「物事には優先順位がある」が口癖の婚約者に後回しにされ続けたので、私も優先順位を変えました

 初めて参加した日は、よく晴れていた。
 図書館の閲覧室は高い天井に、窓辺には磨かれた木の机が並んでいる。
 古い紙の匂いと、革表紙の乾いた匂いが混じっていた。窓から差し込む光の筋の中で、細かな埃がゆっくり舞っている。

 そこに、ひとりの男がいた。
 年の頃は、クレアより少し上だろうか。

 身なりは上品だが、ひとりの従者も連れていない。濃紺の上着は質がよく、袖口の刺繍も控えめだが、よく見れば職人の手が込んでいる。
 姿勢はまっすぐで、椅子に腰かけているだけなのに、妙に人の目を引いた。

「初めての方ですね」

 男が声をかけてきた。

「はい。クレア・モンテールと申します」
「アルです」

 短い名だった。
 家名を名乗らない。
 けれど、クレアは何も言わなかった。

 立ち振る舞い、視線の配り方、言葉を発する前に相手をよく見る癖。
 何より、周囲の人々が彼に向ける、隠しきれない緊張。

 おそらく、この人は王太子殿下だ。
 だが、アルはその正体に触れられることを望んでいないらしい。だから、気づかなかったふりをした。

「本日は、こちらの作家の作品でしたね」
「ええ。読まれましたか?」
「読みました。正直に申し上げても?」
「ぜひ」
「比喩が少々、回りくどいと思いました」

 アルは一瞬だけ目を見開き、それから口元を押さえた。

「……それを言ってくださる方を、待っていました」
「そうなのですか?」
「皆、名作だからと褒めるので。私には、三行で言えることを一頁かけて語っているように見えました」
「わかります」

 思わず身を乗り出す。

「しかも、肝心なところほど曖昧にするのです。読者に委ねるのと、作者が決めきれていないのは違うと思います」
「まったく同感です」

 アルは楽しそうに笑った。
 その笑みは、最初に見た端正な印象より、ずっと年相応に見えた。

 読書会は、思っていた以上に楽しかった。
 本の好み、物語に対する考え方、好きな終わり方、苦手な展開。
 話せば話すほど、自分の中にあった言葉が、次々と形を持つのを感じた。

 ジョルジュといるとき、クレアはいつも聞き役だった。
 母の話。妹の話。幼馴染の話。友人の話。元恋人の話。
 彼の周りには、いつだって自分以外の誰かがいた。

 けれど、アルは違った。
 彼はクレアに尋ねる。

「あなたは、どう思いましたか」
「どの場面が一番嫌いでしたか」
「逆に、残すならどの一文ですか」

 好きなところではなく、嫌いなところまで尋ねられるのが面白かった。
 綺麗な感想だけを求められていない。正しく褒める必要もない。誰かの顔色を見て言葉を選ぶ必要もない。
 久しぶりに自分の声で話している気がした。

 二度目の読書会の日、ジョルジュからの使いが来た。
 会の始まる少し前だった。

「申し訳ございません。ジョルジュ様はリリー様のお買い物に付き添われるとのことで、明日の散策は延期してほしいと」

 使いの者はそう告げた。
 以前なら頷いて、明日の予定を空白のままにしていただろう。
 けれど、その日は違った。

「わかりました。では明日は、予定を入れます」
「予定、でございますか?」
「ええ。こちらからも、ジョルジュ様にお伝えください。次にお会いできる日は、あらためて調整しましょう、と」

 使いの者は困惑した顔をしたが、クレアはもう気にしなかった。
 そのやり取りを、少し離れた場所でアルが聞いていたらしい。

 会が終わった後、彼は静かに尋ねた。

「明日は、婚約者との約束だったのでは?」
「そうでした」
「よろしいのですか」
「延期だそうですので」
「あなたは、怒らないのですか」

 少しだけ考えたあと、正直な気持ちを話し始めた。

「怒っていないわけではありません。ただ、怒るより先に、疲れてしまいました」
「それは、随分と長く後回しにされてきた人の言葉ですね」

 その一言に、胸が小さく鳴った。

 ずっと認めるのが怖かったこの状況。
 誰かに、そう言ってほしかったのかもしれない。
 かわいそうに、でもなく。
 我慢強い、でもなく。
 ただ、後回しにされてきたのだと。

「……そうかもしれません」

 そう答えると、アルは何か言いかけて、やめた。
 そして代わりに、手元の本を差し出した。

「では、明日はこの本を読まれてはどうでしょう」
「おすすめですか?」
「ええ。比喩は少なめで、結末も逃げません」
「それは期待できますね」

 思わず零れた笑みに、アルもほっとしたように笑った。