ペンは亀のように、ゆっくりとゆっくりとしか進まなかった。
『忘れてしまったのです。分からないんです。自分が何が好きなのか。友達が好きなものが好きです。』
よし。これなら、友達思いで、優しい女の子。これが君が思い描く「乾綴璃」なんだろうな。
君に、見放されなければいいな。
半分に折った便箋を封筒に入れ、本に挟む。
それを本棚に戻して、木の重い扉を開く。
ぎぎいっ。
そんな乾いた音が廊下に響き渡った。
慣れた手つきで取った桃色の封筒を片手に、いつもの席で体を休める。
背中を温めるのは、僅かに差し込む太陽光。
いつもよりも少しくらい机上で便箋を開く。
『タメ口だよ。そういう人もいるんだね。じゃあ、嫌いなものとか、昔好きだったものとかはある?』
だね。という初めて見る語尾に心臓は踊った。
タメ口。そうだった。あんなにドキドキしたのに忘れていた。
今日はタメ口で書くと心に深く刻む。
『そういう人もいるんだね。』
そんな短い言葉で、私が肯定されたようで、息が少し吸いやすくなる。
ペンを掴んで、空色の上に走らせる。
『嫌いなものは』
ここで手が止まった。私が嫌いな物は、なんだろう。
振り返って窓の外を見る。少しずつ冬に近づいているのが分かるくらい、初めて手紙を交わした日とは比べ物にならない空の色。
淡くて、薄くて、柔らかな印象だ。
嫌いな物。
好きな物も、嫌いな物も分からないなんて、空っぽな自分に嫌気がさす。
こんな自分の心を抉りとってしまいたくなる。
君が求めている嫌いなものは、虫とか、ホラー映画とか、単純なものだろうに。
私の頭にぽっかりと浮かんできた物は、醜くて、人間の嫌なところを詰め込んだような物ばかり。
もちろん友達に嫌われること。
大きな頬に、薄めの唇。ボサボサの髪に、左目の横にあるホクロ。そんな自分の容姿。
うじうじしてて、はっきりしなくて、面白くなくて、好きになれない自分の性格。
少し高めで、嫌でも通ってしまう自分の声。
自分自身。
嫌いなものは溢れ続ける。
ふと、思い出した。
「分かるに決まってんだろ。勉強してたら不合格なんて滅多にねえよ。」
金髪をいじりながらにやにやと笑う峰崎。
脳内に再生される嫌という程聞いた台詞。
教室の匂いが、鼻にこびりついたそれは、消えなくて、大きく息を吸っても変わらなくて。
湧き上がる怒りは、私に拳を握らせた。
すうっと息を吸う。
ほんの少し前に吸った息とは全然違う。
埃の匂いに、紙の匂い。
そして、昨日の夜思い出した、どこからかほんのり漂う甘い香り。
私が嫌いな物。
一番は、蔑み、かもしれない。金髪の男子からの言葉は忘れようとしても、忘れたと思っても、ふとした時に、思い返してしまって、胸がチクリと痛む。
でも、蔑みって重いかな。君に嫌な思いをさせてしまうだろうか。それは、嫌だ。
まあ、柔らかくなるかは分からないけど、
『、、蔑みですかね。』
と書く。読点を打つだけで、少し軽く感じでもらえればいいな。
タメ口。
君の文字を思い起こす。
どくどくとなる心臓を落ち着かせ、消しゴムで便箋をこする。
微かに震える手で、ゆっくりとペンを動かす。
『、、蔑みかな。』
やはり心臓は跳ねたまま落ち着かない。
そんなことを忘れるために、次に書くことへ思考を移す。
好きだった物。これはすぐに浮かんだ。
ペンはさっきの遅さが嘘みたいに早く走り出した。
『昔はお母さんのハンバーグが好きだったよ。』
そう書いて、灰桃色の封筒に入れて、本に挟んだ。
昨日よりも少し暗めの空色は、海とのコントラストを強く見せる。
少し上を見上げると、私の机の前で、見せたい投稿を探す茉文と、黒板を見ている詩葉が立っている。
チョークの粉が舞い踊り、光る様子は、あの埃を思い出させる。
その奥には、黒板を消しながら話す女子。
大声を出しながらじゃれ合う男子。
図書室とは全く違う真っ白に輝く蛍光灯は、真っ直ぐ教室を照らしている。
どうしてもここでは心臓が早く、呼吸が浅くなってしまう。
私の頭の中には、君の文字がこびりついていた。
好きな物。
君に便箋を通して質問をされた時から、ずっと考えている。
あれから唐揚げを食べた。詩葉の新しい香水も嗅いだ。茉文からグミを貰った。
全部に、心が惹かれる気がした。
なのに、好きだとは思えなかった。
「あっ!これこれ!私こういうの好きなんだよねー」
ぼんやりと考えていた視界が、茉文のスマホの画面に、茉文の好きに占拠される。
目の前に映されたそのワンピースの投稿は、とても茉文が好きそうだった。
淡いベージュで染められたチュール。
ふわふわのフリルが三段に重なり、裾にかけて広がった膝上くらいのスカート。
袖やスカートの裾を包み込む白いレース。
首元からお腹までに施された真珠を模したボタン。
ウエストにはサテンのリボンが巻かれている。
色白で細身の茉文にはピッタリだと思った。
「いいじゃん!!めっちゃ好き!」
口から零れた言葉にハッとする。
思考を挟まずに出た正解の声は、なんだか寂しく感じた。
「かわいい、似合いそう」
「でしょ!」
と柔らかく微笑む詩葉と弾けるように笑う茉文を横目に、口角を上げる。
口の中にじわじわと苦味が広がる。
こんなにも簡単に、思うよりも先に、「好き」という言葉が滑り落ちたことに自分で呆れる。
私は二人の間に、二人のそばにいるはずなのに、心は遥か遠くへ、二人に背を向けて歩いていく。
ふと、潮風が香った気がした。
その香りで一気に心はあの場所へと向かう。
するはずもない埃の香りが、古い紙の匂いが、床が軋む音がしたように感じた。
早く、早く図書室の木の扉を開けたい。
深く息をしたい。あの香りに包まれたい。波の音を聞きたい。
乾いた笑い声を出しながら、机の下でぐっと手を握った。
薄暗い図書室の中、机の上の便箋と見つめ合う。
待ち望んだ文字に体が止まる。
どく、どく、という鼓動だけが、脳に響き渡る。
『蔑み。そんなことする人がいるのか。ハンバーグ!きっと美味しいんだろうね。絶対今の好きな物も、すぐに思い出せるよ。』
君の周りには、そんなことするい人はいないのだろうか。
なんだか、ほっとする。君が私と同じ思いをしていないように感じて。
お母さんのハンバーグをきっと美味しい、と言ってくれるのも、嬉しい。
でも、
『絶対今の好きな物も、すぐ思い出せるよ。』
本当に?本当にすぐに思い出せるのだろうか。
そんなはずない。何も考えなくても出てくる「好き」は本当の好きではない。昔の「好き」も今には繋がっていない。
私は、いつから分からなくなっただろうか。
高校生になってから?二年生に進級して、茉文や詩葉と出会ってから?それとも、小さい頃のあの時から?
私の手は、いつの間にかペンケースの中のペンを掴んでいた。
サラサラと書く文字はいつもよりも薄くて、力なく浮き上がった。
『分からないよ。もう何も。』
そう書いて、便箋の角は合わせずに半分に畳んで封筒に入れた。
ミシミシとなる床の上を歩き、息を吸う。この香りは、なんだか私の心に寄り添ってくれる。
重い扉は、いつもよりも少し大きく音を立てて、閉まった。
ちゃぷちゃぷと浴室に響く水の音は、心地よかった。
自然と君の文字を思い出してしまう。
『絶対今の好きな物も、すぐ思い出せるよ。』
せっかく私を元気づけようと思って書いてくれただろうに。
私は突き放すようなことを言ってしまった。
君は優しいからまた寄り添ってくれるかもしれない。
でも、もしかしたら傷ついているかもしれない。
考えても仕方ないのに、分かるはずもないのに、頭の中からは消えない。
はあっと息を吸いこんで肺に貯める。
鼻をつまむ。目を瞑ってからだを縮めた。
ザブン。
水の中に潜る。何も音は聞こえない。
うっすらとオレンジ色の光を感じる。
明日は、何て返事が来ているだろう。次は、もっともっと君みたいに優しい言葉を紡ぎたい。
本をめくる。
今日の海は、いつもよりも透明度が高くて、淡い色な気がした。
一気に空気を吸い込むと、落ち着く香りが胸いっぱいに流れ込んでくる。
空と混ざり合う景色を眺めながら、髪を耳にかけた。
ぎいっと椅子を引いて腰を下ろす。
今日は少しだけでもいいから優しさを文字に込めたい。
見慣れた便箋に書かれていたのは、君らしさ溢れるものだった。
『少しずつ思い出そうよ。できる。まず、最近嬉しかったことはなにかある?』
君は、本当に優しいね。
私はあんなに冷たい言葉を綴ったのに、こんなにも温かい言葉をくれる。
できる。私にも。できるよね。少しずつなら。
昔はできていたんだから。
最近の嬉しかったこと。
最近あったことを頭に浮かべる。
すっと浮かんできたのは、
ここから見た海。空。
ここで聞こえる風。波。
そして、今目の前にある便箋だった。君から貰う手紙。
君が届けてくれる言葉。
綴ってくれる文字。
ぽおっと頬が熱くなる気がした。
ぶんぶんと首を横に振る。
他のものを頭に浮かべようとしても、君の文字が離れない。
他にはぱっと思い浮かぶものがなかった。
あるというなら、たった一つだけ。
ずっと頭の片隅にある、私が嬉しく感じようとしていること。
『友達が笑ってくれたことかな』
走らせたペンは、止まり、机の上に寝転ぶ。
また、友達のこと。分かってる。君も、またか、と思うだろう。
でも、これしかない。私には、これしかないんだ。
私には、やっぱりできないんだ。
君らしさ溢れる言葉に、私のエゴが蔓延る言葉。
波が、砂浜を、私を、洗い流した。
それでも、私の仮面は張り付いたままだ。
剥がれない仮面を抱えて、日常へと帰る扉を開けた。
桃色の封筒に心がきゅっとなる。
今日の夕日は、いつもよりも濃く、華やかに燃えていた。
茜色は、空を、海を、砂浜を、ここの壁を、染め上げる。
細く開いていた窓から、潮風が入り込む。
最近は少しずつ冷え込んできたけど、この香りが心地よくて、窓を閉めようとした手が止まる。
ここに来ると、なんだか優しくなれる気がする。
生成り色の便箋に引かれた黒い線は、いつもよりも柔らかい気がした。
『うん。いいね。じゃあ、君だけの嬉しいこととか好きなことは?』
見慣れた字を見ると、ほっとする。
でも、やっぱり、君は逃げさせてくれないね。
私だけ。
なんだろう。私だけの嬉しいことや好きなこと。
あれから、ずっと考えていた。
思い浮かぶのは、いつもこの手紙だ。
ここの空気だ。
君の文字だ。
君の言葉だ。
君に、惹かれる。
会ったこともない、声も、顔も、名前も知らない君に、心の全てが持っていかれる。
君の手紙を読むこと。
そう書けたらいいのに。
ふうっと息を吐いて、大きく吸う。
肺いっぱいに流れてくる空気と、鼻に満ちるここの匂い。
埃の匂い。
潮風の匂い。
古い紙の匂い。
そして、なぜか鼻に残るこの甘い香り。
ああ、私、これも好きだ。
ペンを握って、
『最近は、ここの匂いとか、好きだと思う。』
と書く。
好き。こんな言葉、久しぶりに書いたな。
最近は、スマホで文字を打つばかりで、ペンを持って書くのは、授業中くらいだった。
でも、君への手紙はいつも手書きで、懐かしく思えてくる。
君の手紙も手書きで、どこか温もりを感じる。
細くて鋭い日もあれば、温かくて優しい日もある。
そんな字までにも、ドキドキしてしまう。
「ねーねー、最近さこの人の動画めっちゃ見てるの!面白いから見てみて」
次の日、そう笑顔で話しかけてきた茉文に、自然と笑みがこぼれた。
「見てみるね」
詩葉は微笑みながら、髪を耳にかけた。
笑おうって思ったわけでもないのに、なぜか、頬が緩んだ。
どうしてだろう。
「なんか今日の綴璃、楽しそう。」
そう言う詩葉の声がした。
楽しい。
心が温まる。
息を吸いたくなる。
お弁当の匂い、香水の匂い、みんなのざわざわした声。
この時間が前よりも少しだけ、好きだ。
「うん、たのしい。」
そう呟くと、二人は穏やかに笑って、話を続けた。
放課後は二人と別れて、歩きなれた道を進む。
どんどん床の軋みが大きくなる。
一歩踏み出すたびに、ぎいっと響く。
誰ともすれ違わないこの道は、心が落ち着く。
扉に手をかけて、開ける。
ぎぎいっとなって、いつもの香りが肺いっぱいに満ちる。
窓の外は、曇り空と、霞んだ遠くの景色。
そして、ただ大きな海。
慣れた手つきで本を探す。
新しい桃色の封筒の中には、
『それが好きなの?』
と書いてある便箋があった。
君の文字は、ずっと変わらない。
綺麗な線だ。
君は、よく疑問で返してくるね。
でも、この文字は、私を否定しているようには見えなかった。
「好き」について純粋に聞いているように感じた。
だから、私は私が思う「好き」を書きたい。
「好き」ってなんだろう。
ついさっき、感じたものだ。
二人と話す時に、思ったこと。
息を吸いたくなって、心が温まる。
これがみんなの「好き」なのかは分からない。
私の「好き」も本当なのか分からない。
でも、これを「好き」と呼びたい。
『多分。なんだか息をしたくなる。それに、心がぽかぽかする。』
そう書く。どこかいつもより丁寧な字になった。
今日も、空は分厚い灰色の雲に覆われていた。
窓を開けても、眩しい光はない。
でも、風がいつもより澄んでいる。
潮の香りも、強い気がした。
生成り色の便箋を撫でる。
そして、優しくめくる。
『多分か。そんな気持ちは、僕もなるかも。僕も好きなのかもしれない。君の書く文字が。』
その文字を見た途端、今までとは比べ物にならないくらいドクンドクンと心臓が騒ぐ。耳の奥が熱い。
曇った空から、太陽が顔を出した。
傾き始めた赤い炎が窓から入り込む。
「好き」
私の文字が。こんな汚い私の文字が。
顔の力が抜けて、ふっと息を吐く。
目尻が下がって、口角が上がって、笑顔になる。
端っこのいつもの席で、ペンを走らせる。
『うれしい。』
私は、この感情に、「うれしい」と名付けたい。
机の上に置いている自分の鞄を手に、扉を閉めた。
窓の外は、ぽつぽつと雫が世界を濡らしていた。
昨日は、少し晴れ間が見えたのに、今日は全く見えない。
「ねえねえ綴璃、この服とこの服迷ってるんだけど、どっちがいいかなー?」
詩葉は携帯の画面を私に向けた。
がやがやとした教室の中で真っ直ぐな詩葉の声が届く。
「うーん」
そう呟きながら目を下ろす。
一つは淡い水色の少しふんわりとしたトップス。袖にボリュームがあって、ウエスト部分で、キュッと一度しまって、裾は広がる。
可愛いけど、詩葉っぽい感じはしなかった。
もう一つは、グレーのトップス。真っ直ぐなシルエットで、肩が出ていて、肩紐に、大きめの黒いリボンが結ばれている。
こっちは、詩葉っぽい。
二つ目を指差して、
「私は、こっちの方が好き」
と言う。
「私も!」
詩葉が笑う。
その笑顔に、また自然と口角が上がる。
この感情に、昨日私は「うれしい」と名付けた。その気持ちで胸がいっぱいになる。
「私は」
いつぶりに言えただろう。
「私は、こう思う」
言えた。言えるようになった。
私、変われているのかな。
きっと、手紙の、君のおかげだ。
放課後になってすぐ、図書室へ向かう。今も、雨は弱くなるどころか、どんどん強くなる一方だ。
図書室の窓から下を覗く。
赤色。黒。青。黄色。緑。
花柄。水玉。ストライプ。
レースの装飾。少し透ける素材。
空は灰色一色なのに、みんなが歩く道は、みんなが指す傘で、こんなにも色鮮やかだ。
『嬉しい?』
君は、本当に質問するのが好きだね。
おかげで、君のこと、あんまり知らないよ。
まあ、これから知っていけばいいんだけどね。
嬉しい、それは、何も考えなくても、笑顔、ができること。
私は、そう思う。
いつもの席で今日もペンを走らせる。
『うん。自然と笑顔になれるよ。』
本に、私たちだけの郵便ポストに、新しい手紙を投函した。
次の日、本を開く。
すぐに返事が見たくて、封筒から便箋を素早く取り出す。
君の文字を必死に目で追う。
『じゃあ、僕も嬉しいんだね。最近は君からの手紙ばかり待ってるよ。早く来ないかなって。それにね、心がきゅうっとなるんだ。』
心がほかほかになる。
文字は真っ直ぐで鋭いのに、言葉は、こんなにも柔らかくて優しい。
私の手紙を、君が、待っているの?
こんな私を、待ってくれている人がいるの?
君は、私の手紙を見て、嬉しいの?
そんな人が、いるの?
君は、本当に本当に、いい人だね。
『心がきゅうっとなる』
私は、その感情の名前を知っているかもしれない。
君と出会ってから、私も何度もそんな気持ちになった。
多分、その感情は、「寂しい」という名前だ。
いつも君は質問で返してくるから、今日はこっちから質問してみよう。
ペンを握る。
『寂しいってこと?』
そう綴って、灰桃色の封筒に入れて、本に挟む。
君は、なんて返してくれるかな。
次の日の放課後。
「綴璃、今日カフェ行こー」
詩葉と茉文は、明るく私に声をかけた。
最近、二人と一緒に帰ったり、遊んだりすることが減った。
もしかしたら、嫌われるかもしれない。
空気が読めないと言われるかもしれない。
そんなことあるはずがないのに、心の中にどんどん湧き上がってくる。
唇を強く噛む。
いいよ、そう口にしようとしたときだった。
『最近は君からの手紙ばかり待ってるよ。』
あの生成り色の便箋が、桃色の封筒が、君の文字が、頭に浮かぶ。
今日も、君からの返事が来る。
見たい。読みたい。
「ちょっと寄るところがあるからさ、先昇降口行っといてー」
そう笑う。ああ、まだこの仮面は壊れないか。
二人はにこっと笑って、
「分かったー!」
と教室を後にした。
私も鞄を持って、あの場所へと向かう。
廊下から見える空は、だんだん暗くなる。
日が短くなって、なんだか急かされているように感じた。
図書室に入ると、ほとんど何も見えないくらい暗かった。
カチッ、とスイッチを入れると、黄色い光がチカチカしながら、視界を照らした。
すぐに見つけた本から封筒を取る。
便箋を開くと、
『寂しい、そうなのかもしれない。こういう気持ちを寂しいって言うのかな。』
君も、自分の気持ちに名前を付けれたのかな。
二人を待たせているから、早く行かないといけない。
なのに、君からの言葉が柔らかくて、優しくて、ずっとここにいたい。
スマホがブーブー、と鳴った。
その音にビクッと体が震える。
急がないと。
いつもの席に腰を下ろして、ペンで記す。
『きっとそう。私もだよ。君からの手紙が待ち遠しい。』
そう書いて、電気を消して図書室を出た。
昇降口には二人が喋りながら待っていた。
「ごめん、お待たせ」
そう笑うと、
「全然!早く行こ」
と二人も笑顔になった。三人で、歩く。
どこかで嗅いだことあるような、図書室でよく嗅ぐような甘い香りがするような気がした。


