夏の気配が消えない十月。
駅から少し歩くだけで、汗が吹き出てくる。
私が通う南東柊(なんとうひいらぎ)高校は、海が近くて、自然豊かな、でも、最寄り駅からは近い栄えた学校だ。
学校へと足を進める。
周りから同じ制服を着た人たちの賑やかな笑い声が聞こえる。
イヤホンから流れるのは、みんなから置いていかれないようにする流行りの音楽。
最近の曲は、全然知らないものばかりで、必死に耳に残す。
汗ばむ額を湿った海辺の風が撫でる。
潮の匂いが鼻を掠める。
近くから、大きな笑い声が聞こえてきた。
羨ましいな。自然に笑えて。
羨ましいな。正解なんて考えていないのだろう。
羨ましい。羨ましい。
自分にないものがどうしようもなく羨ましい。
昔言われた、あなたのいいところは、みんなに合わせられるところね。
そんなの、誰だってできる。
私にはそれしかないのだろう。
面白くもなくて。
生真面目で。
朝から気分は落ちるばかりだ。
学校の周りの木々の木漏れ日の間を抜けると、学校に着いた。
階段を上って教室へと入る。
教室の窓から差し込む日差しは、収まることを知らないようだ。
席に着いて一呼吸おく。
みんなに追いつくように、SNSのストーリーに目を通す。
友達が、新しいリップを買ったとか、誰かとプリクラを撮ったとか。
興味のないことばかり。
「綴璃(つづり)ー!おはよー!」
急にそんな声が響いた。
咄嗟に笑顔を作って
「茉文(まあや)おはよー!ストーリー見た!めっちゃかわいいリップだね!」
と答える。
「でしょー!これさ、あの人気のインフルエンサーが紹介しててさ、やっと買えたのー!」
インフルエンサーが紹介しているリップなんて初めて見た。
「そうなの!良かったじゃん買えて」
そう笑いかける。
「うん!てかさ、今日小テスト勉強して無さすぎてやばいんだけど」
と笑いかけられる。
これは、共感が正解だ。
「私もー!」
と笑う。
茉文は、明るくて、面白くて、女子力が高くて、かわいくて。
最近髪を染めて、さらにかわいくなった。
たしか、アプリコットブラウンだっけ。
それに比べて私は、根暗で、気の利いたことも言えなくて、女子力なんてなくて、かわいくもない。
髪の毛は朝から急いでアイロンをしているだけで、本当はうねっていて、ばさばさで。
本当に、なぜ仲良くできているのか分からない。
ああ、私が茉文にとって都合がいいことを言うからか。
「まじで一限から英単語のテストとかだるすぎ。あの先生あんま好きじゃないんよね。」
と言われる。
私は、そんなこと思わないけど、そう言えるはずもなく、
「それなー」
と笑いかける。
「おはー」
という声が響いた。
「詩葉(ことは)おはよ!」
「おはよ!」
と笑いかける。
詩葉が茉文の肩に手を回す。
「あちーよ」
と明るく言う茉文と、
「そんな変わんないでしょ」
という二人の掛け合いに、あはっと笑う。
綺麗に巻かれた金髪に近い茶髪。
くるんと上がったまつげ。
きめ細やかな肌。
甘い香りの香水。
「詩葉小テストえぐくない?」
「それなー!」
「まあ、そう言いつつも、詩葉いっつもいい点取るじゃん」
という言葉に、
「まあねー、でも今回は普通にやばい」
「どうだかー。ねえ、綴璃。」
茉文はそう、にやりと笑った。
「ほんとだよー。私この前も不合格だったんですけど。」
と笑う。
「それは勉強して無さすぎー」
三人で笑う。
上手くできてる。
こうやって自分の気持ちに嘘をついて、それを嘘と思わせないように伝える。
そういうことがどんどん上手くなっていく。
最初は自分が自分じゃないみたいで、怖かった。
でも、もう慣れてしまった。
ガラッと扉が開いて先生が入ってきた。
「あっやば。」
そう呟いて、茉文と詩葉は席へと戻って行った。
はあ。
まだ始まったばかりの今日なのに、もう疲れた。
先生は、出席の確認をした後、
「旧校舎のことだが、十二月の終業式から立ち入り禁止になるぞー。建て替え工事が始まるからなー。」
と言った。
周りで旧校舎ってなんかあるっけ、とか、旧校舎行ったことないよ、とか。
そういう言葉が飛び交う。
私もそうだ。
旧校舎なんて入ったことないし、何があるかも覚えてない。
こっちの校舎に日常的に使う部屋はあるし、旧校舎よりも、断然綺麗だ。
「図書室とかがあるなー。あとは使ってない教室たちだな。」
と先生の声が響いた。
「一度くらい足を運んでみたらどうだ。」
という言葉に、みんなが
行くわけないでしょ。
という空気を出す。
私もみんなに合わせて、少し目を伏せた。
「まあいいや、号令。」
そう言って、ホームルームは終わった。
一限目の小テストは、さっき、勉強してないって言ったけど、本当は昨日の夜に少しだけしていた。
始め、という先生の言葉に答案をめくる。
さっきまで覚えていた単語が次々と消えていく。
周りのカリカリとシャーペンを走らせる音と、ペンを置く音。
カチカチ、と芯を出す音。
それら全てに焦らされる。
結果は分かっていた。
ギリギリ不合格で、本来なら、というか、本当はすっごく悲しいし、やり直しもめんどくさいのに、二人と話す内容ができたなんて思う自分が、怖くなる。
「乾(いぬい)また不合格かー、どうせ勉強してねえんだろ」
前の席から振り返ったのは、クラスの中心グループにいる金髪の峰崎(みねざき)だった。机に頬杖をつき、いかにも小馬鹿にしたようなニヤニヤ顔が視界に入る。 笑わないでよ。勉強してるよ。してるんだよ。昨日の夜、睡魔で視界がボヤけるまで、ノートに青ペンで何度も単語を殴り書きしたんだよ。そうしても、本番になると頭が真っ白になって、これなんだよ。だから、笑わないでよ。 そう思うのと裏腹に、私の口角は勝手に吊り上がる。
「えー、まただめだったかー。なんで勉強してないって分かるの」
と笑った。私はこういう性格。明るくて、いじられても怒らなくて、いつもヘラヘラしている乾綴璃。そうだ、みんなが求めているのはこのキャラだ。だから私のことを笑うんだ。私も、笑えるはず。笑えてるよね。
「分かるに決まってんだろ。勉強してたら不合格なんて滅多にねえよ。なあ、お前もそう思うだろ?」
峰崎は金髪をいじりながら、隣の席の男子と目を合わせて、へへっと下品に笑った。その瞬間、胸の奥でどろりとした苛立ちが鎌をもたげる。
勉強してたら不合格なんてない?
十分勉強してこれなんだから、私は彼らの言う『滅多にないバカ』だ。言い返したかった。「私だって頑張ったよ」って。でも、そんな冷めるようなことを言ったら、この場の空気が凍りつく。「ノリが悪いやつ」って思われて、明日から席の周りに誰も来なくなるかもしれない。
「あはは、次こそは本気出すから見といてよー」
喉の奥を無理やり震わせて、正解のセリフを吐き出す。乾いた笑い声が、自分のものじゃないみたいに教室の雑音に溶けていった。
二限目は、グループワークをします、と先生が張り切っていた。
近くの人と机をくっつけて五人のグループになる。
常に班の人に笑いかけて。
さっき嫌な思いをしたことなんて心の隅においやって。
「乾、てきとーにまとめといてよ」
とだるそうに両腕を頭の後ろに回したのは、さっき私を笑った峰崎だった。他の班員である女子二人も、スマホの画面を見たまま
「あ、私も綴璃に任せていい? 今日の放課後の服選んでてさ」
と、悪気のない声で乗っかってくる。
「えー、まあいいよ。私そういうの書くの得意だし!」
口から出たのは、頼まれて嬉しいという偽りのトーン。
「まじで助かるわ。乾頼れるー。いつも怒んないし、お前って本当に優しいよな」
はいはい、所詮私はそういう人。怒らないんじゃなくて、怒り方がわからないだけ。優しいんじゃなくて、嫌われるのが異常に怖いだけの臆病者。 模造紙に向き合い、班の意見を綺麗に色ペンでまとめていく。誰も私の手元なんて見ていない。みんなは週末に行くライブの話や、誰々と誰々が付き合ったという噂話に花を咲かせている。私はその輪の中心にいるような相槌を打ちながら、ひたすら文字を書き殴った。 途中で、通りかかった先生に
「乾の班は進みがいいな。乾はいつも明るくて、班を引っ張ってくれるよな」
と言われて、えっ、そんなことないですよ、って屈託のない笑みで答えて。 誰も、私の本当の姿を見ていない。授業中くらい、誰の顔色も伺わずに、ただの透明な人間になりたいよ。 綺麗にレイアウトされた模造紙を見つめながら、私は板書を取り、同時に放課後に茉文たちと話すための話題ばかりを考えていた。
一限目、二限目と終わって、十五分の休憩時間。
茉文と詩葉が私の席の周りに集まる。
「小テストギリ合格!」
という茉文の言葉に、
「うらやましいー、私ギリ不合格なんですけど」
と笑う。
「え、またー?」
と笑われる。
ずきり、と胸が痛むのに、それを無視するように、
「詩葉はー?」
と聞く。
「満点でしたー!」
とドヤ顔をする詩葉に、
あからさまに茉文がため息を吐く。
「これだから詩葉は」
と自分の頭に手を置いた。
その仕草に二人で笑う。
私も、合格したかったな。
なんて気持ちは、すぐに消した。
そして、茉文は、
「おなかすいたー」
と言った。
二人で
「それな」
とお菓子の封を開ける。
二人は流行りのグミ。
私は、普通のチョコ。
そんな小さなことにも不安を感じて、すぐに口にほおりこんだ。
甘いチョコが私の気持ちを落ち着かせる。
「今日の弁当何が入ってるかな」
という茉文の言葉に、
「今食べてんのに、もう弁当の話かい」
と詩葉が笑う。
「食いしん坊だね」
と笑うと、
「はあ?」
と怒ったような口調になった。
茉文を怒らせてしまったかと内心焦る。
茉文の顔を見ると、笑っていた。
ほっと胸を撫で下ろした。
息を吸うと、周りで早弁をしている人の唐揚げの匂い、二人のグミの甘い匂いと、香水の匂い。
もう慣れたその空間。
でも、早く終われと思ってしまう私がいた。
三限目、四限目と過ぎ去り、お昼休みだ。
自然と机をくっつけて、弁当を三人で囲む。
茉文と詩葉のお弁当は、可愛いピックが刺さっていて、色とりどりで美味しそうで、そもそもお弁当箱自体がかわいくて。
私は、茶色一色で、地味なお弁当箱。
はあ、追いつかないな。
追いつけないな。
「そういえば、これ見た?」
そう言って詩葉は、スマホの画面を見せてきた。
駅前のカフェの新作フラペチーノらしいSNSの表示。
「みたみた!」
と茉文は目を輝かせた。
私はそんなにSNSを見る方でもないので、見たことがなかった。
「え、なにそれ!」
と明るく振る舞う。
「これ、今日かららしい!」
と詩葉が笑う。
「え、放課後行こうよー」
茉文が私の手を握ってきた。
あの冷たいの、歯がキーンとなって痛いんだよな。
おばさんみたいとか、思われたらどうしよう。
でも、こんなに楽しみそうな顔してるし、
「うん、行こ」
本当は、興味ない。
流行りとか、新作とか、めんどくさいなって思ってしまう。
折角大好きなハンバーグが入っていたのに、味がしなかった。
砂のように感じるそれを無理やり喉に流し込む。
その後も二人の流行の話に、うんうん、と笑顔で相槌を打つ。
「あ、そういえば、バスケ部に超イケメンいるらしいよ」
「え、だれだれ」
詩葉の話に茉文が食いつく。
「え、見たい!」
遅れを取らず、私も応えた。
「たしか、写真が、、あ!これこれ」
そう写真を見せてくれた。
整っているな、とは思うけど、別にめっちゃかっこいいって訳でもないな、と正直感じた。
でも、ここでは、
「え!めっちゃかっこいい!!」
と返す。
「今度探してみようよ!」
と言う言葉に詩葉と頷く。
しばらくお弁当をつついていたら、
「ほんと、綴璃って聞き上手だよねー」
と急に名前を呼ばれてどきりとする。
「それな!なんでも共感してくれるし、私の求めた返答!って感じ」
それは、私の気持ち、じゃなくて、正解の返し、だから。
「そんなことないよ」
と笑う。
違う。
考えてるから。何が正解か。何を言えば、相手の気持ちが悪くならないか。
この場面では、そんなことないよ、が正解だと思ったから、そう言っただけ。
五限目。
授業中なのに、スマホがブーブーと震えた。
きっと、詩葉と茉文が話しているのだろう。
授業中なのに。
そう思っていた。
でも、これが普通、なのだろうか。
私も、やらないと。
ばれないように、こっそりとスマホの画面を見る。
「放課後楽しみすぎる!」
「イケメンいたら、綴璃声かけてよねー笑」
とメッセージが来ていた。
息が少しだけ苦しい。
震える指先で、
「任せろ笑」
と送る。
これで大丈夫だろう。
それからも、スマホは震えたけれど、私はもう見なかった。
シャーペンを動かす中、視線を感じる。
そんなはずないのに、二人に見られているように感じる。
背中が、痛い。
すうっと息をしているつもりなのに、全然吸えない。
板書を、取らないと。
震える手を無理やり動かした。
六限目は、珍しく何もなかったのに、息が浅いまま、戻らなかった。
放課後。
約束通り、新作フラペチーノを飲みに行くつもりだった。
なのに、すごく行きたくなくなった。
初めてだ。
行きたくないなんて少ししか思ったこと無かったのに。
なんだか、頬が引きつって、上手く笑えなくて。
お腹の奥がぎりぎりと痛くて。
心臓がばくばくとうるさくて。
机に伏せたくなるほどの疲労感。
今日は、疲れてしまったみたい。
二人が集まってきた。
「行こー綴璃」
と言われて、
「あ!今日先生に呼び出されてたんだった」
「えまじ」
「まじ」
「ごめんね」
そう謝る。
「待ってようかー」
「いや大丈夫!!二人で楽しんできて」
そう言って教室を出た。
嘘だ。先生に呼び出されてなんていない。
でも、息が苦しくて、逃げ出してしまいたかった。
そう言うしか、なかった。
走る。どこへ向かっているのかは、自分でも分からないくらいたくさん。
誰かに見られて笑われてたらどうしよう。
なんて被害妄想をしてしまう。
どんどん生徒の声が遠ざかり、埃っぽい匂いが充満していた。
一歩踏み出す度に、床がぎいっと鳴る。
さっきまでは聞こえなかった音。
はあ、はあ。
息を切らして立ち止まったところに、図書室と矢印が書いてある紙があった。
いつの間にか旧校舎まで来てしまったようだ。
あと少しで崩されるらしいし、いい機会だから行ってみよう。
ゆっくりとした足取りで、矢印が示す方へ進んでいく。
普通の校舎よりもずっと古くて、陽の光が埃を照らしている。
そして、木のプレートを見つけた。
図書室、と彫ってある。
木製の大きい扉を開く。
ぎいっと音を立てて開いた。
緊張して、かたかたと手が震える。
失礼します、なんて、図書室に合わない言葉をか細い声で発した。
足を踏み入れて、扉をそっと閉める。
鼻を刺激したのは、埃と古い紙の匂いだった。
誰もいなくて、心が落ち着く。
辺りを見渡すと、たくさんの本棚と、そこにぎっしりと詰まった本。
どれも古そうで、色褪せているものが多かった。
その中でも、一際目を引く、比較的新しそうな本。
淡い色の表紙に、目を引くイラスト。
自然と手を伸ばしていた。
ぱらぱらと本を開く。
すると、何かが床に落ちた。
桃色の封筒。
なぜか手が震える。
これ、大丈夫なのかな。
私宛てでは、絶対にないだろうし。
そう心では分かっていても、手が勝手に封筒を開けていた。
生成色の便箋に触れる。
『お返事待ってます』
綺麗な文字で丁寧に書かれた、たったそれだけの文。
どうせ、誰も見ないなら。
そう思ったけど、便箋なんて、持っていない。
ポケットを漁っていたら、さっき返ってきたばかりのこの前の不合格の小テストのやり直しを見つけた。
もう使わないし、これに書こう。
そう思い、胸ポケットに入れているシャーペンを握って、大きな机の角の席に座る。
真後ろに、大きな窓と本棚がある、光に満ちた席だった。
『笑うのに、疲れました。どうやって笑ってたか忘れました。』
そう書いて、半分に折り、元々の本に挟んで息を吐く。
普段よりも汚い字で、すごい病んでるみたいな内容に、笑みがこぼれる。
しばらくすると、太陽が傾き始めていた。
夕日が図書室の白い壁を赤く染める。
そろそろ、帰ろう。
桃色の封筒を手に取る。
それをしっかりと掴んだ。
驚くほど軽くなった腰を上げて、軽い足取りで鞄を取りに教室に戻った。
元来た道を戻ろうとしたけど、夢中で走ったから、戻り方がわからなくなった。
そこで、担任とすれ違った。
「あっ、先生、ここからどうやって教室戻ればいいですかね」
と声が出る。
先生は驚いたような顔をした。
それはそうだ。
私の周りにいる友達は、いつもタメ口だし。
咄嗟に敬語が出てしまったけど、おかしいと思われただろうか。
怖い。
本当の私に気づかないで。
お願い。
「そのまままっすぐ行って、右に曲がると、新校舎だ。」
そう指をさしてくれた。
「ありがとうございます」
そうにこりと笑う。
いつもの笑顔。
いつもの笑顔。
と心に言い聞かせる。
「どうしたんだ。こんな時間に。」
胸がずきりと痛む。
「えっと、」
逃げ出してしまったなんて言えない。
「えっと、」
言葉が浮かばない。
どうしよう。怪しまれる。
「ちょっと図書室に。」
嘘はついてない。
先生は、嬉しそうに微笑んで、
「おお、そうか。じゃあ、気をつけて帰れよ」
と手をひらひら振って歩いていった。
「さよなら。」
その背中を少しの間見て、先生の教えてくれた方に歩いていく。
夜が始まりそうになった空を横目に、廊下を進む。
ピンクと、紺が混ざりあっていく空。
あの限りなく続く空のどこかに、あのお手紙を書いた人がいるのだろうか。
いつの間にかぎいっと言わなくなった床。
上靴から伝わる感触は、でこぼことしていた感じから、平坦に。
足音は静かになっていく。
教室には、もう誰もいなかった。
机に置かれたたった一つの鞄。
その鞄を手に、教室を後にした。
ファイルの中に、封筒を入れて、ファスナーを閉める。
下校中、流行りの音楽ばかりが流れるイヤホンに嫌気が刺した。
もう、聞きたくない。
耳が、その音を拒否した。
指が、動く。
いつの間にか自分の好きなプレイリストを流していた。
心が弾む。
久しぶりに耳にするこの声に、頬が緩む。
いつもは、とても長く感じる電車の時間があっという間に感じた。
星がいくつか瞬き始める中、もう潮の匂いはしない道を歩く。
「ただいま」
そう言いながら、玄関の扉を開ける。
少ししてから
「おかえりー」
という聞きなれた声が返ってきた。
エプロンをして、菜箸を握ったお母さんが覗く。
お母さんは、歳をとってもかわいくて、きっと学生時代もかわいかったに違いない。
大きな目に、ふわふわな髪、穏やかな声。
私は、どこを、なにを、受け継いだんだろう。
考えても無駄なのに、考えずにはいられない。
お父さんだって、凛とした目元に、優しい笑顔、爽やかな声。
本当に、どこを受け継げば、こんな私が生まれるのだろうか。
こんなにダメな私にも、二人はいつも優しくて。
きっと、笑うのに疲れたと本音を漏らしたら、学校だって休ませてくれるだろう。
でも、その優しさが、ときどき痛いの。
わがままだって、欲張りだって分かってるけど、痛いの。
そんな考えを消して、お弁当箱を出した。
「今日も美味しかったよ。ありがとう。」
味がしないなんて言えない。
「よかった。ハンバーグ、入ってたでしょ。喜ぶかなって思って。」
「うん!」
そう笑う。
嘘だ。本当は、喉を通るときに砂を噛んでいるみたいに、何の味もしなかった。 小学生の頃は、お母さんが作るハンバーグが世界で一番美味しかった。お弁当の蓋を開けて、特製のソースが絡んだ丸いハンバーグが見えると、それだけで胸が躍った。 運動会の時は、友達の側に駆け寄って、
「見て見て! 私のママのハンバーグ、すっごくおいしいんだよ!」
って、自慢げに見せていた。友達に一切れあげるのが惜しいくらい、私にとって宝物のようなお弁当だった。 あの頃は、正解の笑顔なんて知らなかった。ただ美味しくて、ただ嬉しくて、感情がそのまま顔に出ていた。お母さんに「今日も美味しかった!」って言うときも、心の底からの言葉だった。 なのに、いつからお母さんの、この無償の優しさが「痛い」と思うようになってしまったのだろう。 高校に入って、周りの友達に合わせるために「お弁当の見た目」や「かわいい弁当箱」を気にするようになってからだ。茶色いおかずが詰まったお弁当箱を、茉文たちの華やかなお弁当の影に隠すようになった。お母さんが私のために朝早く起きて、わざわざハンバーグを捏ねてくれたその時間を、私は「地味で恥ずかしい」と一瞬でも思ってしまった。 その最低な自分への罪悪感が、心に充満する。お母さんの笑顔を見るたびに、胸に鋭い棘が刺さる。
「学校、楽しい?」
そう聞くお母さんの顔を見る。
悪気が無いことは、その顔を見れば分かる。
だから、精一杯笑う。
柔らかく口角を上げて、首を小さく傾けて。
「めちゃくちゃ楽しいよ!」
胸がずきずきと痛む。
楽しいよね。
楽しい、うん、楽しいよ。
「そう、よかったね。」
「うん」
お母さんが、お弁当箱を洗う中、それが地味だと思ってしまったことが、申し訳なくなった。
ごめんなさい。
心の中で謝る。
お弁当箱のせいじゃない。
私が、弱いせいだ。
もっと、もっと、強くならないと。
お風呂から上がって、ベッドに入る。
明日は珍しく小テストがないから、いつもより早く寝れる。
目を閉じた時、ふと、あの手紙が頭に浮かんできた。
笑うのに疲れました。
なんてあんな汚い字。
誰かに見られたら、もし、返事が届いていたら、どうしよう。
共感してくれるかな。
弱いやつって思われるかな。
我慢しろって思われるかも。
考え始めると、どんどん気になって。
真っ暗な部屋の中、考えが巡って。
結局いつもより遅い時間に眠りにつくことになった。
カーテンの隙間から差し込む太陽の光と、聞きなれたアラームの音に起こされる。
重たいまぶたを開き、ゆっくりと呼吸する。
また、始まる。
何度か息を吸っては吐いて。
ベッドから起き上がる。
気温は暑いのに、フローリングは冷たくて、少しびくっと肩を揺らす。
制服に着替えて、リボンを結ぶ。
キュッと左右に引っ張ってバランスを整える。
スカートも折る。
だって詩葉も茉文も折っているから。
シャツも第一ボタンを開ける。
これも、二人がやっているから。
なんでもかんでも、二人、が理由の私が嫌になる。
一階に下りるとお母さんがパンケーキを焼いてくれていた。
甘くて大好きだったのに。
今は、噛むことが、学校に行くために食べることが、きつい。
恵まれているのに。
友達もいて、優しい家族もいて、居場所だってある。
食べ物にも、お金にも困ってない。
なのに、どうしてこんなにつらいんだろう。
長い黒髪を乱雑にしばる。
アイロンを手に取り、無理やり髪を真っ直ぐにする。
力を入れて、痛めつけていく。
首元に無理やり香水を吹きかける。
「いってきます」
重い鞄を手に、玄関の扉を押し開けた。
小さい声だったのか、返事は返ってこなかった。
夏らしい風がぶわっと広がる。
その中を歩く。
イヤホンから流れる音楽は、やっぱり、流行りの曲。
SNSで見るのは、二人が好きそうなコスメ、フラペチーノ、お洋服。
そして、ストーリー。
スマホの充電があと60パーセントくらいしかないことに気がついた。
鞄を漁ってモバイルバッテリーを探す。
ファイルに入っているだいぶ前の小テストが目に入った。
モバイルバッテリーを取り出し、スマホにさす。
そういえば、あの手紙、返事は来ているのだろうか。
なんだか気になって、少し足早になる。
歩いていたら、肩をぽんっと叩かれた。
びくりと肩が震える。
口角を上げる。
パッと振り向くと、詩葉が息を切らしながら、
「はあ、おはよ」
と笑った。
「おはよ詩葉」
びっくりした。
全然気が付かなかった。
いつもなら、少し前から気配を感じるのに。
「びっくりしすぎ」
詩葉から笑われる。
どうしよう、変に思われたら。
「ごめん」
そう言ってイヤホンをケースに戻す。
手紙、もう届いてるかな。
返事、あるかな。
「そういえば昨日さ、カフェいっぱいで諦めたのー」
「へえ、美味しかった?」
「は?行ってないって」
肩がびくっと動いた。
返事、間違えた。
どうしよう。嫌われたら。
集中、しないと。
だけど、振り返って覗いた詩葉は笑っていた。
良かった。
怒ってないみたい。
「ごめん、聞き間違えた」
そう笑う。
耳をそばだてるけど、詩葉との話には集中出来なかった。
手紙のことが頭から離れない。
剥がそうとしても剥がれなくて。
集中しよう。
そう決意したものの、すぐに手紙のことを考えてしまって。
授業中も、休み時間も、二人と話している時も。
今日一日全く集中できなかった。
二人には、上手く笑顔をつくることができただろう。
昨日のおかげで、少しだけ、笑顔がつくりやすくなった気がする。
待ち望んだ放課後。
二人に断って、教室を飛び出す。
鞄を手に、早歩きになる。
体が、勝手に求めている。
返事が来ているのかも分からない。
もしかしたら、非難されるかもしれない。
でも、共感して、寄り添ってくれるかもしれない。
静かな空気に変わった廊下を進む。
木の扉に手をかけて、開ける。
昨日と同じ香りが鼻にかかる。
慣れない埃と古い紙のそれに、心臓が激しく揺れる。
あの本を取り、ぱらぱらとめくる。
その手が、震えて、思ったよりもゆっくりになる。
そして、ぱたっと開いたところには、昨日よりも鮮やかな桃色の封筒。
急いでそれを手に取った。
昨日と同じ席に座る。
隣の席に鞄を置いて、封筒と向き合う。
さっきから震えが止まらない手を反対の手で抑える。
そして、そっと封を開けた。
生成色の便箋をめくる。
どく、どく、という心臓の音が聞こえてきた。
そこには、少し細くて、跳ねるところは跳ねて、ピンピンとした文字が並んでいる。
『読んでいます。やっと、見つけました。
そんなに、笑顔は難しいですか?』
思っていた返事と違い、視線が揺れて、定まらない。
読まれていた。
そして、私の存在が、誰かに、認識された。
そのことへの緊張と嬉しさが込み上げる。
でも、やっとってどういう意味だろうか。
少し怖いと感じてしまう。
そして、そんなに笑顔は難しいですか。
その言葉が、喉の奥に、体中に突き刺さるような。
共感でも、否定でもない。
予想外の疑問。
でも、その裏に、難しくないだろう。
そんなに、大変か。
頑張れよ。
というような意味を感じてしまって。
ああ、やっぱり、自分の思っていることを伝えるのは、勇気がいるな。
こうやって傷ついてしまうから。
こんな一言で傷ついてしまうから。
弱いな。
弱いな。
もっと、強くなりたい。
鞄の中から筆箱を出す。
「あ」
そんな呟きが宙を漂う。
便箋を、持ってこようと思ったのに、忘れてしまった。
なぜか、どこか息が詰まるような気がして。
何気なく、窓の外に目を向けた。
立ち上がって、真後ろの本棚に腕を置き、外を覗き込む。
白い砂浜。きらきら光る波。深くて、透明度の高い海。
そして、風に揺れる青葉。
気が付いたら、窓の鍵に手をかけていた。
本棚が前にあって、届きにくいけど、体を前に乗り出して、手を伸ばせば届いた。
鉄の冷たさが指から全身に伝わる。ざらざらとした埃の感触。
いつから開けられてないのだろう。
力を入れてもなかなか開かない。
ぐっと力をさらに込める。
カチャッ。
軽快な音と共に、何年も眠っていた鍵が開いた。 そして、窓枠に両手をかける。古い窓枠は歪んでいるのか、ずっしりと重い。全身の体重を後ろにかけ、爪が白くなるくらい指先に力を込める。
ガッ、ガッ、ガガガッ。
抵抗するような乾いた音を立てながら、大きな窓が開いた。その瞬間、 ぶわっ、と部屋の中に押し寄せてきたのは、まるでこの世界のものではないと思ってしまうほど、強くて、濃くて、優しい自然の暴力だった。
小テストの悔しさも、男子に笑われたあの屈辱的な言葉も、全部一瞬で洗い流してくれるような、圧倒的な海の青。視界のすべてが、深く澄んだ空気で満たされていく。
身に纏う、みんなが私に作らせた「乾綴璃」の仮面を、容赦なく剥ぎ取るような激しい潮風が、結んでいた黒髪を乱暴に揺らす。
新校舎に充満していた、早弁の唐揚げの匂いも、茉文たちの甘いグミの匂いも、首筋に無理やり吹き付けた香水の匂いも、全部全部上書きしてくれる、ツンとした本物の潮の香り。
ざあーーー、ざあーーー。
鼓膜を揺らす大きな波の音は、教室のあのヒソヒソ話や、SNSの通知音、頭の中で鳴り響く「正解を探す声」を、すべて力技で遮断してくれた。
そして、夕方に差し掛かる一歩手前の、激しく降り注ぐ陽の光が、私の全てを、隠したかった醜い素顔を、そのまま優しく包み込むように照らしてくれた。
息を吸い込む。すうっと、何の引っかかりもなく、自然と肺の奥深くまで空気が流れ込んできた。
苦しく、ない。
酸素が、体中を巡っていく。 なんて久しぶりだろう。お腹に力を入れず、誰の目も気にせず、ただ生きるためだけに、簡単に、深く息を吸えた。
ここは、息を吸える場所だ。
海の色も、陽の光も、波の音も、潮の香りも、ずっとずっと美しく感じた。
こんなに世界が綺麗に見えたのは、いつぶりだろう。
はあ、と息を吐いて、窓のそばから身を離す。
机の上に広げたままだった筆箱と、便箋。
優しく、触れる。
便箋をファイルに入れて。
筆箱を鞄に放り込んで。
私は図書室を後にした。
ぎい、となる床にも、埃の匂いにも、まだ慣れない。
でも、心地良さが、増えていった。
外へ出ると、さっきまで浴びていた陽の光は、弱くなっている。
潮の香りは変わらない。
一人、家までの道を歩いた。
軽い足取り。
心地よい息。
「ただいま」
そう言うと、
「おかえりー」
とお母さんの声が聞こえてきた。
「今日は生姜焼きよ」
という声に、「やった!」と相槌を打つ。
そのまま、二階の部屋に向かう。
カーテンを閉めないといけないけれど、そんなことよりも。
部屋に入って、すぐに便箋を探した。
たしか、小さい頃お手紙を書いて渡すのが流行っていて、私も持っていたような。
引き出しの奥や、棚を探したけど見つからなかった。
少しして本を置いている棚の隅っこに、便箋を見つけた。
それを手に取ると、ビニールがカサッと音を立てた。
開けられる前で、しっかりと袋が糊付けしてある。
ペリッと包装を外す。
一枚だけ、出してみた。
静寂の中、優しくて、滑らかな手触りのそれは、小さい頃に選んだにしては、センスがよく感じた。
水色のような、青のような、澄み渡る青空のような。
そんな空色と。
紫色のような、灰色のような、紫陽花のドライフラワーのような。
そんな灰紫色。
その二色のグラデーションになっている。
そして、少しだけ、透けていた。
照明にかざすと、なにかがきらきらと光っているように見えた。
封筒は、くすんだピンク。桜色のようにも見える。灰桃色だろうか。
大人びた色彩に、小さい頃の記憶が蘇る。
いつからだろう。
自分の気持ちに嘘をつくことが普通になったのは。
いつからだろう。
笑いたくないのに笑えるようになったのは。
いつからだろう。
全部に模範解答を見つけるのが癖になったのは。
かつて私は、自分の思ったことをそのまま言える子だったように覚えている。
嫌なことは嫌って言えて。
違うことは違うと言えて。
本物の笑顔で笑えて。
「それ、なんか違うと思う」
軽い気持ちで放った言葉に、友達が、時間が、止まった。
どこかで、誰かの笑い声がした。
「それ、今言わなくてよくない?空気読みなよ」
目の前の女の子は、冷めた目で私を見てきた。周りの子たちも、横目で私を見る。
数秒後には、次の話題に流れていく。
私は、まだそこに立っていたのに。
まるで、最初からいないみたいに。
私だけが、数秒前に取り残されていた。
かつては。
強い子だった。
違う。
もしかしたら。
怖かったんだ。
いや、弱い子だった。
それから。
それから、私は私をやめた。
そんな心が痛む記憶は、どこかへ吹き飛ばしてやりたかった。
レターセットをファイルに挟んで、鞄に入れた。
眩しい朝日に身が怯む。
返事を書こう、そう思い足を進めた。
放課後を願いながら、教室に入った。
一限目。
ノートをとる。
二限目も、三限目も。
気がつけば、時計ばかりを見ていた。
放課後まで、あと、二時間。
チャイムの音が耳を揺らす。
やっと、放課後だ。
旧校舎へ。
鞄を手にしたとき、つづりー、と呼ばれた。
はあ、と思いながらも、口角を上げて、なにー?と言う。
「放課後、どっか行こーよ」
トクン、と胸が痛い。
「今日は、ごめん」
そう言うと、二人は、えー、と呟いて、わかったと頷いた。
申し訳ない気持ちと不安が湧いたけど、私は足を動かした。
音を立てて開く扉と、埃と紙の匂い。この前と変わらないそれは、肺を軽くした。
あの本を見つけて開くと、そこには新しい桃色の封筒。
目を見開く。
え、と呟いて、できる限りの優しい指使いで開く。
そして、ゆっくりと目を通す。
『窓、開いてたよ。まあ、たまには悪くないね。』
あ、と声が漏れた。閉め忘れていた。
今、私が手紙を書いている君も、昨日、ここに来たのだろうか。
ということは、私が開けた窓から、私が浴びた風を、君が浴びたんだ。
それに、私が見た景色を、聞いた音を、感じた匂いを、全部全部共有したんだ。
なんだかどきどきする。
どこを見ても、世界が少しきらきらして見える。
この前と同じ席に腰を下ろす。
背中の緊張が解けた気がした。
机に今日来た手紙を置いた。
ふぅ、と息を吐く。
鞄の中のファイルから昨日入れた便箋を取り出して窓の外を見ると、海辺は太陽の光が部屋の照明より眩しく感じた。
窓に向かって、便箋を透かす。
太陽光にきらきらと光る。昨日見た時よりも、ラメが輝いていて、この色が好きになった。
ペンを握る。
うーんと唸りながら、必死に考えるけど、内容が浮かばない。
もう一つのファイルから、君が書いた手紙を取り出す。
机の上の手紙と、今、手に持つ、この前くれた手紙。
そんなに、笑顔は難しいですか。
その問いの答えが分からない。正解が分からない。どう答えればいいのかも。私がどう思っているのかも。
『難しいです』
そう走らせて、少し迷う。
そして、消しゴムを握って、それを消した。
こんなこと書いたら、引かれるかもしれない。嫌われるかもしれない。
『少し、疲れてしまうのです。』
綴った文字を、また、消す。これは、嘘だ。少し、なんて嘘だ。
『笑うのが難しいというか、疲れてしまうんです。そう考えると、笑顔は難しいかもですね。』
これなら、丸じゃなくても、三角くらいもらえると思った。相手も傷つけないだろう。きっと嫌な気持ちにもさせないよね。嘘でもない。これが、今の私の正解だと思った。そして、付け足す。
『窓、ごめんなさい。ありがとうございます。』
そう書いて、半分に折る。ファイルから灰桃色の封筒を取り出し、それを入れてみた。なんだか、わくわくする私がいる。久しぶりに、自然にわくわくする気持ちがした。
あの本の背表紙と最後のページの間に挟む。そして、私は図書室を後にした。
帰っている途中、ブブッとポケットが振動した。
電源ボタンを押すと、茉文と詩葉からのメッセージ。
『日曜遊び行こー』
『あの日行けなかったカフェ行きたい!』
そういえば、もう週末だ。図書室に、行けない。手紙の返事が、少し気になる。
でも、そんなこと考えている場合じゃない。
メッセージを返さないと、早く。行きたいわけではない。でも、最近付き合いが悪いというのは自分でも気づいていた。乗り気じゃない心に蓋をして、指を無理やり動かす。
『行きたい!』
躊躇いが残っているのか、送信ボタンを押す指が微かに震えた。
明日、着ていく服を決めないと。
夜が侵食し始めた空を横目に、カーテンを閉める。
クローゼットを開けて、何かいいものはないかと右から左へ視線を動かす。
柔軟剤の香りが鼻に触れる。
茉文は、ガーリーでフリルたっぷりなかわいい服を着てくる。
詩葉は、大人っぽくてクールだけど、さり気ないレースやリボンがある服。
そんな二人を邪魔しないような服。
昔好きだった花柄のワンピースに目が向く。
ピンクのすべすべな生地に、白い花柄。袖は、フリル。
いつの間にか、手に取っていた。
久しぶりに触れたそれは、昔とは全く変わらなくて。でも、少し派手すぎるかな。
少しワンピースを撫でて、クローゼットに戻した。
地味すぎても浮くし、派手すぎたら邪魔をしてしまう。だから、私服は嫌いだ。正解が分かりにくい。二人がどんな服を着るのか、当日まで分からないし、自分の服がおかしくないのかも、自分では分からない。
それと比べると、制服は楽だ。皆同じだし、着崩しも、二人と同じようにすればいいだけ。
だから、私服は時間がかかるし、難しい。
クローゼットの中の服を取り出しては戻して。
何度もそれを繰り返した。
ひとつのワンピースを取る。
手のひらで撫でると、縦に細くうねった、少し厚みのあるやわらかな心地よい手触りの濃い赤色の温もりが伝わる生地。茶色と暗い黄色のチェック柄は、並木道のようでいかにも秋らしくて、地味でも派手でもない。
だけど、このワンピースは、肩が出るオフショルダー。着ると鎖骨が見えるから、茉文たちから、肌見せすぎとか、気合い入ってるとか、思われたらどうしよう。
その時、近くに掛けてあるシアーシャツが目に入った。
アイボリーのそれは、落ち着いた印象を与えるのに加えて、透け感のおかげで肩を程よく隠してくれるはず。
それに、キャラメル色のレザー調で、ポケットにリボン飾りがある小さめなショルダーバッグを合わせる。
よし、これで行こう。大丈夫なはず。間違いではないよね。
手を握りしめて、クローゼットを閉じた。
そのまま布団に入って、夢の世界に誘われるように目を閉じた。
朝、布団の香りに包まれる中、目を覚ます。
メイクをしないといけないことを思い出した。二人ともメイクが上手で、いつも綺麗だから。
私は日常的にメイクなんてしないから、全く上手くないし、かわいくもなれない。
この前も、茉文はインフルエンサーが紹介していたリップを買っていた。ピンクをイメージさせる、女の子らしいメイクをしてくる。
詩葉は本当にメイクが上手で、たくさんメイク道具を持っていて、ブランドにも詳しい。どんな系統のメイクもとても様になる。
はあ、と息をついた。胸がきりきりとする。
目の前のポーチを手に取り、チャックを開ける。
ドラッグストアで買ったリップに、プチプラのファンデーション、パウダー、チーク。
高校生が普通に持っている物の最小限。
目の前の小さな鏡に向き合う。
二重だけど、小ぶりな目。
高いけど、大きめな鼻。
ふっくらとした頬。
薄めの唇。
嫌なところが目に飛び込んでくる。
そんな醜い顔を早く隠すために、ファンデーションとパフを手に取る。
洗顔をした顔に、ファンデーションを広げる。
茉文と詩葉のきめ細やかな肌が思い出されたせいで、いつもより厚めに塗ってしまった。
パウダーで、少しだけ肌が白く見えるようになって、肌もさらさらになる。
そして、アイブローマスカラ。
これは、お母さんが買ってきてくれた。
そろそろ化粧とかしてみたら、と言いながら。私には、それも苦しかった。あなたもしなさい、と言われているようで。
アイシャドウは、夏休みに二人と遊びに行ったときに、私の顔を見て、選んでくれたものだ。
ブラウンのものとラメを瞼にのせる。
もともと垂れ目気味なのでアイラインは、垂れ過ぎないように気をつける。
チークをのせて、リップを何度か重ね塗りしたら、カラコンを入れる。
二人もつけてくるだろうから。
出来上がって見た顔は、まるで別人だった。
頬に触れたら、普段とは違う感触が伝わる。
昨日選んだ服を身にまとい、鏡を見るとそこには昨日想像していた通りの私。
ほっと胸を撫で下ろし、玄関へ向かう。
「いってきまーす」
そう呟くと、
「行ってらっしゃい」
というお父さんの声が帰ってきた。
少しずつ涼しくなっている道を進む。夏の気配が少しずつ薄くなり、秋がこちらへと歩んでいるような気がする。
夏が過ぎてゆくのに、少しだけ寂しさを感じる。
電車は日曜日ということもあり混んでいた。イヤホンから流れる流行にも、窓から見える景色にも、なんだか嫌気が差した。
二人と何か話すことは無いか。
この服装はおかしくないか。
そんな考えがぐるぐると頭の中をさまよう。
待ち合わせ場所には、十五分くらい前に着いた。
昼下がりの日差しはそこまで強くないし、風も涼しげだからあまり汗はかかなかった。
五分くらいした頃に、詩葉が来て、やほー、と声をかけてくれる。
茉文は二分前くらいに来た。
「おそー」
と笑う詩葉の横で、私も、そうだよー、なんて呟いて微笑む。
すると茉文は、ごめんと頬をかいて、私を見た。何、何か変?鼓動が早まる。
「お、今日めっちゃ秋っぽいじゃん!気合入ってるー」
そう言う茉文は目尻を下げて、くしゃっと笑った。その言葉にどきっとする。気合入ってるって。浮いてる?おかしい?でも、私の口角は癖のようにぐっと上がった。
「ありがと!茉文もガーリーでかわいいし、詩葉も大人っぽくて素敵だよ。」
そう言うと、二人はうれしー、ありがとー、と笑った。私も笑う。
カフェに着くと、まずは席を取った。三人グループは座席が難しい。いつも私が一人の方に座って、隣には、三人分の荷物。
今日も一人の方に座る。二人は、いいの?と聞いてきたけど、全然いいよ!って笑って、とすっと座った。窓から太陽の光が降り注ぐ席。近くにある照明は、丸っこくておしゃれで。
木製の机に財布とスマホを置く。
「何頼むー?」
という詩葉の言葉に、茉文が
「当たり前にハロウィンのフラペチーノでしょ!」
と笑った。
フラペチーノは苦手だから別のにするか迷ったけど、やっぱり
「私もそれー」
と言ってしまった。
注文をして、席に戻ると、二人はカメラを構えて写真を撮り始めた。
カシャ、カシャ、とシャッター音だけが響く。私も二人のようにカメラを構えて一、二枚写真に収めた。
「ストーリー上げていいー?」
茉文が言うと、私も上げるー、と詩葉が返したから、
「私もー」
と呟く。何も考えずに、二人をメンションして、かわいいフィルターをかけて、投稿ボタンを押した。
少しして、茉文が一口啜った。
「やばっ、めっちゃ美味しいんだけど」
目をきらきらさせながら口元に手を置いて、早く飲んで、と言ってきた。
「すごい味濃いね」
口を付けた詩葉はそう言いながらも、おいし、と呟く。
そう感動している二人の横で、私もそれを吸い込む。
キーンと冷たい感覚が脳を突き刺す。やっぱり何度飲んでも苦手だな。苦手なら頼まなければ楽なのに、二人が頼んでるから私だけってわけにはいかない。
味もベリーの甘さとビターチョコの味がすごく濃く感じた。
口をもごもごさせて、味覚を整える。
「あっ、ねえ、ハロウィンさ、みんなでコスプレしてプリクラ撮り行こうよー」
という茉文の言葉に、目を伏せた。
コスプレなんてしたくない。
自信の無い体型に、特別可愛い衣装。
かわいくない顔に、派手で濃い化粧。
絶対に嫌だった。
でも、否定するわけにはいかない。
「いやー、お金ないしコスプレやだ」
その詩葉の声に顔が上がる。
詩葉は、笑いながらごめん、と言った。
「えー、けちー。綴璃、二人だけでもやろうよー」
と縋るような目をした茉文に笑いかける。すうっと息をして、早まる心臓を落ち着かせる。
「私もさー、最近金欠で」
と言うと、茉文は、
「仕方ない、来年かー」
と一人頷いた。
ちびちびと甘ったるい液体を流し込みながら、雑談をしていた。
それなー、わかるー、と笑い続け、間延びする自分の声に気持ち悪さを感じて。
そんなとき、
「あのさ、実は最近、ちょっと勉強で行き詰まってて」
そう話したのは詩葉だった。小テストは必ずと言っていいほど満点で、定期考査だって今までのものは学年十位に入るほど頭がいいのに。
「えっ、どこが」
心底びっくりと言うように目を見開いた茉文が口を開けた。
「いやー、塾の模試がさ、ちょっと悪くて」
そう自嘲気味に笑う詩葉に、なんて声をかければいいか分からなかった。私にはただ、あー、大変だね、と頷くことしかできない。
「そんなの、気にすんなって!大丈夫だよ、いっつも詩葉頑張ってるの知ってるよ。」
茉文が微笑みながら言ったその言葉は、詩葉の表情を少し柔らかくした。私も、そんな風に声をかけられるようになりたい。
誰にでも悩んでることがあるんだな。そう思った。私にも、いつか、二人に打ち明けられる日が来るかな。でも、今は絶対言えない。膝の上で拳を握りしめた。
カフェを出て、三人で歩く。ふと空を見ると、くすんだ紫色と淡い水色。
まるであの便箋のような色だった。
仄かに光る一番星は、ラメのようで。
相手の子、なんて返事を書いてくれているだろうか。相手の子なら、今、二人になんて声をかけるのだろうか。
足が止まっていたのか、二人は振り向いて口を開いた。
「つづりー?どうかしたー?」
まあ、そんなこと考えたって仕方がないけど。
「なんでもなーい」
小走りで二人に追いつく。
駅に着いたとき、三人でトイレに向かった。
私が出たときには、まだ二人とも出てきてなかったから先に手を洗う。
冷たい水が手を包む。ちらっと顔を上げると、そこには私が知らない私の顔があった。
大きな目に、血色感のある頬と唇。そして、白い肌。
誰だよ、これ。
ふっ、と自嘲的な笑みが零れる。
『そんなに、笑顔は難しいですか』
その問いが心を鎖のように縛っていく。
私だって、笑いたくないよ。でも、あなたは、私の返事に、なんと返してくれるの?
二人が出てきたときには、いつの間にか私は普通の、正解の笑みに戻っている。
その夜、ベッドに潜ると、すんなりと眠れた。
早く、明日になって。あの桃色の封筒を、開けたい。
そして待ちわびた月曜日の放課後。
少しずつここの匂いにも慣れてきた。
埃の匂いに、落ち着く脈がある。
探した本の中には新しい桃色の封筒があった。
私は、震える指先でそれを手に取った。
駅から少し歩くだけで、汗が吹き出てくる。
私が通う南東柊(なんとうひいらぎ)高校は、海が近くて、自然豊かな、でも、最寄り駅からは近い栄えた学校だ。
学校へと足を進める。
周りから同じ制服を着た人たちの賑やかな笑い声が聞こえる。
イヤホンから流れるのは、みんなから置いていかれないようにする流行りの音楽。
最近の曲は、全然知らないものばかりで、必死に耳に残す。
汗ばむ額を湿った海辺の風が撫でる。
潮の匂いが鼻を掠める。
近くから、大きな笑い声が聞こえてきた。
羨ましいな。自然に笑えて。
羨ましいな。正解なんて考えていないのだろう。
羨ましい。羨ましい。
自分にないものがどうしようもなく羨ましい。
昔言われた、あなたのいいところは、みんなに合わせられるところね。
そんなの、誰だってできる。
私にはそれしかないのだろう。
面白くもなくて。
生真面目で。
朝から気分は落ちるばかりだ。
学校の周りの木々の木漏れ日の間を抜けると、学校に着いた。
階段を上って教室へと入る。
教室の窓から差し込む日差しは、収まることを知らないようだ。
席に着いて一呼吸おく。
みんなに追いつくように、SNSのストーリーに目を通す。
友達が、新しいリップを買ったとか、誰かとプリクラを撮ったとか。
興味のないことばかり。
「綴璃(つづり)ー!おはよー!」
急にそんな声が響いた。
咄嗟に笑顔を作って
「茉文(まあや)おはよー!ストーリー見た!めっちゃかわいいリップだね!」
と答える。
「でしょー!これさ、あの人気のインフルエンサーが紹介しててさ、やっと買えたのー!」
インフルエンサーが紹介しているリップなんて初めて見た。
「そうなの!良かったじゃん買えて」
そう笑いかける。
「うん!てかさ、今日小テスト勉強して無さすぎてやばいんだけど」
と笑いかけられる。
これは、共感が正解だ。
「私もー!」
と笑う。
茉文は、明るくて、面白くて、女子力が高くて、かわいくて。
最近髪を染めて、さらにかわいくなった。
たしか、アプリコットブラウンだっけ。
それに比べて私は、根暗で、気の利いたことも言えなくて、女子力なんてなくて、かわいくもない。
髪の毛は朝から急いでアイロンをしているだけで、本当はうねっていて、ばさばさで。
本当に、なぜ仲良くできているのか分からない。
ああ、私が茉文にとって都合がいいことを言うからか。
「まじで一限から英単語のテストとかだるすぎ。あの先生あんま好きじゃないんよね。」
と言われる。
私は、そんなこと思わないけど、そう言えるはずもなく、
「それなー」
と笑いかける。
「おはー」
という声が響いた。
「詩葉(ことは)おはよ!」
「おはよ!」
と笑いかける。
詩葉が茉文の肩に手を回す。
「あちーよ」
と明るく言う茉文と、
「そんな変わんないでしょ」
という二人の掛け合いに、あはっと笑う。
綺麗に巻かれた金髪に近い茶髪。
くるんと上がったまつげ。
きめ細やかな肌。
甘い香りの香水。
「詩葉小テストえぐくない?」
「それなー!」
「まあ、そう言いつつも、詩葉いっつもいい点取るじゃん」
という言葉に、
「まあねー、でも今回は普通にやばい」
「どうだかー。ねえ、綴璃。」
茉文はそう、にやりと笑った。
「ほんとだよー。私この前も不合格だったんですけど。」
と笑う。
「それは勉強して無さすぎー」
三人で笑う。
上手くできてる。
こうやって自分の気持ちに嘘をついて、それを嘘と思わせないように伝える。
そういうことがどんどん上手くなっていく。
最初は自分が自分じゃないみたいで、怖かった。
でも、もう慣れてしまった。
ガラッと扉が開いて先生が入ってきた。
「あっやば。」
そう呟いて、茉文と詩葉は席へと戻って行った。
はあ。
まだ始まったばかりの今日なのに、もう疲れた。
先生は、出席の確認をした後、
「旧校舎のことだが、十二月の終業式から立ち入り禁止になるぞー。建て替え工事が始まるからなー。」
と言った。
周りで旧校舎ってなんかあるっけ、とか、旧校舎行ったことないよ、とか。
そういう言葉が飛び交う。
私もそうだ。
旧校舎なんて入ったことないし、何があるかも覚えてない。
こっちの校舎に日常的に使う部屋はあるし、旧校舎よりも、断然綺麗だ。
「図書室とかがあるなー。あとは使ってない教室たちだな。」
と先生の声が響いた。
「一度くらい足を運んでみたらどうだ。」
という言葉に、みんなが
行くわけないでしょ。
という空気を出す。
私もみんなに合わせて、少し目を伏せた。
「まあいいや、号令。」
そう言って、ホームルームは終わった。
一限目の小テストは、さっき、勉強してないって言ったけど、本当は昨日の夜に少しだけしていた。
始め、という先生の言葉に答案をめくる。
さっきまで覚えていた単語が次々と消えていく。
周りのカリカリとシャーペンを走らせる音と、ペンを置く音。
カチカチ、と芯を出す音。
それら全てに焦らされる。
結果は分かっていた。
ギリギリ不合格で、本来なら、というか、本当はすっごく悲しいし、やり直しもめんどくさいのに、二人と話す内容ができたなんて思う自分が、怖くなる。
「乾(いぬい)また不合格かー、どうせ勉強してねえんだろ」
前の席から振り返ったのは、クラスの中心グループにいる金髪の峰崎(みねざき)だった。机に頬杖をつき、いかにも小馬鹿にしたようなニヤニヤ顔が視界に入る。 笑わないでよ。勉強してるよ。してるんだよ。昨日の夜、睡魔で視界がボヤけるまで、ノートに青ペンで何度も単語を殴り書きしたんだよ。そうしても、本番になると頭が真っ白になって、これなんだよ。だから、笑わないでよ。 そう思うのと裏腹に、私の口角は勝手に吊り上がる。
「えー、まただめだったかー。なんで勉強してないって分かるの」
と笑った。私はこういう性格。明るくて、いじられても怒らなくて、いつもヘラヘラしている乾綴璃。そうだ、みんなが求めているのはこのキャラだ。だから私のことを笑うんだ。私も、笑えるはず。笑えてるよね。
「分かるに決まってんだろ。勉強してたら不合格なんて滅多にねえよ。なあ、お前もそう思うだろ?」
峰崎は金髪をいじりながら、隣の席の男子と目を合わせて、へへっと下品に笑った。その瞬間、胸の奥でどろりとした苛立ちが鎌をもたげる。
勉強してたら不合格なんてない?
十分勉強してこれなんだから、私は彼らの言う『滅多にないバカ』だ。言い返したかった。「私だって頑張ったよ」って。でも、そんな冷めるようなことを言ったら、この場の空気が凍りつく。「ノリが悪いやつ」って思われて、明日から席の周りに誰も来なくなるかもしれない。
「あはは、次こそは本気出すから見といてよー」
喉の奥を無理やり震わせて、正解のセリフを吐き出す。乾いた笑い声が、自分のものじゃないみたいに教室の雑音に溶けていった。
二限目は、グループワークをします、と先生が張り切っていた。
近くの人と机をくっつけて五人のグループになる。
常に班の人に笑いかけて。
さっき嫌な思いをしたことなんて心の隅においやって。
「乾、てきとーにまとめといてよ」
とだるそうに両腕を頭の後ろに回したのは、さっき私を笑った峰崎だった。他の班員である女子二人も、スマホの画面を見たまま
「あ、私も綴璃に任せていい? 今日の放課後の服選んでてさ」
と、悪気のない声で乗っかってくる。
「えー、まあいいよ。私そういうの書くの得意だし!」
口から出たのは、頼まれて嬉しいという偽りのトーン。
「まじで助かるわ。乾頼れるー。いつも怒んないし、お前って本当に優しいよな」
はいはい、所詮私はそういう人。怒らないんじゃなくて、怒り方がわからないだけ。優しいんじゃなくて、嫌われるのが異常に怖いだけの臆病者。 模造紙に向き合い、班の意見を綺麗に色ペンでまとめていく。誰も私の手元なんて見ていない。みんなは週末に行くライブの話や、誰々と誰々が付き合ったという噂話に花を咲かせている。私はその輪の中心にいるような相槌を打ちながら、ひたすら文字を書き殴った。 途中で、通りかかった先生に
「乾の班は進みがいいな。乾はいつも明るくて、班を引っ張ってくれるよな」
と言われて、えっ、そんなことないですよ、って屈託のない笑みで答えて。 誰も、私の本当の姿を見ていない。授業中くらい、誰の顔色も伺わずに、ただの透明な人間になりたいよ。 綺麗にレイアウトされた模造紙を見つめながら、私は板書を取り、同時に放課後に茉文たちと話すための話題ばかりを考えていた。
一限目、二限目と終わって、十五分の休憩時間。
茉文と詩葉が私の席の周りに集まる。
「小テストギリ合格!」
という茉文の言葉に、
「うらやましいー、私ギリ不合格なんですけど」
と笑う。
「え、またー?」
と笑われる。
ずきり、と胸が痛むのに、それを無視するように、
「詩葉はー?」
と聞く。
「満点でしたー!」
とドヤ顔をする詩葉に、
あからさまに茉文がため息を吐く。
「これだから詩葉は」
と自分の頭に手を置いた。
その仕草に二人で笑う。
私も、合格したかったな。
なんて気持ちは、すぐに消した。
そして、茉文は、
「おなかすいたー」
と言った。
二人で
「それな」
とお菓子の封を開ける。
二人は流行りのグミ。
私は、普通のチョコ。
そんな小さなことにも不安を感じて、すぐに口にほおりこんだ。
甘いチョコが私の気持ちを落ち着かせる。
「今日の弁当何が入ってるかな」
という茉文の言葉に、
「今食べてんのに、もう弁当の話かい」
と詩葉が笑う。
「食いしん坊だね」
と笑うと、
「はあ?」
と怒ったような口調になった。
茉文を怒らせてしまったかと内心焦る。
茉文の顔を見ると、笑っていた。
ほっと胸を撫で下ろした。
息を吸うと、周りで早弁をしている人の唐揚げの匂い、二人のグミの甘い匂いと、香水の匂い。
もう慣れたその空間。
でも、早く終われと思ってしまう私がいた。
三限目、四限目と過ぎ去り、お昼休みだ。
自然と机をくっつけて、弁当を三人で囲む。
茉文と詩葉のお弁当は、可愛いピックが刺さっていて、色とりどりで美味しそうで、そもそもお弁当箱自体がかわいくて。
私は、茶色一色で、地味なお弁当箱。
はあ、追いつかないな。
追いつけないな。
「そういえば、これ見た?」
そう言って詩葉は、スマホの画面を見せてきた。
駅前のカフェの新作フラペチーノらしいSNSの表示。
「みたみた!」
と茉文は目を輝かせた。
私はそんなにSNSを見る方でもないので、見たことがなかった。
「え、なにそれ!」
と明るく振る舞う。
「これ、今日かららしい!」
と詩葉が笑う。
「え、放課後行こうよー」
茉文が私の手を握ってきた。
あの冷たいの、歯がキーンとなって痛いんだよな。
おばさんみたいとか、思われたらどうしよう。
でも、こんなに楽しみそうな顔してるし、
「うん、行こ」
本当は、興味ない。
流行りとか、新作とか、めんどくさいなって思ってしまう。
折角大好きなハンバーグが入っていたのに、味がしなかった。
砂のように感じるそれを無理やり喉に流し込む。
その後も二人の流行の話に、うんうん、と笑顔で相槌を打つ。
「あ、そういえば、バスケ部に超イケメンいるらしいよ」
「え、だれだれ」
詩葉の話に茉文が食いつく。
「え、見たい!」
遅れを取らず、私も応えた。
「たしか、写真が、、あ!これこれ」
そう写真を見せてくれた。
整っているな、とは思うけど、別にめっちゃかっこいいって訳でもないな、と正直感じた。
でも、ここでは、
「え!めっちゃかっこいい!!」
と返す。
「今度探してみようよ!」
と言う言葉に詩葉と頷く。
しばらくお弁当をつついていたら、
「ほんと、綴璃って聞き上手だよねー」
と急に名前を呼ばれてどきりとする。
「それな!なんでも共感してくれるし、私の求めた返答!って感じ」
それは、私の気持ち、じゃなくて、正解の返し、だから。
「そんなことないよ」
と笑う。
違う。
考えてるから。何が正解か。何を言えば、相手の気持ちが悪くならないか。
この場面では、そんなことないよ、が正解だと思ったから、そう言っただけ。
五限目。
授業中なのに、スマホがブーブーと震えた。
きっと、詩葉と茉文が話しているのだろう。
授業中なのに。
そう思っていた。
でも、これが普通、なのだろうか。
私も、やらないと。
ばれないように、こっそりとスマホの画面を見る。
「放課後楽しみすぎる!」
「イケメンいたら、綴璃声かけてよねー笑」
とメッセージが来ていた。
息が少しだけ苦しい。
震える指先で、
「任せろ笑」
と送る。
これで大丈夫だろう。
それからも、スマホは震えたけれど、私はもう見なかった。
シャーペンを動かす中、視線を感じる。
そんなはずないのに、二人に見られているように感じる。
背中が、痛い。
すうっと息をしているつもりなのに、全然吸えない。
板書を、取らないと。
震える手を無理やり動かした。
六限目は、珍しく何もなかったのに、息が浅いまま、戻らなかった。
放課後。
約束通り、新作フラペチーノを飲みに行くつもりだった。
なのに、すごく行きたくなくなった。
初めてだ。
行きたくないなんて少ししか思ったこと無かったのに。
なんだか、頬が引きつって、上手く笑えなくて。
お腹の奥がぎりぎりと痛くて。
心臓がばくばくとうるさくて。
机に伏せたくなるほどの疲労感。
今日は、疲れてしまったみたい。
二人が集まってきた。
「行こー綴璃」
と言われて、
「あ!今日先生に呼び出されてたんだった」
「えまじ」
「まじ」
「ごめんね」
そう謝る。
「待ってようかー」
「いや大丈夫!!二人で楽しんできて」
そう言って教室を出た。
嘘だ。先生に呼び出されてなんていない。
でも、息が苦しくて、逃げ出してしまいたかった。
そう言うしか、なかった。
走る。どこへ向かっているのかは、自分でも分からないくらいたくさん。
誰かに見られて笑われてたらどうしよう。
なんて被害妄想をしてしまう。
どんどん生徒の声が遠ざかり、埃っぽい匂いが充満していた。
一歩踏み出す度に、床がぎいっと鳴る。
さっきまでは聞こえなかった音。
はあ、はあ。
息を切らして立ち止まったところに、図書室と矢印が書いてある紙があった。
いつの間にか旧校舎まで来てしまったようだ。
あと少しで崩されるらしいし、いい機会だから行ってみよう。
ゆっくりとした足取りで、矢印が示す方へ進んでいく。
普通の校舎よりもずっと古くて、陽の光が埃を照らしている。
そして、木のプレートを見つけた。
図書室、と彫ってある。
木製の大きい扉を開く。
ぎいっと音を立てて開いた。
緊張して、かたかたと手が震える。
失礼します、なんて、図書室に合わない言葉をか細い声で発した。
足を踏み入れて、扉をそっと閉める。
鼻を刺激したのは、埃と古い紙の匂いだった。
誰もいなくて、心が落ち着く。
辺りを見渡すと、たくさんの本棚と、そこにぎっしりと詰まった本。
どれも古そうで、色褪せているものが多かった。
その中でも、一際目を引く、比較的新しそうな本。
淡い色の表紙に、目を引くイラスト。
自然と手を伸ばしていた。
ぱらぱらと本を開く。
すると、何かが床に落ちた。
桃色の封筒。
なぜか手が震える。
これ、大丈夫なのかな。
私宛てでは、絶対にないだろうし。
そう心では分かっていても、手が勝手に封筒を開けていた。
生成色の便箋に触れる。
『お返事待ってます』
綺麗な文字で丁寧に書かれた、たったそれだけの文。
どうせ、誰も見ないなら。
そう思ったけど、便箋なんて、持っていない。
ポケットを漁っていたら、さっき返ってきたばかりのこの前の不合格の小テストのやり直しを見つけた。
もう使わないし、これに書こう。
そう思い、胸ポケットに入れているシャーペンを握って、大きな机の角の席に座る。
真後ろに、大きな窓と本棚がある、光に満ちた席だった。
『笑うのに、疲れました。どうやって笑ってたか忘れました。』
そう書いて、半分に折り、元々の本に挟んで息を吐く。
普段よりも汚い字で、すごい病んでるみたいな内容に、笑みがこぼれる。
しばらくすると、太陽が傾き始めていた。
夕日が図書室の白い壁を赤く染める。
そろそろ、帰ろう。
桃色の封筒を手に取る。
それをしっかりと掴んだ。
驚くほど軽くなった腰を上げて、軽い足取りで鞄を取りに教室に戻った。
元来た道を戻ろうとしたけど、夢中で走ったから、戻り方がわからなくなった。
そこで、担任とすれ違った。
「あっ、先生、ここからどうやって教室戻ればいいですかね」
と声が出る。
先生は驚いたような顔をした。
それはそうだ。
私の周りにいる友達は、いつもタメ口だし。
咄嗟に敬語が出てしまったけど、おかしいと思われただろうか。
怖い。
本当の私に気づかないで。
お願い。
「そのまままっすぐ行って、右に曲がると、新校舎だ。」
そう指をさしてくれた。
「ありがとうございます」
そうにこりと笑う。
いつもの笑顔。
いつもの笑顔。
と心に言い聞かせる。
「どうしたんだ。こんな時間に。」
胸がずきりと痛む。
「えっと、」
逃げ出してしまったなんて言えない。
「えっと、」
言葉が浮かばない。
どうしよう。怪しまれる。
「ちょっと図書室に。」
嘘はついてない。
先生は、嬉しそうに微笑んで、
「おお、そうか。じゃあ、気をつけて帰れよ」
と手をひらひら振って歩いていった。
「さよなら。」
その背中を少しの間見て、先生の教えてくれた方に歩いていく。
夜が始まりそうになった空を横目に、廊下を進む。
ピンクと、紺が混ざりあっていく空。
あの限りなく続く空のどこかに、あのお手紙を書いた人がいるのだろうか。
いつの間にかぎいっと言わなくなった床。
上靴から伝わる感触は、でこぼことしていた感じから、平坦に。
足音は静かになっていく。
教室には、もう誰もいなかった。
机に置かれたたった一つの鞄。
その鞄を手に、教室を後にした。
ファイルの中に、封筒を入れて、ファスナーを閉める。
下校中、流行りの音楽ばかりが流れるイヤホンに嫌気が刺した。
もう、聞きたくない。
耳が、その音を拒否した。
指が、動く。
いつの間にか自分の好きなプレイリストを流していた。
心が弾む。
久しぶりに耳にするこの声に、頬が緩む。
いつもは、とても長く感じる電車の時間があっという間に感じた。
星がいくつか瞬き始める中、もう潮の匂いはしない道を歩く。
「ただいま」
そう言いながら、玄関の扉を開ける。
少ししてから
「おかえりー」
という聞きなれた声が返ってきた。
エプロンをして、菜箸を握ったお母さんが覗く。
お母さんは、歳をとってもかわいくて、きっと学生時代もかわいかったに違いない。
大きな目に、ふわふわな髪、穏やかな声。
私は、どこを、なにを、受け継いだんだろう。
考えても無駄なのに、考えずにはいられない。
お父さんだって、凛とした目元に、優しい笑顔、爽やかな声。
本当に、どこを受け継げば、こんな私が生まれるのだろうか。
こんなにダメな私にも、二人はいつも優しくて。
きっと、笑うのに疲れたと本音を漏らしたら、学校だって休ませてくれるだろう。
でも、その優しさが、ときどき痛いの。
わがままだって、欲張りだって分かってるけど、痛いの。
そんな考えを消して、お弁当箱を出した。
「今日も美味しかったよ。ありがとう。」
味がしないなんて言えない。
「よかった。ハンバーグ、入ってたでしょ。喜ぶかなって思って。」
「うん!」
そう笑う。
嘘だ。本当は、喉を通るときに砂を噛んでいるみたいに、何の味もしなかった。 小学生の頃は、お母さんが作るハンバーグが世界で一番美味しかった。お弁当の蓋を開けて、特製のソースが絡んだ丸いハンバーグが見えると、それだけで胸が躍った。 運動会の時は、友達の側に駆け寄って、
「見て見て! 私のママのハンバーグ、すっごくおいしいんだよ!」
って、自慢げに見せていた。友達に一切れあげるのが惜しいくらい、私にとって宝物のようなお弁当だった。 あの頃は、正解の笑顔なんて知らなかった。ただ美味しくて、ただ嬉しくて、感情がそのまま顔に出ていた。お母さんに「今日も美味しかった!」って言うときも、心の底からの言葉だった。 なのに、いつからお母さんの、この無償の優しさが「痛い」と思うようになってしまったのだろう。 高校に入って、周りの友達に合わせるために「お弁当の見た目」や「かわいい弁当箱」を気にするようになってからだ。茶色いおかずが詰まったお弁当箱を、茉文たちの華やかなお弁当の影に隠すようになった。お母さんが私のために朝早く起きて、わざわざハンバーグを捏ねてくれたその時間を、私は「地味で恥ずかしい」と一瞬でも思ってしまった。 その最低な自分への罪悪感が、心に充満する。お母さんの笑顔を見るたびに、胸に鋭い棘が刺さる。
「学校、楽しい?」
そう聞くお母さんの顔を見る。
悪気が無いことは、その顔を見れば分かる。
だから、精一杯笑う。
柔らかく口角を上げて、首を小さく傾けて。
「めちゃくちゃ楽しいよ!」
胸がずきずきと痛む。
楽しいよね。
楽しい、うん、楽しいよ。
「そう、よかったね。」
「うん」
お母さんが、お弁当箱を洗う中、それが地味だと思ってしまったことが、申し訳なくなった。
ごめんなさい。
心の中で謝る。
お弁当箱のせいじゃない。
私が、弱いせいだ。
もっと、もっと、強くならないと。
お風呂から上がって、ベッドに入る。
明日は珍しく小テストがないから、いつもより早く寝れる。
目を閉じた時、ふと、あの手紙が頭に浮かんできた。
笑うのに疲れました。
なんてあんな汚い字。
誰かに見られたら、もし、返事が届いていたら、どうしよう。
共感してくれるかな。
弱いやつって思われるかな。
我慢しろって思われるかも。
考え始めると、どんどん気になって。
真っ暗な部屋の中、考えが巡って。
結局いつもより遅い時間に眠りにつくことになった。
カーテンの隙間から差し込む太陽の光と、聞きなれたアラームの音に起こされる。
重たいまぶたを開き、ゆっくりと呼吸する。
また、始まる。
何度か息を吸っては吐いて。
ベッドから起き上がる。
気温は暑いのに、フローリングは冷たくて、少しびくっと肩を揺らす。
制服に着替えて、リボンを結ぶ。
キュッと左右に引っ張ってバランスを整える。
スカートも折る。
だって詩葉も茉文も折っているから。
シャツも第一ボタンを開ける。
これも、二人がやっているから。
なんでもかんでも、二人、が理由の私が嫌になる。
一階に下りるとお母さんがパンケーキを焼いてくれていた。
甘くて大好きだったのに。
今は、噛むことが、学校に行くために食べることが、きつい。
恵まれているのに。
友達もいて、優しい家族もいて、居場所だってある。
食べ物にも、お金にも困ってない。
なのに、どうしてこんなにつらいんだろう。
長い黒髪を乱雑にしばる。
アイロンを手に取り、無理やり髪を真っ直ぐにする。
力を入れて、痛めつけていく。
首元に無理やり香水を吹きかける。
「いってきます」
重い鞄を手に、玄関の扉を押し開けた。
小さい声だったのか、返事は返ってこなかった。
夏らしい風がぶわっと広がる。
その中を歩く。
イヤホンから流れる音楽は、やっぱり、流行りの曲。
SNSで見るのは、二人が好きそうなコスメ、フラペチーノ、お洋服。
そして、ストーリー。
スマホの充電があと60パーセントくらいしかないことに気がついた。
鞄を漁ってモバイルバッテリーを探す。
ファイルに入っているだいぶ前の小テストが目に入った。
モバイルバッテリーを取り出し、スマホにさす。
そういえば、あの手紙、返事は来ているのだろうか。
なんだか気になって、少し足早になる。
歩いていたら、肩をぽんっと叩かれた。
びくりと肩が震える。
口角を上げる。
パッと振り向くと、詩葉が息を切らしながら、
「はあ、おはよ」
と笑った。
「おはよ詩葉」
びっくりした。
全然気が付かなかった。
いつもなら、少し前から気配を感じるのに。
「びっくりしすぎ」
詩葉から笑われる。
どうしよう、変に思われたら。
「ごめん」
そう言ってイヤホンをケースに戻す。
手紙、もう届いてるかな。
返事、あるかな。
「そういえば昨日さ、カフェいっぱいで諦めたのー」
「へえ、美味しかった?」
「は?行ってないって」
肩がびくっと動いた。
返事、間違えた。
どうしよう。嫌われたら。
集中、しないと。
だけど、振り返って覗いた詩葉は笑っていた。
良かった。
怒ってないみたい。
「ごめん、聞き間違えた」
そう笑う。
耳をそばだてるけど、詩葉との話には集中出来なかった。
手紙のことが頭から離れない。
剥がそうとしても剥がれなくて。
集中しよう。
そう決意したものの、すぐに手紙のことを考えてしまって。
授業中も、休み時間も、二人と話している時も。
今日一日全く集中できなかった。
二人には、上手く笑顔をつくることができただろう。
昨日のおかげで、少しだけ、笑顔がつくりやすくなった気がする。
待ち望んだ放課後。
二人に断って、教室を飛び出す。
鞄を手に、早歩きになる。
体が、勝手に求めている。
返事が来ているのかも分からない。
もしかしたら、非難されるかもしれない。
でも、共感して、寄り添ってくれるかもしれない。
静かな空気に変わった廊下を進む。
木の扉に手をかけて、開ける。
昨日と同じ香りが鼻にかかる。
慣れない埃と古い紙のそれに、心臓が激しく揺れる。
あの本を取り、ぱらぱらとめくる。
その手が、震えて、思ったよりもゆっくりになる。
そして、ぱたっと開いたところには、昨日よりも鮮やかな桃色の封筒。
急いでそれを手に取った。
昨日と同じ席に座る。
隣の席に鞄を置いて、封筒と向き合う。
さっきから震えが止まらない手を反対の手で抑える。
そして、そっと封を開けた。
生成色の便箋をめくる。
どく、どく、という心臓の音が聞こえてきた。
そこには、少し細くて、跳ねるところは跳ねて、ピンピンとした文字が並んでいる。
『読んでいます。やっと、見つけました。
そんなに、笑顔は難しいですか?』
思っていた返事と違い、視線が揺れて、定まらない。
読まれていた。
そして、私の存在が、誰かに、認識された。
そのことへの緊張と嬉しさが込み上げる。
でも、やっとってどういう意味だろうか。
少し怖いと感じてしまう。
そして、そんなに笑顔は難しいですか。
その言葉が、喉の奥に、体中に突き刺さるような。
共感でも、否定でもない。
予想外の疑問。
でも、その裏に、難しくないだろう。
そんなに、大変か。
頑張れよ。
というような意味を感じてしまって。
ああ、やっぱり、自分の思っていることを伝えるのは、勇気がいるな。
こうやって傷ついてしまうから。
こんな一言で傷ついてしまうから。
弱いな。
弱いな。
もっと、強くなりたい。
鞄の中から筆箱を出す。
「あ」
そんな呟きが宙を漂う。
便箋を、持ってこようと思ったのに、忘れてしまった。
なぜか、どこか息が詰まるような気がして。
何気なく、窓の外に目を向けた。
立ち上がって、真後ろの本棚に腕を置き、外を覗き込む。
白い砂浜。きらきら光る波。深くて、透明度の高い海。
そして、風に揺れる青葉。
気が付いたら、窓の鍵に手をかけていた。
本棚が前にあって、届きにくいけど、体を前に乗り出して、手を伸ばせば届いた。
鉄の冷たさが指から全身に伝わる。ざらざらとした埃の感触。
いつから開けられてないのだろう。
力を入れてもなかなか開かない。
ぐっと力をさらに込める。
カチャッ。
軽快な音と共に、何年も眠っていた鍵が開いた。 そして、窓枠に両手をかける。古い窓枠は歪んでいるのか、ずっしりと重い。全身の体重を後ろにかけ、爪が白くなるくらい指先に力を込める。
ガッ、ガッ、ガガガッ。
抵抗するような乾いた音を立てながら、大きな窓が開いた。その瞬間、 ぶわっ、と部屋の中に押し寄せてきたのは、まるでこの世界のものではないと思ってしまうほど、強くて、濃くて、優しい自然の暴力だった。
小テストの悔しさも、男子に笑われたあの屈辱的な言葉も、全部一瞬で洗い流してくれるような、圧倒的な海の青。視界のすべてが、深く澄んだ空気で満たされていく。
身に纏う、みんなが私に作らせた「乾綴璃」の仮面を、容赦なく剥ぎ取るような激しい潮風が、結んでいた黒髪を乱暴に揺らす。
新校舎に充満していた、早弁の唐揚げの匂いも、茉文たちの甘いグミの匂いも、首筋に無理やり吹き付けた香水の匂いも、全部全部上書きしてくれる、ツンとした本物の潮の香り。
ざあーーー、ざあーーー。
鼓膜を揺らす大きな波の音は、教室のあのヒソヒソ話や、SNSの通知音、頭の中で鳴り響く「正解を探す声」を、すべて力技で遮断してくれた。
そして、夕方に差し掛かる一歩手前の、激しく降り注ぐ陽の光が、私の全てを、隠したかった醜い素顔を、そのまま優しく包み込むように照らしてくれた。
息を吸い込む。すうっと、何の引っかかりもなく、自然と肺の奥深くまで空気が流れ込んできた。
苦しく、ない。
酸素が、体中を巡っていく。 なんて久しぶりだろう。お腹に力を入れず、誰の目も気にせず、ただ生きるためだけに、簡単に、深く息を吸えた。
ここは、息を吸える場所だ。
海の色も、陽の光も、波の音も、潮の香りも、ずっとずっと美しく感じた。
こんなに世界が綺麗に見えたのは、いつぶりだろう。
はあ、と息を吐いて、窓のそばから身を離す。
机の上に広げたままだった筆箱と、便箋。
優しく、触れる。
便箋をファイルに入れて。
筆箱を鞄に放り込んで。
私は図書室を後にした。
ぎい、となる床にも、埃の匂いにも、まだ慣れない。
でも、心地良さが、増えていった。
外へ出ると、さっきまで浴びていた陽の光は、弱くなっている。
潮の香りは変わらない。
一人、家までの道を歩いた。
軽い足取り。
心地よい息。
「ただいま」
そう言うと、
「おかえりー」
とお母さんの声が聞こえてきた。
「今日は生姜焼きよ」
という声に、「やった!」と相槌を打つ。
そのまま、二階の部屋に向かう。
カーテンを閉めないといけないけれど、そんなことよりも。
部屋に入って、すぐに便箋を探した。
たしか、小さい頃お手紙を書いて渡すのが流行っていて、私も持っていたような。
引き出しの奥や、棚を探したけど見つからなかった。
少しして本を置いている棚の隅っこに、便箋を見つけた。
それを手に取ると、ビニールがカサッと音を立てた。
開けられる前で、しっかりと袋が糊付けしてある。
ペリッと包装を外す。
一枚だけ、出してみた。
静寂の中、優しくて、滑らかな手触りのそれは、小さい頃に選んだにしては、センスがよく感じた。
水色のような、青のような、澄み渡る青空のような。
そんな空色と。
紫色のような、灰色のような、紫陽花のドライフラワーのような。
そんな灰紫色。
その二色のグラデーションになっている。
そして、少しだけ、透けていた。
照明にかざすと、なにかがきらきらと光っているように見えた。
封筒は、くすんだピンク。桜色のようにも見える。灰桃色だろうか。
大人びた色彩に、小さい頃の記憶が蘇る。
いつからだろう。
自分の気持ちに嘘をつくことが普通になったのは。
いつからだろう。
笑いたくないのに笑えるようになったのは。
いつからだろう。
全部に模範解答を見つけるのが癖になったのは。
かつて私は、自分の思ったことをそのまま言える子だったように覚えている。
嫌なことは嫌って言えて。
違うことは違うと言えて。
本物の笑顔で笑えて。
「それ、なんか違うと思う」
軽い気持ちで放った言葉に、友達が、時間が、止まった。
どこかで、誰かの笑い声がした。
「それ、今言わなくてよくない?空気読みなよ」
目の前の女の子は、冷めた目で私を見てきた。周りの子たちも、横目で私を見る。
数秒後には、次の話題に流れていく。
私は、まだそこに立っていたのに。
まるで、最初からいないみたいに。
私だけが、数秒前に取り残されていた。
かつては。
強い子だった。
違う。
もしかしたら。
怖かったんだ。
いや、弱い子だった。
それから。
それから、私は私をやめた。
そんな心が痛む記憶は、どこかへ吹き飛ばしてやりたかった。
レターセットをファイルに挟んで、鞄に入れた。
眩しい朝日に身が怯む。
返事を書こう、そう思い足を進めた。
放課後を願いながら、教室に入った。
一限目。
ノートをとる。
二限目も、三限目も。
気がつけば、時計ばかりを見ていた。
放課後まで、あと、二時間。
チャイムの音が耳を揺らす。
やっと、放課後だ。
旧校舎へ。
鞄を手にしたとき、つづりー、と呼ばれた。
はあ、と思いながらも、口角を上げて、なにー?と言う。
「放課後、どっか行こーよ」
トクン、と胸が痛い。
「今日は、ごめん」
そう言うと、二人は、えー、と呟いて、わかったと頷いた。
申し訳ない気持ちと不安が湧いたけど、私は足を動かした。
音を立てて開く扉と、埃と紙の匂い。この前と変わらないそれは、肺を軽くした。
あの本を見つけて開くと、そこには新しい桃色の封筒。
目を見開く。
え、と呟いて、できる限りの優しい指使いで開く。
そして、ゆっくりと目を通す。
『窓、開いてたよ。まあ、たまには悪くないね。』
あ、と声が漏れた。閉め忘れていた。
今、私が手紙を書いている君も、昨日、ここに来たのだろうか。
ということは、私が開けた窓から、私が浴びた風を、君が浴びたんだ。
それに、私が見た景色を、聞いた音を、感じた匂いを、全部全部共有したんだ。
なんだかどきどきする。
どこを見ても、世界が少しきらきらして見える。
この前と同じ席に腰を下ろす。
背中の緊張が解けた気がした。
机に今日来た手紙を置いた。
ふぅ、と息を吐く。
鞄の中のファイルから昨日入れた便箋を取り出して窓の外を見ると、海辺は太陽の光が部屋の照明より眩しく感じた。
窓に向かって、便箋を透かす。
太陽光にきらきらと光る。昨日見た時よりも、ラメが輝いていて、この色が好きになった。
ペンを握る。
うーんと唸りながら、必死に考えるけど、内容が浮かばない。
もう一つのファイルから、君が書いた手紙を取り出す。
机の上の手紙と、今、手に持つ、この前くれた手紙。
そんなに、笑顔は難しいですか。
その問いの答えが分からない。正解が分からない。どう答えればいいのかも。私がどう思っているのかも。
『難しいです』
そう走らせて、少し迷う。
そして、消しゴムを握って、それを消した。
こんなこと書いたら、引かれるかもしれない。嫌われるかもしれない。
『少し、疲れてしまうのです。』
綴った文字を、また、消す。これは、嘘だ。少し、なんて嘘だ。
『笑うのが難しいというか、疲れてしまうんです。そう考えると、笑顔は難しいかもですね。』
これなら、丸じゃなくても、三角くらいもらえると思った。相手も傷つけないだろう。きっと嫌な気持ちにもさせないよね。嘘でもない。これが、今の私の正解だと思った。そして、付け足す。
『窓、ごめんなさい。ありがとうございます。』
そう書いて、半分に折る。ファイルから灰桃色の封筒を取り出し、それを入れてみた。なんだか、わくわくする私がいる。久しぶりに、自然にわくわくする気持ちがした。
あの本の背表紙と最後のページの間に挟む。そして、私は図書室を後にした。
帰っている途中、ブブッとポケットが振動した。
電源ボタンを押すと、茉文と詩葉からのメッセージ。
『日曜遊び行こー』
『あの日行けなかったカフェ行きたい!』
そういえば、もう週末だ。図書室に、行けない。手紙の返事が、少し気になる。
でも、そんなこと考えている場合じゃない。
メッセージを返さないと、早く。行きたいわけではない。でも、最近付き合いが悪いというのは自分でも気づいていた。乗り気じゃない心に蓋をして、指を無理やり動かす。
『行きたい!』
躊躇いが残っているのか、送信ボタンを押す指が微かに震えた。
明日、着ていく服を決めないと。
夜が侵食し始めた空を横目に、カーテンを閉める。
クローゼットを開けて、何かいいものはないかと右から左へ視線を動かす。
柔軟剤の香りが鼻に触れる。
茉文は、ガーリーでフリルたっぷりなかわいい服を着てくる。
詩葉は、大人っぽくてクールだけど、さり気ないレースやリボンがある服。
そんな二人を邪魔しないような服。
昔好きだった花柄のワンピースに目が向く。
ピンクのすべすべな生地に、白い花柄。袖は、フリル。
いつの間にか、手に取っていた。
久しぶりに触れたそれは、昔とは全く変わらなくて。でも、少し派手すぎるかな。
少しワンピースを撫でて、クローゼットに戻した。
地味すぎても浮くし、派手すぎたら邪魔をしてしまう。だから、私服は嫌いだ。正解が分かりにくい。二人がどんな服を着るのか、当日まで分からないし、自分の服がおかしくないのかも、自分では分からない。
それと比べると、制服は楽だ。皆同じだし、着崩しも、二人と同じようにすればいいだけ。
だから、私服は時間がかかるし、難しい。
クローゼットの中の服を取り出しては戻して。
何度もそれを繰り返した。
ひとつのワンピースを取る。
手のひらで撫でると、縦に細くうねった、少し厚みのあるやわらかな心地よい手触りの濃い赤色の温もりが伝わる生地。茶色と暗い黄色のチェック柄は、並木道のようでいかにも秋らしくて、地味でも派手でもない。
だけど、このワンピースは、肩が出るオフショルダー。着ると鎖骨が見えるから、茉文たちから、肌見せすぎとか、気合い入ってるとか、思われたらどうしよう。
その時、近くに掛けてあるシアーシャツが目に入った。
アイボリーのそれは、落ち着いた印象を与えるのに加えて、透け感のおかげで肩を程よく隠してくれるはず。
それに、キャラメル色のレザー調で、ポケットにリボン飾りがある小さめなショルダーバッグを合わせる。
よし、これで行こう。大丈夫なはず。間違いではないよね。
手を握りしめて、クローゼットを閉じた。
そのまま布団に入って、夢の世界に誘われるように目を閉じた。
朝、布団の香りに包まれる中、目を覚ます。
メイクをしないといけないことを思い出した。二人ともメイクが上手で、いつも綺麗だから。
私は日常的にメイクなんてしないから、全く上手くないし、かわいくもなれない。
この前も、茉文はインフルエンサーが紹介していたリップを買っていた。ピンクをイメージさせる、女の子らしいメイクをしてくる。
詩葉は本当にメイクが上手で、たくさんメイク道具を持っていて、ブランドにも詳しい。どんな系統のメイクもとても様になる。
はあ、と息をついた。胸がきりきりとする。
目の前のポーチを手に取り、チャックを開ける。
ドラッグストアで買ったリップに、プチプラのファンデーション、パウダー、チーク。
高校生が普通に持っている物の最小限。
目の前の小さな鏡に向き合う。
二重だけど、小ぶりな目。
高いけど、大きめな鼻。
ふっくらとした頬。
薄めの唇。
嫌なところが目に飛び込んでくる。
そんな醜い顔を早く隠すために、ファンデーションとパフを手に取る。
洗顔をした顔に、ファンデーションを広げる。
茉文と詩葉のきめ細やかな肌が思い出されたせいで、いつもより厚めに塗ってしまった。
パウダーで、少しだけ肌が白く見えるようになって、肌もさらさらになる。
そして、アイブローマスカラ。
これは、お母さんが買ってきてくれた。
そろそろ化粧とかしてみたら、と言いながら。私には、それも苦しかった。あなたもしなさい、と言われているようで。
アイシャドウは、夏休みに二人と遊びに行ったときに、私の顔を見て、選んでくれたものだ。
ブラウンのものとラメを瞼にのせる。
もともと垂れ目気味なのでアイラインは、垂れ過ぎないように気をつける。
チークをのせて、リップを何度か重ね塗りしたら、カラコンを入れる。
二人もつけてくるだろうから。
出来上がって見た顔は、まるで別人だった。
頬に触れたら、普段とは違う感触が伝わる。
昨日選んだ服を身にまとい、鏡を見るとそこには昨日想像していた通りの私。
ほっと胸を撫で下ろし、玄関へ向かう。
「いってきまーす」
そう呟くと、
「行ってらっしゃい」
というお父さんの声が帰ってきた。
少しずつ涼しくなっている道を進む。夏の気配が少しずつ薄くなり、秋がこちらへと歩んでいるような気がする。
夏が過ぎてゆくのに、少しだけ寂しさを感じる。
電車は日曜日ということもあり混んでいた。イヤホンから流れる流行にも、窓から見える景色にも、なんだか嫌気が差した。
二人と何か話すことは無いか。
この服装はおかしくないか。
そんな考えがぐるぐると頭の中をさまよう。
待ち合わせ場所には、十五分くらい前に着いた。
昼下がりの日差しはそこまで強くないし、風も涼しげだからあまり汗はかかなかった。
五分くらいした頃に、詩葉が来て、やほー、と声をかけてくれる。
茉文は二分前くらいに来た。
「おそー」
と笑う詩葉の横で、私も、そうだよー、なんて呟いて微笑む。
すると茉文は、ごめんと頬をかいて、私を見た。何、何か変?鼓動が早まる。
「お、今日めっちゃ秋っぽいじゃん!気合入ってるー」
そう言う茉文は目尻を下げて、くしゃっと笑った。その言葉にどきっとする。気合入ってるって。浮いてる?おかしい?でも、私の口角は癖のようにぐっと上がった。
「ありがと!茉文もガーリーでかわいいし、詩葉も大人っぽくて素敵だよ。」
そう言うと、二人はうれしー、ありがとー、と笑った。私も笑う。
カフェに着くと、まずは席を取った。三人グループは座席が難しい。いつも私が一人の方に座って、隣には、三人分の荷物。
今日も一人の方に座る。二人は、いいの?と聞いてきたけど、全然いいよ!って笑って、とすっと座った。窓から太陽の光が降り注ぐ席。近くにある照明は、丸っこくておしゃれで。
木製の机に財布とスマホを置く。
「何頼むー?」
という詩葉の言葉に、茉文が
「当たり前にハロウィンのフラペチーノでしょ!」
と笑った。
フラペチーノは苦手だから別のにするか迷ったけど、やっぱり
「私もそれー」
と言ってしまった。
注文をして、席に戻ると、二人はカメラを構えて写真を撮り始めた。
カシャ、カシャ、とシャッター音だけが響く。私も二人のようにカメラを構えて一、二枚写真に収めた。
「ストーリー上げていいー?」
茉文が言うと、私も上げるー、と詩葉が返したから、
「私もー」
と呟く。何も考えずに、二人をメンションして、かわいいフィルターをかけて、投稿ボタンを押した。
少しして、茉文が一口啜った。
「やばっ、めっちゃ美味しいんだけど」
目をきらきらさせながら口元に手を置いて、早く飲んで、と言ってきた。
「すごい味濃いね」
口を付けた詩葉はそう言いながらも、おいし、と呟く。
そう感動している二人の横で、私もそれを吸い込む。
キーンと冷たい感覚が脳を突き刺す。やっぱり何度飲んでも苦手だな。苦手なら頼まなければ楽なのに、二人が頼んでるから私だけってわけにはいかない。
味もベリーの甘さとビターチョコの味がすごく濃く感じた。
口をもごもごさせて、味覚を整える。
「あっ、ねえ、ハロウィンさ、みんなでコスプレしてプリクラ撮り行こうよー」
という茉文の言葉に、目を伏せた。
コスプレなんてしたくない。
自信の無い体型に、特別可愛い衣装。
かわいくない顔に、派手で濃い化粧。
絶対に嫌だった。
でも、否定するわけにはいかない。
「いやー、お金ないしコスプレやだ」
その詩葉の声に顔が上がる。
詩葉は、笑いながらごめん、と言った。
「えー、けちー。綴璃、二人だけでもやろうよー」
と縋るような目をした茉文に笑いかける。すうっと息をして、早まる心臓を落ち着かせる。
「私もさー、最近金欠で」
と言うと、茉文は、
「仕方ない、来年かー」
と一人頷いた。
ちびちびと甘ったるい液体を流し込みながら、雑談をしていた。
それなー、わかるー、と笑い続け、間延びする自分の声に気持ち悪さを感じて。
そんなとき、
「あのさ、実は最近、ちょっと勉強で行き詰まってて」
そう話したのは詩葉だった。小テストは必ずと言っていいほど満点で、定期考査だって今までのものは学年十位に入るほど頭がいいのに。
「えっ、どこが」
心底びっくりと言うように目を見開いた茉文が口を開けた。
「いやー、塾の模試がさ、ちょっと悪くて」
そう自嘲気味に笑う詩葉に、なんて声をかければいいか分からなかった。私にはただ、あー、大変だね、と頷くことしかできない。
「そんなの、気にすんなって!大丈夫だよ、いっつも詩葉頑張ってるの知ってるよ。」
茉文が微笑みながら言ったその言葉は、詩葉の表情を少し柔らかくした。私も、そんな風に声をかけられるようになりたい。
誰にでも悩んでることがあるんだな。そう思った。私にも、いつか、二人に打ち明けられる日が来るかな。でも、今は絶対言えない。膝の上で拳を握りしめた。
カフェを出て、三人で歩く。ふと空を見ると、くすんだ紫色と淡い水色。
まるであの便箋のような色だった。
仄かに光る一番星は、ラメのようで。
相手の子、なんて返事を書いてくれているだろうか。相手の子なら、今、二人になんて声をかけるのだろうか。
足が止まっていたのか、二人は振り向いて口を開いた。
「つづりー?どうかしたー?」
まあ、そんなこと考えたって仕方がないけど。
「なんでもなーい」
小走りで二人に追いつく。
駅に着いたとき、三人でトイレに向かった。
私が出たときには、まだ二人とも出てきてなかったから先に手を洗う。
冷たい水が手を包む。ちらっと顔を上げると、そこには私が知らない私の顔があった。
大きな目に、血色感のある頬と唇。そして、白い肌。
誰だよ、これ。
ふっ、と自嘲的な笑みが零れる。
『そんなに、笑顔は難しいですか』
その問いが心を鎖のように縛っていく。
私だって、笑いたくないよ。でも、あなたは、私の返事に、なんと返してくれるの?
二人が出てきたときには、いつの間にか私は普通の、正解の笑みに戻っている。
その夜、ベッドに潜ると、すんなりと眠れた。
早く、明日になって。あの桃色の封筒を、開けたい。
そして待ちわびた月曜日の放課後。
少しずつここの匂いにも慣れてきた。
埃の匂いに、落ち着く脈がある。
探した本の中には新しい桃色の封筒があった。
私は、震える指先でそれを手に取った。


