エロ漫画家が転生したら人物画が禁止されていたので猫を描いていたら、王太子殿下の溺愛が始まりました

 その場にいた令嬢たちが息を呑む。
 その中で、一人だけやけに涼しい顔をしている令嬢がいた。
 カサンドラ・エインズワース侯爵令嬢。

 美しい銀髪と、気位の高そうな薄紫の瞳を持つ彼女は、以前からアレクシス殿下に想いを寄せていることで知られていた。
 そして、「にゃんこ夜会」に関しては、かなり面倒な読者の一人でもあった。

「あら、大変ですこと。日頃の準備が足りないのではなくて?」

 カサンドラは、扇の陰で唇を上げた。

「そもそも黒猫様は、白猫などではなく、気高い銀猫と結ばれるべきですのに。作者がその程度では、物語の筋も知れますわね」

 おまえ、そっちの恨みもあるんかい。
 心の中で突っ込んだが、口には出さなかった。

 ここで慌ててもしかたがない。
 前世、締め切り直前に道具一式を紛失した経験は一度や二度ではない。
 液晶タブレットが壊れたこともある。ペン先が折れたこともある。保存に失敗して、三時間分の作業が消えたこともある。

 それでも原稿は出した。
 漫画家は、道具がないくらいで止まっていられない。

 私は深く息を吸った。
 薔薇の香りに混じって、土と水の匂いがした。近くで庭師が剪定したばかりなのだろう。足元には、細い枝が数本落ちている。

「大丈夫です。代わりの物で描かせていただきます」

 私は顔を上げた。
 近くにいた庭師に声をかけ、剪定したばかりの小枝を一本借りる。
 それから、給仕の盆に乗っていた赤ワインの杯を取った。

 会場がどよめく。

「ソフィア嬢、本当にそれで?」
「はい」

 小枝の先を少し折り、赤ワインを含ませる。
 紙に触れた瞬間、線は筆よりも荒く、滲みも強かった。細い毛並みは描けない。繊細な陰影も難しい。

 ならば、線を減らせばいい。
 滲みは影にすればいい。
 荒さは勢いに変えればいい。

 私は白い紙の上に、二匹の猫を描き始めた。

 雨に濡れた白猫。
 逃げようと一歩引きかけた前足。
 けれど、その爪は立っていない。
 黒猫は、白猫の前に立ちはだかっている。

 威嚇ではない。
 捕食でもない。

 自分の外套を広げ、白猫を雨から隠すようにしている。
 白猫のリボンはほどけかけていて、黒猫の片前足がそれに触れている。逃げ道を塞ぐ尻尾は、強引に巻きつくのではなく、白猫の足元にそっと置かれている。

 線を引くたび、会場の音が消えていった。

 小枝の先が紙を擦る音。
 ワインの匂い。
 風に揺れる葉の気配。
 自分の呼吸。

 前世で何度も描いた構図。
 でも今、紙の上にいるのは誰だろう。

 白猫は、私だ。そう気づいた瞬間、喉が少し詰まった。

 違う。これは猫。ただの猫の戯画。そう思おうとしても、手は止まらなかった。

 雨に打たれても平気な顔をしている白猫。
 強がるその子を、黒猫が黙って迎えに行く。

 描き終えた時、庭園は静まり返っていた。

 小枝を置くと、次の瞬間、拍手が起こった。

「まあ……」
「すごいですわ」
「筆がなくても、こんなに」
「白猫ちゃん、また強がっておりますわね」
「黒猫様……」

 令嬢たちの声が重なる。
 王妃陛下も、ほう、と息を吐いた。

「見事ですわ、ソフィア嬢」

 アレクシス殿下は、私の絵の前で足を止めていた。
 その青い瞳が、じっと白猫を見るその眼差しに、私は急に落ち着かなくなる。

「あの、殿下。これは即興ですので、細部がかなり荒く……」
「この白猫は、逃げたいのではないな」
「え」
「追いかけてほしいのだろう。拒む形を取らなければ、望んでいることを知られてしまうから」
「……猫です」
「ああ。猫だ。だが、この猫を描いたのは君だ」

 胸の奥が、ぎゅっと縮む。
 その時、控えていた侍女の一人が、恐る恐る進み出た。

「あの……申し上げてもよろしいでしょうか」

 王妃陛下が目を向ける。

「申してみなさい」
「実は先ほど、エインズワース様が、ソフィア様の画材箱に触れているのを見ました」
「なっ」

 カサンドラの顔色が変わる。
 周囲の視線が一斉に彼女へ集まった。

「ち、違いますわ。わたくしは、ただ……」
「証拠の筆は、エインズワース侯爵家の侍女が控えていた部屋から見つかっております」

 近衛の一人が進み出て、布に包まれた筆を差し出した。

 私の筆。

 カサンドラの唇が震える。

「わ、わたくしは……ただ、あの絵が間違っていると思っただけですわ。黒猫様には、もっと相応しい相手が」
「猫の相手を決めるために、王家の茶会で盗みを働いたのですか」

 王妃陛下の氷のように冷たい声に、カサンドラは言葉を失った。

「王太子殿下への横恋慕なら、まだ人の愚かさとして理解もできましょう。けれど、物語の猫にまで己の欲を押しつけ、作者の手を奪おうとするなど……嘆かわしいこと」

 令嬢たちの視線が、同情から軽蔑へと変わっていく。

「銀猫派の面汚しですわ」
「推すなら品位を持つべきです」
「黒猫様にも銀猫様にも失礼です」

 そこ? 突っ込みたかったが、さすがに黙った。

 カサンドラは真っ青な顔で連れて行かれた。
 盗みそのものに加え、王家主催の茶会を妨害した罪は軽くない。少なくとも、しばらく社交の場に顔を出すことはできないだろう。