なにものでもなかった僕が選ぶ幸せになる条件について

 広いマンションだった。
 ショールームみたいにキレイな部屋には、物がほとんど置かれてない。

「ほぼ一人暮らしなんだよ。親は月に一回、戻って来るかって感じ」
「え? どこかに行ってるんですか?」
「北海道。巧もそこにいるよ」
「え! 北海道?」

 リビングのテレビボードの上に家族写真が飾ってあった。
 ご両親と、先輩と、妹さん?

「ソファに座って。オレンジジュースしかないけど」
「ありがとうございます。これ、妹さんですか?」
「うん。北海道にいる。病気なんだよね……だから、お母さんの実家ののどかなところで暮らしている」

 太刀山先輩の声に力がない。
 僕は隣に座った、先輩の腕の服を握っていた。

「オックン、誰もいないんだから、服を引っ張るんじゃなくてこうやって手を回してよ」

 そう言うと僕と腕を組み、僕の肩に頭を乗せた。

「オックンといると、ホントに落ち着く」
「甘えてますか?」
「うん、甘えてる」

 猫みたいに僕の肩に頭をすりすりさせる、先輩が可愛い。
 思わず、僕はその頭をなでなでする。

「一人でいるのには慣れてるけどさ、こうやって近くにいてくれる存在ができると、弱気になるよね……」

 いつもの優しい声に、寂しさが上乗せされたみたいに感じて、僕は組んだ腕に力を入れた。

「ちょっと痛いかも……」
「あ! ごめんなさい! 寂しそうだったから……」

 こういうことに慣れてない僕は、空回り気味だ。

「優しいね……だから、俺はついつい甘えちゃうんだな」
「僕ができることは何でもします。っていうかしてあげたいです。でも、まだまだ経験不足かも……」
「オックンのそういうピュアなところが好きだよ。今度はどこ行こうか?」
「うーん、遊園地!」
「いいね。夏休みに旅行でも行く?」
「行きたいです!」

 この広い家に、一人で帰ってきて、一人で出掛ける太刀山先輩を想像して、僕は何があっても絶対に一人にさせたくないと思った。
 だから、GWも夏休みも、ずっと一緒に過ごしたかった。

「ご飯とかどうしてるんですか?」

 僕はもっと太刀山先輩のことを知りたくなっていた。
 付き合っていても、学校以外でのことはあまり聞いたことがない。
 今日、初めて先輩の家に来て、先輩の寂しさを感じてしまったから。

「ん? 自分で作ったり、買ってきたり、食べなかったり……」
「太刀山先輩は自分で料理作るんですか!」

 太刀山先輩は僕の肩から顔を上げると、僕の顔をまじまじと見た。
 え? なんかヘンなこと言ったかな……

「そんなに驚くこと? 一人生活が長くなると自分でするしかないし。弁当だって作ってるよ」
「そ……尊敬します」
「今度、オックンのために作ってあげるね」
「マジですか!」

 僕は嬉しくて、ソファの上でぴょんぴょんとお尻をバウンドさせていた。
 そんな僕を見て、太刀山先輩は声をあげて笑っている。

「ホント、なんでそんなに言う事や、やる事が可愛いんだ? あざといよね、オックンは」
「え! あ、あざとくなんてないです……天然です!」
「あはっ! そっか天然か、確かに。俺はオックンといることで笑顔が多くなったらしいよ」
「どういうことですか?」

 太刀山先輩は僕の手を握りながら視線を落とす。

「……俺が陰キャだって話したことあっただろ? ホントに友達は一人か、二人いてくれればいいくらい、他人と距離を取っていた。いや違うな、他人との距離感がわからないんだよ。だから、仲良くなると過度な期待を求めてしまって、相手が俺から離れていくのが怖くなる……」

 僕の頭の中では、太刀山先輩との間に起こっている様々な認識のズレが駆け巡る。
 でも、今はそれを黒く塗りつぶしたい気持ちになっていた。

「慎重にならざるを得なくて、人から見たらクールだとか、スカしてるとか、なんとかって言われるようになって。極端なことを言えば、凪以外の前で大口開けて笑うなんてことはなかったんだよ。でも、オックンといると自然と笑っていられた。不思議だよね……」

 太刀山先輩は僕の目を見て、薄く笑った。
 僕はその笑顔に、悲しくもないのに、何故か泣きたくなるような気持ちが湧いていた。

「僕が先輩の笑顔を引き出せたんですか?」
「うん。だからずっと一緒にいて。俺のオックンでいて」
「……ずっと一緒にいたいです」

 太刀山先輩は、僕を強く引き寄せて唇を合わせた。
 今までに感じたことがない強引さに、僕は身体に力が入る。
 唇を離すと、先輩は僕の指を一本、一本、自分の指と絡めていく。
 ただ、指を絡められているだけなのに、僕は頭の先からつま先まで、電流が貫通したようにしびれた。

「もっと、オックンを俺のものにしたい……いい?」

 僕の目の奥を探るような視線を向けられた。
 怖い……でも、離れたくない。

「……怖がらないで」

 先輩はソファから立ち上がると、僕の手を引く。
 僕は手を引かれながら、先輩の部屋へ入った。

🔸🔸🔸

 GWの最終日。
 昆野先輩とは、この前会った美容院がある駅の公園で待ち合わせをした。
 雲一つない、真っ青な空を見上げて、僕はベンチに座っていた。
 ここのところ、僕はかなりフワフワしているらしい。
 お母さんにも、休みだからってなまけてないで! と何回も言われた。
 別に、なまけてないし……
 毎日、夜中まで太刀山先輩とビデオ通話しているから、どうしても朝起きるのが遅くなる。
 仕方ないじゃん。休み中は、許してよ、お母さん。

「よ!」

 昆野先輩が真っ白なTシャツ姿で近づいてきた。

「おはようございます。あ、これどうぞ」

 僕は買っておいたアイスラテを手渡した。
 この間、カフェで奢ってもらったお返し。

「お、わりぃな。で、お前は冷たい牛乳飲んでるの?」
「冷たい牛乳なら、家で飲めます!」
「確かに」

 昆野先輩とだと、全く緊張せずに軽口が叩ける。
 いっつもそれが不思議だった。

「休み中はどうしてた?」
「あー、はい。色々と……」
「タチとデートとか?」

 僕はニヤけるのを隠せなかった。
 隣に座った先輩は、僕の顔を横から見つめている。

「お前、ホントわかりやすいな」
「なんか、昆野先輩の前だと素の自分が出ちゃいます」
「……そっか」

 僕はあの日以来、太刀山先輩の家に通っていた。
 遊園地で遊ぶよりも、二人で家に籠っている方が楽しかった。
 ゲームしたり、映画見たり、先輩が作った料理を食べたり……キスしたり。
 だから、昆野先輩との約束も忘れるところだった。
 もう、あの話は聞かなくてもいいかも……とすら思っていた。

「ん! 美味しいこの抹茶ラテ」
「甘い物好きだよなー。ファミレスでも食ってたもんな」
「時くんにも言われま……あ、ああ、太刀山先輩です!」
「ふーん、時くんね」

 マズい! マズい! 二人でいる時にだけ呼ぶ呼び方をこんなところで出してしまうなんて!
 でも、昆野先輩ならいいか。

「そのニット、渋谷のあの店のだろ」
「はい。先輩に選んでもらいました」

 僕は着ているニットの肩の辺りを両手で引っ張り、自慢げに横にいる昆野先輩に見せた。

「順調そうだな。タチからもノロけのLINEがウザいほどきてる」
「そうなんですか? うわー」
「……だから、もう話さなくてもいいんじゃないかと思ったけど」

 昆野先輩も僕と同じ考えだったのか……

「お前の意思に任せる。聞きたいか? それともこのまま知らないままでいるか?」
「……聞いたら僕は後悔しますか?」

 先輩は僕の目をじっと見つめると、左頬を上げていつもの表情をした。

「俺は奥和貴じゃないからわからないよ。お前が決めろ」

 その表情と、ぶっきらぼうな言い方のギャップに、僕は何故かホッとしていた。
 昆野先輩は、僕に向き合ってくれている。

「教えてください」

 昆野先輩は深く頷いた。

「お前は三人目の副会長じゃない。ただ、一人目はいた。だから半分正しくて、半分誤りってことだ」

『オックンで三人目だよ。副会長と名乗った人が』

 遠野が僕に言った言葉。
 あれは僕を挑発するための、誇張?

「その一人目の人はどうしたんですか?」
「……逃げた」
「え? に、逃げた? それってどういう状況なんですか」

 昆野先輩は、正面に見える、かけっこをしている子供に視線を向けた。
 僕も、自然とその子供を追ってしまう。

「タチが生徒会長をやると決めた理由は、奥も聞いてるだろ。それに関しての嘘はない。2月に対策委員会のメンバーを集めていた時に、そいつに声を掛けた」
「誰なんですか?」
「お前と同じ学年の奴。でも、もう関係ないから名前は出さない」

 二年生の一人……

「……そいつは、タチのファンだったんだよ。あの学校新聞のインタビューを読んで、北沢みたいに自分をアピールしてきた。その時は、タチも生徒会長をやろうとは思っていなかったけどな」
「ファン……?」
「お前も感じているだろうけど、タチは自分を好いてくれる人を囲う。悪気はない。でも人によっては特別に感じるし、窮屈に感じる人もいる」

 僕の心臓がコトっと鳴った。 

「だから、そいつと一緒に生徒会をやろうという気持ちになったのは自然なことだったんだよ」
「……はい」
「そいつは、自分で自分のことをアピールするぐらいだから、少なくとも野心があるように見えた。俺は苦手なタイプだったが、タチは自分を好きでいてくれるなら上手くやっていけると信じてた。でも……」
「……逃げられた」

 昆野先輩が頷いた。

「どうして、逃げる必要があるんですか? 意見の相違があるなら話し合えばいいのに」
「……お前も、タチに対して意見を言えなかっただろ?」
「あ……」

 今だって、完全に話し合いができているわけではない。
 僕が知りたいことと、太刀山先輩の答えとのズレは、解消できていない。

「タチの悪い癖が出た。自分に同意する人数を増やしてから話すと、相手は反論すること自体が悪いことだと感じるようになる。外堀からじわじわ攻め立てられれば、意見を通すこと自体面倒になる」
「……僕も感じることはあります。でも、辞めたのではなく、逃げたって昆野先輩が言う、理由はなんですか?」

 昆野先輩はストローを口に咥えたまま、じっと地面を見つめている。
 僕は、無意識にストローを齧っていた。

「……そいつが、先生に言ったからだよ。生徒会長に立候補する先輩から精神的な苦痛を受けたから、逃げました。他の人が同じように、先輩に好き勝手な扱いを受けないように厳重注意してくださいって」

『同じ二年として、オックンが三年生の使い捨てにならないといいなって思っただけだよ』

 待って、その逃げた人って……

「……俺は、タチの親友でもあるけど、お前のことも心配してる。大きなお世話だとは思うけどな」
「え……」
「逃げる前に、自分の意見は面と向かって主張しろ。お互いに信頼しているなら、簡単に関係が崩れることはないはずだろ」

 昆野先輩が僕の肩を叩いた。
 でも、いつもよりも優しく。
 僕は、その優しさに、自分の中で解決できないことを答えてほしかった。