【Web版】無華の花嫁3~秘めた力を狙われた少女は、黒薔薇の殿下に溺愛される~

 朝餉の席は、いつも通り静謐な空気に満ちている。
 立ち上る味噌汁の柔らかな湯気。
 こんがりと焼かれた旬の魚の、ほのかに甘い香ばしさ。

 丁寧に、薄く切り揃えられた季節の漬物。
 開け放たれた窓の向こうからは、朝露に濡れた庭木を渡る鳥の声が、微かに届いてくる。
 静かで、整っていて、何も乱れのない朝。

 暁臣様は、まるで昨日の出来事が夢だったかのように、いつもと同じ時刻に席に着かれた。
 いつもと同じ無駄のない所作で箸を取り、そして、いつもと変わらぬ温度で「おはよう」と声をかけてくださる。

「……おはようございます、暁臣様」

 私もまた、教えられた通りの作法で、いつもと同じ言葉を返す。
 いつもと同じように、穏やかな微笑みを浮かべて。

 ——けれど。
 何一つ、同じではないような……

 視線を手元の器に落とすたび、網膜の裏に、昨夜の藤棚が鮮やかに浮かび上がる。
 降り注ぐ紫の影。
 花の香り。
 そして——。

 唇に触れた、あの熱い温度。
 呼吸を奪うほどに、私を閉じ込めた腕の強さ。

 暁臣様は……昨夜のことを、もう忘れてしまわれたのだろうか。
 私自身は、こうして今も指先の先まで痺れるような感覚を、どうしても忘れられずにいるのに。
 それなのに、目の前の暁臣様の表情はどこまでも凪いでいて、何一つ変わった様子は見受けられない。
 その自然すぎる振る舞いが、今の私には、ほんの少しだけ——突き放されているようで。

「……口に合うか。今朝の味付けは」

 暁臣様が、私の手元の器に視線を向けたまま、静かに尋ねられる。
 それは、これまで幾度となく交わされてきた、淡く、やさしい気遣いの言葉。

「はい……とても。美味しくいただいてます」

 そう答えながら、胸の奥に溜まっていた不安が、少しだけ緩むのを感じた。

 大丈夫。
 何も起きていない。
 昨日の情熱的な暁臣様も、あんなふうに激しく求められたことも、きっと——
 私が慣れない社交の場で、勝手に過敏になっていただけ。

 そう自分に言い聞かせ、納得させようとした、その瞬間だった。

 暁臣様の箸が、ふと止まった。
 ほんの一瞬。
 瞬きよりも短い、刹那の時間。

 けれど確かに、彼の長い指先に、微かな力が籠もるのが見えた。
 器の縁に触れていた箸先が、言葉にできない葛藤を孕んだような。

 ……気のせい、だろうか。

 すぐに暁臣様は、何事もなかったかのように食事を再開する。
 流れるようで、寸分の乱れもない所作。
 まるで、最初から何も起きていなかったかのように。

 取り残されたのは、私だけ。
 時間の狭間に置き去りにされたように、その一瞬の綻びを、胸の奥でぎゅっと握りしめてしまう。

 昨夜、壊れ物を扱うように、けれど決して逃がさないと誓うように、私を抱いた強い腕。
 そして今、目の前にある、いつも通りの静けさ。
 その間に横たわるはずの、本当の感情が、どうしても見えない。

 何かを言いかけて、喉元までせり上がった言葉を、慌てて飲み込む。

 このまま、昨夜のことなど夢だったことにして、何も言わずに終わらせれば、きっと楽だ。
 楽で、正しくて、暁臣様との間に、余計な波風を立てることもない。

 ……でも。
 どうしても、聞きたい。

 昨日の暁臣様は、どうしてあんなふうに私を求めたのか。
 あの方の目の奥に宿っていた、冷たくも熱い、あの光は。
 それは本当に、私の勘違いだったのだろうか。

「暁臣様……」
「どうした、すみれ」

 思い切って呼びかけると、暁臣様はゆっくりと顔を上げ、深い湖のような瞳で私を見つめられた。
 その視線があまりに優しくて、胸の奥が、きゅっと締め付けられる。

 今、聞けばいい。
 私の素直な気持ちを、ありのまま。

 ——そう思ったのに。

 言葉は喉の手前で、石のように固くなって動かない。
 今ここで口にしてしまったら、昨夜のあの甘く切実な出来事が、暁臣様にとって『重い責任』や『負担』に変わってしまう気がした。
 お優しいこの方の瞳に、困ったような色が浮かぶのを、どうしても見たくなかった。

 ……何より。
 私自身が、一番、暁臣様を困らせたくなかった。
 気づけば、唇から零れ落ちたのは、臆病な私の、別の言葉だった。

「……いえ。今日は、その……お忙しいでしょうか」

 本音から遠ざかるような問い。
 自分でも情けなくなるほど、回りくどい言い方。

 暁臣様の目が、ほんの少しだけ細められる。
 責めるでもなく、否定するでもなく——
 まるで、私の心の奥を静かに見透かそうとするような眼差し。

「……何か、気になることでもあるのか」

 心臓が跳ねた。
 気づかれている……?
 言いかけて飲み込んだ、本当の問いまで。

「……いいえ。大丈夫です。何も、ございません」
「そうか」

 掠れそうになる声を、必死に整えて答える。
 暁臣様は、しばらく探るように私を見つめていたが、やがて何かを諦めたように、小さく、柔らかな吐息を吐き出された。

 それだけ。
 たったそれだけなのに、その溜息一つが、妙に切なく、ひどく寂しく胸に残る。
 私はただ、強張った顔で微笑み、頷くことしかできなかった。

 わからない。
 暁臣様は、私なんかとは違って、大人だから——。

 それでも。
 席を立った暁臣様の視線が、一瞬だけ、躊躇うように私から離れなかった。
 まるで、何かを言いたいのに言えないもどかしさを抱えているのは、私だけではないのだと、そう訴えかけてくるみたいに。

 そんな、不器用な錯覚だけが。
 いつまでも胸の奥に、熱く、苦しく、残り続けていた。