騒動が収まると、令嬢たちは再び絵の周りに集まり始めた。
私は、ようやく戻ってきた筆を箱に収める。
手が少し震えていた。緊張が解けたせいだろう。
そう思った時、アレクシス殿下がそっと歩み寄ってきた。
「ソフィア嬢。少し、こちらへ」
案内されたのは、庭園の端にある小さな東屋。
薔薇の垣根に囲まれていて、茶会の賑わいは少し遠い。風が通るたび、葉の擦れる音がする。
殿下は私の手元を見た。
「赤ワインがついている」
「あ」
小枝を使ったせいで、指先に赤い染みが残っていた。
殿下はポケットからハンカチを取り出し、私の手を取った。
反射的に引っ込めようとしたけれど、殿下の指は離してくれない。
「嫌なら離す」
その一言で逃げ道を用意されると、かえって自分が何を望んでいるのかわかってしまう。
むしろ動けなくなってしまう。
「……嫌では、ありません」
声が小さくなった。
殿下はそれ以上何も言わず、私の指先を丁寧に拭いた。
布越しの温度が、妙にはっきりと伝わる。
それから、いつの間にか緩んでいた首元のリボンに手を伸ばす。
「触れても?」
「……はい」
殿下の指が、リボンを結び直す。
丁寧に、急かさず……紙の上で何度も描いた場面。
胸の奥が熱くなる。頬まで熱が上がっていくのがわかった。
「君は、こういうふうに大切にされたいのか」
殿下の声が、近くで落ちた。
髪……ではなく髭を梳かれる。
手首……ではなく肉球をそっと取られる。
泣きそうな顔を覗き込まれる。
逃げ道を塞がれるのに、乱暴ではない。
困った顔をした相手に、甘く追い詰められる。
全部、猫の話だったはずなのに。
私は笑って誤魔化そうとした。
「殿下。あれは猫の戯画でして……私は、ただ……読者の皆様に楽しんでいただけるように」
「ああ。でも、人物の方が得意なのだろう?」
心臓が跳ねた。
殿下は、私の目を見ていた。
「猫に置き換えても、手の描き方でわかる。視線の置き方でわかる。君は本当は、人の表情を描きたいのではないか」
「……それは」
否定できなかった。
人物画は禁止されている。
扇情的な絵は罪になる。
公爵令嬢として、そんなものを描きたいなどと言ってはいけない。
けれど……
「描きたいです」
言葉は、驚くほど小さくこぼれた。
「本当は、人物の方が得意です。猫も好きですけれど、私は、人の手や、目や、表情を描く方がずっと……でも、駄目なのです。この国では許されません。だから猫にしただけで」
「だけ、ではないだろう。君は、されたいことを描いていた」
「……っ」
いっそ逃げてしまいたい……そう思ったのに、でも、足が動かない。
殿下は、私の手を放さなかった。けれど、強く握り込むこともしない。
「責めているのではない」
「……はい」
「むしろ、羨ましいと思った。君は、自分でも隠している願いを、誰かを傷つけずに絵に変えた。皆が笑って、胸をときめかせて、続きを待つ物語にした」
「そんな立派なものではありません」
「僕には、そう見えた」
風が吹き、薔薇の香りが揺れた。
殿下は、少しだけ困ったように笑った。
「ソフィア。僕は今日、確信した」
「何を、でしょうか」
「僕は、あなたの一番の読者でいたい」
殿下の指が、私の手の甲をそっと支えた。
足元が頼りなくなった。
「そして、できるなら……あなたが描いてきたことを、現実で叶える男になりたい」
甘い言葉なのに、軽くない。
この人は、私の絵を読んだ。
猫の姿をした願望を見つけた。
そして、笑わなかった。
「それは……殿下が、私の黒猫様になるということでしょうか」
苦し紛れにそう言うと、殿下は真顔で考え込んだ。
「黒猫は少々、格好をつけすぎている」
「ご自分に厳しいのですね」
「だが、白猫を雨に濡らしたままにはしない」
その返しは、解釈一致過ぎて……私は思わず笑ってしまった。
笑ったら、胸につかえていたものが少しほどけた。
「殿下……私は、締め切り前になると機嫌が悪くなります」
「覚悟しておく」
「夜更かしもしますし、構図に詰まると、同じところを何度も描き直します」
「温かい茶を用意して、隣で待とう」
「差し入れは甘いものがいいです」
「いくらでも」
駄目だ。
この人は、私を甘やかす気でいる。
私が紙の上でしか描けなかったものを、本当にひとつずつ差し出す気でいる。
私は、ようやく戻ってきた筆を箱に収める。
手が少し震えていた。緊張が解けたせいだろう。
そう思った時、アレクシス殿下がそっと歩み寄ってきた。
「ソフィア嬢。少し、こちらへ」
案内されたのは、庭園の端にある小さな東屋。
薔薇の垣根に囲まれていて、茶会の賑わいは少し遠い。風が通るたび、葉の擦れる音がする。
殿下は私の手元を見た。
「赤ワインがついている」
「あ」
小枝を使ったせいで、指先に赤い染みが残っていた。
殿下はポケットからハンカチを取り出し、私の手を取った。
反射的に引っ込めようとしたけれど、殿下の指は離してくれない。
「嫌なら離す」
その一言で逃げ道を用意されると、かえって自分が何を望んでいるのかわかってしまう。
むしろ動けなくなってしまう。
「……嫌では、ありません」
声が小さくなった。
殿下はそれ以上何も言わず、私の指先を丁寧に拭いた。
布越しの温度が、妙にはっきりと伝わる。
それから、いつの間にか緩んでいた首元のリボンに手を伸ばす。
「触れても?」
「……はい」
殿下の指が、リボンを結び直す。
丁寧に、急かさず……紙の上で何度も描いた場面。
胸の奥が熱くなる。頬まで熱が上がっていくのがわかった。
「君は、こういうふうに大切にされたいのか」
殿下の声が、近くで落ちた。
髪……ではなく髭を梳かれる。
手首……ではなく肉球をそっと取られる。
泣きそうな顔を覗き込まれる。
逃げ道を塞がれるのに、乱暴ではない。
困った顔をした相手に、甘く追い詰められる。
全部、猫の話だったはずなのに。
私は笑って誤魔化そうとした。
「殿下。あれは猫の戯画でして……私は、ただ……読者の皆様に楽しんでいただけるように」
「ああ。でも、人物の方が得意なのだろう?」
心臓が跳ねた。
殿下は、私の目を見ていた。
「猫に置き換えても、手の描き方でわかる。視線の置き方でわかる。君は本当は、人の表情を描きたいのではないか」
「……それは」
否定できなかった。
人物画は禁止されている。
扇情的な絵は罪になる。
公爵令嬢として、そんなものを描きたいなどと言ってはいけない。
けれど……
「描きたいです」
言葉は、驚くほど小さくこぼれた。
「本当は、人物の方が得意です。猫も好きですけれど、私は、人の手や、目や、表情を描く方がずっと……でも、駄目なのです。この国では許されません。だから猫にしただけで」
「だけ、ではないだろう。君は、されたいことを描いていた」
「……っ」
いっそ逃げてしまいたい……そう思ったのに、でも、足が動かない。
殿下は、私の手を放さなかった。けれど、強く握り込むこともしない。
「責めているのではない」
「……はい」
「むしろ、羨ましいと思った。君は、自分でも隠している願いを、誰かを傷つけずに絵に変えた。皆が笑って、胸をときめかせて、続きを待つ物語にした」
「そんな立派なものではありません」
「僕には、そう見えた」
風が吹き、薔薇の香りが揺れた。
殿下は、少しだけ困ったように笑った。
「ソフィア。僕は今日、確信した」
「何を、でしょうか」
「僕は、あなたの一番の読者でいたい」
殿下の指が、私の手の甲をそっと支えた。
足元が頼りなくなった。
「そして、できるなら……あなたが描いてきたことを、現実で叶える男になりたい」
甘い言葉なのに、軽くない。
この人は、私の絵を読んだ。
猫の姿をした願望を見つけた。
そして、笑わなかった。
「それは……殿下が、私の黒猫様になるということでしょうか」
苦し紛れにそう言うと、殿下は真顔で考え込んだ。
「黒猫は少々、格好をつけすぎている」
「ご自分に厳しいのですね」
「だが、白猫を雨に濡らしたままにはしない」
その返しは、解釈一致過ぎて……私は思わず笑ってしまった。
笑ったら、胸につかえていたものが少しほどけた。
「殿下……私は、締め切り前になると機嫌が悪くなります」
「覚悟しておく」
「夜更かしもしますし、構図に詰まると、同じところを何度も描き直します」
「温かい茶を用意して、隣で待とう」
「差し入れは甘いものがいいです」
「いくらでも」
駄目だ。
この人は、私を甘やかす気でいる。
私が紙の上でしか描けなかったものを、本当にひとつずつ差し出す気でいる。



