それから数日間は、できるだけ修先輩と距離を置くようにした。研修中に感じた温かさが、全部薄っぺらい演技だったんじゃないかと疑い始めて、素直に懐けなくなってしまったのだ。
俺への優しさも、あの女性への酷い対応でかき消されてしまう。やっぱり、顔が良い陽キャは、あんな感じが普通なのかもしれない。
だけど、こちらが避けていることを察してくれるほど、先輩は大人しい人ではなかったようだ。
ランチが終わり、まかないタイムが始まった。
おばんざいが並んだテーブルにスタッフが列を作り、それぞれが仕切り皿に料理を盛り付けていく。
田舎育ちなのもあって、こういう落ち着いた和食が好きみたいで、ここでバイト出来れば、おばんざいがまかないで食べられそうだと思ったのも応募理由だ。もちろん、一軍しかいないこの店で働ければ自信が付きそう、という考えもあったけど。
トレーにご飯と味噌汁も乗せて、空いている端の席に座った。あおさ入りの味噌汁の香りが、疲れた身体に染み渡る。
まかないを盛り終えた修先輩が、わざとらしく大きなため息をついて、俺の隣に座る。
「京ちゃんに、最近避けられてる気ぃすんねんけど、俺なんかしたん?」
「……別に、何も」
顔を覗き込まれるけれど、下を向いてしまう。だって、何話していいかわからないから……。
でも、顎をくいっと持ち上げられて、視線が逃げないように固定される。
「冷たいな~ 京ちゃんが相手してくれへんの、凹むけど」
「……へっ?」
驚き過ぎて変な声を出してしまう。
それに、至近距離の先輩がまとう色気に、とろけそう……。
哀しそうでもあり、自信たっぷりのその顔には抗えない。この瞳で、沢山の女性をメロメロにしてきたんだろうな……。
優しくて、気が利く好青年という印象だったのに、この間はゲスくて本気で引いた。そして、今はメロすぎて、こういう強引なところのバランスも絶妙で、本当に掴みどころのない人だ。
「これ食べてみて、京ちゃんの好きそうなん作ったから」
顎を解放して、小皿を俺に差し出す。これは、他のスタッフのトレーにはなくて、どうやら、特別に用意してくれたものらしい。
「俺だけ……?」
「うん。ほら小鮎の天ぷらやで。長野出身やから好きそうやと思ってん」
確かに、鮎は好物だ。でも、なんでこんなことするんだろう。俺に避けられるのがそんなに嫌で、機嫌とりたい、みたいな圧を感じる。
小鮎を一つ口に運んでみる。サクッとした食感と、ほろ苦さがたまらない。
「修先輩、美味しいですこれ」
「ほんまに? 山椒塩かけといたで。京ちゃん食べる時の顔、幸せそうでええな〜」
「え……」
すごい嬉しそうで、細めた目が優しそうで、今まで避けてたこととか忘れそうになる。
「京ちゃんって、猫みたいやな〜」
「猫?」
「うん。気まぐれな感じで、こっち見てくれた時とか、堪らなく可愛いねん」
言葉が出ない。こんな風に扱われたら、女の子はすぐ落ちると思うし、この人機嫌取るの上手だ、と思った。
「あっ、そうや……京ちゃんって、海好きぃ?」
突然の質問に箸を止める。
海のことを思い出して、答えるまでに少し間が空いてしまう。
「海は……一度だけ、行きました。小学生の時に家族旅行で……でも、それっきりです」
「へえ、意外やな。なんでそれきりなん?」
聞かれて瞼をぎゅっと瞑った。すると、あの日の記憶が、断片的に蘇ってくる。
父に止められたのに、足のつかない深さまで調子に乗って泳いでいき、波に流されて陸に戻れなくなって、ブクブクと沈んでしまった事。追いかけて来た父に助けられて、事なきを得たけど、あの時の恐怖がまだ消えない。
塩水を飲んで苦しかったことや、父の腕に抱き上げられるまでの数秒間が、今でも夢に出てくることがある。足のつくプールだと平気だけど、海は……まだ怖い。もう、大人だから大丈夫かもしれないのに。
「……ちょっと、溺れかけて。それからずっと、なんか、怖くて」
軽く笑って誤魔化そうとしたのに、声が思ったより小さくなった。
「そうやったん……それは、怖かったな。海行かへんかな? って思っててんけど、違うところがええな……」
先輩は、それ以上海については聞いてこなかったけど、俺を誘おうとしてたことが引っかかる。
「あの……なんで、俺と海へ行こうと思ったんですか?」
「いや……泳ぐわけちゃうねん。ただ、海見て、美味しいもん食べさせたいな〜 って。この辺、夏は鱧が美味いねんけど、京ちゃん魚好きやから、ええかなと思ってん」
「鱧食べたことないです」
本当にない。多分、長野では馴染のない魚だ。お店でも見たことないし。
「そっか。上手いで鱧。海の近くの方がええけど、京都でも手に入るかもしれんから探しとくし」
なんでこの人こんなに優しいんだろう。泣きそう。
「ありがとうございます。でも、なんか悪いです」
「悪くないで。俺がしたくてしてるだけやから。あっ、飯食いや冷めるで」
「……はい」
安心したような、少し寂しいような、複雑な気持ちで頷いて食事を再開した。海か……。あれ以来、あそこに行くなんて想像したことがなかったけれど、そろそろ挑戦してもいいのかな……なんて。
食事を終えた先輩は、焙じ茶を飲みながら、物思いに耽るみたいに、窓の外に目を向けている。夕方だけれど、まだ太陽は高くて日差しは眩しい。先輩の横顔に木漏れ日が落ちていて綺麗だ。でもそれが、どこか遠い人みたいに感じる。いつの間にか先輩の横顔に見入っていた自分が恥ずかしくなり、急に鼓動が速まる。その一連の思考が悟られないように、言葉を絞り出した。
「……修先輩は、海好きなんですか?」
「好きやな。穴場の海とか、結構知ってるで」
先輩はニヤニヤとチャラく笑って、俺の口元についていたらしいタレを親指でそっと拭った。
「ほんまに、世話焼ける子やな」
先輩の指先の熱が皮膚に残り、息を呑んだ。ちょっと目の前がクラクラする……暑いからかな。
「……あっ、ありがとうございます」
「手ぇかかるから……下宿引き払わせて、俺の部屋に囲いたいわ〜」
「また、そんな冗談」
この間のビンタの光景が急に浮かび、思わず身を引く。先輩にとってこういう軽口も、女の子に言うのと同じで、ただの遊びの延長なんだろう。
「冗談……ではないんやけどな」
先輩の視線が俺に据えられる。その圧が怖くなり、焙じ茶に口を付けて窓に顔を向けた。この感じが、本気かどうか、余計に分からなくなる。揶揄うにしても、タチが悪い。
後輩を誘うテンションじゃないことくらい、恋愛経験がなくてもわかる。意味深すぎる――こんな、大人の駆け引きみたいなの、俺には早すぎる。
数日後の閉店作業中、レジ閉めをしていたら、背後で先輩がカウンターに頬杖をついていた。
「京ちゃん、今日も可愛かったな。一生懸命で……ほんま、囲いたいわ〜」
いつものやつだ……。「また、そういう……」と口ごもったところで、洗い場から顔を出した3回生の薫先輩が、けらけらと笑い声を上げた。はっきりものを言う、関西の強い女性と言う感じだけど、キリッとした美人で先輩とはいつも仲が良さそうだ。
「西園寺、相変わらずやなあ。この前、裏口で例の金髪の子に泣かれとったやろ。『有馬温泉泊まりで行こうや』とか散々誘っといて、いざとなったら、気になる子おるからって……あんた、ほんまチャラすぎんねん。刺されるで」
「……え」
泊まりって……心臓がすっと冷たくなった。やっぱり、ゲスすぎる。
「京くんも、真面目に相手せんでええで。いつもあんな感じやから」
薫先輩は悪気なく、むしろ俺を気遣うような口調で言った。先輩は「なんでバラすねん」と苦笑いしていたけど、否定はしなかった。
……やっぱり、そういう人なんだ。「囲いたいわ〜」も、きっとその延長線上の軽口なんだろう。分かっていたはずなのに、はっきり言葉にされるとショックで先輩の顔が見れなくて、無心で硬貨ケースにレジの小銭を収めて気を紛らわせた。
しかし、今夜の俺は変だ。あんなに軽蔑していたのに、思い出すのは泊まりで女の子を誘っていたことより、鱧を食べさせたいと言って俺を海へ連れて行きたがっていた、面倒見の良い先輩の柔らかな笑顔だった。
俺への優しさも、あの女性への酷い対応でかき消されてしまう。やっぱり、顔が良い陽キャは、あんな感じが普通なのかもしれない。
だけど、こちらが避けていることを察してくれるほど、先輩は大人しい人ではなかったようだ。
ランチが終わり、まかないタイムが始まった。
おばんざいが並んだテーブルにスタッフが列を作り、それぞれが仕切り皿に料理を盛り付けていく。
田舎育ちなのもあって、こういう落ち着いた和食が好きみたいで、ここでバイト出来れば、おばんざいがまかないで食べられそうだと思ったのも応募理由だ。もちろん、一軍しかいないこの店で働ければ自信が付きそう、という考えもあったけど。
トレーにご飯と味噌汁も乗せて、空いている端の席に座った。あおさ入りの味噌汁の香りが、疲れた身体に染み渡る。
まかないを盛り終えた修先輩が、わざとらしく大きなため息をついて、俺の隣に座る。
「京ちゃんに、最近避けられてる気ぃすんねんけど、俺なんかしたん?」
「……別に、何も」
顔を覗き込まれるけれど、下を向いてしまう。だって、何話していいかわからないから……。
でも、顎をくいっと持ち上げられて、視線が逃げないように固定される。
「冷たいな~ 京ちゃんが相手してくれへんの、凹むけど」
「……へっ?」
驚き過ぎて変な声を出してしまう。
それに、至近距離の先輩がまとう色気に、とろけそう……。
哀しそうでもあり、自信たっぷりのその顔には抗えない。この瞳で、沢山の女性をメロメロにしてきたんだろうな……。
優しくて、気が利く好青年という印象だったのに、この間はゲスくて本気で引いた。そして、今はメロすぎて、こういう強引なところのバランスも絶妙で、本当に掴みどころのない人だ。
「これ食べてみて、京ちゃんの好きそうなん作ったから」
顎を解放して、小皿を俺に差し出す。これは、他のスタッフのトレーにはなくて、どうやら、特別に用意してくれたものらしい。
「俺だけ……?」
「うん。ほら小鮎の天ぷらやで。長野出身やから好きそうやと思ってん」
確かに、鮎は好物だ。でも、なんでこんなことするんだろう。俺に避けられるのがそんなに嫌で、機嫌とりたい、みたいな圧を感じる。
小鮎を一つ口に運んでみる。サクッとした食感と、ほろ苦さがたまらない。
「修先輩、美味しいですこれ」
「ほんまに? 山椒塩かけといたで。京ちゃん食べる時の顔、幸せそうでええな〜」
「え……」
すごい嬉しそうで、細めた目が優しそうで、今まで避けてたこととか忘れそうになる。
「京ちゃんって、猫みたいやな〜」
「猫?」
「うん。気まぐれな感じで、こっち見てくれた時とか、堪らなく可愛いねん」
言葉が出ない。こんな風に扱われたら、女の子はすぐ落ちると思うし、この人機嫌取るの上手だ、と思った。
「あっ、そうや……京ちゃんって、海好きぃ?」
突然の質問に箸を止める。
海のことを思い出して、答えるまでに少し間が空いてしまう。
「海は……一度だけ、行きました。小学生の時に家族旅行で……でも、それっきりです」
「へえ、意外やな。なんでそれきりなん?」
聞かれて瞼をぎゅっと瞑った。すると、あの日の記憶が、断片的に蘇ってくる。
父に止められたのに、足のつかない深さまで調子に乗って泳いでいき、波に流されて陸に戻れなくなって、ブクブクと沈んでしまった事。追いかけて来た父に助けられて、事なきを得たけど、あの時の恐怖がまだ消えない。
塩水を飲んで苦しかったことや、父の腕に抱き上げられるまでの数秒間が、今でも夢に出てくることがある。足のつくプールだと平気だけど、海は……まだ怖い。もう、大人だから大丈夫かもしれないのに。
「……ちょっと、溺れかけて。それからずっと、なんか、怖くて」
軽く笑って誤魔化そうとしたのに、声が思ったより小さくなった。
「そうやったん……それは、怖かったな。海行かへんかな? って思っててんけど、違うところがええな……」
先輩は、それ以上海については聞いてこなかったけど、俺を誘おうとしてたことが引っかかる。
「あの……なんで、俺と海へ行こうと思ったんですか?」
「いや……泳ぐわけちゃうねん。ただ、海見て、美味しいもん食べさせたいな〜 って。この辺、夏は鱧が美味いねんけど、京ちゃん魚好きやから、ええかなと思ってん」
「鱧食べたことないです」
本当にない。多分、長野では馴染のない魚だ。お店でも見たことないし。
「そっか。上手いで鱧。海の近くの方がええけど、京都でも手に入るかもしれんから探しとくし」
なんでこの人こんなに優しいんだろう。泣きそう。
「ありがとうございます。でも、なんか悪いです」
「悪くないで。俺がしたくてしてるだけやから。あっ、飯食いや冷めるで」
「……はい」
安心したような、少し寂しいような、複雑な気持ちで頷いて食事を再開した。海か……。あれ以来、あそこに行くなんて想像したことがなかったけれど、そろそろ挑戦してもいいのかな……なんて。
食事を終えた先輩は、焙じ茶を飲みながら、物思いに耽るみたいに、窓の外に目を向けている。夕方だけれど、まだ太陽は高くて日差しは眩しい。先輩の横顔に木漏れ日が落ちていて綺麗だ。でもそれが、どこか遠い人みたいに感じる。いつの間にか先輩の横顔に見入っていた自分が恥ずかしくなり、急に鼓動が速まる。その一連の思考が悟られないように、言葉を絞り出した。
「……修先輩は、海好きなんですか?」
「好きやな。穴場の海とか、結構知ってるで」
先輩はニヤニヤとチャラく笑って、俺の口元についていたらしいタレを親指でそっと拭った。
「ほんまに、世話焼ける子やな」
先輩の指先の熱が皮膚に残り、息を呑んだ。ちょっと目の前がクラクラする……暑いからかな。
「……あっ、ありがとうございます」
「手ぇかかるから……下宿引き払わせて、俺の部屋に囲いたいわ〜」
「また、そんな冗談」
この間のビンタの光景が急に浮かび、思わず身を引く。先輩にとってこういう軽口も、女の子に言うのと同じで、ただの遊びの延長なんだろう。
「冗談……ではないんやけどな」
先輩の視線が俺に据えられる。その圧が怖くなり、焙じ茶に口を付けて窓に顔を向けた。この感じが、本気かどうか、余計に分からなくなる。揶揄うにしても、タチが悪い。
後輩を誘うテンションじゃないことくらい、恋愛経験がなくてもわかる。意味深すぎる――こんな、大人の駆け引きみたいなの、俺には早すぎる。
数日後の閉店作業中、レジ閉めをしていたら、背後で先輩がカウンターに頬杖をついていた。
「京ちゃん、今日も可愛かったな。一生懸命で……ほんま、囲いたいわ〜」
いつものやつだ……。「また、そういう……」と口ごもったところで、洗い場から顔を出した3回生の薫先輩が、けらけらと笑い声を上げた。はっきりものを言う、関西の強い女性と言う感じだけど、キリッとした美人で先輩とはいつも仲が良さそうだ。
「西園寺、相変わらずやなあ。この前、裏口で例の金髪の子に泣かれとったやろ。『有馬温泉泊まりで行こうや』とか散々誘っといて、いざとなったら、気になる子おるからって……あんた、ほんまチャラすぎんねん。刺されるで」
「……え」
泊まりって……心臓がすっと冷たくなった。やっぱり、ゲスすぎる。
「京くんも、真面目に相手せんでええで。いつもあんな感じやから」
薫先輩は悪気なく、むしろ俺を気遣うような口調で言った。先輩は「なんでバラすねん」と苦笑いしていたけど、否定はしなかった。
……やっぱり、そういう人なんだ。「囲いたいわ〜」も、きっとその延長線上の軽口なんだろう。分かっていたはずなのに、はっきり言葉にされるとショックで先輩の顔が見れなくて、無心で硬貨ケースにレジの小銭を収めて気を紛らわせた。
しかし、今夜の俺は変だ。あんなに軽蔑していたのに、思い出すのは泊まりで女の子を誘っていたことより、鱧を食べさせたいと言って俺を海へ連れて行きたがっていた、面倒見の良い先輩の柔らかな笑顔だった。



