「物事には優先順位がある」が口癖の婚約者に後回しにされ続けたので、私も優先順位を変えました

 婚約破棄から、ひと月が経った。
 ジョルジュ・ヴェルチは、おおむね上機嫌だった。

 理由はある。
 婚約を解消してからというもの、母や妹のリリー、幼馴染のソフィ、元恋人のイレーヌ、友人のマルグリットまでが、以前よりずっと気軽に声をかけてくれるようになったからだ。

「ジョルジュ、少しいい?胸が重くて、今日は不安なの」
「お兄様、今日も来てくれた!新しい帽子を見てほしいの」
「やっぱりジョルジュが一番、話が早いのよ」

 なるほど、とジョルジュは思っていた。
 クレアがいた頃は、彼女が待っているから、と断る場面もあった。観劇、散策、茶会、買い物。婚約者との予定を理由に、誰かの頼みを後へ回すこともあった。

 けれど今は違う。
 誰を気にすることもなく、全員の要望に応えられる。
 これが本来の自分の姿だ、と彼は信じていた。
 頼られる男。皆の味方。誰にとっても、必要な存在。

 母は、ことあるごとにジョルジュを呼んだ。

「あなたがいてくれると安心するのよ」

 そう言われれば、付き添わないわけにはいかない。妹のリリーは、買い物にも茶会にもジョルジュを連れて行きたがった。幼馴染のソフィは、些細な悩みでも長い手紙を寄越した。イレーヌは体調を崩したと知らせてきたし、マルグリットは夫の不在中に茶へ誘ってきた。

 忙しい。
 けれど、悪い気はしなかった。自分はやはり、必要とされている。
 そう思えば、夜会の支度で少し寝不足になることも、急な外出で父に苦い顔をされることも、些細なことに思えた。

 ただ、ひとつだけ気になることがあった。
 最近、周囲から向けられる目が、少しおかしい。
 最初にそれが形になったのは、ある夜会の帰りだった。

「ヴェルチ殿」

 廊下で呼び止められ、ジョルジュは足を止めた。
 相手は、リリーの婚約者である青年だった。温和な顔立ちをしている。いつもなら柔らかく笑って会釈をする男だが、その夜の目には、ジョルジュが見慣れない種類の冷たさがあった。

「リリーが、またあなたに相談していたようですね」
「ええ、まあ。妹が困っているなら、当然でしょう」
「婚約前から、ずっとそういった距離で?」
「もちろんです。家族ですから」

 青年はしばらく黙っていた。
 それから、廊下の奥で談笑する人々にちらりと目を向け、声を落とす。

「婚約中のご令嬢が、婚約者以外の男性を何度も呼び出す。その男性が、婚約破棄をされたばかりの方となれば……周囲の方々は、どう見られるでしょうね」

 ジョルジュは苦笑した。

「おかしな見方をする人もいるでしょうが、僕たちは兄妹です」
「兄妹であれば、何も問題はないと証明できますか」
「……は?」
「なぜ、婚約者との約束を何度もずらしてまで、あなたを呼んだのか。なぜ、茶会でも買い物でも、必ず兄でなければならなかったのか。そしてなぜ、あなたが婚約を解消された後、以前より距離が縮まっているのか」

 声は荒くない。
 だからこそ、ジョルジュは言葉を失った。

「リリー様を疑いたいわけではありません。ですが、我が家にも面子があります」
「リリーは、そんな」
「では、ヴェルチ殿。あなたは妹君の婚約を守るために、今後一切、不必要な同伴を控えられますか」

 ジョルジュはすぐに頷けなかった。
 リリーが困ったとき、兄である自分を頼る。それを拒む理由が、どうしても見つからなかったからだ。
 青年は、その沈黙だけで十分だという顔をした。

「……婚約の継続については、父とも相談いたします」
「待ってください。それは」
「リリー様が何も間違えていないのなら、堂々としていればよろしいでしょう。ただ、我が家が不安を覚えたという事実は、消せません」

 そう告げて、青年は去っていった。

 ジョルジュは廊下に残された。
 壁際の燭台の火が、小さく揺れている。人々の笑い声は変わらず続いていたが、その中に自分だけが取り残されたような気がした。

 そこから、噂は思ったより早く広がった。
 リリーの婚約者が不信を抱いた。
 その話は、すぐに別の家の耳へ届く。

 すると、これまで別々の小さな出来事だったものが、急に一本の線で繋がって見えはじめた。
 ジョルジュ・ヴェルチは、婚約者との約束より、ほかの女性を優先し続けた男だ。
 そして、その男を呼び出していた女性たちは、いったいどういうつもりだったのか。
 誰かがそう囁いた。

 囁きは、茶会の席で広がった。扇の陰で、廊下の端で、馬車を待つわずかな時間の中で、少しずつ形を変えながら。

 幼馴染のソフィからは、短い手紙が届いた。
 しばらく、お会いしない方がよいと思います。
 婚約者と話し合いの時間を持つことになりました。
 ソフィらしくない、硬い筆跡だった。

 翌日、イレーヌからも手紙が届いた。
 もう私に関わらないでください。
 あの方に誤解されてしまいました。あなたのせいです。

 ジョルジュは手紙を握りしめた。
 なぜ、自分のせいになるのか。
 イレーヌが体調を崩したというから、見舞っただけだ。ソフィが相談したいと言うから、話を聞いただけだ。リリーが兄に付き添ってほしいと言うから、そばにいただけだ。

 誰も間違ったことなどしていない。そう思いたかった。
 けれど、三通目の知らせが届いたとき、ジョルジュの胸の奥に、ようやく嫌な重さが落ちてきた。
 マルグリットの夫から、ヴェルチ家へ非公式な問い合わせが入ったのだ。

 妻が、婚約破棄された男性を我が家に招いていたと聞いた。
 それは事実か。夫婦の問題として、今後の付き合いを見直したい。

 父はその書状を読んだ後、ジョルジュを呼ばなかった。
 ただ、食卓で目が合ったとき、深い皺の刻まれた眉間を見せただけ。
 それが、叱責よりもずっと重い。

 母の部屋に呼ばれたのは、その日の夕方。

「ジョルジュ、どういうことなの」

 長椅子に腰かけた母は、白いハンカチを握りしめていた。

「リリーが部屋から出てこないのよ。お兄様のせいで縁談が壊れるかもしれないって、泣いているの」
「僕のせいではありません。リリーが僕を頼ってきたから」
「でも、あなたがもっと上手くやってくれていれば」

 その言葉に、ジョルジュは目を見開いた。

「母上まで、そうおっしゃるのですか」
「だって、あなたは男でしょう。リリーはまだ若いのよ。あなたが守ってあげなければ」
「守っていました」
「守り方を間違えたから、こんなことになったのでしょう」

 ジョルジュの喉が詰まった。
 母はいつも、自分を頼った。
 胸が苦しい。外出が不安。茶会に顔を出してほしい。リリーの面倒も見てやってほしい。そのたびに、ジョルジュは出向いた。

 クレアとの約束をずらしてまで。
 それなのに、今になって母は、守り方を間違えたと言う。

「母上も、僕を呼んだではありませんか」
「私は母親よ」
「母親なら、息子の婚約者との約束を破らせてもよかったのですか」

 母の唇が震えた。
 ちょうどそのとき、扉が開いた。
 父だった。

「その通りだ」

 低い声に、母もジョルジュも口を閉じた。
 父は部屋へ入り、静かに扉を閉める。

「お前もだ」
「体調が悪いと言えば、息子が婚約者との約束を破って飛んでくる。それを当然と思っていたのだろう」
「あなた、私は」
「母親である前に、ヴェルチ家の夫人だ。息子の婚約を壊すほど甘えてよい立場ではない」

 母の顔から血の気が引いた。
 父は続けた。

「リリーにも言ってある。婚約者より兄を優先してきた自分の振る舞いを省みろ、と。相手の家から不安を持たれるだけのことをしたのだ」
「でも、リリーはまだ」
「幼い娘ではない。婚約者のいる令嬢だ」

 母は何も言えなくなった。
 ジョルジュも同じだった。

 その夜、ジョルジュは父の書斎へ呼ばれた。
 扉が閉まると、部屋の空気が一段重くなる。
 父は机の上に、いくつかの書状を並べていた。

 リリーの婚約継続についての保留。
 ソフィの家からの、非公式な距離を置きたいという申し入れ。
 マルグリットの夫からの問い合わせ。
 イレーヌの恋人の家から回ってきた、苦情に近い噂話。

 書状の端は、父が何度も読み返したためか、わずかに反っていた。

「お前は、何をしていた」
「僕は、ただ頼まれたことに応えていただけで」
「婚約者がいながら、女性を呼び出す。婚約者との約束をずらして、女性に会いに行く。その結果、婚約を解消された。ここまでは、お前自身の愚かさで済んだ」

 父の声は低かった。

「だが、その後も同じことを続けた。しかも以前より頻繁に。相手に婚約者がいようが、恋人がいようが、夫がいようが、考えもせず応じた」
「みんなが、僕を必要として」
「それが理由か」

 父は、ゆっくりと息を吐いた。

「お前が頼られていたのではない。お前が誰も断らなかったから、呼ばれ続けていたのだ。その違いが、今でもわからないか」

 ジョルジュは黙った。
 喉が乾く。けれど、水差しへ手を伸ばすことすらできなかった。

「縁談が白紙に戻れば、リリーの未来が変わる。ソフィ嬢の婚約が揺らげば、ヴェルチの名前と紐づいて語られる。マルグリット夫人の夫婦不和は、社交界ではすでに噂になっている」

 父は一枚ずつ、書状を重ねた。
 紙が擦れる音が、やけに大きく聞こえる。

「お前が優先し続けたのは何だ。頼まれること。必要とされること。その心地よさだ。家の信用ではない。妹の縁談でもない。そして婚約者でも、なかった」

 ジョルジュは、返す言葉を持たなかった。

「物事には優先順位がある、と、お前はよく言っていたな」
「……はい」
「では、お前が優先すべきだったものは何か、今一度、考えなさい」

 書斎に静寂が落ちた。

 クレアは、もういない。
 クレアは待ってくれない。
 クレアは、理解ある婚約者として、そこに残ってはいない。

 ジョルジュだけが、自分の立っていた場所を見失っていた。
 今さらそれを理解しても、彼女の席はもう空いていなかった。



 その頃、クレア・モンテールは、王城の図書館に置かれた上等な肘掛け椅子の上で、新しい本を開いていた。
 窓辺には穏やかな光が差し込み、磨かれた木の床に薄い影を落としている。古い紙と革表紙の匂いの中に、昼食に添えられていた木苺のジャムの甘酸っぱい香りが、ほんの少しだけ残っていた。

「その作家、今回は文体が変わりましたね」
「そうなんです。前作より読みやすくなりました」
「人は変わるものですね」
「変われる人は、変わりますね」

 二人は顔を見合わせて、少しだけ笑った。
 クレアは何もしていなかった。

 復讐も、告発も、噂を流すことも。
 ただ、自分の優先順位を選んだ。本を読み、アルと話し、好きな時間を、好きな場所で過ごすことにした。
 あとは、それぞれが、自分で選んだものの行き先を受け取っているのだろう。

「クレア」
「はい?」
「今日は、いつまでここにいられますか」
「夕刻まで、ここにいます」
「では、夕刻まで私があなたを独占しても?」

 アルは静かに笑うと、クレアは本から顔を上げた。

「……本の時間も、少しは残してください」
「努力します」
「そのお返事、あまり信用できません」
「それは困りました。あなたからの信用は、何より大切にしたいのですが」

 アルはそう言って、開いていた本に栞を挟んだ。
 そして、クレアの隣の椅子へ移ってくる。
 近すぎない。けれど、遠くもない。
 肩が触れるほどではない距離で、同じ窓辺の光を分け合う。

 クレアは、ページに視線を戻した。
 隣で、アルが同じ本を開く気配がした。

 誰かを待つ時間ではない。
 誰かに後回しにされる時間でもない。
 自分で選んだ人と、同じ場所にいる時間。
 窓の外、空は今日も、何事もなく青かった。