出張の夜は、路地裏食堂で


小鉢の縁に、涙がひとつ、ぽたりと落ちた。

「……お客さん?」

カウンターの向こうで、店主が布巾を持つ手を止め、ぎょっとした顔でこちらを覗き込んでいる。声を出さないよう奥歯を噛んだつもりだったのに、涙だけが勝手にこぼれていた。

見ず知らずの土地の、見ず知らずの食堂で。どうして自分は、目の前の一皿にこんなにも心を乱されているのだろう。

──今朝。新幹線が大宮を過ぎたあたりでは、まだこんなことになるなんて、思ってもいなかった。



カバンの内ポケットに、空っぽの醤油瓶が入っている。

ラベルはすっかり色褪せて、もう文字も読めない。それでも、遺品整理のときにどうしても捨てられなかった。亡くなった祖母が、白えびのから揚げを作るとき、いつも使っていた瓶だ。

私は資料から目を離し、車窓に映る自分の顔をぼんやり眺めていた。

きっちりと一つに束ねた黒髪、隙のない紺のセットアップ。取引先に向かう時の、いつもの顔だ。

高遠(たかとお)(かなえ)、二十八歳。入社六年目になる。営業の仕事を始めてから、この顔を作るのにもう慣れてしまった。

ふと、窓ガラスに映った自分の髪の生え際に、祖母の白髪が重なって見えた。

高遠信子(のぶこ)。もうすぐ、一周忌になる。命日は十一月半ば──今週末だ。

今回の出張が富山だと聞いた時、母が電話口で『おばあちゃんの実家、確かあっちの方だったよね』と、思い出したように言っていたのを思い出す。

特に意味はない、と自分に言い聞かせながら、資料に視線を戻した。

『今度また作ってあげるからね、レシピもちゃんと教えたげるから』

そう言われ続けて、結局一度も聞かないまま、祖母は逝ってしまった。

もっと早く聞けば良かった。そんなことは分かっているのに、指先で瓶の輪郭をなぞってしまう自分がいた。

思えば、自分から何かを強く望んで動いたことが、最近あっただろうか。

半年前の商談でも、本当は先方の要求に一つだけ納得のいかない条件があった。

けれど「まあ、上がそう言うなら」と、上司の篠原(しのはら)さんの判断に頷いただけで、自分の意見を口にはしなかった。

後になって、あの時ちゃんと言えばよかった、と思うことが何度かある。

祖母の味と同じだ。今度でいい、また今度──そうやって、いつも先延ばしにしてきた。

商談は、思ったより荒れた。今回の商談相手は、北陸一帯で店舗を展開するスーパーマーケットチェーン『みなみ屋』の仕入れ担当だった。

私の勤める食品卸会社が来春から売り出す冷凍惣菜の新シリーズを、みなみ屋の売り場に置いてもらう契約だ。

会議室に通されると、先方の担当者──名刺には『坂本(さかもと)』とあった──は、開口一番、事前に聞いていた「卸価格の八パーセント引き」という条件から、一段階厳しい「十パーセント引き」を要求してきた。

「正直に申し上げますと、この価格ではちょっと社内を通せません。もう一段、譲歩していただけないと」

テーブルを挟んで向かい合う坂本さんの表情は終始固く、こちらの説明に耳を傾けているのかどうかも分からない。

手元の資料には、既に赤ペンで幾つも印がつけられている。

「十パーセント引きは、弊社としても限界に近いラインです。ただ、初回のご発注量を今のご想定──三百ケースから五百ケースまで増やしていただけるようでしたら、その分の調整は検討の余地があるかと」

けれど坂本さんは、資料から顔を上げないまま「量を増やす前提でのお話は、こちらとしても即答しかねますね」とだけ返した。

「今回は、御社にとってもいい話のはずですが」

食い下がってはみたものの、坂本さんは「検討はしますが」と言葉を濁すばかりだった。何を言っても、のれんに腕押しのような感触だけが返ってくる。

肩に、いつの間にか力がこもっていた。

頭の中で、篠原さんの『明日中に色よい返事を』という声が繰り返し響き、余計に言葉が上滑りしていくのが自分でも分かった。

会議室の空気は張り詰めたまま、結局その場での即決は避けられ、持ち帰って検討することになった。

頭を下げて会議室を出た時には、窓の外はもう夕方の色に染まっていた。

廊下を歩きながら、スマホが震える。上司の篠原さんからだった。

「高遠、どうだった?」

「先方の要求が十パーセント引きで、想定より一段階厳しいです。一旦持ち帰りにしました」

「明日中に色よい返事、持って帰ってきてくれよ。上にはもう話通してあるんだから」

早口な苛立ちが、スマホ越しに伝わってくる。分かっています、と答えて電話を切ったものの、石を飲み込んだような重さが胃の底に居座った。

いつもの感覚だ。自分の考えより先に、誰かの期待に応えなければという焦りが顔を出す。

エレベーターを降りて外に出ると、街はすっかり夜の顔になっていた。

駅前の大通りには、ちょうど路面電車が滑り込んでくるところだった。低い車輪の音とベルの音が、ビルの谷間に短く響いて消える。信号待ちの人波に混じって、私はビジネスホテルへ向かう道を歩いた。

十一月の風は、思っていたよりも湿り気を含んで肌にまとわりついた。遠くには灰色に霞んだ山の稜線が、街の明かりの向こうにぼんやりと横たわっている。あの山のどこかに、祖母の生まれた場所があったのだろうか。

ホテルにチェックインしても、疲れは抜けなかった。部屋に一人になると、急にどっと押し寄せてくるものがある。ベッドに腰掛け、しばらく動けずにいた。

夕食は、下のコンビニで缶チューハイでも買って、部屋で軽く済ませよう──そう決めて外に出た。

ホテルの自動ドアが開いた瞬間、冷たい風と一緒に、焼き物の香ばしい匂いが鼻をくすぐった。ネオンの灯り、川沿いを歩く人影。どこかの店から漏れてくる煮物の匂いと、湯気に濡れた提灯の赤。

……部屋に閉じこもるのは、やめよう。せっかく富山まで来たのだから。仕事の重圧を振り払うように、私はコンビニの前を通り過ぎ、夜の街へ一歩踏み出した。