ホテルに戻ったのは、二十二時を過ぎた頃だった。部屋着に着替え、備え付けの緑茶を淹れる。温かい湯呑みを両手で包むと、指先からじんわりと熱が伝わってきた。
ああ、これだ。東さんが同じように湯呑みを包んでいた仕草を、私はいつの間にか真似ていた。長年誰かの手を見て覚えるというのは、こういうことなのだろう。祖母の手つきも、こうして誰かに受け継がれていくものなのだと思う。
から揚げと東さんの言葉で満たされたお腹の底が、まだほんのり温かい。頭の中の靄が少しずつ晴れていく。
スマホには、まだ篠原さんからの着信履歴が残っている。画面に指を置いたまま、私はしばらく動けなかった。
今日はもう遅いし、明日の朝でもいいか。そう自分に言い訳しかけて、指を引っ込める。
いつもの自分なら、きっとそうしていた。連絡は後回しにして、翌朝ぎりぎりになってから、当たり障りのない報告だけを済ませる。
けれど今夜は、それで済ませたくなかった。心臓が少し速くなるのを感じながら、私は画面をもう一度タップした。
呼び出し音が鳴る間、切ってしまいたい衝動と何度も戦った。
「高遠です。夜遅くに申し訳ありません」
「どうだ、向こうの条件、飲めそうか」
急かすような声に、今日一日の色々なことが頭をよぎった。値引き交渉、あさひ食堂、東さんが話してくれた祖母のこと。
私は一度息を吸って、ゆっくり話し始めた。
「十パーセント引きを、そのまま飲むのは正直厳しいと思います。そこで、条件を分けて、初回だけ十パーセント、二回目以降は八パーセントに戻して、継続発注で回収する形なら提案できるかと。明日の朝、もう一度その線で交渉してみます」
数秒、篠原さんは黙っていた。電話の向こうで紙をめくるような音がする。その沈黙の間、心臓の音がやけに大きく聞こえた。
「……まあ、それでいい。任せるわ」
拍子抜けするくらい、あっさりした返事だった。
いつもなら「上の判断を仰いでから」と一旦持ち帰っていたはずなのに、今日ははっきりと、思っていることを言葉にして伝えていた。それだけのことが、思いのほか自分を軽くしてくれた──はずだった。
電話を切ったあと、スマホを握ったままベッドに座り込む。
……今の、生意気だと思われなかっただろうか。『任せるわ』は、本当に信頼されたからなのか、それとも呆れられて突き放されただけなのか。
明日、坂本さんがこの条件を突っぱねてきたら。篠原さんに「だから言っただろう」と言われたら。想像するだけで、また肩に力が入った。
それでも、と私は思い直す。言わずに後悔するより、言って失敗する方が、まだいい。少なくとも今夜だけは、そう思うことにした。
◇
翌朝は、いつもより少しだけ早く目が覚めた。せっかくだから、とホテルの一階の朝食会場に降りると、地元食材を使ったビュッフェが並んでいた。
ホタルイカの沖漬け、昆布締めの刺身、白えびの佃煮──富山らしい品が、和食コーナーの端にそっと添えられている。
いつもの出張なら、コーヒーとパン一つで済ませるところを、今日は小皿にホタルイカと昆布締めを少しずつ取り、白米と味噌汁もきちんと用意した。
窓際の席に座り、湯気の立つ味噌汁を一口すすると、貝の出汁の優しい塩気が、まだ半分眠っている体にじんわりと染みていく。
昆布締めの刺身を一切れ口に運ぶと、噛むほどに甘みが増していく。思わず「美味しい」と、小さく声が漏れた。ホタルイカの沖漬けも、コリッとした歯ごたえのあとにねっとりとした旨みが広がって、箸が止まらなくなる。
隣のテーブルでは、出張中らしいスーツ姿の女性が一人、タブレットで資料を確認しながら、器用にご飯と味噌汁を口に運んでいた。
目が合うと、彼女は少し照れたように会釈をした。
「それ、美味しいですか?」
つい、声をかけていた。彼女は昆布締めの小皿を見せて、「初めて食べたんですけど、これ、当たりですね」と笑う。
私も白えびの佃煮を勧めると、「今度、自分も取ってきます」と席を立った。ただそれだけのやりとりだったけれど、似たような朝を過ごす誰かが、この街のあちこちにいるのだと思うと、少しだけ心強かった。
白えびの佃煮を一つ、ご飯の上にのせて食べる。昨夜のから揚げほどの衝撃はなかったけれど、優しい甘辛さに、ふと東さんの顔が浮かんだ。
今頃、あさひ食堂はもう仕込みを始めている時間だろうか。今日一日を静かに後押ししてくれるような味だった。
◇
朝食を終えてホテルを出ると、十一月の朝はやはり肌寒く、白い息が立ちのぼった。
商談先に向かう道すがら、コンビニに立ち寄る。レジ横に並んだ地元産の食材のコーナーに、氷見産の昆布締めのパックが目に留まった。
昨夜も同じ氷見産のおつまみを買ったな、とふと思い出す。少し考えて、それを一つ買い物かごに入れる。東京に帰ったら、自分なりに何か作ってみよう。
会議室に近づくにつれ、昨日の坂本さんの固い表情が頭をよぎった。あの調子だと、今日もすんなりとはいかないかもしれない。手のひらに、うっすらと汗が滲む。
会議室に通されると、坂本さんが昨日と同じ席で、資料を片手に待っていた。昨日は終始表情を崩さず、こちらの言葉に相槌一つ打たなかった人だ。今日はどんな顔をするだろう。
「昨日の件ですが」
私は胸の前で一度静かに息を吐き、資料をテーブルに広げた。昨夜まとめた提案を、自分の声でまっすぐ切り出す。
「十パーセント引きを、そのままお受けするのは正直厳しいところがあります。ただ、初回のご発注分に限り十パーセント引きとさせていただき、二回目以降は八パーセントに戻す形で、継続発注──最低半年間、月三百ケース以上でご相談させていただければ、双方にとって無理のない着地点になるのではと考えております」
坂本さんは資料に目を落としたまま、しばらく黙っていた。ペン先で数字をなぞるような仕草を見て、心臓が少し速くなる。
篠原さんの声が、また耳の奥をよぎった。明日中に、色よい返事を──けれど今は、あの声に急かされているのではなく、自分のペースで話している感覚があった。
「……継続、というお話ですが」
坂本さんはようやく顔を上げた。昨日よりわずかに柔らかい表情だったけれど、続く一言に、背筋がまた強張った。
「半年で区切りをつけるのは、こちらとしても少し短く感じます。せめて一年は同条件でお願いしたいところですが」
想定より一歩踏み込んだ要求だった。ここで安易に頷けば、社内で説明がつかなくなる。かといって突っぱねれば、昨日と同じ堂々巡りに戻りかねない。手のひらに汗がにじむのを感じながら、私は資料の数字に目を落とした。
「一年間の固定は、弊社としても即答は難しいところです。ただ、半年経過時点で発注実績が今回のご提案数量を上回るようであれば、その時点で契約期間の延長についてもご相談させていただけますが、いかがでしょうか」
譲れるところと譲れないところを、その場で自分なりに切り分けて口にした。うまく言えた自信はなかった。それでも、黙ってしまうよりはましだと思った。
坂本さんはしばらく私の顔をじっと見ていた。長い数秒だった。
「……なるほど。それなら、継続前提であれば社内でも通しやすいですね」
坂本さんはそう言うと、初めて小さく頷いた。昨日は一度も崩れなかった表情が、わずかに緩んだ。強張っていた肩から、力がすっと抜けていくのが分かった。
「一点だけ確認ですが、継続発注の最低数量は、月三百ケースで固定という理解でよろしいですか」
「はい。ただ、初年度は御社の在庫状況を見ながら、多少の調整はご相談に応じられます」
その一言に、坂本さんはようやくペンを置いた。
「分かりました。この条件で、社内稟議を進めます。ご丁寧な提案、ありがとうございました」
商談は、思っていたよりすんなりまとまった。初回だけの譲歩案は、相手にも悪くない着地点だったようで、担当者の表情も昨日より柔らかかった。握手を交わした坂本さんの手は、思いのほか温かかった。
「ありがとうございました」と頭を下げながら、胸の奥からじわじわと温かいものが込み上げてくるのを感じた。
誰かの決断をそのまま受け入れるのではなく、自分で考え、自分の言葉で伝えた提案が、相手に届いた。
ほんの小さな一歩かもしれない。けれど、胃の底に居座っていた重い石が消え、代わりに、静かな誇らしさが胸に満ちていた。
会議室を出ると、廊下の窓から差し込む朝の光がやけに眩しく見えた。駅までの道のりが、来た時よりずっと短く感じられた。
ふと、きっちりひとつに結んでいた髪をほどいてみる。冷たい風が首筋を撫でて、少しだけ肩の力が抜けた。
もう一度結び直しながら、私は東さんの言葉を思い出していた。
本当の味とは、少し違うだろう。それでいい、と今は思う。祖母の味をそっくりそのまま再現することはできなくても、あの日教わった手つきや、粗く挽かれた塩の感触は、ちゃんと自分の中に残っている。
次にまた出張で富山に来ることがあったら、あさひ食堂に寄ってみようか。そんなことを考えながら、私は新幹線のホームへ続く階段を上った。



