修先輩に頼まれた月曜からの三日間は、休みだった薫先輩に、夜シフトの日だけ代わってもらって、午後の予定を空けた。
「いつも代わってくれてるんやし、たまには頼ってくれてええで」と快く引き受けてくれてほっとする。追い込みのこの三日間、先輩は朝から作業に入っていて、俺はランチバイトを終えてから製図室(アトリエ)へと向かう。
【1日目】
アトリエの扉を開けた瞬間、息を呑む。広い作業台の上に広がっているのは、古い木造の水車をシンボルとして残しながらも、京都の町家を活かした複合商業施設の模型だ。1階には水車を眺めながら食事ができる町屋カフェとファラフェルの専門店、2階には雑貨とアパレルの店、3階には緑豊かな庭園があり、細部まで作り込まれている。
「あ、京ちゃん来てくれたん。ありがとうな」
白シャツの袖を無造作に捲り上げ、三角定規とカッターを握る先輩の横顔は、普段のチャラけた雰囲気は一切消え失せ、鋭い眼差しで模型材に向き合っている。
「これは、昔からある水車やねん。壊して新しいの建てんのは簡単なんやけど、それやったらこの場所でやる意味ないやん?」
模型の水車を指差しながら、先輩が続ける。
「この場所は、水車を中心に人が集まる場所にしたいねん。このパーツの切り出しと、アクリル板の接着頼んでもええかな? 寸法はこれや」
「はいっ!」
先輩の手際の良さと、図面から立ち上がる空間の圧倒的なセンス。あまりのカッコよさに、純粋に同じ建築を学ぶ学生としての憧れを抱く。
「……先輩って、建築のことになると、ちゃんとしてるんですね」
思わずそう言うと、先輩は片眉をピクリと上げた。
「なんなんそれ。俺、普段ちゃんとしてへんみたいやん」
おどけて笑う先輩を目の当たりにし、密かにこの人を尊敬していることに気づいた。
【2日目】
だけど、二日目の夜に、あっけなくその純粋な憧れは一変してしまう。
複雑な曲線のパーツ切り出しに苦戦し、手が止まっていた俺の背後から、すっと温かい気配が寄り添ってくる。
「ん、苦戦してるみたいやな。貸してみぃ?」
先輩が後ろからすっぽりと俺を包み込むようにして、上から手を重ねてくる。背中に直に伝わる胸の厚みと熱。耳元で鼓膜を揺らす低い声。そして作務衣の時とは違う、ほんのりと漂う爽やかなコロンのような香り。
「刃の角度はこうや。力を入れんと、スッと引くねん……ほら、切れたやろ?」
「あ……はい……っ」
至近距離の体温と息遣いに、心臓が破裂しそうに跳ね上がる。1日目に抱いた「憧れ」が、この密着のせいで、一気に恋愛じみた「ときめき」へと塗り替えられていく。同性への戸惑いより先に、ブレーキが壊れる予感がした。
数時間後、模型作りの手を止めて、先輩が伸びをしながら缶コーヒーを二つ、作業台に置く。
「休憩しよ。根詰めすぎたら、逆に効率落ちるし」
「あ、ありがとうございます」
プルタブを開けながら、先輩がふと思い出したように聞いてくる。
「なあ、京ちゃんって、付きおうてる子おらんの?」
「……え?」
いきなりの質問に、飲みかけのコーヒーを喉に詰まらせそうになる。
「な、なんでそんなこと聞くんですか」
「いや、普通に気になるやん。京ちゃんイケメンやし、モテるやろ? 放っとかれるとは思わへんしな」
「お、俺、付き合ったことないですから」
先輩が一瞬、目を丸くする。
「……嘘やろ? こんなかわええ顔してんのに?」
「かわいくないです」
「いや、こんな色白で肌すべすべで、黒目クリクリで、ブルべど真ん中やで?」
「ブルべってなんなんですかね」
「京ちゃんみたいな子のこと」
「へぇ~」
適当に流したつもりだったのに、先輩はやけに嬉しそうに口角を上げている。その表情の意図が分からなくて視線を逸らす。
「……修先輩は、彼女さんとか……彼氏さんとか、いるんですか」
オディーが言っていた「男もいける」という言葉が、頭の片隅にずっと引っかかっていたからあえてそっちも聞いてみる。
でも聞いてから、しまった、と後悔する。自分から踏み込んでしまった――でも、気になったのは事実で、聞かずにはいられない。何故かはわからないけど……。
「彼氏て……」
先輩が、意外そうに片眉を上げ、悪戯っぽく笑う。
「……ふぅん。京ちゃん、知っとったんやな。俺、男とか女とか気にせーへんからな」
「へえ……そうなんですね……」とおろおろする俺を、先輩は興味深そうに観察する。
先輩は少し考えるような間を置いてから、缶コーヒーを弄びながら口を開く。
「京ちゃん、それ知ってるのに来てくれたんやな……今、俺フリーやから」
「……そうですか」
なんでもない風に返したつもりが、声が上ずってしまう。絶対動揺してるのがバレてる。
「なあ……今どんな気持ちなん?」
先輩は俺の顔を覗き込み、甘ったるい視線で俺をとかそうとする。
「べ、別に、なんにも……!」
必死でその眼差しから逃げる。
「ふぅん。京ちゃんの反応変やし、俺、ちょっと期待しそうやねんけど」
先輩がずっとニヤニヤしているのが、耐えられずに俯いてしまう。
「な、なにを期待するんですか!」
「さあ、何やろなあ」とはぐらかすように笑って、先輩は残りのコーヒーを飲み干す。それ以上は何も聞いてこないけど、その「フリーやから」の一言だけが、脳内でずっとリフレインしていく。
【3日目】
昨日の駆け引きめいた会話に苦しめられた俺だけど、今日もしっかりとアトリエに来ている。今日は仕上げで、三階の庭園の植栽を延々と植えていて、先輩がいいと言うまで続ける。
そして、ついに模型は完成し、先輩は全体を眺めると、大きく伸びをした。
「終わった〜! 京ちゃんのおかげや。ほんまに、ありがとうな」
「いえ、俺もすごく勉強になりました!」
「よおやったな」と、ぽんぽんと頭を撫でられて、じんわりと嬉しさが込み上げる。それと同時に、明日からのこの時間がなくなることへの寂しさが、雪崩のように押し寄せてくる。
「俺ら、息ぴったりやったな。相性ええんちゃう?」
「そ、そうですか? また何かあれば、いつでもお手伝いします」
「そしたら……お互いフリーなんやし、付きおうてみる?」
「な、なんでそうなるんですかっ!」
心臓が跳ねて、声が裏返る。
先輩の言葉で気分が一気に上がってしまって、ニヤけそうなのを堪える。冗談かもしれないのに、浮かれたら恥ずかしいし、陽キャのノリかもしれないし……。
「あかんの?」
いつもの可愛い子犬みたいな顔で見つめて来る。この顔は反則だ。
「か、揶揄わないでください!」
「冗談やって。そんな睨まんといて」
くすっと笑うと、先輩はシャツの首元を少し緩めて、前髪をかき上げる。
フェロモン駄々洩れの先輩を目で追いながら、ほっとしたと同時に、かなりがっかりしている自分がいる。やっぱり冗談だったから。でもなんで、こんな気持ちになるんだろう……こんなのおかしい!
「さてと。ご褒美、何がええ?」
ニヤついている先輩がとても楽しそうだ。なにを強請れば喜んでくれるんだろう。明日からまたバイトでしか会えなくなるけど、それでいいのだろうか、と自問自答する。ぎゅっと拳を握りしめ、覚悟を決めた。
「……じゃあ。前、修先輩が言ってた……海、見てみたいです」
言った瞬間、頭が沸騰したかのように熱くなる。もう絶対顔真っ赤だろう。
男同士で海に行きたいなんて、気がありすぎてキモすぎるだろ――そんな考えが遅れて頭を殴りつけてくる。
「あ、いや! 今のナシです! 冗談です! 忙しかったら全然いいです、忘れてもろてもろてくださいっ!」
先輩は一瞬息を呑んだあと、吹き出して至近距離まで来て覗き込んでくる。
「もろてもろてって、バグってもうてるな〜。京ちゃんのたまに出る関西弁、ほんまかわええな〜」
「かっ、可愛くなんてないです……」
恥ずかしくて下を向いてしまう。
「へぇ〜 海か。そんなんでええの?」
「だ、だから別にいいですっ!」
「怖いんやろ? 海」
「はい……でも、先輩の話聞いてたら行きたくなったんです……でも、忘れてください!」
「嫌や。俺、記憶力ええから忘れへんし。おーけー、覚えた。一緒に海見よな。約束やで」
耳元で囁かれた「約束やで」の掠れた声のせいで、キュンとする。本当に行くことになったらどうしよう。海はまだ怖い。でも先輩が一緒なら怖くないかもしれないし、本当に連れて行ってくれるかも、という甘い期待が胸の奥で小さく膨らんでいく。
もう無理だ。近づかないようにしなきゃと思っていたはずなのに、気づけばすぐに会いたいという気持ちが大きくなってしまった。
「いつも代わってくれてるんやし、たまには頼ってくれてええで」と快く引き受けてくれてほっとする。追い込みのこの三日間、先輩は朝から作業に入っていて、俺はランチバイトを終えてから製図室(アトリエ)へと向かう。
【1日目】
アトリエの扉を開けた瞬間、息を呑む。広い作業台の上に広がっているのは、古い木造の水車をシンボルとして残しながらも、京都の町家を活かした複合商業施設の模型だ。1階には水車を眺めながら食事ができる町屋カフェとファラフェルの専門店、2階には雑貨とアパレルの店、3階には緑豊かな庭園があり、細部まで作り込まれている。
「あ、京ちゃん来てくれたん。ありがとうな」
白シャツの袖を無造作に捲り上げ、三角定規とカッターを握る先輩の横顔は、普段のチャラけた雰囲気は一切消え失せ、鋭い眼差しで模型材に向き合っている。
「これは、昔からある水車やねん。壊して新しいの建てんのは簡単なんやけど、それやったらこの場所でやる意味ないやん?」
模型の水車を指差しながら、先輩が続ける。
「この場所は、水車を中心に人が集まる場所にしたいねん。このパーツの切り出しと、アクリル板の接着頼んでもええかな? 寸法はこれや」
「はいっ!」
先輩の手際の良さと、図面から立ち上がる空間の圧倒的なセンス。あまりのカッコよさに、純粋に同じ建築を学ぶ学生としての憧れを抱く。
「……先輩って、建築のことになると、ちゃんとしてるんですね」
思わずそう言うと、先輩は片眉をピクリと上げた。
「なんなんそれ。俺、普段ちゃんとしてへんみたいやん」
おどけて笑う先輩を目の当たりにし、密かにこの人を尊敬していることに気づいた。
【2日目】
だけど、二日目の夜に、あっけなくその純粋な憧れは一変してしまう。
複雑な曲線のパーツ切り出しに苦戦し、手が止まっていた俺の背後から、すっと温かい気配が寄り添ってくる。
「ん、苦戦してるみたいやな。貸してみぃ?」
先輩が後ろからすっぽりと俺を包み込むようにして、上から手を重ねてくる。背中に直に伝わる胸の厚みと熱。耳元で鼓膜を揺らす低い声。そして作務衣の時とは違う、ほんのりと漂う爽やかなコロンのような香り。
「刃の角度はこうや。力を入れんと、スッと引くねん……ほら、切れたやろ?」
「あ……はい……っ」
至近距離の体温と息遣いに、心臓が破裂しそうに跳ね上がる。1日目に抱いた「憧れ」が、この密着のせいで、一気に恋愛じみた「ときめき」へと塗り替えられていく。同性への戸惑いより先に、ブレーキが壊れる予感がした。
数時間後、模型作りの手を止めて、先輩が伸びをしながら缶コーヒーを二つ、作業台に置く。
「休憩しよ。根詰めすぎたら、逆に効率落ちるし」
「あ、ありがとうございます」
プルタブを開けながら、先輩がふと思い出したように聞いてくる。
「なあ、京ちゃんって、付きおうてる子おらんの?」
「……え?」
いきなりの質問に、飲みかけのコーヒーを喉に詰まらせそうになる。
「な、なんでそんなこと聞くんですか」
「いや、普通に気になるやん。京ちゃんイケメンやし、モテるやろ? 放っとかれるとは思わへんしな」
「お、俺、付き合ったことないですから」
先輩が一瞬、目を丸くする。
「……嘘やろ? こんなかわええ顔してんのに?」
「かわいくないです」
「いや、こんな色白で肌すべすべで、黒目クリクリで、ブルべど真ん中やで?」
「ブルべってなんなんですかね」
「京ちゃんみたいな子のこと」
「へぇ~」
適当に流したつもりだったのに、先輩はやけに嬉しそうに口角を上げている。その表情の意図が分からなくて視線を逸らす。
「……修先輩は、彼女さんとか……彼氏さんとか、いるんですか」
オディーが言っていた「男もいける」という言葉が、頭の片隅にずっと引っかかっていたからあえてそっちも聞いてみる。
でも聞いてから、しまった、と後悔する。自分から踏み込んでしまった――でも、気になったのは事実で、聞かずにはいられない。何故かはわからないけど……。
「彼氏て……」
先輩が、意外そうに片眉を上げ、悪戯っぽく笑う。
「……ふぅん。京ちゃん、知っとったんやな。俺、男とか女とか気にせーへんからな」
「へえ……そうなんですね……」とおろおろする俺を、先輩は興味深そうに観察する。
先輩は少し考えるような間を置いてから、缶コーヒーを弄びながら口を開く。
「京ちゃん、それ知ってるのに来てくれたんやな……今、俺フリーやから」
「……そうですか」
なんでもない風に返したつもりが、声が上ずってしまう。絶対動揺してるのがバレてる。
「なあ……今どんな気持ちなん?」
先輩は俺の顔を覗き込み、甘ったるい視線で俺をとかそうとする。
「べ、別に、なんにも……!」
必死でその眼差しから逃げる。
「ふぅん。京ちゃんの反応変やし、俺、ちょっと期待しそうやねんけど」
先輩がずっとニヤニヤしているのが、耐えられずに俯いてしまう。
「な、なにを期待するんですか!」
「さあ、何やろなあ」とはぐらかすように笑って、先輩は残りのコーヒーを飲み干す。それ以上は何も聞いてこないけど、その「フリーやから」の一言だけが、脳内でずっとリフレインしていく。
【3日目】
昨日の駆け引きめいた会話に苦しめられた俺だけど、今日もしっかりとアトリエに来ている。今日は仕上げで、三階の庭園の植栽を延々と植えていて、先輩がいいと言うまで続ける。
そして、ついに模型は完成し、先輩は全体を眺めると、大きく伸びをした。
「終わった〜! 京ちゃんのおかげや。ほんまに、ありがとうな」
「いえ、俺もすごく勉強になりました!」
「よおやったな」と、ぽんぽんと頭を撫でられて、じんわりと嬉しさが込み上げる。それと同時に、明日からのこの時間がなくなることへの寂しさが、雪崩のように押し寄せてくる。
「俺ら、息ぴったりやったな。相性ええんちゃう?」
「そ、そうですか? また何かあれば、いつでもお手伝いします」
「そしたら……お互いフリーなんやし、付きおうてみる?」
「な、なんでそうなるんですかっ!」
心臓が跳ねて、声が裏返る。
先輩の言葉で気分が一気に上がってしまって、ニヤけそうなのを堪える。冗談かもしれないのに、浮かれたら恥ずかしいし、陽キャのノリかもしれないし……。
「あかんの?」
いつもの可愛い子犬みたいな顔で見つめて来る。この顔は反則だ。
「か、揶揄わないでください!」
「冗談やって。そんな睨まんといて」
くすっと笑うと、先輩はシャツの首元を少し緩めて、前髪をかき上げる。
フェロモン駄々洩れの先輩を目で追いながら、ほっとしたと同時に、かなりがっかりしている自分がいる。やっぱり冗談だったから。でもなんで、こんな気持ちになるんだろう……こんなのおかしい!
「さてと。ご褒美、何がええ?」
ニヤついている先輩がとても楽しそうだ。なにを強請れば喜んでくれるんだろう。明日からまたバイトでしか会えなくなるけど、それでいいのだろうか、と自問自答する。ぎゅっと拳を握りしめ、覚悟を決めた。
「……じゃあ。前、修先輩が言ってた……海、見てみたいです」
言った瞬間、頭が沸騰したかのように熱くなる。もう絶対顔真っ赤だろう。
男同士で海に行きたいなんて、気がありすぎてキモすぎるだろ――そんな考えが遅れて頭を殴りつけてくる。
「あ、いや! 今のナシです! 冗談です! 忙しかったら全然いいです、忘れてもろてもろてくださいっ!」
先輩は一瞬息を呑んだあと、吹き出して至近距離まで来て覗き込んでくる。
「もろてもろてって、バグってもうてるな〜。京ちゃんのたまに出る関西弁、ほんまかわええな〜」
「かっ、可愛くなんてないです……」
恥ずかしくて下を向いてしまう。
「へぇ〜 海か。そんなんでええの?」
「だ、だから別にいいですっ!」
「怖いんやろ? 海」
「はい……でも、先輩の話聞いてたら行きたくなったんです……でも、忘れてください!」
「嫌や。俺、記憶力ええから忘れへんし。おーけー、覚えた。一緒に海見よな。約束やで」
耳元で囁かれた「約束やで」の掠れた声のせいで、キュンとする。本当に行くことになったらどうしよう。海はまだ怖い。でも先輩が一緒なら怖くないかもしれないし、本当に連れて行ってくれるかも、という甘い期待が胸の奥で小さく膨らんでいく。
もう無理だ。近づかないようにしなきゃと思っていたはずなのに、気づけばすぐに会いたいという気持ちが大きくなってしまった。



