思わず目を瞬かせた。
休息が必要だ。
そんな言葉を向けられたのは、初めてだった。
ヴァルシアでは、常に次の任務があった。
次の魔物。
次の浄化。
次の祈り。
次の犠牲。
聖女なのだから。
選ばれたのだから。
力があるのだから。
だから、休むという選択肢は、いつも存在しなかった。
聖女は道具。
レイナルドの言葉が胸の奥で甦る。
けれどエリクの瞳には、道具を見る冷たさがなかった。
彼はアリアを、ひとりの人間として見ていた。
「……ありがとうございます、殿下」
「エリクと呼んでください。ここでは、階位よりも気持ちを大切にしたい」
「では、エリク。私のことも、アリアと」
「喜んで、アリア」
その夜、久しぶりに深く眠った。
夢も見ないほど。
戦場の叫びも、魔物の咆哮も、レイナルドの冷たい声も聞こえなかった。
ただ、静かだった。
ヴァルテに来て一週間が経った頃、彼女は北部の視察に出た。
魔の瘴気が残る荒地を歩きながら、そっと土に手を触れた。
黒ずんだ土。
枯れた草。
葉を落としたリンゴの木。
かつてここには村があったのだと、案内役の老神官が教えてくれた。
「この村は、三年前に人が去りました。井戸が濁り、子供たちが熱を出し、畑も実らなくなりましてな」
「住んでいた方々は」
「南の村へ移りました。けれど、いずれ戻りたいと皆が言っております。ここは、彼らの故郷ですから」
故郷。
その言葉を胸の中で繰り返す。
ヴァルシアは、アリアの故国。
けれど今、そこはもう、彼女の帰る場所ではない。
枯れたリンゴの木の根元に膝をつく。
「エリク」
「はい」
「少し、離れていてください」
エリクが息を呑む。
「アリア、まさか今すぐ浄化を?」
「ええ。まず、この村を戻します」
「体への負担は」
「大丈夫です」
そう言いかけて、一度口を閉じた。
大丈夫です。
慣れています。
平気です。
それは、これまで何度も口にしてきた言葉。
けれどエリクは、きっとその答えを望んでいない。
言い直した。
「無理はしません。危ないと思ったら、止めます」
「……分かりました。必ず、そうしてください」
その言葉に、小さく頷いた。
目を閉じる。
呼吸を整える。
両手を地面に当てる。
白金の光が、彼女の指先から大地へ染み込んでいった。
やがて光は根のように広がり、黒ずんだ土の奥へと潜る。
瘴気が呻くように揺らぎ、やがて薄い煙となって空へ消えていく。
枯れていた草が、ゆっくりと緑を取り戻す。
濁っていた井戸の水が澄み始める。
葉を落としていたリンゴの木の枝に、小さな芽が膨らむ。
老神官が杖を取り落とした。
「奇跡だ……」
目を開けた。
体は少し重い。
けれど、力は確かに残っている。
レイナルドは、聖女の力は使い果たされたと言った。
神殿長も、もう奇跡は起こせないと言った。
違う。
聖女の力は、心身の清廉さから来るものではない。
王家の承認によって与えられるものでもない。
神との契約から来る。
そしてその契約は、アリアが生きて祈る限り、決して消えない。
ヴァルシア王家も、神殿も、それを知っていた。
知っていながら、民に信じ込ませたのだ。
聖女の役目は終わった。
彼女の力は失われた。
だから、もう必要ない。
都合よく、手放すために。
「アリア」
エリクがそっと彼女のそばへ膝をついた。
「顔色が悪い。今日はここまでにしましょう」
「でも、まだ」
「今日はここまでです」
その声は穏やかだった。
けれど、譲らない強さがあった。
「この国を救ってほしいとは願っています。けれど、貴女を削りながら救ってほしいとは思っていません」
「……エリク」
「村は逃げません。人々も待てます。だから貴女も、自分を待ってください」
何も言えなかった。
胸の奥に、温かなものがゆっくりと広がっていく。
必要とされること。
大切にされること。
その二つは、似ているようで、まったく違うのだと初めて知った。
それから三ヶ月かけて、ヴァルテ北部の瘴気を祓った。
一度にすべてを浄化することはしなかった。
ヴァルテの神殿に所属する聖職者たちに補助の祈りを教え、土地ごとに少しずつ癒やしていった。
廃村だった集落に、人々が戻り始めた。
枯れ野に草が萌え、農地が甦る。
家畜が増え、市が立ち、子供たちの声が道に戻った。
あの枯れていたリンゴの木には、白い花が咲いた。
村の子供がアリアに言った。
「聖女様、これ、最初に実がなったら食べてね」
まだ実の影もない枝を指さして、真剣な顔で。
笑った。
自分が笑ったことに、自分で驚いた。
ヴァルテの人々は、アリアを心の底から愛した。
それは利用ではなく、崇拝というよりも、家族を大切にするような、穏やかで確かな愛情。
自分が使われているのではなく、共に生きているのだと初めて実感した。
休息が必要だ。
そんな言葉を向けられたのは、初めてだった。
ヴァルシアでは、常に次の任務があった。
次の魔物。
次の浄化。
次の祈り。
次の犠牲。
聖女なのだから。
選ばれたのだから。
力があるのだから。
だから、休むという選択肢は、いつも存在しなかった。
聖女は道具。
レイナルドの言葉が胸の奥で甦る。
けれどエリクの瞳には、道具を見る冷たさがなかった。
彼はアリアを、ひとりの人間として見ていた。
「……ありがとうございます、殿下」
「エリクと呼んでください。ここでは、階位よりも気持ちを大切にしたい」
「では、エリク。私のことも、アリアと」
「喜んで、アリア」
その夜、久しぶりに深く眠った。
夢も見ないほど。
戦場の叫びも、魔物の咆哮も、レイナルドの冷たい声も聞こえなかった。
ただ、静かだった。
ヴァルテに来て一週間が経った頃、彼女は北部の視察に出た。
魔の瘴気が残る荒地を歩きながら、そっと土に手を触れた。
黒ずんだ土。
枯れた草。
葉を落としたリンゴの木。
かつてここには村があったのだと、案内役の老神官が教えてくれた。
「この村は、三年前に人が去りました。井戸が濁り、子供たちが熱を出し、畑も実らなくなりましてな」
「住んでいた方々は」
「南の村へ移りました。けれど、いずれ戻りたいと皆が言っております。ここは、彼らの故郷ですから」
故郷。
その言葉を胸の中で繰り返す。
ヴァルシアは、アリアの故国。
けれど今、そこはもう、彼女の帰る場所ではない。
枯れたリンゴの木の根元に膝をつく。
「エリク」
「はい」
「少し、離れていてください」
エリクが息を呑む。
「アリア、まさか今すぐ浄化を?」
「ええ。まず、この村を戻します」
「体への負担は」
「大丈夫です」
そう言いかけて、一度口を閉じた。
大丈夫です。
慣れています。
平気です。
それは、これまで何度も口にしてきた言葉。
けれどエリクは、きっとその答えを望んでいない。
言い直した。
「無理はしません。危ないと思ったら、止めます」
「……分かりました。必ず、そうしてください」
その言葉に、小さく頷いた。
目を閉じる。
呼吸を整える。
両手を地面に当てる。
白金の光が、彼女の指先から大地へ染み込んでいった。
やがて光は根のように広がり、黒ずんだ土の奥へと潜る。
瘴気が呻くように揺らぎ、やがて薄い煙となって空へ消えていく。
枯れていた草が、ゆっくりと緑を取り戻す。
濁っていた井戸の水が澄み始める。
葉を落としていたリンゴの木の枝に、小さな芽が膨らむ。
老神官が杖を取り落とした。
「奇跡だ……」
目を開けた。
体は少し重い。
けれど、力は確かに残っている。
レイナルドは、聖女の力は使い果たされたと言った。
神殿長も、もう奇跡は起こせないと言った。
違う。
聖女の力は、心身の清廉さから来るものではない。
王家の承認によって与えられるものでもない。
神との契約から来る。
そしてその契約は、アリアが生きて祈る限り、決して消えない。
ヴァルシア王家も、神殿も、それを知っていた。
知っていながら、民に信じ込ませたのだ。
聖女の役目は終わった。
彼女の力は失われた。
だから、もう必要ない。
都合よく、手放すために。
「アリア」
エリクがそっと彼女のそばへ膝をついた。
「顔色が悪い。今日はここまでにしましょう」
「でも、まだ」
「今日はここまでです」
その声は穏やかだった。
けれど、譲らない強さがあった。
「この国を救ってほしいとは願っています。けれど、貴女を削りながら救ってほしいとは思っていません」
「……エリク」
「村は逃げません。人々も待てます。だから貴女も、自分を待ってください」
何も言えなかった。
胸の奥に、温かなものがゆっくりと広がっていく。
必要とされること。
大切にされること。
その二つは、似ているようで、まったく違うのだと初めて知った。
それから三ヶ月かけて、ヴァルテ北部の瘴気を祓った。
一度にすべてを浄化することはしなかった。
ヴァルテの神殿に所属する聖職者たちに補助の祈りを教え、土地ごとに少しずつ癒やしていった。
廃村だった集落に、人々が戻り始めた。
枯れ野に草が萌え、農地が甦る。
家畜が増え、市が立ち、子供たちの声が道に戻った。
あの枯れていたリンゴの木には、白い花が咲いた。
村の子供がアリアに言った。
「聖女様、これ、最初に実がなったら食べてね」
まだ実の影もない枝を指さして、真剣な顔で。
笑った。
自分が笑ったことに、自分で驚いた。
ヴァルテの人々は、アリアを心の底から愛した。
それは利用ではなく、崇拝というよりも、家族を大切にするような、穏やかで確かな愛情。
自分が使われているのではなく、共に生きているのだと初めて実感した。



