妖に愛されたわたしは、このたび妖祓いの若き当主様の元に嫁ぎまして〜愛のない契約結婚のはずが、無口な旦那様に溺愛されました〜


***

 土砂降りの雨が東の山の木々を容赦なく打ち据えていた。
 泥濘む獣道を、菜子は何度も足を取られながら必死に登り続けていく。
 草履はとうの昔に脱げ落ちていて、素足には木の枝や石で無数の切り傷ができている。雨と泥で重くなった着物が体温を奪っていくものの、菜子はその歩みを止めることはしなかった。

 やがて、山の中腹にある開けた岩場に辿り着いた。
 そしてその光景を見た途端、菜子は息を呑みんで立ちすくんだ。

 「……嘘」

 そこは、凄惨な有様だった。
 光院家や小鷹家が張り巡らせた強固な結界は紙屑のように引き裂かれていて、周囲には何人もの優秀な封印師たちが血を流して倒れ伏している。

 そして、その荒れ狂うような濃密な妖気の中心に『彼』は立っていた。

 巨大な獣の姿ではなかった。
 そこにいたのは、燃えるような銀糸の髪と、人ならざる美貌を持つ青年の姿をした妖狐だった。

 滑らかな白い肌に、光り輝く黄金の瞳。背後には彼の強大な力を象徴するかのように、九つの尾の幻影が雨の夜闇に禍々しく揺らめいている。

 近づく者すべてを八つ裂きにせんとするその殺気に、菜子はぐらりと激しい眩暈を起こした。
 かつて菜子の足元で甘えていた小さな狐は、時を経て絶大な力を持つ大妖へと成長していたのだった。

 「どう、して……」

 絶望した菜子の震える声が、雨音に混じって響いた。
 その微かな音を拾い上げた瞬間、青年の背後で荒れ狂っていた九つの尾がピタリと動きを止める。

 美しい中性的な青年がゆっくりと振り返る。まるで獲物を切り裂くような黄金の瞳が、泥だらけになって立つ菜子の姿を捉えた途端大きく見開かれた。

 「……菜、子?」

 それは、初めて聞く彼の声。
 まだ幼くて力のなかった当時の妖狐は、菜子と会話をする術を持っていなかった。永い年月をかけて力を蓄えながら、ようやく声を発することができるようになったのだった。

 「菜子……!菜子!」
 この禍々しい雰囲気とは正反対に、ずっと焦がれ続けてきた宝物を見つけたような甘く鳴くような声だった。
 彼を取り巻いていた濃い瘴気と殺意が、まるで春の雪のように一瞬にして溶け落ちていく。妖狐は足元で倒れている封印師たちには見向きもせずに、ただ菜子だけを見つめながら引き寄せられるように歩み寄った。

 「あぁ、やっと君に会えた。どれだけこの日を待っていただろう」

 彼のひんやりとした美しい指先が、菜子の泥に汚れた頬にそっと、壊れ物に触れるように添えられる。
 狂おしいほどの愛おしさが込められたその瞳に、菜子は身をすくませながらも必死に言葉を絞り出した。

 「ど、どうして……こんなことを?」
 「こんなこと?」
 その瞬間、菜子の頬に触れていた妖狐の指先がピタリと動きを止めた。

 「あなたは、こんなひどいことをする子じゃなかったはずでしょ?」
 悲痛な問いかけに、妖狐の綺麗な銀色の眉が哀しげに歪む。

 「人間が、先に手を出したからだよ」
 「え?」
 「人間たちは僕たちの大切な森を奪って、森の奥で静かに暮らしていただけの何もしていない仲間たちまで残虐に狩って殺めた」

 妖狐のその声は、雨音の中でもひどく澄んでいて、そして深く傷ついていた。

 「その仕返しをして、何が悪の?」
 菜子の胸が、ギリッと痛んだ。
 人間に虐げられ、理不尽に居場所を奪われてきた菜子には、彼の抱える怒りと哀しみが痛いほどに分かってしまう。

 「……っ。それでも、お願い、やめて。これ以上、誰も傷つけないで……っ」
 祈るように叫ぶ菜子を彼は愛おしそうに見つめて、そのまま彼女の小さな体を包み込むように抱き寄せた。

 「相変わらず、菜子は優しいね。自分を苦しめる人間のために、そんなにボロボロになってまで僕を止めに来るなんて」
 甘く、耳の奥をくすぐるような声が至近距離で降ってくる。

 「──君が好きだよ」
 「……!」
 「あの日、人間に痛めつけられて死にかけていた僕を助けてくれた菜子のことを……ずっと前から愛していた」
 「そんなっ」
 「僕はずっと見てきたよ。菜子が人間に虐げられて、どれだけ疎まれてきたのかをね。……君は人間に傷つけられてばかりだ。そんな残酷な世界に、もう君を置いておきたくはないんだよ」

 人間界のすべてを否定し、憎む妖狐。
 それでも菜子のことだけはすべて肯定し、包み込んでくれる。

 「菜子は僕のことを止めに来たんだよね?」
 「そう、だよ」
 「どうしてもやめてほしいって言うなら……君が、僕のところへおいで」

 気を抜けば魅入られそうなほどの美貌が、菜子の視界を埋め尽くす。雨の匂いを掻き消すような、甘く痺れるような香りが鼻先を掠めた。

 そして彼は少しだけ声を落として、菜子がこれまでずっと望んでいた一言を放った。

 「それに……僕には、君の『力』が必要なんだよ」
 その瞬間、ドクン、と菜子の心臓が大きく跳ねた。

 ──無意味な力、封印師の恥。
 これまで数えきれないほど蔑まれてきた菜子の『解く』力を、目の前の彼は初めて肯定し必要だと言ってくれた。

 「(私の居場所は……やっぱり、こちら側なのかもしれない)」
 実家である花乃井家からも、嫁ぎ先の光院家の者からも追い出された絶望の中で、自分を丸ごと必要としてくれる場所。
 差し出された彼の白く美しい手に向かって、菜子は吸い寄せられるように己の小さな右手を伸ばした。

 その指先が、妖狐の手に触れようとした──そのとき。
 「──させない」

 雨を切り裂くような、地を這うような低い声が二人の間を遮った。
 そして菜子と妖狐の間には、強固な結界が堂々と打ち込まれた。

 「きゃっ……!」

 結界の風圧で弾き飛ばされそうになった菜子の体を、背後から伸びてきた力強い腕がギュッと抱きとめる。
 雨と泥、そして微かな血の匂い。

 振り返った菜子の目に映ったのは、肩で大きく息をする道孝の姿だった。

 常に完璧で隙のなかった光院家の若き当主が、今は泥にまみれ、美しい墨色の狩衣を無惨に引き裂きながら、かつてないほど険しい表情でこちらを庇うように立っていた。

 「み、道孝様……っ!? どうして、ここに……」 
 「妻が雨の中を彷徨っているのに、迎えに行かない夫がいるのか?」

 あの道孝が、惨めな姿で追い出された自分のためになりふり構わず山を駆け登ってきてくれた。
 その事実だけで、菜子の目尻にはそっと涙が立ち込める。

 「話はあとだ。今はこちらが先だな」
 道孝は菜子を背中越しに庇うように立ち塞がると、目の前で涼しそうに微笑んでいる妖狐と向かい合う。

 「菜子は僕のものだ、返してもらおう」
 「悪いが彼女はわたしの妻だ。お前の元へやることはできない」

 いつも淡々と口にしていた『妻』という言葉。
 けれど、今彼が発したその響きには、確かな気持ちが込められていた。

 結界越しに道孝を睨み返す妖狐の黄金の瞳が妖艶に光っていく。
 先ほどまで菜子に向けていた甘い熱は消え失せていて、妖狐は目の前に立ちはだかる道孝を敵とみなしている。

 「人間風情が、偉そうに。菜子はこれまでずっとお前たち人間から疎まれてきたんだ。お前たちはいつだってそうだ。同じ種族でありながら、特定の個体を嫌い、遠ざけ、苦しめる……そんなおぞましい世界にこれ以上菜子を置いておけない」

 妖狐の声には、人間への深い憎悪が滲んでいる。
 己を傷つけられ、仲間を殺められ、そして愛する菜子までも疎む人間のことを、妖を統べる存在となった妖狐はどうしても許せずにいた。

 「お前よりずっと僕のほうが菜子のことを知っている。彼女を幸せにできるのは、僕だけだ」

 何年もの間、菜子の孤独に寄り添ってきた妖狐の、大きな過去の絆。
 道孝は妖狐の言葉を真正面から受け止めると、菜子を抱き寄せる腕の力をさらに強くして、はっきりと告げた。

 「たしかに、お前の言う通りかもしれないな」
 「道孝、様……」
 「だがわたしたちはまだ夫婦になったばかりだ。今はまだ、互いのことを何も知らない」

 道孝の横顔は、雨に濡れながらもどこまでも気高く、頼もしかった。
 九つの尾を振って威嚇する妖狐になんら怯むことなく、堂々と声を発していく。

 「だからこそ、これから時間をかけて互いのことを知っていくつもりだ」
 「え?」
 「──妻の未来は、わたしがもらう」

 道孝の力強い宣言とも捉えられるその言葉が、雨の岩場に響き渡る。
 妖狐は忌々しそうに美しい黄金の瞳を細めた。

 「未来、だと?人間の分際で。……ねぇ、菜子はそれでいいの?この男は今まで菜子がどんなに他人から邪険にされても、今日まで守れなかったじゃないか」
 「それは……っ」

 妖狐の言葉は事実だった。
 道孝は光院家の当主でありながら、菜子が屋敷で孤立していくのを完全に防ぐことはできなかった。

 妖狐の手を取れば、もう誰かに蔑まれることも、冷たい視線に怯えることもない。花乃井家の間者と疎まれることも、出来損ないの恥晒しと言われることもない。

 永遠に彼だけのものとして、甘く囲われて守られ続ける安全な世界が待っているだろう。

 ──けれど、菜子は目の前に立つ道孝の大きな背中をそっと見つめた。
 いつも完璧で隙がなかった最強の当主。そんな彼が今、自分のためにこんなにも無様な姿を晒してまで必死に立ち塞がってくれている。

 脳裏に蘇るのは、あの穏やかな午後のことだった。
 日差しを避けるために不器用に被せてくれた、大きな麦わら帽子。
 当主である道孝が、泥汚れも気にせずに菜子の隣にしゃがみ込んで一緒に草を抜いてくれた、あの何気ない穏やかな時間。

 妖狐が菜子にもたらしてくれるものが鳥籠の中の絶対的な安心だとしたら、道孝がくれるものは隣に並んで同じ土に触れて、同じ空を見上げる対等な時間だった。

 菜子はゆっくりと、道孝の背中から一歩前へ出た。

 「……ありがとう。私を見つけてくれて、いつも寄り添ってくれて。本当に感謝してる」
 菜子は妖狐の彼に向かって、深く頭を下げた。

 「でも私は、妖の世界には行けない」
 「ど、どうしてなの?だって菜子はあんなにも人間たちに……」
 しっかりと真っ直ぐに彼の金に輝く瞳を見ながらそう言った菜子に、妖狐は動揺しながら声を振るわせた。

 「私ね、やっぱりまだ諦めたくない。このまま疎まれ続けて、邪魔者扱いされたまま逃げたくないの」

 菜子の言葉に、道孝の肩が微かに震えた。
 妖狐は信じられないものを見るように目を大きく見開いた後、酷く悲しそうに顔を歪めた。

 その瞬間、彼の右前脚のあたりから、バチバチと黒い瘴気が激しく吹き出した。
 かつての討伐で受けた深い傷。そこに刻まれた呪いの痛みが、拒絶された哀しみと連動して彼を獣へと誘っていく。

 「グルルルルッ……!」

 青年の姿が揺らぎ始め、巨大な九尾の妖狐の姿が顕現しかける。
 道孝が反射的に呪符を構えようとした、その手に待ったをかけたのは菜子だった。

 「道孝様、待ってください」
 菜子はそう言って、真っ直ぐに荒れ狂う瘴気の中へと歩みを進めた。

 「菜子!やめろ、危険だ!」
 「大丈夫です。これは私にしか……できないことだから」

 菜子は怖がる素振りも見せずに黒い瘴気を吹き出す妖狐の元へ行き、その傷跡へ小さな両手を真っ直ぐに押し当てた。
 恐れはなかった。お互いに幼い頃からずっと一緒にいた妖狐と菜子の間には、確かな絆があることを誰よりも菜子自身が知っているからだ。

 「(ごめんね、ありがとう。もう、痛くないからね。私が全部、解いてあげる──)」

 菜子の中に眠っていた封印を解く力が、あたたかい白い光となって溢れ出す。

 封印師の家系で蔑まれ続けてきたその力は、妖狐の傷ついた心を理解し古傷となった呪いと痛みを優しく溶かしていく唯一の『救済の力』だった。

 菜子の白い光に包まれて、暴走していた妖狐の瘴気が嘘のように霧散していく。
 元の青年の姿に戻った妖狐は、自分の傷跡と菜子の顔を交互に見つめて、そして諦めたように柔らかく微笑んだ。

 「……菜子は本当にあの男を選ぶんだね」
 「ごめんなさい」
 「謝らないで。菜子が笑って暮らせるなら、それが僕にとって何よりの幸せなんだから」
 「うん、ありがとう。あなたもずっと幸せでいてね」

 そう言って妖狐は背を向けて闇の森へと歩き出した。
 そして、最後に一度だけ菜子のほうへ振り返った。

 「……でも僕はまだ、菜子のことを諦めたわけじゃない。またいずれ、会えるはずだよ?」
 「ふふっ。本当は寂しいんでしょ?」
 「──ううん。今度は菜子が自ら僕の元へ来たがるはずだから」
 「え?」
 「それに、君の力が必要だと言ったのは嘘じゃない。……でも、その話はまたいつか、だね」
 「ちょっと、どういうこと?」
 「少しの間だけ、さよなら……菜子」

 意味深な言葉を残して、九つの尾を持つ美しい大妖は雨の夜闇の奥へと完全に姿を消した。

***

 嵐の中心が去って、いつの間にか静かな小雨へと変わっていた。

 東の山の岩場に、菜子と道孝の二人だけが残された。
 道孝はゆっくりと振り返って、泥だらけの菜子を見つめた。

 「怪我は?」
 「ありません。道孝様こそ……」

 お互いに無事を確認し合い、ふう、と張り詰めていた糸が切れたように静寂が落ちる。
 その時、道孝がふと思い詰めたような声で口を開いた。

 「あの日、君がわたしに離縁を申し出た日」
 「あ、はい……」
 「わたしと別れた後どうするつもりかと聞いた時、君は『詳しいことは何も』と濁したな」

 道孝の瞳がわずかに揺れている。
 最強と名高い光院家の当主らしからぬ酷くか細い声で菜子に解い続ける。

 「……わたしと離縁したがった理由は、これか?あの妖狐の元へ行くつもりだったのか?」
 その問いの意味を理解した瞬間、菜子は思いきりグンと顔を上げた。

 「ちがっ……違います!そんなつもりじゃありません!」
 「他に思いを寄せる男がいるわけではないのだな?」
 「いません!私はただ……いずれは誰の迷惑にもならないところで一人で生きていこうと……」

 必死に首を振って否定する菜子を見て、道孝はほう、と深い安堵の溜息を吐き出した。
 強張っていた彼の広い肩から、スッと力が抜けていく。

 「……そうか。なら、いい」
 道孝は一歩踏み出して、菜子の泥だらけの小さな手を自分の大きな手でしっかりと包み込んだ。

 「言っておくが、わたしは君と離縁するつもりは一切ない」
 「え……でも、光院と花乃井の和解が成れば……」
 「和解が成ろうが、何が起ころうが関係ない。わたしは菜子を手放す気はない」

 最初は帝の勅命で結ばれただけの二人だった。
 両家の和解が成立すれば離れるという契約付きの紙切れ一枚で繋がった縁だった。

 これまでずっと孤独に追いやられていた彼女は、いずれ独りで消える覚悟をしていた。
 そんな菜子の心を縛っていた鎖が、道孝の愛に触れて音を立てながら崩れ去っていく。

 「ほ、本当によろしいのですか?私は……っ、きっと道孝様の足手纏いになります」
 「ならないから安心しろ」
 「そ、それは道孝様が私のことをまだ何も知らないから……!」
 「だから時間をかけて知っていくと言っただろう。わたしは君の隣で、君のすべてを知りたい。……駄目か?」

 それは道孝の願いとも言える問いかけだった。
 自分の幸せなど望む権利すらないと思いながら生きてきた菜子の胸の奥底から、熱いものが込み上げてきた。

 「……駄目なはず、ありません。私も、道孝様のことをもっと知りたいです」
 ただ守られるのではなく、自ら選んで、そして選ばれたのだ。

 涙混じりの笑顔でそう答えると、道孝は美しく眩しいものを見るように目を細めて、そっと菜子の体を抱き寄せた。

 その瞬間、分厚い灰色の雲が割れて、一筋の美しい朝陽が二人の足元を照らした。
 いつの間にか夜が明けて、雨は完全に上がっていた。

 「(……ああ、やっと雨が上がったんだ)」

 光院家に嫁いできた、あの日のように。
 澄み切った青空の下で、泥だらけの二人は手を繋ぎ、自分たちが帰るべき屋敷へとゆっくり歩き出す。

 愛のない契約から始まった二人は、これからたくさんの時間をかけて、互いを知っていくのだろう。
 優しい日差しが降り注ぐ中、並んで歩く二人の物語はまだ始まったばかりなのだ──。