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光院家の屋敷をバチバチと打ちつけるような土砂降りの雨が包み込んでいた。
数日前のあの穏やかな月夜が嘘だったかのように、空は分厚い灰色の雲に覆われている。
庭の土は黒く泥濘み、屋敷の中まで重く湿った空気が入り込んでいた。
種から育て始めたばかりの小さな野菜の芽は、この激しい雨でも無事に生きていけるのだろうか。
そんなことを思いながら、菜子が自室の窓から外を眺めていたときだった。
「──光院の当主様に申し上げます!」
雨音を切り裂くような悲痛な叫び声に、菜子は弾かれたように部屋を飛び出した。
廊下の陰から玄関の土間を覗き込むと、大雨の中、泥跳ねも構わずに馬を走らせてきた一人の男が転がり込んでいた。あ
彼が身に纏っているのは、妖との戦闘に特化した封印師特有の戦闘装束だった。動きやすい細身の筒袖に、呪符を仕込んだ黒革の手甲。その上に羽織った頑強な陣羽織は泥と血にまみれていて、本来の色すら分からないほどに汚れきっていた。
「何事だ」
けれど、その胸元に辛うじて見て取れる違い鷹の羽の家紋。それは間違いなく封印師御三家の一つ、小鷹家の使いであることを示していた。
彼の突然の来訪に、道孝はすかさず屋敷の外へ出ていく。
「痛恨の極みながら、我ら小鷹家の管轄である東の山にて妖が暴走!結界も破られ、もはや我らだけでは防ぎきれません!どうか、光院家の皆様のお力をお貸しいただきたく……!」
小鷹家の使いが膝を折って説明すると、道孝は迅速に対応をはじめる。
少し前まで雨の音に支配されていたこの屋敷は、途端にけたたましい怒号と足音が地響きのように鳴り響いていく。
「光院家の封印師たちはすぐに前線へ。小鷹家の怪我人も当家で引き受けよう」
「あ、ありがとうございます……!このご恩は必ずや!」
廊下の隅で身を縮める菜子の目の前を、武装した光院家の家人たちが血相を変えて通り過ぎていく。
ただ事ではない。震える手を握りしめながら立ち尽くす菜子の前に、戦装束に身を包んだ道孝が現れた。
普段の姿とは全く違う、禍々しいまでの呪力を帯びた墨色の狩衣。光院家の封印師としての威厳で満ち溢れている。
「道孝、様……」
「わたしも前線へ出る。被害の規模が尋常ではない」
すれ違いざま、道孝は足を止めて菜子に言葉を投げかけた。
感情の読めない瞳。けれど、その奥には確かな想いが揺れていることを菜子は知らない。
「いいか。何があっても、屋敷から出るな」
「……っ、はい」
短いけれど強い命令だった。
それは菜子を危険から遠ざけるための、夫として最大限の愛だった。
***
道孝が発って数時間が過ぎた頃。
屋敷の玄関には次々と血まみれの男たちが運ばれてきていた。それだけではない。妖の暴動によって町を追われて避難してきた人々が次々と光院家へ助けを求めにやってくる。
「怪我をした者は離れの救護室へ!避難してきたものは本邸へ参れ!」
「しっかりして! すぐに手当てを!」
留守を預かる侍女や使用人たちの悲鳴があちらこちらから飛んでくる。
血まみれになって運び込まれてくるのは全員優秀な封印師ばかりだ。彼らが纏っている着物は鋭利な刃物で切り裂かれたようにボロボロになり、見るも無惨な深手を負っていた。
侍女たちから部屋の奥に隠れているようにと言われていた菜子は、この非常時に少しでも役に立とうと井戸から綺麗な水を何往復もしながら運び続ける。
「あんな化け物、我々だけで敵うはずがない……んだ」
「九尾だ!九尾の妖狐が、暴れているんだ!御三家の当主様でもない限り、俺らが適う相手じゃない!」
痛みや苦痛に苦しむ男たちの叫びを聞いた瞬間、菜子の心臓がドクンと跳ねた。
「九尾の……妖狐?」
無意識に菜子の口からその名がこぼれ落ちる。
幼い頃、花乃井家の森で兄妹たちによっていたずらに痛めつけられて命も絶え絶えだったところを助けた妖の一人。
それは銀色の美しい毛並みと、九つの尾を持つ不思議な小さな狐だった。
菜子を見るといつも一番に駆け寄って、足元にすり寄ってはゴロゴロと喉を鳴らしていた、あの優しくて臆病な狐の妖。
「(嘘、でしょう?あの子が人間を襲うなんて……っ。そんなの絶対にあり得ない!)」
激しい動揺が菜子を襲う。
あの狐に何があったのか。なぜ、暴動など起こして多くの人間を襲っているのか。
菜子の頭は混乱して足の震えが止まらなかった。
「あの子が……っ、そんなことするはずない」
「ぎゃあああっ!痛い、腕が……っ!」
そんな菜子の元に、目の前で苦しむ重傷者の絶叫が響いた。
とにかく今は、考えている暇などない。
「……しっかりしてください!」
菜子は泥濘む土間へ飛び降りると、自室から持ってきた小瓶の蓋を開けた。
それは妖たちから教わってできた、あの特製の軟膏だった。
着物に泥が跳ねようと構うことなく、菜子は震える手で男たちの傷口に薬を塗り込んでいく。
「奥様!?いけません、血の穢れが……っ!」
「問題ありません、彼を押さえていてください!」
決して受け入れてはもらえない光院家の人々。
それでも目の前で失われそうな命を見捨てることなど菜子には到底できなかった。
「あなた……っ!嫌よ、嘘でしょ!目を開けてあなたぁ!」
けれど、すべての命を助けられるわけではない。
鼓膜を劈くような、悲痛な叫びが部屋中に届いた。
血まみれになって運び込まれてきた一人の男にすがりついていたのは、菜子のことを馬鹿にしながら噂話に花を咲かせていた古参の侍女だった。
「お願いだから目を開けてちょうだい……っ!」
誰もが声をかけられずにいた。命の灯火が消えていく瞬間ほど悲しいことはない。
夫の無惨な姿に、侍女の目は完全に正気を失っていた。
その血走った目が、血まみれになりながらも一生懸命に薬を塗る菜子の姿を捉えた瞬間。
「あなたのせいよ……!」
「え?」
「こんなことになったのは、全部お前のせいだわ!!」
侍女は勢いよく立ち上がって、鬼の形相で菜子を指差した。
「私、見ていたのよ!この女が裏の森で、妖の封印を解いていたのを!妖と馴れ馴れしく言葉を交わしていたのを!!」
「なっ……!」
「今だってそうよ!みんな聞いていたでしょう!? この女、九尾の妖狐と聞いて、明らかに動揺していたわ!?あの子、だなんて呼んでいたもの!」
侍女が力の限り叫び続けると、周囲の空気が一瞬にして凍りついた。
怪我人の手当てに奔走していた使用人たちの視線が、一斉に菜子へと突き刺さる。
「ま、待ってください……私はただ」
「だいたいその得体の知れない薬も何なの!?薬師でもないくせに、そんなものを持っていること自体お前が妖と繋がっている証拠じゃないの!」
「……っ」
「この化け物め!花乃井の間者め!お前が妖を唆して、光院の人間を殺そうとしたに違いないのよ!」
もう弁明の余地などなかった。
妖の封印を解いていたことも、九尾の妖狐を知っていることも、薬の出所も、すべてが事実だ。
けれどこの暴動とは一切関係がない。それでも、今の彼女を取り巻くすべての状況が、菜子を極悪人に仕立て上げていく。
「(違う、違う……っ)」
息が詰まりそうになった。
四方八方から浴びせられる、憎悪と軽蔑の視線。
「やっぱり花乃井の女だ」
「当主様がいないのをいいことに……」
「妖と連むなんて、とんだ人殺しですこと」
耳を塞ぎたくなるような言葉たちが、容赦なく菜子の体を滅多打ちにする。
助けてくれる人は、いない。
かつて「彼女は光院家の妻だ」と庇ってくれた、あの低く頼もしい声の主は、今はこの暴動の最前線にいる。
残酷なほど冷たい人間の憎悪の渦の中で、菜子は喉をかきむしり、過呼吸になりながら肩を震わせた。
「花乃井の女め、出て行け!」
「妖の仲間など、この屋敷には置いておけない!」
次々と投げつけられる罵声。
まるで冷たい石をぶつけられているかのように、菜子の心はボロボロに砕けていく。
「(ああ、やっぱりここでも同じなのね……)」
ヒュー、ヒューと狭まる喉のせいでうまく息が吸えない。
過呼吸に陥りながら、菜子は霞む視界で泥だらけの床を見つめた。
──私の居場所は、初めから人間の世界になどなかったのだ。
実家も、嫁ぎ先でも、誰一人として私を信じてはくれない。
この現実から遠ざかるようにそっと目を瞑ったとき、真っ暗な視界の中でただ一人菜子に優しくしてくれた彼の顔が映った。
「道孝、様……」
あの人にだけはこんな惨めな姿を見られたくなかった。妖と内通し、光院家の人々を傷つけた極悪人だなどと軽蔑されたくなかった。
できることならきちんと説明したかった。
妖の封印を解いていたこと、この暴動には関わっていないこと、光院家の人たちを貶めようとしたことなど一度もないこと。
けれど、これ以上ここに留まることはできなかった。
「……出て、行きます」
絞り出すようにそう告げると、菜子は弾かれたように屋敷を飛び出した。
大雨が打ちつける泥濘んだ庭へ、傘も差さずに着の身着のままひたすら走った。
視界の横で野菜の芽が出ているのを見て、菜子は泣きながら光院家の屋敷の大きな門を潜り抜けて外へ出た。
冷たい雨が、容赦なく菜子の体温を奪っていく。
絶望の底に突き落とされながらも、菜子の足は止まらなかった。
「(九尾の妖狐……あの子を、止めなくちゃ)」
あんなにも優しくて臆病だった子が、人間を襲うはずがない。何か理由があるはずだ。
あの子の本当の姿を、その優しさを知っているのは菜子本人だけ。
すべてを失った絶望は、いつしかたった一つの使命へと転じて、菜子は土砂降りの闇の中険しい東の山へと歩みを進めていった。
***
「──当主様が戻られたぞ!」
最前線での指揮と封印を終えた道孝が、血と泥にまみれた狩衣のまま屋敷へ帰還した。
けれど、土間に足を踏み入れた瞬間、道孝は空気が異常に張り詰めていることに気がついた。そして何より、自分を出迎えるはずのあの伏し目がちな目で見てくる妻の姿がどこにもない。
「……何があった。妻はどうした」
地を這うような低い声に、使用人たちがビクリと肩を震わせる。
やがて、夫を負傷させられた古参の侍女が正義を振りかざすように進み出た。
「当主様!花乃井のあの女は我々で追放いたしました!あの女は裏の森で妖の封印を解き、あろうことか今回の暴動を起こした九尾の妖狐と内通していたのです!」
それは勝ち誇ったような告発だった。周囲の者たちも「花乃井の間者だ」「光院家の敵だ」と同調する。
そんな騒ぎを、道孝は冷たい一瞥で黙らせた。
「愚鈍な」
「え……?」
「この騒動は妻のせいではない。数年前から小鷹家が追っていた妖……九つの尾を持つ妖狐の反撃だ」
静かだけれど、有無を言わさぬ絶対的な宣告。
その言葉に、告発した侍女も使用人たちも、一瞬にして血の気を引かせた。
「そ、そんな……。しかしあの女は確かに妖狐の名を聞いてひどく狼狽え……っ」
「すべては御三家の失態だ。妻には一切の非がない」
道孝の冷酷な声が、侍女の弁解を無残に切り捨てる。
道孝は知っていた。菜子が結界を解いていたのは無害で小さな低級の妖だけだということを。
あの臆病なほど優しい娘が、人間に害をなす暴動など企てるはずがないということを。
「……それで?皆で寄って集ってわたしの妻を追い出したのか」
「そ、それは、その」
「言わなかったか?二度目はない、と」
常に冷静沈着であった道孝の胸の奥で、ギリリと何かが軋む音がした。
怒りとはまた違った得体の知れない黒い焦燥が、彼の中でどくどくと渦を巻き始める。
道孝は無言のまま土間を見渡し、そして、乱雑に散らかった血の海の片隅に『それ』を見つけた。
「(……これは)」
拾い上げたのは、見覚えのある小さな小瓶と、丁寧に束ねられた薬草だった。
かつて自分の腕の傷を一瞬で塞いだ、あの不思議な手製の軟膏。
「(家の者に嫌われていたというのに、彼女は怪我人の手当を?)」
道孝の息が、大きく詰まった。
菜子は自分のことを『間者』だの『化け物』だのと罵り、大雨の中へ放り出した人間たちのためにこの薬を遺していったというのか。
人間からどれだけ虐げられても、自分を迫害する光院家の家人のために、あの小さな手で必死に薬を塗り込もうとしていたというのか。
道孝の中で思い出されるのは、いつも少し伏せられた控えめな彼女の姿と、月夜の森で見たあの屈託のない笑顔だった。
「……っ」
その瞬間、これまで光院家の当主として感情を殺し、常に冷静であり続けた道孝の中で何かが途切れた。
「当主様!?」
「どちらへ行かれるのですか!?」
背後で側近たちが止める声など、すでに道孝の耳には届いていない。
道孝は血に染まった狩衣を翻して、目にも留まらぬ速さで再び土砂降りの雨の中へ飛び出した。
あの雨上がりの日、両肩を上げて緊張しながら光院家へ嫁いできた彼女。
今、容赦なく降り注ぐ土砂降りの雨の中で、彼女はたった一人でどれほどの心細かっただろうか。
「(菜子……っ!)」
道孝は生まれて初めて我を忘れて必死で疾走していく。
視界の悪い中、当てもなく小さな娘を探すのは骨が折れる。
「クソッ!どこにいるんだ……っ」
そのとき、ふと侍女たちの言葉が頭をよぎった。
『あの女は裏の森で妖の封印を解き、あろうことか今回の暴動を起こした九尾の妖狐と内通していたのです!』
──まさか、本当にあの妖狐の元へ?
どうか嘘であってほしい。
そんなことを思いながら、道孝は馬の腹を強く蹴ってもう一度全力疾走で山へと戻っていくのだった。



