夏。あの日の、あの時の記憶。

[明易(あけやす)] 夏の夜は明けるのが早い
 扇風機の音だけが聞こえる部屋に、小さく落ちる私の呼吸。
 薄いタオルケットを申し訳程度にかけて、少しだけペタペタとする肌に触れた。
 空は薄く色づいていくのに、私の心はちっとも晴れない。
「お願い。まだ、もう少しだけ」
 今日が、始まる。
 その刻一刻と迫ってくる“今日”が私にはあまりにも残酷だった。

[驟雨(しゅうう)] 突然降り出してしばらくすると止む、にわか雨
「もー最悪」
 突然の通り雨にイライラが隠せず、急遽雨宿りさせてもらったバス停の中で小さく言葉を漏らしてしまう。
 タオルハンカチでカバンや髪の毛を拭きながら、この雨がいつ止むのかをスマホの天気予報で確認した。
 あと1時間は止まなさそうだ。
 楽しみにしていたカフェにはこんなに濡れた状態ではいけない。
 あーあ。どうしてこうも人生上手くいかないんだろ。
 天気と一緒に気持ちもドロドロと暗くなる。そんな時だった。
「急でしたね」
 いきなりの声かけにびくっと肩をあげ振り返ると
 そこには私と同い年くらいの青年が、空を見上げながら立っていた。
「あ、すみません。びっくりさせちゃいましたね」
 こんな天気なのに、ニコニコとしながら濡れた体を拭く彼は、
 私とは打って変わって爽やかで、そよ風のようだった。
「せっかくのご縁です。お話しませんか?」
 天気は雨。なのに私の心に覆いかぶさる雲からは日の光が顔をだしていた。

[白夜(びゃくや)] 夏の北極や南極近くで見られる、夜になっても暗くならない現象
「見てよこれ。白夜っていうんだ。太陽がね、沈まないんだよ」
 好奇心旺盛な彼が、世界の絶景という本を私にぐいぐいと近づけながらはしゃいでいた。
「そうかいそうかい。よかったね」
 私は別に景色にそこまで興味がないので、本と自分の間にあるスマホを見ながら空返事。
 若干の鬱陶しさを滲ませる私の事なんてお構いなしに、白夜のすばらしさについて彼は熱く語る。
 そして最後にこう言った。
「俺、白夜を実際に見るまでは死ねないな~」
 馬鹿みたい。はしゃいじゃってさ。子供じゃないんだから。
 そう思っていた。
 そう思っていたのに。

「うそつき」
 棺桶の中に、あの時の本を入れながらそうつぶやいた。
 白夜見るまで死なないって言ったくせに。
 あんなに馬鹿みたいにはしゃいでたくせに。
 ———彼は自殺した。会社の上司からのパワハラに耐えられずに。
 いいよ。あんたが見れなかった白夜、私が見てきてあげるから。
 そんで自慢してやるんだから。
 あんたは見れなかった白夜、私は見たぞって。凄いでしょって。
 ……だから、それまで待ってなさいよ。
 そう決めた私の視界はぼやけていて、今彼がどんなアホ面で寝てるのかを見ることができなかった。

[片蔭(かたかげ)] 夏の午後、家や堀でできる影
 縁側に座り、目を瞑ってみる。
 風鈴の音が心地よい。都会ではなかなか聞けない音に耳を澄ます。
 エアコンの無い田舎の家では、ゴーっとなる扇風機だけが涼しさを届けてくれていた。 
 庭に伸びる影は少しずつ長くなっていくのに、まだまだ暑い。
「スイカ切ったよ。食べるかい?」
 おばあちゃんが台所からやってきて隣に座った。切りたてのスイカを私とおばあちゃんの間において。
「ゆっくりすればええ。自分のペースでな」
 それだけ言って、自分でスイカをかじった。
 多くは語らない。その優しさが心をキュッと抱きしめてくれる。
 危うくこぼれそうになった涙を、スイカを頬張ることでごまかした。
 田舎の夏は暑い。でも、静かだった。