なにものでもなかった僕が選ぶ幸せになる条件について

 次の生徒会の会合まで、僕は穏やかな毎日を送っていた。
 あの日の太刀山先輩の姿が頭を掠めるけど……
 でも、くよくよと悩んでいない僕は、誰よりも残酷な人間なのかもしれない。
 担任の先生に、昼休み職員室に呼ばれた。

「奥は、短期留学希望してただろ?」
「あ、はい……」

 学校の制度でオーストラリアへの一年間の長期留学と三ヶ月だけの短期留学がある。
 英語が好きだった僕は、一年生の時に短期留学の申請を出していた。

「二年生になったけど、今でも行きたい気持ちはあるか?」
「え! あ、はい。でも生徒会やっているので」
「それは関係ないだろ。二年生の枠が空いてるんだよ。7月から9月まで。奥はTOEICも規定の点数に達しているし、成績は言うことないから、面接だけで決まるけどな」

 先生が、資料と僕の成績表と交互に見ながら話してくれている。
 正直、一年生で枠から外れた時点で、次はないと思っていた。
 行きたい……でも、あと一ヶ月ぐらいしか日がない。

「日が迫ってきているから、決断は早くして欲しいんだけどさ」
「……いつまでに、決めればいいですか?」
「うーん、できれば今週中。でも、ご両親の都合もあるだろうから、来週までは待つよ。先生としては、奥には行って欲しいんだよな」

 先生がにこやかな顔をして僕を見た。

「どうしてですか?」
「生徒会選で、あんなに奥が積極的に動いているのを見たからさ。オーストラリアに行ったらもっと様々な刺激を受けて、変わってくるんじゃないかって期待してるんだよ」

 先生は僕の変化を、身近で見ていてくれた。

「前向きに考えます!」

 留学制度の資料を手に、職員室を出ると、太刀山先輩が前から歩いてきた。
 その姿を見た瞬間、全身が熱くなったが、僕は「おつかれさまです」と情けないほど小さな声を出した。
 太刀山先輩は僕をチラっと見ると、顎で挨拶をして、職員室に入っていった。
 資料を胸に抱えて、僕はその場で深呼吸をしていた。

 家に帰ると、早速僕はお父さんとお母さんに留学の件を話した。
 僕がずっと留学したいことを知っていた二人は、大賛成してくれた。

「ちょうど夏休みだし、良かったじゃない。日本に帰ってきても、勉強の遅れはほとんどないでしょ。あー、でもお母さん寂しくなるかも」
「たった、三ヶ月だよ! あっという間だよ」
「夏休みだし、お父さんたちがオーストラリアに旅行に行って、現地で会うのもいいかもな」
「それ! そうしましょう。旅行会社を調べなきゃ」

 なんだか、僕よりも盛り上がっている二人に呆れながらも、僕は俄然やる気になっていた。
 明日の、会合でこのことは話さなければいけない。
 僕は逃げるわけじゃない、それだけはきちんと伝えようと思った。

🔸🔸🔸

 生徒会室はやっぱり僕が一番乗りのはず……だった。
 でも、意外な人が座っていた。

「ど、どうしたんですか! 昆野先輩!」
「おー。お前やっぱり早いな」
「い、いや、そういうことじゃなくて。え、参加するんですか?」
「俺が参加しちゃ悪いか?」

『昆野は役職を嫌がるからもう参加しない』って聞いてたのに。

「ちーっす。よう、昆野!」
「おつかれさまですー。あ、昆野先輩。こんにちは」

 続々と部屋に入ってくるメンバーが、一様に驚いている。
 誰も知らなかったってこと?

「おつかれー」

 最後に太刀山先輩が北沢と一緒に入って来た。
 僕は視線を合わせないように、端の席に座っていた。

「凪のこと探していたのに。やっぱり早かったね」
「まあな」

 昆野先輩の反応に、太刀山先輩が笑顔で返す。
 僕がずっと見ていた二人の日常。
 
「みんなも驚いていると思うけど、本日から昆野凪にも参加してもらうことになった。一応、役職は大木戸と同じ書記。副会長も二名なら、書記も二名がいいんじゃないかってアドバイスをもらったから、俺が一番信頼している凪にお願いした。昨日、先生にも提出済み」

 一斉に拍手が起こった。
 昆野先輩は照れ臭そうに、右手を上げた。
 昨日、職員室の前で太刀山先輩と会ったのはこのことだったのか。

「で、今日はオックンから話があるんだよね?」
「え!」

 何の前触れもなく、太刀山先輩が僕に話を振った。
 僕の顔を見るわけでもなく、タブレットに目を落としたまま。
 僕は、事前に打ち合わせをしたわけでもないし、議題にもあえて書かなかったのに。
 っていうか、留学の件のことを指してる?

「オックンの話って何?」

 神崎先輩が僕の方を向く。
 僕は、おずおずと立ち上がると皆に顔を向けた。

「じ、実は……僕は7月から三ヶ月間、オーストラリアに短期留学することになりました」
「えー、あれに参加するんだ!」
「再来月ってこと?」
「うわ、僕も申請出しているんです。是非、帰って来たら詳しく教えてください!」

 色々な声が重なって聞こえて、僕はリアクションに困っていた。

「……だから、生徒会を辞めるんだよね」

 太刀山先輩の言葉に、皆の声が静まった。
 やっぱり、先輩は僕の顔を見ようとしない。

「オックン先輩と、太刀山先輩と三人でこれからも色々検討したかったですけど……」
「副会長の二名体制はどうなるんだ?」
「奥、辞めるのか?」

 昆野先輩と目が合った。

「凪、今更確認しなくてもいいよ。保険かけておいてホント良かった」
「え……」
「要を副会長に選んでおいて良かった。逃げる人は、少なからず出てくるからさ」

 僕は……逃げたわけじゃない。
 そう言わなきゃ……僕は一人目の副会長とは違う……そう言わなきゃいけないのに。

「タチ、それは違うだろ」

 昆野先輩の低い声が響いた。

「何が違うんだ?」
「奥は、あいつとは違うだろ。自分で自分の道を選択したまでだろ? それに奥自身、まだ辞めると言ったわけじゃないだろ?」

 太刀山先輩が昆野先輩に向けて、初めて見るような表情をした。
 怒りを抱えているような、絶望したような、呆れたような。
 そんな表情を二人の間で見たことがない。
 太刀山先輩の資料を持つ手に力が入るのが見える。

「奥、自分の口で言えよ」

 僕は昆野先輩に促され、口を開いた。

「……ご迷惑をかけて、申し訳ありません。でも、今の段階で僕は……生徒会を辞めるつもりはありません! 確かに、副会長としての任務は果たせません。でも帰って来たら取り返せるように頑張りたいです」

 僕は、この瞬間まで、生徒会を辞めるつもりでいた。
 でも、自然と続ける意志を口にしていた。
 頭を下げたまま、じっとしている。
 掌に汗をかいていた。
 顔を上げて、太刀山先輩を見る勇気は……ない。

「オックン先輩、待ってます!」

 北沢の声がした。

「三ヶ月って言っても、ほとんど夏休みじゃん。大丈夫だよ、オックン」
「昆野も来たし、この生徒会は安泰、安泰。心配しないでオーストラリア行ってこい」

 口々に僕の決断を、受け入れてくれている。
 勢いよく顔を上げると、昆野先輩とバッチリ目が合った。
 胸が少し苦しくなっていた。

 会合が終わり、各々部屋を出て行った。
 でも、僕はあらためて太刀山先輩と話をしたいと思っていた。
 太刀山先輩と昆野先輩が話している。
 僕は迷わず、声を掛けた。

「太刀山先輩……」

 太刀山先輩が僕に無表情のまま顔を向ける。
 今までとは明らかに違う態度に、僕はもう臆したりしない。

「留学の件をどうして知ったんですか?」
「……熊井先生に聞いた。昨日、職員室で」
「あ、ああなるほど」

 僕が先生に、生徒会のことを話したからそれを太刀山先輩に伝えたのか。

「正直、俺は辞めてもらっても構わなかったけど。さっきも言った通り、要がいるし」
「はい……でも、僕は生徒会を続けたいです。太刀山先輩の公約を実現したいんです」
「残ることが、迷惑だとは考えなかった?」
「え!」

 太刀山先輩の鋭利な言葉に、僕の胸がグサグサと刺されていく。
 それでも、僕はこの場から逃げようとは思わなかった。

「迷惑になるとは考えていなかったです。でも、続けたいです。副会長の任務を解かれても構いません。僕は絶対に逃げません!」

 僕は直立不動のまま、太刀山先輩に訴えていた。
 僕をじっと見つめていた太刀山先輩がふっと頬を少し、緩ませた。

「……俺が変わらず、オックンをコントロールし続けても?」
「おい、タチ」
「太刀山先輩はもう僕を弄んだり、忠誠心を試したりしないと思ってます」
「どうして?」
「僕たちは対等だからです。僕はもう、恐れるものはありませんから」

 僕の答えに、太刀山先輩の表情が冷たくなった。

「そっか。好きでもない相手と一緒に仕事をしていくのは面白くないだろうと思って聞いたまで。帰ろう、凪」

 太刀山先輩は僕に見向きもせず、部屋を出て行った。
 その後ろに続く昆野先輩は、僕の肩を拳で軽く小突くと、何も言わずに出て行った。
 部屋に一人残された僕は、大きく息を吐いた。
 堂々と振る舞っていたつもりだったけど、これ以上話が続けば僕の心臓は持ちそうになかった。
 でも、きちんと伝えるべきことは、伝えた。
 いつの間にか握っていた拳を開くと、掌が真っ赤になっていた。