なにものでもなかった僕が選ぶ幸せになる条件について

 勉強は好きだった。
 嫌、勉強しかできなかったという方が正しい。
 小学校の六年間で跳び箱を飛べたことは一度もない。
 でも、算数も国語もテストは100点だった。
 だから、中学校受験をして、大学までの一貫校に入った。
 僕は勉学に振り切り、常に成績上位を狙い続けた。
 授業が終わると、部活も入らず、遊びにも行かず、直帰した。
 私立の男子一貫校ほど、お気楽な世界はないのにとクラスの子には言われたけど、頑なに群れずに過ごしていた。
 自ずと、話しかけてくれる人は少なくなり、クラスの中で存在感が無くなることに時間は掛からなかった。
 それでも、ある意味自由度が高い校風の中では生きやすかった。
 だから、卒業までモブでいることには何の未練もなかった。

 な・の・に!
 いきなり高校の生徒会という勝ち組しかいないような華やかな世界に導かれるなんて!

『俺は、オックンと一緒に生徒会を盛り上げたいし、個人的にオックンに興味があってナンパした』

 太刀山先輩に言われたこの言葉を頭に浮かべる度に、ニヤニヤが止まらなかった。
 あんなに格好良い人が、僕を必要としてくれた。
 僕が人から必要とされたことなんてあったっけ?
 家に帰って、ベッドの中に入っても、ずっと太刀山先輩の声が聞こえるようだった。

 🔸🔸🔸
 
 次の日、再度視聴覚室に呼ばれた。

「一緒にやってくれるってことでOK?」
「……僕でお役に立つなら」

 僕は不思議と、悩むことなく生徒会への誘いを受け入れていた。
 人から必要とされたことが嬉しい。それが答えだった。

「ありがと! オックンとなら頑張れそうで嬉しいよ」
「よろしくお願いします!」

 太刀山先輩が立ちあがると、右手を差し出した。僕も立ち上がり、頭を下げながらその手を両手で握っていた。
 先輩の手は大きくて、もちもちと柔らかくて、離したくなかった。先輩も離さずにずっと僕の手を握っている。

「すべすべしてるなー。それにしても冷たいな」
「え! あ、はい。一年中手は冷たいんです」

 太刀山先輩が僕の手を優しく揉んでくれている。
 その力の入れ具合が気持ちよくて、指先が少しじわじわと熱が通る感じがした。

「上手ですね……マッサージ」
「そうか? 母親も手が冷たくてさ、こうやって揉んであげてるんだ」

 その優しい言い方に、指と同じぐらい胸の中がじんわり暖かくなった。
 指を揉みながら、太刀山先輩の視線は僕の表情に注がれている。

「……オックンは自分の魅力をわかってないよな」
「魅力ですか……魅力なんてないですよ」
「今日は眼鏡してないんだね」
「あ、はい。今朝は寝坊しなかったのでコンタクトを入れました」

 自分で言っていてちょっと照れ臭くなった。
 眼鏡をしていないと、鎧を脱いだような無防備な気持ちになることがある。
 でもコンタクトの方が煩わしくないし、視界も広い。

「俺は眼鏡を掛けてるオックンの顔が好きだけど」
「はぁ? あ、すみません」

 先輩に対して失礼な声を出してしまって焦る。

「眼鏡男子って好きなんだよ。俺自身は視力が悪くないから眼鏡を掛ける機会がないけど。凪も黒板見る時だけ掛けていて、それがすごく似合っていて羨ましくなる」
「ああ、そうなんですか……へっ」

 僕の手を揉んでいたはずの太刀山先輩の手が、いきなり僕の頬に触れた。
 僕は音が出るほど唾を飲みこみ、先輩の顔を見上げた。

「……オックンさ……この顔で無自覚って。そこ、もう少し意識しようか」
「え、え! どういうことですか」

 太刀山先輩は両手で僕の頬を包み、じっと僕を見つめる。
 僕は何もできないまま、色素の薄い先輩の瞳を見つめて固まっていた。
 僕の心臓の音が聞こえてしまうほど、長い沈黙が続く。
 
「……ちょっといいかな」

 そう言うと、おでこにキスをされた。
 そのタイミングと同時に、視聴覚室のドアが開いた。

「わりぃ、遅くなった」
「うん。上手くいったよ」

 入ってきた昆野先輩に対して、何事も無かったかのように微笑む太刀山先輩を見て、僕は混乱を通り越して、卒倒しそうだった。
 
「そりゃ、良かった。よろしくな、奥和貴!」

 昆野先輩は、片方の頬だけを上げてニヤリとした。
 僕は相変わらず、唾を飲みこむことに精一杯で上手く返事ができない。
 身体もフラフラして、よろけないように机の端をがっしりと掴んでいた。
 でも、ここは何事もなかったかのように振る舞わないと。

「よ、よろしくお願いします。昆野先輩」

 太刀山先輩は僕と距離を置いて立っていた。
 でも、僕の身体はさっきまで感じていた先輩の温度を覚えていた。

🔸🔸🔸

 太刀山先輩、昆野先輩、僕と三人で校舎を出る。
 今週末、僕は生徒会の選挙に向けた対策委員会に紹介される。
 選挙は4月の下旬。
 入学してきたばかりの一年生への投票協力など、することは山積みらしい。
 僕はすっかり、太刀山先輩と二人だけの世界にいるつもりになっていたけど、生徒会に関わる人数は多い。
 今まで、あまり人と接してこなかった僕としてはこれが一番の課題になりそうだ。

「オックン、聞いてる?」
「は、はい?」
「マック寄ってかないって話」
「え、ああ、はい」

 マズい。頭の中の一人会話に没頭し過ぎて、先輩たちの声をスルーしていたみたいだ。

「面白いね。頭の中でいろんなことを考えているんだろうね」
「え! どうしてそれを……」
「図星か? ウケるわー」

 見抜かれていた!
 僕は自分を守るように思わず、カバンを前に抱えた。

「……俺もそうだったからさ。わかっちゃうんだよなー」
「た、太刀山先輩がですか?」
「うん。そうだよな、凪?」

 太刀山先輩は少し前を歩いている昆野先輩に飛びつくように肩に手を回した。
 昆野先輩は太刀山先輩よりも、ちょっとだけ背が高い。

「なんだよ、イテーよ」
「俺が陰キャ時代のは・な・し」
「太刀山先輩が陰キャって。なわけないじゃないですか!」
「陰キャだよ、コイツ」

 陰キャと言われて、太刀山先輩が声を出して笑っていた。
 え、陰キャの定義ってイケメンってことなの?

「……だから、タチはお前を誘ったんだよ」
「誘ったんじゃなくて、ナンパしたの」
「い、意味がわかりませんが……」

 太刀山先輩は僕と歩幅を合わせると、腕を組んできた。
 さっきの、おでこのキスが思い出されて表情筋がゆるまないように力を入れる。

「俺はさあ、陽キャも陰キャも意識しないで学生生活が送れるルール作りをしたいんだよね。そのために生徒会長になって改革したいと思っている。まあ、三年で会長になっても半年ぐらいしか活動できないけどさ。でも、一年や二年の時はそこまでの情熱は無かったんだよなー。気づくのが遅すぎたのは後悔してる」

 初めて、太刀山先輩の生徒会に対する思いを聞いた。
 本当であれば、一番大事な部分だけど……

「でね、俺が半年で退いた時に、その思いを繋げてくれる人がいて欲しくてさ。それがオックン」
「ぼ、僕ですか?」
「そう! 俺の審美眼に狂いはないよ。モブなんて自虐的な言葉、絶対に今後は使うなよ」

 僕はすぐに返事ができなかった。
 自虐的……確かに、誰かに言われたわけでもなく自分で自分を定義していただけ。
 太刀山先輩が僕の頭に手を回すと、自分の肩に押し付けた。
 香水? 爽やかな良い香りが鼻をくすぐる。
 前を歩く昆野先輩は、後ろを振り返ると呆れたような声を出した。

「タチ、ちょっとビビってるぞ。もう少し時間を置けよ。また、逃げられるぞ」

 逃げられるってどういうこと?

「オックンは大丈夫だよ。もう免疫できてるから。な?」
「は?」

 いや、いや、いや。
 免疫って!
 僕は恐る恐る、僕たちを見ながら、後ろ向きで歩いている昆野先輩に顔を向ける。
 ニヒルな顔っていうのかな?
 呆れたような、でも、ちょっと笑っているような表情をして僕たちを見ていた。

「奥和貴。タチに振り回されたら俺に何か言え。悪いようにはしないから」
「それ! 凪は一生涯、俺の味方だろ」
「味方だから、言ってやってんの。奥和貴、わかったな!」
「は、はい!」

 なんでフルネーム呼び捨てなんだよ!
 太刀山先輩は再び、昆野先輩の肩に手を回して歩いている。
 絵になる二人。
 僕は遅れないように二人の後を追った。