【Web版】無華の花嫁3~秘めた力を狙われた少女は、黒薔薇の殿下に溺愛される~

 梅雨の訪れを予感させる、低く垂れ込めた灰色の曇り空。
 車を降りると、そこには東宮殿下の婚約者としての気品を纏った綾乃様が、すでに静かに待っていてくださった。

 これまで何度か茶会で訪れたはずの麗しい庭園が、目の前に広がっている。
 けれど、空の色が違うだけで、華やかだった景色は一変し——
 まるで、すべてを飲み込もうとする深い淵のように見えてくる。

「すみれ様。本日は、急な呼び立てにも関わらず、ご足労いただきありがとうございます」
「……いいえ。こちらこそ、お招きいただきありがとうございます」

 深く頭を下げると、綾乃様の視線は私の後方へ——車から降りてきた暁臣様へ移った。

「五条殿下も……わざわざ、いらしてくださったのですね」
「俺はあくまで、婚約者の付き添いと警護だ。気にせず進めてほしい」
「……ですが……二人きりでと、お伝えしたはずですわ」

 微かに震える声に、不安が湧いてくる。
 やはり暁臣様がいると、話し難い『何か』があるのだろうか。
 咎められるにせよ、諭されるにせよ——どのような言葉が飛び出すのか。
 足元が崩れるような恐怖が、じわじわと私を支配していく。

「では、俺はここで待機する。場所を教えてくれ。密室でなければ、移動しても構わない」
「……五条殿下。ご配慮、感謝いたしますわ」

 その言葉を合図に、綾乃様はすっと背を向けて歩き出した。
 一歩、また一歩と暁臣様との距離が離れていくたび、心許なさに押し潰されそうになる。
 それを必死で隠すように、私は自分の手を強く握りしめた。

 いつ見ても、綾乃様は溜息が出るほどお美しい。
 内大臣のご令嬢という輝かしい血筋。
 その身に宿す『華』は、百花の王たる『牡丹』。
 生母も『牡丹』を持っていたと聞いたことはあるけれど——
 綾乃様ほど、その華やかさが似合う人は、この国に二人といないだろう。

 暁臣様の姿が木々の向こうに完全に見えなくなった頃。
 綾乃様が不意に足を止め、振り返った。切れ長の瞳が、まっすぐに私を捉える。

「すみれ様」

 鋭く名前を呼ばれ、身構えたまま肩がびくりと揺れる。
 けれど次の瞬間、私の眼前にあったのは、予想していた怒りでも冷笑でもなかった。

 それは——震えながら、深く深く頭を下げる、誇り高き女性の姿だった。

「……どうか、わたくしから恒一様を……東宮殿下を奪わないでください」

 悲痛な言葉に、頭が真っ白になった。
 奪う?この私が?あの畏れ多い東宮殿下を?

「……え、あの……そんな……っ」

 だって、私は暁臣様の婚約者で、東宮殿下への想いなど欠片も持ち合わせていない。
 そんな恐ろしい真似、考えたことも、夢に見たこともない。

 お伝えしなければならないことは、山ほどあるのに。
 あまりに想定外の光景を前に、喉がからからに渇き、一つの単語すら出てこない。

「……どうか、お願いです……わたくしの立場も、ご理解ください……っ」
「……っ、綾乃様……!そのような真似、おやめください……!」

 やっとの思いで声を絞り出し、地面に膝をつきそうな綾乃様へ駆け寄った。
 彼女の肩に触れようとして、指が震える。触れていいのか、触れてしまっていいのか——

「……私は、暁臣様と婚約しております……綾乃様がご心配されるようなことは、万に一つもございません……本当……なんです……」

 綾乃様の瞳には、拭いきれない不安と焦燥が渦巻いていた。
 溺れる者が藁をも掴むような、切実さ。
 それが痛いほど伝わってくる。

「ですから……どうか、私などに頭を下げるようなことは……なさらないでください」
「すみれ様……」

 揺れる瞳を見た瞬間、私は気づいた。
 きっと——私も同じだ。

 もし、ほんの少しだけ運命の歯車が違っていたら。
 千鶴様や綾乃様、そしてこれから暁臣様が出会うであろうすべての女性に、私はきっと醜く悲しい視線を向けていたに違いない。

 ただ、私は『無華』で、何も持たないから。
 手に入らないのが当然で、手を伸ばすことすら考えられずに、諦めるのが常。

 愛されないのが当然の世界で生きてきたから——今の綾乃様のように、激しく動く術を知らなかっただけ。
 こんなふうに、気高く崩れることさえ、私にはできなかった。

 以前の私なら、流されるまま、この状況にただ飲み込まれていたかもしれない。

 けれど、私は暁臣様と出会った。
 あの温かな掌に触れ、瞳を重ね、あの方にだけ求められたいと願ってしまったから。

「……すみれ様……っ」

 彼女の抱える絶望が、痛いほど伝わる。
 それと同じくらい、申し訳なさが胸を突き刺し、私の瞳からも涙がぼろぼろと溢れ出してきた。

 私なんかとは比べものにならないほどの重責を背負う高貴な方が——『無華』である私に頭を下げる。
 そんなこと、あっていいわけがない。
 彼女にとって、それは屈辱以外の何物でもないはずなのに。
 それでもなお、なりふり構わず頭を下げるという道を選ばせてしまった。

「すみれ様……取り乱してしまい、申し訳ありません……わたくし……」

 そっと、震える指先が私の頬に触れる。
 私たちはどちらからともなく、互いの手を取り合ったまま、その場にしゃがみ込んでしまった。

 灰色の空の下。
 静まり返った庭園の片隅で。
 私たちはただ、互いの涙を分かち合うことしかできなかった。
 雨の気配だけが、重く近づいてきていた。