『聖女という立場に縋る強欲な女は地獄に堕ちろ』と言われたので、神の加護ごと隣国へ移ります

 ヴァルテに来て半年が過ぎた頃、ヴァルシア王国から奇妙な噂が届き始めた。

 まず、王都で疫病が流行した。
 原因不明の発熱と倦怠感が広がり、神殿が祈祷を行っても一向に収まらない。
 次に、北部の農村で害虫が大発生し、秋の収穫が壊滅した。
 さらに、王都近郊の川が突如として濁り始め、魚が死に絶えた。

 エリクが報告書を携えて彼女の元を訪れた時、その顔には複雑な表情が浮かんでいた。

「アリア。ヴァルシアの件、聞いていますか」
「ええ。三件が同時に、でしょう」
「貴女の見解は」
「ヴァルシア王国は今、神の加護を失いつつあります」
「加護を失う……」

 慎重に言葉を選ぶように、ゆっくりと尋ねた。

「それは、貴女がいなくなったからですか」
「正確には、私を不要だと断じたからです」

 窓の外を見ると、庭ではあのリンゴの木から移した若木が、白い花をつけていた。

「聖女の力は、戦闘や浄化のためだけにあるものではありません。聖女が国に在ること自体が、神の加護の証なのです。私がいる間、ヴァルシアはその恩恵をひとつも意識せず享受していました」
「そして、彼らは貴女を追い出した」
「はい。道具はいらないと言って」

 天罰などという大袈裟なものではない。
 ただ、守りが消えた。
 それだけの話。

 けれど、そのそれだけが、国一つを揺るがすことを、アリアもエリクもよく知っていた。

 ヴァルシア王都は、混乱の中にあった。
 疫病は拡大し、宮廷の者にも罹患者が出た。
 かつて聖女がいた頃は、こういった災いが起きると、アリアが浄化の祈りを捧げた。
 すると翌朝には、嘘のように熱が引き、水は澄み、畑は息を吹き返した。

 けれど今、その奇跡はどこにもない。
 神殿では、神殿長が青ざめた顔で祈祷を繰り返していた。

「新たな聖女を召喚せよ」

 王宮からの命令に従い、召喚の儀は三度行われた。
 しかし、神殿の祭壇に光は降りなかった。

 一度目も。
 二度目も。
 三度目も。
 ただ冷たい沈黙だけが、広い神殿を満たした。

「神は……まだ我々にお怒りのようです」

 神殿長が震える声で告げると、レイナルドは怒りのままに卓を叩いた。

「だからアリアを連れ戻せと言っているのだ!何故できない!」
「アリア様は、現在ヴァルテ王国の庇護下にあります。強引に連れ戻せば、外交問題に」
「では外交で解決しろ!」

 しかし外交もまた、思うようには進まなかった。
 ヴァルテは、いつの間にか外交上の重みを増していた。
 アリアが来て以来、北部は回復し、経済は好転した。
 周辺諸国との関係も改善され、ヴァルテ産の穀物や薬草は高く評価され始めている。

 小国だと思っていたヴァルテは、今や聖女の国として一目置かれる存在になっていた。

 一方、カミラは王太子妃候補として優雅に振る舞い続けていた。
 けれど、その微笑みは次第にこわばっていった。
 民の視線が変わり始めたからだ。

 聖女を追い出したのは誰か。
 魔王を討った女を、戦場帰りの女と蔑んだのは誰か。
 代わりに王太子の隣に立ったカミラは、いったい何を救えるのか。

 やがて神殿は、カミラに祈祷の場へ立つよう求めた。
 王太子妃にふさわしい清廉な令嬢だというのなら、神も応えるはずだと。
 白い祈祷衣を着せられたカミラは、震える手で祭壇の前に立った。
 レイナルドはそれを見守り、神殿長は必死に祝詞を唱えた。

 けれど、何も起こらなかった。
 白金の光は降らない。
 水は澄まない。
 病人の熱も下がらない。

 集まっていた民衆の間に、失望が波のように広がった。
 カミラはその場に崩れ落ち、泣きながら叫ぶ。

「私のせいではありません!あの女が、アリアが、国を見捨てたから!」

 その言葉は、民の心をますます冷やした。
 見捨てたのは、どちらだったのか。
 誰もが、少しずつ気づき始めていた。

 ある夜、レイナルドは一人で書斎に籠っていた。
 机の上には、送り返された書簡が置かれている。
 封は切られていない。
 アリアは、自分の手紙を読むことすらしなかった。

 レイナルドは、あの日の彼女の言葉を思い返す。

『私は世界を救いました。
 あなたは今、その私に向かって、もう何もできないとおっしゃった。
 では、そのお言葉を、お忘れなきよう』

 あの時の彼女は怒っていなかった。
 泣いてもいなかった。
 恨み言すら言わなかった。
 ただ、静かに見限っていた。

 その事実が、今になって彼の背筋を冷たく撫でた。

 ヴァルシア王国から最初の使者が来たのは、その数日後だった。

「聖女アリア様に、ヴァルシア王国へのご帰還をお願い申し上げます。現在の国難をご救済いただきたく——」

 アリアは使者の目を見て、静かに言った。

「私は今、ヴァルテ王国の仕事をしています」
「しかし、ヴァルシアはあなたの故国でございます」
「故国が私を必要とするのは、困った時だけなのですか」

 まっすぐ、目を逸らさずに彼女は続けた。

「お帰りください。ヴァルシアのことは、ヴァルシアの方々でお考えください」

 扉が閉まった後、エリクが心配そうに声をかけた。

「よろしかったのですか、アリア」
「私が帰っても、彼らは何も変わらないでしょう。同じことを繰り返すだけです」
「それでも、心が痛みませんか」
「痛みます」

 アリアは少しだけ悩みながら、正直に答えた。

「民には罪がありません。けれど、私が戻れば、王家も神殿も、自分たちが何をしたのか考えなくなる。救えば終わりではありません。救い方を変えなければ、何度でも同じことが起きます」

 エリクはしばらく彼女を見つめ、それから、静かに頷いた。

「貴女の決断を尊重します」

 その言葉に、アリアの胸は少しだけ軽くなった。