夜になって、あたりはしんと静まり返っていた。冷たい風が吹き抜けるたび、束ねた髪の後れ毛が首筋をくすぐる。コートの前を掻き合わせながら、私は地図が示す方向へ歩いた。
観光客向けの明るい通りを抜けると、急に街灯が少なくなり、古い商店が肩を寄せ合うように並ぶ路地に出る。
かつては、呉服屋か荒物屋だったのだろう。シャッターに色褪せた屋号だけが残る店が、いくつも並んでいた。
どこかの家の軒先には干し柿が整然と吊るされ、街灯の橙色の光を受けてひっそりと揺れていた。
シャッターの下りた店が多い中、一軒だけ、磨りガラスの引き戸からオレンジ色の灯りがこぼれている店があった。出汁の匂いだろうか、甘辛い香りが路地にまで漂っている。
【あさひ食堂】
木の看板に、かすれた文字でそう書いてある。祖母の実家があったという住所とは少しずれていたけれど、なぜか足が止まった。
お腹は先ほどの丼と、コンビニのつまみで満たされていたはずなのに。体の方が勝手に、引き戸に手をかけていた。
「いらっしゃい……ああ、お一人?」
振り返った店主は、六十歳くらいの、藍染めの前掛けをした恰幅のいい女性だった。白髪の混じったショートヘアを無造作にまとめ、日に焼けた顔には深い皺が刻まれている。長年厨房に立ってきた人特有の、がっしりとした肩と太い指。
カウンター五席だけの小さな店内には、出汁と醤油の匂いが染みついていて、隅の方から炊いたご飯のほのかな甘い匂いも漂ってくる。
一瞬、値踏みするような視線を感じた。私は少し気後れしながらも、カウンターの端に腰を下ろす。
「すみません、もう閉店でした……?」
「いや、大丈夫。もう少しやっとるから」
にこりともせず、素っ気ない返事だったけれど、拒絶ではなかった。むしろ、忙しい観光通りの店とは違う、ゆったりとした間があった。
壁に貼られた手書きのお品書きに目を走らせる。里芋の煮っころがし、ぶり大根、白えびのから揚げ──その文字に、指先が止まった。
「白えびのから揚げ、お願いします」
頷いた店主は、何も言わずに厨房へ入っていった。しばらくして、パチ、パチ、と小気味いい油の弾ける音が聞こえてくる。その音を聞いているうちに、なぜか喉の奥が小さく痛んだ。祖母の台所で、何度も聞いた音だった。
湯気の立つ小鉢が目の前に置かれる。薄い衣をまとった白えびが、狐色にからりと揚がっていた。小鉢の端には、輪切りにした小さな柑橘が添えられていた。
「かぼすやけど、絞ってみまっし」と言われるまま、ぎゅっと搾ると、爽やかな香りが油の匂いに混ざる。
──「まっし」
さっき白えび丼を食べていた時にも浮かんだ、祖母の声。ずっと独特な口調だと思っていたけれど、あれは富山の方言だったのだと、今さらながら腑に落ちる。
まるで祖母の台所にタイムスリップしたような錯覚に、胸の奥がキュッとしめつけられた。
箸を伸ばしかけたところで、スマホがポケットの中で小さく震えた。篠原さんだろうか。『明日中に、色よい返事を』──さっきの声が耳の奥で蘇り、胃の底がまた重くなる。
今はこの一皿だけに向き合いたい。今日一日、ずっと誰かのために作ってきた顔を、ここでだけは脱ぎたかった。見なくていい、今は。
震えを無視して、白えびを一つ摘まんで口に運んだ。
かりっという軽い音のあとに、甘みと磯の香りが広がり、かぼすの酸味が後味を軽くしてくれる。衣は薄く、油はしつこくない。
美味しい──思わず声が漏れそうになるほど、それは素直な感想だった。それでいて、どこか懐かしい塩気があった。
舌の上で、記憶が像を結んでいく。台所の窓から差し込む夏の西日。古い換気扇の唸る音。祖母が新聞紙を広げる、あの独特の手つき。
『猫舌やろ、ふうふうしまっし』と笑いながら、まだ湯気の立つ一つを私の口元まで運んでくれた、あの手。爪の先まで働き者だった、皺だらけの指。
──同じだ。
箸を持つ手が、止まった。祖母が作ってくれたものと、味の輪郭がほとんど重なっている。衣の薄さも、揚げたてに振られた塩の粒の粗さも。忘れていたはずの台所の匂いが、記憶の底から一気に立ち上ってくる。
さっきまで抑え込んでいた仕事の緊張が、堰を切ったように緩んでいく。ずっと張っていた分だけ、反動も大きい。
値引き交渉のこと、篠原さんの声、聞けなかった祖母のレシピ、色褪せた醤油瓶。ばらばらだったものが、この一皿の味を通して一本の糸につながっていくようだった。
声を出さないよう奥歯を噛んだつもりだった。それなのに、涙は堰を切ったように次から次へとあふれて、頬を伝い、小鉢の縁にぽたりと落ちていく。
「……お客さん?」
店主が布巾を持つ手を止め、少しぎょっとした様子でこちらを覗き込む。今朝の自分には、こんな時間が待っているなんて、想像もつかなかった。
「ちょ、ちょっと待っとって……ティッシュ、ティッシュ!」
慌てた様子で、厨房の引き出しをがたがたと開け閉めする音がする。その動揺ぶりが、あまりに素っ気ない先ほどまでの態度と違っていて、私は泣きながら、少しだけおかしくなった。
「すみません……大の大人が、初対面のお店で」
差し出されたティッシュを受け取りながら、私は洟をすすった。恥ずかしさで、頬が急に熱くなる。会社や外ではもう何年も、人前で涙をこぼしたことなんてなかったのに。
「なんもなんも。うちも、こんな歳して客商売のくせに、おろおろしてもうた。おあいこや」
店主さんはそう言って、少しばつが悪そうに自分の鼻の頭を掻いた。その仕草に、張り詰めていた空気がふっと緩む。私は手の甲で目元を拭いながら、もう一度深く息を吸った。
「すみません、大丈夫です。ただ……祖母が作ってくれた味に、そっくりだったので」
「お祖母さん?」
「はい。富山の出身だったんです。去年、亡くなったんですけど……このから揚げ、結局習わないままで」
やばい、話しすぎた。初対面の相手に、こんなことまで。それでも言葉が止まらなかったのは、味のせいだけではない気がした。
店主はしばらく黙って私を見ていたが、少し困ったように布巾を握り直しながら聞いた。
「お祖母さん、なんてお名前やったが?」
「高遠信子です。旧姓は──中野、だったと思います」
店主は眉を寄せ、しばらく視線を宙に浮かせたまま黙り込んだ。手にした布巾の端を、指先で意味もなく折っては伸ばす。何かに引っかかったような、それでいてすぐには言葉にならないような、そんな沈黙だった。
「中野……」
そう呟いたきり、また黙る。厨房の奥で、湯の沸く音だけがことこと鳴っていた。私は、余計なことを言ってしまっただろうか、と少し落ち着かない気持ちで店主の横顔を見つめていた。
「……いや、待てよ。中野信子……」
もう一度、今度は少し声を大きくして繰り返す。記憶の引き出しを、一つずつ開けては閉めているような間があった。
「聞いたことあるような、ないような……ちょっと、待っとって」
そう言うと、店の奥の暖簾をくぐって姿を消した。引き出しを探る音、何かを落として拾う音。少し経って戻ってきた店主の手には、色褪せた一枚の写真があった。
「これ、うちの母。もう二十年も前に死んどるがやけど」
差し出された写真は、端が丸くなるほど古びていて、指先に触れるとかすかにざらついた。
割烹着姿の若い女性が二人、この店らしき前で並んで写っている。一人は屈託なく笑い、もう一人は少し照れたようにはにかんでいる。その、はにかんだ方の顔立ちに、私は見覚えがあった。母の実家の古いアルバムで何度も眺めた、あの顔だ。
「この人……」
「隣の子、名前まではうちも忘れとったが。母がよう言うとった、"信子ちゃん"て。よくうちに遊びに来とったみたいでね」
店主──胸元の名札には「東」とあった──は写真と私の顔を見比べて、ゆっくりと頷いた。
「うちの母と、幼馴染やったがよ。あんた、信子さんのお孫さんか?」
静かな店内に、換気扇の音だけが響いていた。
私は、箸を持ったまま動けずにいた。



