背中に、すっと鳥肌が立つような感覚があった。
偶然入った路地裏の小さな食堂。偶然頼んだから揚げ。ただ街を歩いていただけの自分が、時を超えて祖母の生きていた時間にたどり着いてしまったような──そんな奇跡みたいな縁が、喉の奥を熱くする。
「……はい。信子の、孫です」
声が小さく震えた。写真の中ではにかむ若い頃の祖母が、まるで「よう来たね」と笑っているような気がした。
東さんは写真をカウンターに置くと、私の前に新しい湯呑みを出し、自分の分も淹れてから、向かいの椅子に腰を下ろした。
両手で湯呑みを包むように持つ、その仕草に見覚えがある気がしたけれど、この時はまだ、それが何なのか分からなかった。
湯気の向こうに、ほうじ茶の芳ばしい匂いが立つ。もうお客は私一人だったから、営業中というより、世間話でもするような空気になっていた。
「信子さん、東京行ったって聞いとったけど……そうか、もう亡くなったがか」
「はい。去年の秋に。実は今週末、ちょうど一周忌なんです」
言ってしまってから、自分で少し驚いた。誰かにわざわざ話すつもりはなかったのに、東さんの前だと、なぜか自然と言葉が出た。
「そうか。それであんた、この街に?」
「いえ……本当に偶然なんです。出張でたまたま富山に来て。祖母の実家がこの辺りだったって、母から聞いていたので、なんとなく歩いてみただけで」
「ああ、そういえば」と東さんは湯呑みを置き、写真の隅を指先でとんとんと叩いた。
「信子さんの家は、うちとは別に、ここからもう少し先で食堂やっとったんよ。うちとは商売敵いうより、近所同士で助け合っとった感じやね。今はもう畳んでしもて、跡形もないけどね」
──実家が、食堂を。
初耳だった。だから写真は、その食堂の前で撮られたものなのだ。近所の食堂同士、幼馴染同士で、きっと互いの店を行き来していたのだろう。
東さんは湯呑みを一口すすり、視線を宙に浮かせたまま、しばらく黙っていた。それから、思い出すように、ぽつりぽつりと話し始めた。
「うちの母、生きとる時によう言うとったわ。信子さんは、ほんとはその店を継ぐ話もあったんやって」
継がなかったことも、それを継ぐ話があったことも、家族の誰からも聞いたことがなかった。
「祖母は、継がなかったんですか?」
「継がんかった。東京の人と一緒になるいうて、周りの反対押し切って出て行ったんやと。当時は、それはもう、親戚中から色々言われたみたいやよ。わがままやとか、勝手やとか。長女やったし、店を継ぐのは信子さんやろうって、みんな思っとったみたいやしね」
私が知る祖母は、いつも控えめで、誰かに逆らうような人ではなかった。家族の前では、自分の意見よりも周りの空気を優先するような人だった。……そう思っていた、私は。
優しいだけの祖母、という像が、静かに崩れていく。誰にも頼らず自分で決めて、その代わり長く故郷から距離を置いた人。私が知らなかった、もう一人の信子。
──ずるい。ふいに、そんな言葉が浮かんだ。自分の意志を通して、それでも周りから語り継がれるくらい愛されていたなんて。私なんて、誰の反対も押し切ったことがないのに。
そう思ってしまった自分に、すぐ嫌気が差した。祖母はもう何も言い返せないのに。
東さんは湯呑みを一度置き、ふう、と息を吐いた。それから、少し声を落とした。
「うちの母は、信子さんのこと悪くは言わんかったけどね。ただ、"信子ちゃんは、ほんとは寂しがり屋やったがに、気丈に振る舞っとった"って。東京行ってからも、里帰りはほとんどせんかったみたいで」
「どうしてですか」
「自分で選んだ道やもん。簡単には、帰りづらかったんやろうね」
湯呑みの中のお茶が、ゆっくりと冷めていくのを見つめながら、私は言葉を探していた。
「意外そうな顔しとるね」
「はい……祖母は、いつも周りに合わせる人だと思っていたので」
そう言った瞬間、頬がすっと強張るのを感じた。
半年前の商談。本当は一つだけ、譲れないと思っていた条件があった。それでも『上がそう言うなら』と、篠原さんの判断に頷いただけで、自分の意見を口にはしなかった。
あの時も、今日も、同じことを繰り返している。誰かに合わせることに、いつの間にか慣れていた。
祖母もそうだったのだろうか。それとも──一度だけ、自分の意志を通した人だったのだろうか。控えめに見えていたあの人の内側に、故郷を捨ててでも進みたかった何かがあったのだとしたら。
「じゃあ、私も……」
そこまで言いかけて、慌てて口をつぐんだ。
東さんは何も言わず、ただ静かにこちらを見ていた。何かを見透かされたようで、居心地が悪くなる。
言おうと思えば言えたのに、結局最後まで口には出せなかった。いつもの自分と、同じだ。
それでも、声にならなかった続きを、私は心の中だけでそっと確かめた。これから少しずつ、ちゃんと自分の意見を言おう。祖母がそうだったのなら、私にも、そういうところがあるかもしれない。
黙り込んだ私の顔を見て、東さんが小さく笑った。
「そんな、思い詰めた顔せんでも。信子さんかて、最初から強かったわけやないやろ。長い時間かけて、そうなっていっただけやと思うよ」
たしなめるでもない、軽い調子だったけれど、頬が熱くなるのが分かった。心の中の呟きまで見透かされたような気がして。
私は東さんの横顔を見つめる。
彼女のお母さんは、故郷に残ることを選んだ。祖母は、故郷を出た。選んだ場所は正反対なのに、二人とも、自分で選んだことに変わりはない。
私はどちらでもなく、ただ流されるように今の場所にいる。そして今、目の前にいる東さんもまた、その意志を継いでここで生きることを選んだのだ。
それに気づいて、少しだけ足元が心もとなくなった。けれど同時に、これから選び直すことだって、まだできるはずだとも思えた。
「うちも、この店継ぐのに迷わんかったわけやないよ」
東さんはぽつりと言って、湯呑みの縁を指でなぞった。
「若い頃は、こんな古い店継ぐより、街を出て好きなことしたいと思うとった時期もあったし。決めた、いうよりは、信子さんが出て行った分、うちが残る番やったんかもしれんね」
その一言だけで、十分だった。控えめに見えていた祖母の裏に強さがあったように、飄々として見える東さんの裏にも、迷いや選択があった。誰の人生も、見えている部分だけではないのだと、今さらのように思う。
しばらく、どちらも黙っていた。厨房の隅で、鍋の湯がことこと鳴る音だけが続く。東さんが布巾で手を拭い、ふいに立ち上がった。
「もう一皿、揚げたるわ。から揚げの作り方、教えてほしいがでしょう」
断る理由もなく、私は頷いた。厨房に戻った東さんがコンロに火をつけると、青い炎が小さく上がる。
「うちのも、母の見よう見まねやから、信子さんの本当の味とはちょっと違うかもしれんよ」
そう言いながら、片栗粉に何かを少し混ぜて見せてくれる。白えびをくぐらせると、さらさらとした粉が薄く纏わりつき、油に落とすと軽やかな音が弾けた。菜箸の先で、東さんは丁寧に一匹ずつ返していく。
「片栗粉に、米粉をほんの少し混ぜるが。それで、余計な粉っぽさが出んと、白えびの甘みが立つ」
揚げたてに振る塩は、立山の岩塩を粗めに挽いたものだという。パラパラと音を立てて振られる塩の粒を見ながら、私はスマホでメモを取った。
油の温度、粉の配分、塩を振るタイミング──一つひとつ、聞き漏らさないように。
祖母の味と、寸分違わず同じにはならないだろう。それでも、こうして目の前で誰かが手を動かして見せてくれることが、何より嬉しかった。
「東さん」
「うん?」
「ありがとうございます。今日、ここに来られて良かったです」
東さんは少し照れくさそうに、「ええがええが」と手を振った。それから、思い出したように付け加えた。
「信子さんも、きっと喜んどるよ。孫がこうやって、味探しにわざわざ来てくれたんやから」
わざわざ来たわけじゃない、偶然だ。そう言おうとしたけれど、なぜか声にはならなかった。
本当にそうだろうか。富山だと聞いた時、母の言葉を思い出したのも、賑やかな通りから一人離れたくなったのも、地図に住所を入力したのも。振り返れば、どれも誰かに言われたからではなかった。
窓の外では、いつの間にか小雨が降り始めていた。



